―――  改・届かぬ想い 【1】 ――― 




1


「速水さん!」
 騒々しくマヤが社長室に乗り込んで来た。
パソコンから顔を上げ、ドアの側に立つマヤを見た。ジーパンにTシャツというラフな恰好だった。
そういう恰好をしていると二十歳を過ぎてるとは思えない。中学生のように見える。
つまり、出会った頃と印象が変わらないという事だ。
「何ですか」
 マヤが目をつり上げた。
「いきなり人の部屋に入って来て、何だと聞きたいのはこっちだ」
 釘を刺すようにマヤを見た。
「よく秘書が通したな」
「水城さんが通してくれたんです」
「水城君は君に甘いな」
 上着の内ポケットから煙草を取り出した。
「煙草を吸ってる間なら用件を聞こう」
 デスクから立ち上がり、黒革のソファの方へとマヤを促した。
 マヤとはテーブルを挟んだ向かい側に腰を下ろし、煙草に火をつけた。
「それで?」
 マヤがテーブルの上に何かを置いて、俺の前に差し出した。
 見覚えのある紫色のメッセージカードだった。
「さっき、紫の薔薇と一緒に稽古場に届いたんです。カードには『さよなら』って書いてありました」
 マヤが悲しそうな顔をした。
「そうか」
 胸の痛みを感じた。マヤとの決別を込めて贈ったカードだった。
「速水さん、これってどういう事ですか?」
 マヤが泣きそうな顔を向けた。
「君が一人前の女優になったから身を引くという事ではないのか?」
「私が一人前の女優?そんな、まだまだです」
「そんな事はない。君は紅天女の後継者に選ばれたんだ。もう一人前だよ」
「私なんて全然です。月影先生が亡くなって半年経つのにまだ立ち直れません。紫の薔薇の人まで失ったら私、私……」
 マヤの目に大粒の涙が浮かんだ。
「甘ったれるな。今の君を見たら月影先生が悲しむぞ。君が舞台に立ち続ける事が先生への供養になるんじゃないのか?」
「わかってます!でも、紫の薔薇の人と別れるのは嫌なんです!ねえ、速水さん、どうしてですか?
どうして紫の薔薇の人は『さよなら』なんて言うんですか?私、何か悪い事したんですか?」
 すがりつくような目を向けられ罪悪感でいっぱいになった。
「俺に聞かれても知らん」
 顔を合わせてるのが辛くなる。煙草を灰皿に押し付けソファから立ち上がった。
「時間だ。ちびちゃん」
 マヤに背を向け、窓際に立った。
「速水さん、ご結婚おめでとうございます」
 小さな声が背中にかかった。
「えっ?」
 振り向くとマヤが部屋から出て行く所だった。細い背中が泣いてるように見えた。
 追いかけたい衝動に駆られた。
 しかし、もう俺の手で幸せにしてやれないのだ。想いを断ち切らなければならない。
 苦しい気持ちをやり過ごすように胸の奥から息を吐いた。
 窓ガラスの外に見える東京タワーに目を留めた。
 半年前に一度だけマヤと上った事があった。紅天女の本公演が終わった日でマヤにせがまれて二人だけで行った。
 夜だった。展望室からは煌びやかな夜景が見えた。だけどマヤは梅の谷で一緒に見た星空の方が好きだと言った。
マヤのその言葉が嬉しかった。ほんの短い時間だったけど幸せだった。
 11も年下のマヤに出会った時から心惹かれていた。あの子がどう思っているかは知らないが、
紅天女に出てくる魂の片割れというものがもし、本当にあるのだとしたら、それはマヤ以外に考えられない。
そうまで思うのに俺は自分の運命を変えられなかった。
「社長、コーヒーをお持ちしました」
 水城君に声を掛けられてハッとした。
 コーヒーを持った水城君がいつの間にかデスクの前に立っていた。
「ありがとう」
 デスクの前に座り、苦い想いを飲み込むようにコーヒーを口にした。
「なぜ、あのような事をしたのですか?」
 水城君が静かだが、怒りを含んだような声で言った。
「何の事だ?」
「北島マヤです。紫の薔薇があの子にとってどんなに大きな支えになっているかおわかりになっているでしょう?」
「あの子はもう一人前の女優だ。紫の薔薇の人はいらないよ」
「紫織様と結婚するからですか?」
 本心を言い当てられ思わず苦笑が浮かんだ。
「そういえばこの後、紫織さんと帝国ホテルで結婚式の打ち合わせが入ってたな」
「午後二時からになります」
「それまでに出来るだけ仕事を片づけたい。しばらく一人にしてくれ」
「かしこまりました」
 水城君が社長室から出て行った。
 一人になり、マヤの事を無理矢理、胸にしまい込んでパソコンに向かった。



予定の時刻にホテルのブライダルサロンに行くと紫織さんはもう来ていた。
黒スーツの女性スタッフとお色直しで着るドレスの相談をしていた。
結婚式は一ヶ月後に控えていた。
紫織さんの体調が優れなかったので、式は当初の予定から半年の延期になっていた。
「遅くなりました」
 ソファに座っていた紫織さんがこちらに顔をむけた。
「時間通りですわよ」
 紫織さんが穏やかな笑顔を浮かべた。
 桜色のワンピースを着た紫織さんはこの半年、入院していたとは思えないぐらい顔色もいい。
「真澄様、お色直しやっぱり五回にしようと思うんです」
「三回の予定でしたよね?」
 彼女の向かい側に座りながら訊ねた。
「披露宴が四時間になりますから、場がしらけないようにお色直しは多くした方がいいと思うんです」
 紫織さんが生き生きとした目を向けた。
「紫織さんがその方がいいと思うなら、僕も賛成しますよ」
「ありがとうございます。真澄様も衣装、二つ増えますからね。それでこれなんてどうです?」
 紫織さんが新郎の衣装が載っているカタログを見せた。
「こっちも素敵ですよね。あっ、これも」
 カタログの写真を紫織さんが順々に指していく。
「そんなに沢山、着れませんよ」
「あら、私ったら」
 紫織さんが可笑しそうに笑った。
 サロンには和やかな空気が流れている。
 幸せそうな紫織さんを見てこれで良かったんだと思うが、思い通りに生きられないもどかしさに胸が重たくなった。
仕事の為ならどんな事でも割り切れると思っていたが、案外俺はそうではないらしい。
しかし、今さらどうにも出来ない。この結婚は大都グループ一万人の社員の運命もかかっているのだ。
見合いを受けた時点で断れない事はわかっていた。鷹宮グループのトップに立つ鷹宮会長の孫娘である紫織さんとの結婚は会社にとって一番利益になるものだった。
破断にでもなったらかなりの損失を覚悟しなければならない。味方になれば一番心強いが、敵に回したら一番恐ろしい相手になるのも鷹宮だった。


 打ち合わせの後はホテルのティーラウンジに紫織さんと入った。
紫織さんは紅茶とケーキを頼み、俺はコーヒーだけにした。
マヤに会ってから胸がいっぱいでケーキなんて食べる気にならなかった。
紫織さんの前で何とか笑顔を繕うが、心はマヤでいっぱいだった。
マヤとの決別を決めたくせにまだ心が揺れている。優柔不断な男だと、自分でも嫌になる。
 向かいの席に座る紫織さんが楽しそうにしているのを見れば見る程罪悪感で胸が締めつけられた。
「真澄様、どうかなさいました?」
 心配そうな紫織さんの声がした。
「お疲れになりました?」
「いえ、少し気になる事があったものですから」
 笑顔を取り繕い、コーヒーを飲んだ。
「北島マヤ」
 紫織さんがワントーン低い声で言った。
「えっ」
「彼女とは完全に切れたのですか?」
 紫織さんが探るような視線を向けて来た。
「何を言ってるんですか。前にも言いましたが彼女とは何でもありませんよ」
「やっぱり紫の薔薇の人が誰かマヤさんにお教えした方が親切だったかしら」
「彼女の所にはもう紫の薔薇は届きませんよ」
「本当ですか?」
「ええ」
 紫織さんが笑顔を浮かべた。
「紫織さんに心配をかける事はもうありませんから」
「だといいんですけど」
 紫織さんがフォークで食べ掛けのチョコレートケーキを真っ二つにした。
「マヤさんがずっとお元気だといいですわね。最近は通り魔とか出て物騒ですから心配ですわ」
 牽制するような目で紫織さんが見てくる。胃が痛くなった。
「紫織さん、そんな事言うのはお止めなさい。あなたらしくない」
「そんな風にしたのは真澄様ですよ。私は真澄様がいないと生きていけないんです」
 一度だけ婚約解消を切り出した事があった。その時、紫織さんは目の前で手首を切った。
幸い一命はとりとめたが、そこから精神的に不安定になり紫織さんは入退院を繰り返した。
 紫織さんを追い詰めた責任を感じた。鷹宮会長からも念を押すように紫織さんを頼むと言われた。もし断ったら鷹宮グループと対立する事になる。
俺の身勝手さで社員を路頭に迷わせる訳にはいかなかった。たがら俺は紫織さんと結婚するしかなかった。
「安心して下さい。僕はずっとあなたの側にいますから」
「嬉しい。真澄様はやっぱり私を愛してくれるんですね」
 紫織さんの言葉が重たく胸に響いた。


2

「北島マヤさん、映画に出ませんか?」
 その夜は演出家の黒沼先生の紹介で映画監督の一瀬勲(いちのせ いさお)に会った。
 新橋のサラリーマン客が多い気楽な居酒屋だった。案内された奥の個室に入ると、いきなりそう言われた。
「映画ですか?」
 一瀬監督の向かい側に腰を下ろし聞き返した。
 監督は四十代の男性で、気難しそうな感じが黒沼先生と雰囲気が似ていた。
「一瀬、いきなりだな」
 私の隣に座る黒沼先生が笑った。
「彼女を捕まえる為なら強引になりますよ。紅天女の公演が終わって、今なら体は空いてますよね?」
 監督が私を見た。
「はあ、まあこの後の予定は特には……」
「だったら俺の映画に出てくれよ」
 私のグラスに監督がビールを注いでくれた。
「今度撮る映画のヒロインは君しかいないんだよ。君がイメージにピッタリなんだ」
 監督が台本を私の前に置いた。
『恋愛小説家』というタイトルだった。
「タイトルの通り、恋愛ドラマなんだ。原作は直紀賞受賞作の同名小説だ。君も名前ぐらいは聞いた事あるだろう?」
 監督に聞かれ頷いた。
「小説は読んでませんけど、タイトルは知ってます」
「一途に年上の男に恋する女の役なんだけど、本当に君にピッタリなんだ」
 年上という言葉に興味を惹かれた。
「年上ってどれくらいなんですか?」
「11才だ。相手の男は大学の先生で、君はその学生。先生は結婚してるが君はそれでも先生を好きになってしまうんだ」
「不倫って事ですか?」
「そうだ。結ばれてはいけない相手に恋する気持ちを君に演じてもらいたい。濡れ場もあるから覚悟はして欲しい」
「濡れ場……」
「一瀬、一気に言うな。北島が固まってるじゃないか」
 黒沼先生が助け舟を出すように言った。
「俺はこの作品でカンヌを狙ってる」
「カンヌって、カンヌ国際映画祭の事ですか?」
「ああ、そこで大賞を取る」
 野心に満ちた目を監督が向けた。
「神秘的な紅天女を演じた君しか出来ない役なんだ。頼む」
 テーブルに両手をつき、監督が頭を下げた。
「頭を上げて下さい」
「君しかいないんだ」
 さらに監督が深く頭を下げた。映画に対する真剣な気持ちが伝わってくる。
「台本を読んでからお返事させて頂きます」
 とりあえず台本を受け取った。


 アパートに帰ると部屋着姿の麗が次の舞台の台本を読んでいた。
月影と一角獣の公演でアガサクリスティー原作のミステリーをやるらしい。
「どうしたんだい?浮かない顔して」
 テーブルの前に座ると、麗が台本から顔を上げた。
「今日、速水さんに会って来た。私って諦め悪いのかな。結婚しちゃう人の事をいつまでも好きでいるなんて」
「熱いお茶でも淹れるよ」
 麗がキッチンに立った。
 落ち込んでるといつも麗は温かいお茶を淹れてくれる。
 不思議と麗の淹れてくれるお茶を飲むと気持ちが安らいだ。
「速水さんの結婚式、1ヶ月後だっけ」
「うん。私の所にも招待状が来てる」
「行くの?」
「わかんない」
「そっか」
 麗がお茶を持ってテーブルの前に戻って来た。
 優雅な手つきで急須から湯呑にお茶を注いでくれる。
「どうぞ」
 ピンク色の湯飲みを麗が差し出した。
「ありがとう」
 お茶を飲んでほっとした。落ち込んでた気持ちがちょっとだけ上を向いた。
「そうだ。今日、黒沼先生の紹介で映画監督の一瀬勲に会ったよ」
 麗が目を輝かせた。
「本当!私、監督のファンなんだよ。デビュー作から見てる。透明感のある美しいシーンを撮る人なんだよ。
心理描写とかも上手いんだよね。特に恋愛物はいいよ」
「そうなんだ。普通のおじさんにしか見えなかったけど」
「もしかしてマヤ、監督の映画に誘われたの?」
「うん、まあ」
「凄いじゃん!おめでとう!」
 麗がテンション高く言ってくれるけど、おめでとうという気持ちになれない。
 難しい宿題を貰ってしまったような心境だ。
「嬉しくないの?」
「だって濡れ場があるって言われて」
「確かに監督の作品にはあるね。めちゃめちゃ濃いやつ」
「どうしよう……」
「台本は?」
 台本をテーブルの上に置いた。
「これって話題になった恋愛小説だね」
 麗が興味津々とばかりに台本を読み出した。
「あ!制作、大都芸能傘下の大都映画になってるよ」
 そこまで見てなかった。
「本当に?」
「ほら」
 台本を見ると、プロデューサーが大都映画の人だった事に気づいた。
「速水さんの所なんだ」
「でも、あんまり速水さんとは関係ないんじゃない。速水さんがプロデューサーって訳じゃないから、会う事ないよ。
完成披露試写会ぐらいでは顔を合わせるかもしれないけどさ」
 麗が気を遣って言ってくれる。
「今日ね、月影先生も亡くなって紫の薔薇の人までいなくなったら嫌だって言ったら、速水さんに甘ったれるなって叱られたんだ。
確かに私、甘えてたのかもしれない。紫の薔薇はずっと届くものだと思ってた。だけどそんな訳ないよね。速水さんは結婚するんだし。
私なんかに薔薇を贈ってたら紫織さんに怒られちゃうよね」
 茶化すように笑った。笑ってないと泣きそうだから。
「自分の事しか考えてなかった。いつまでも速水さんに甘えてる訳にはいかないよね」
「そうだね。速水さんは結婚するんだし、関わらない方がマヤの為にもなると思うよ」
「うん。私、速水さんの事吹っ切る。だからこの映画に出る!精一杯お芝居をする!」
「でも、濡れ場があるんだよ?マヤに出来る?」
「濡れ場でもお風呂場でも何でもやる!」
「お風呂場って何だよ」
 麗が笑った。私も麗につられるように笑った。
 嫌な事は笑ってしまえば大抵忘れられる。だから沢山笑おう。そして速水さんの事を忘れるぐらい目の前の事を一生懸命やろう。


 一週間後、映画の撮影に入った。
 撮影期間は一ヶ月の予定だった。
 私は小説家志望の文学部の学生、小夜(さよ)で、指導してくれる小説家の望月に恋をする。
 望月は十一才年上で、厳しいけど優しく、本気で小夜に向き合ってくれる人だった。
 台本を読んで素直にヒロインの小夜と気持ちを重ねる事が出来た。小夜を演じきれば速水さんの事を忘れられる気がした。
 小夜の望月への恋心は私の速水さんへの想いと重なるような気がした。
「よし!今日はベッドシーンを撮る」
 スタジオに入るといきなり監督に言われてびっくりした。
 予定していたのは望月と初めて手をつなぐほのぼのとしたシーンだったはずだ。
「一番気持ちが必要な所から撮った方が北島君もやりやすくなるだろう。それにこういうのは心の準備とかない方がいいんだ」
 監督の言い分もわかる気がするけど強引過ぎる。
「心配するな。綺麗に撮ってやる」
 何も言えなかった。渋々バスローブ一枚になり、セットのダブルベッドに座った。
 望月の別荘という設定だった。
 望月役の男優さんが気を紛らわそうと気さくに話し掛けてくれるが、少しも緊張がほぐれない。
 そして撮影が始まった。


3

 一瀬勲の映画にマヤが出ると知り心配になった。一瀬監督の作品は芸術性が高いが、毎回ハードな濡れ場があるのだ。
マヤがヒロインと知り、すぐに台本を取り寄せた。思った通り、全裸で男と絡むシーンがあった。
「水城君、一瀬監督にアポを取ってくれ。できるだけ早くだ」
 腹立たしい気持ちのまま言った。
 水城君が凛々しい眉を上げて頷いた。
 濡れ場などマヤにやらせる訳にはいかない。何としてもシーンを削らせなければ。
 その夜、銀座の寿司屋で監督に会った。
 水城君が二階の個室に席を取っていた。俺は一人で監督が来るのを待っていた。
「一瀬監督、お久しぶりです」
 監督が座敷に入ってくるとこちらから挨拶をした。
 相変わらずの無精ひげだったが、珍しく監督はスーツだった。
 そして監督一人だと思っていたが、マヤも一緒だった。
 十日ぶりに会ったマヤは黒の大人っぽいワンピース姿だった。今夜はさすがに中学生には見えなかった。
「北島君から速水社長とはよく知ってる仲だと聞きましてね。それで彼女も連れて来ました」
 言い訳するように言い、監督は向かい側に腰を下ろした。
「こんばんは」
 マヤが他人行儀な挨拶をした。
「こんばんは」
 俺が挨拶を返すとマヤが「お隣いいですか?」と聞いてきた。
「ああ、構わんが」
「失礼します」
 マヤが座った瞬間、花のような甘い香りがして、胸がざわついた。
「制作元である社長に言うのは忍びないんですが、実は今、撮影が滞ってるんですよ」
 日本酒が運ばれてくると監督が俺の盃に酒を入れながら切り出した。
「何か問題でも?」
 監督の盃に酒を注いだ。
「北島君が役を掴めないんですよ」
 いつも役そのものになってしまうマヤにそんな事があるなんて意外だった。
「まあ、詳しい話は北島君から聞いて下さい。僕は用事があるのでこれで失礼します」
 盃の酒を一気に飲むと監督が席を立った。
 呼び止める間もなくいってしまう。なんて素早い男なんだ。
 和室にマヤと二人きりになった。急に部屋の温度が上がった気がする。
 隣になんて座らせるんじゃなかった。今夜のマヤはメイクか、服のせいかわからないけど、色っぽい。首回りの大きく開いたワンピースは目に毒だ。
 気を落ち着けるように盃を空けると、お注ぎしますと言ってマヤが注いでくれた。その所作も艶があって、内心ドキドキした。
「君も飲むか」
「頂きます」
 マヤの盃に酒を注いだ。
 こうしてマヤと酒を飲むのは初めてかもしれない。子どもだと思っていたのに彼女は大人なんだと、改めて感じた。
「映画の撮影はどうだ?」
「監督が言った通り、壁にぶつかってます」
 マヤが盃を置くとため息をついた。眉を寄せる姿は深刻に見えた。
「どんな壁にぶつかってるんだ?」
 マヤが恥ずかしそうに俯いた。
「……できないんです」
「えっ」
「だから……です」
 マヤの顔がどんどん赤くなっていく。
「ちびちゃん、聞こえないんだが」
「だから、ベッドシーンが出来ないんです!」
 顔中を真っ赤にしてマヤが叫んだ。
「ベッドシーンだと」
「はい」
「一昨日からベッドシーンに入ったんですけど、私、全くダメで。男の人に抱かれた事がないからどう演じたらいいのかわからなくて。
一瀬監督にそういうDVDとかも貸してもらったんですけど、なんかもう最後まで見れないって言うか。拒絶反応みたいのがあって、全然頭に入って来ないんです」
 マヤが俯きながら、泣きそうな声で言った。
 俺にこんな事を話すんだからかなり追い詰められるてるんだろう。
「安心しろちびちゃん。ベッドシーンなんて俺が全部削らせる。紅天女女優の君の品格を落とすようなマネはさせないから」
「それはやめて下さい!」
 マヤが怒ったような顔を向けた。
「この映画にベッドシーンは必要です。一番大事なシーンなんです!」
「しかし、そんなの演出でどうとでもなるだろう。実際にする事はないんだ」
「いえ、濃密に絡むからこそ愛情が伝わるシーンなんです。さらっとなんてしたら、軽い恋愛になってしまいます」
「君がベッドシーンをやる事に俺は反対だ。ベッドシーンを削れないなら、映画から降りろ」
「嫌です。私はこの映画やりたいんです。気持ちの入ったベッドシーンをちゃんとやりたいんです」
「どうしてそこまでこだわるんだ?」
「ヒロインの小夜の気持ちが理解できるからです」
「中年男に恋する女子大生の気持ちがわかると言うのか?」
「よくわかります」
 マヤがじっと見つめてくる。熱を帯びた瞳に見つめられ心がぐらつきそうになる。
 気持ちが走りそうになるのを何とか堪えて、手酌で酒を飲んだ。あっという間にお銚子が空になった。
 女将を呼びつまみと、酒を頼んだ。
 すぐにお銚子が二本と、出汁巻き卵に、冷やっこ、刺身の盛り合わせが来た。
 マヤが酒を注いでくれる。
「どうしてもこの映画をやりたいのか」
「はい」
「強情な子だな。だったら自分で何とかしろ。ヒロインの気持ちがわかるならベッドシーンぐらい出来るだろう」
 腹が立っていたので突き放すように言った。
 マヤが少しだけ傷ついたような顔をした。
「監督が言うには、経験が必要らしいです。誰でもいいから抱いてもらえって」
 口にした酒に咽そうになった。なんて無責任な事を言うんだ。
 マヤにそんな事を言ったら、その辺の男と実行しかねない。
「役の為にそこまでする必要があるのか?君にとって大事な事じゃないのか?」
「……大事ですよ。私だって女ですから。でも、どうしても演じたいんです。月影先生だったらきっと役の為に体を捧げるのは当然だって言うと思うんです」
 確かに言いそうだ。あの人も相当の演劇バカだった。マヤに竹のギプスを着けていた時は正直、芝居の為にそこまでするのかと引いた。
「それで君は適当な男に処女をやるつもりなのか」
 マヤが真っ赤になって下を向いた。
「全く信じられん」
 どんどん腹が立ってくる。マヤがどうでもいい男とベッドを共にしてる姿を想像すると嫉妬で身が焦げそうになった。
「私は速水さんにとって商品なんでしょ?」
「えっ」
 唐突な言葉に眉が上がった。
「大都映画制作の映画ですから、速水さんだって成功して欲しいと思ってるでしょ?」
「当たり前だ。大都映画は大都芸能の関連会社なんだから」
「だったら速水さん、仕事だと思って抱いて下さい」
 思いがけない言葉に思考が止まった。
 マヤが真剣な顔でこっちを見上げた。
「何を言ってるんだ」
「速水さんが結婚する事はわかってます。だけど一度だけでいいんです。仕事だと割り切って抱いて下さい」
 懇願するような表情をマヤが浮かべた。
「ダメですか?」
 必死なマヤの瞳から目が離せなくなる。
「お願いします。速水さん」
 今度は俺が追い詰められた。
 好きな女に抱いてくれと言われて冷静でいられるはずがない。
 どんなにかマヤを抱きたいと思っていたか。想像の中ではもう何度もマヤを抱いている。
「速水さんしかいないんです」
「どうして俺なんだ?」
「速水さんなら仕事として割り切ってくれるから」
 がっかりした。少しでも俺の事が好きだからと言われたかった。
「なるほど。確かに俺なら仕事としてやるだろうな」
 マヤにそんな風に思われていた事に胸が痛くなった。
「でも君は本当に俺なんかでいいのか?」
「はい」
「本気か?」
「はい」
「じゃあ今夜俺に抱かれるか?」
 マヤの大きな瞳が揺れた。戸惑いが伝わってくる。
「冗談だよ」
 ハハハと笑い、酒を飲んだ。
 マヤが俺の腕を掴んだ。
「冗談にしないで」
 真剣な眼差しでマヤが見つめてくる。
「私、今夜でも大丈夫です」


 人目が気になったので銀座からタクシーを拾い品川のシティホテルの前でマヤと降りた。十二階のツインルームに入り、先にマヤがシャワーを使った。
 まさか本当にマヤがここまでついて来るとは思わなかった。途中で彼女が逃げ出すのを期待していたが、マヤは静かにタクシーに乗っていた。
 動揺していたのは俺の方だったかもしれない。マヤが俺の知らない所で適当な男とベッドインするよりはマシだと思うが、まさかこんな形で彼女を抱く事になるとは……。
 ベッドの端に座り頭を抱えた。抱いてしまったらこれ以上自分の気持ちを欺けなくなる気がして怖かった。
それにこの事が紫織さんにバレて、逆上した紫織さんがマヤを刺しでもしたら……。
 悪い想像ばかりが浮かんだ。
 突然、石鹸の甘い香りに包まれた。背中からマヤが抱きついてきた。
「速水さん、ごめんなさい」
 マヤが耳元で言った。
「悩ませてごめんなさい。やっぱりこんな事速水さんに頼むべきじゃありませんでした。もうすぐ速水さんは結婚するのに。
仕事だと割り切って抱いてくれなんて酷いですよね」
「ああ、その通り酷い話だ」
「ごめんなさい」
 マヤが弱々しい声で口にし、俺から離れた。
「帰ります。今夜の事は忘れて下さい」
 バスローブ姿のマヤが背を向けた。
「他の男に頼むのか?」
 マヤが背を向けたまま頷いた。その瞬間、悩んでいた事が吹き飛び、嫉妬で胸が焦げた。
 マヤの腕を強く掴み、そのままベッドに押し倒した。
「他の男に頼むんだったら、俺にしとけ」
 マヤの唇に深くキスをした。


つづく


【後書き】
『届かぬ想い』のリメイク作品になります。のんびり連載します。

2018.7.15 Cat

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