―――  酔っぱらいの夢 前編―――
 



1

 偶に行く銀座のホテルのバーでマヤを見かけた。
 店の客たちはみな着飾った姿だったが、水色のTシャツにジーパン姿のマヤは明らかに場違いな恰好だった。
 連れの中年男に連れて来られたのだろう。
 男は手が早い事で有名な某テレビ局のプロデューサーだった。
 マヤはカウンター席でプロデューサーの、腹の出た中年男と二人だけで酒を飲んでいた。
 時おり、中年男が親し気な様子でマヤの細い腕や肩に触れ、獲物を物色するような目で見ていた。
 中年男は上等なスーツを着ているようだが、中身はそれに伴っていない。
 自分より十も二十も年下のグラビアアイドルや、モデルや、新人女優を一夜の相手にしているような男だ。
 きっとマヤといるのも下半身を満たす為だろう。
 
 なんであんな奴といるのか。

 勧められるまま酒を飲んでいるマヤに腹が立った。
 見ている限りでは今、マヤが飲んでるのは三杯目のカクテルだ。
 男の魂胆は見え見えだ。酔わせてホテルの客室にでも連れ込むのだろう。
 そろそろ限界だ。
 男を追っ払ってやる。
 そう思った時、マヤがカウンターの上に突っ伏した。
「北島くん、大丈夫?部屋で休もうか?」
 男が猫なで声でマヤに声をかけた。
 マヤはうーんと、眠そうに返事をするだけだ。
 危ない。このままでは連れて行かれる。

「彼女なら私が引き取りますよ」

 背後から声を掛けると、プロデューサーが目を丸くした。
「速水……社長」
「彼女とは知らない仲ではないので、送ります」
「いや、しかし、社長にそんなご厄介をかけるのは申し訳ないですから」
「遠慮なく。紅天女の事があるので彼女に恩を売っといた方がいいんです」
「いや、いや、しかし。社長に送らせては北島くんに怒られますから」
 マヤに怒られる?聞き捨てならない言葉だ。不愉快な想いが膨らんだ。
「どういう意味ですか?」
「ずっと社長の愚痴ばっかり言ってましたよ。いつも人の事をバカにするとか。
金の卵としてしか見てないとか。美人の婚約者がいて腹が立つとか」
「私と彼女は天敵ですからね」
「一番怒ってたのは社長に子ども扱いされてる事みたいですよ」
「十一才も年下ですから。他にどんな扱いがあります?」
「いつまでもそんな事言ってると北島くんに怒られますよ。もう二十歳過ぎてるんですから」
 男が下品な笑みを浮かべた。
「十も二十も年下の女の子に手を出すのが私には信じられませんよ」
 男の表情が硬くなる。
「どういう意味ですか?」
「いや、そういう人間がこの業界にいると聞いたものですから。別にあなたの事を言ってる訳ではありませんよ。
そういえば、うちの看板女優が出てるおたくのテレビドラマ、視聴率が高いみたいですね」
「ええ、おかげさまで。シリーズ化の話が出ている所です」
「そうですか。では、今後もよいお付き合いをしたいですね」
 けん制するように男を睨むと、男が諦めたようにため息をついた。
「わかりました。北島くんの事はよろしくお願いします」
「会計はこちらでもちますから、どうぞお帰り下さい」
 男は渋々な様子でバーを出て行った。
 やれやれだ。マヤの隣に腰を下ろした。
 マヤはまだカウンターに突っ伏したままだ。
「ちびちゃん、ちびちゃん」
 声をかけるが返事がない。薄っすらと寝息まで聞こえる。危機感というものが全く感じられない。全くこの子は……。起きたらきつく言わなければ。
そう思うが、安心しきったような寝顔に毒気が抜かれる。ずっと見ていたいと思う程、可愛かった。
 閉店時間まではあと、二時間ある。
 とりあえず悪い虫がつかぬよう隣で見張ってるか。
「ブランデーを」
 すぐにグラスがカウンターに置かれた。
 ちびちびとブランデーを飲みながらマヤを見た。
 長い睫毛に通った鼻筋。だんだん彼女は綺麗になる。
 ワンナイトクルーズで着飾ったマヤを見た時、その美しさに感動した。
 出会った時は中学生で、ほんの子供だったのに。
 いつの間にか彼女は大人になった。それも魅力的な女性になった。
「むにゃ、むにゃ……いやだ。それ私のケーキ」
 マヤの寝言に頬が緩む。中身はやっぱりちびちゃんだなと思った途端、少し安心した。
「食いしん坊だな」
「うーん。速水さんのバカ」
 眠ったままマヤが言った。
「速水さんのおたんこなす。速水さんなんか、速水さんなんか……大嫌い」
 さらにマヤが続けた。
 大嫌いの言葉に胸が鈍く痛んだ。ただの寝言なのに。
「寝てても口が悪いな」
 もっともそう言われるような事をしてきたので反論の余地はない。
 劇団つきかげを潰し、彼女の母親を監禁して、死なせてしまった。
 一番最近ではワンナイトクルーズでの出来事を「いい退屈しのぎになった」なんて言って、全てをなかった事にしてしまったんだから。
「怒ってるよな。やっぱり」
 不意にマヤがむくりと起き上がった。
「あれ?速水さん?」
 きょとんとした顔をこっちに向けた。
「なんで速水さんが?」
「君の連れならもう帰ったぞ。君が酔いつぶれてたから側にいたんだ。全く君は危機感というものがないのか。
女が一人でこんな所で寝てたら危ないんだぞ。君ももう大人なんだからもう少ししっかりしなさい」
 マヤは黙って聞いていた。落ち込んでいるようにも見える。
 少々、きつかったかと、心配になる。
「送って行こう」
 そう言った時、マヤがカウンターの上の俺の手の甲を包むように両手で握って来た。
 不意に触れられ、ドキッとした。
「何してるんだ?」
「確かめてるんです」
 マヤが笑顔を浮かべた。穏やかで幸せそうな笑顔だ。
「速水さんがここにちゃんといるって。うふふ」
 マヤが俺の手を取り、大事そうに頬ずりをした。
「速水さんの手。あったかい」
「マヤ……!」
 マヤの反応が信じられなかった。あんなに酷い事を言ったのに、この子は俺の事をまだ……想ってくれてるのか?
「ねえ、速水さん。抱きついてもいいですか?」
 マヤの注文にスツールから落っこちそうになった。
「何を言ってるんだ?ふざけてるのか?」
「ダメですか?」
 マヤが眉尻を下げた弱々しい表情を浮かべた。
 雨の日に捨てられた子犬のような顔をされて胸がうずいた。
「ダメに決まってるだろう」
「どうして?」
「どうしてって……ここはバーだ。人が見てる」
「じゃあ、二人きりになれる所に行きましょう」
 体中が熱くなった。
 マヤとの情事が浮かび、動揺した。
 いや、いや、何考えてるんだ。俺はあのスケベ中年プロデューサーとは違う!
 落ち着け。
 動揺する心をぐっと胸にしまい込み、厳しい表情をマヤに向けた。
「バカな事言ってないで。帰るぞ」
 スツールから立ち上がり、無理矢理マヤを引っ張ってバーを出た。

2
 タクシーでマヤをアパートに送り届けた。足元がおぼつかなかったので部屋まで一緒に行った。
 マヤは部屋の前で「鍵がない」と言い出した。
「おっかしいなー。リュックに入れといたんだけどな」
 リュックをおろしてマヤが荷物を探る。稽古着や、飲みかけのペットボトルのお茶、
台本、ペン、お菓子などが出てくる。
 ドアの前はちょっとしたガレージセールのように物が並んだ。
「うーん、ないなー、ないなー」
 マヤが何度も荷物を見返した。
「青木君はいないのか?」
「麗は今夜は友だちの所に泊まる予定で」
「だったら、そこの植木鉢の下とかに合鍵とか置いてあるんじゃないか?」
 ドアの脇に置かれた観葉植物を指すと、マヤが笑った。
「そんな所に隠す訳ないでしょー。定番すぎます」
「例えばの話だ。そういう隠し場所とかないのかね?」
「ありません。鍵は麗と私で一本ずつしか持ってないんです」
「じゃあ、どうするのかね?」
「ドアの前で眠る事にします」
 マヤがドアの前に座って寄りかかる。
 信じられない。年ごろの娘がする事か!
「待ちなさい。それはいくらなんでも不用心だろう」
 ここはアパートの外廊下だ。つまり外で寝るのと一緒だ。
 誰に何をされてもおかしくない。
「だって行く所ありませんから。あ、そうだ!速水さんちに泊めて下さい」
 手を叩いてマヤが提案した。
「わかった。ついて来なさい」
「やったー速水さんちだー!」
 マヤが嬉しそうに立ち上がり、リュックを背負った。
「稽古場近くのホテルに部屋を取ってやる」
「えー速水さんちじゃないのー」
 マヤが不貞腐れる。
「酔っぱらった君を連れて帰る訳ないだろ。うちは人目が多いんだ」
 使用人の口からマヤが泊まった事が紫織さんの耳にでも入ったらと思うと恐ろしい。
 紫織さんはマヤに危害を加えるような事をほのめかしていた。
「君もその方が気楽だろう」
「お金がもったいないです」
「金なら出してやる」
「速水さんにそこまでしてもらう訳にはいきません」
「君は紅天女候補だ。野宿なんかして君の身に何かあっては困るんだよ」
「そうですよね。私は金の卵なんですものね」
 いじけたようにマヤが言った。
「そうだ。君は金の卵だ」
「じゃあ、わがまま聞いて下さい」
「なんだ?」
「一緒に泊まって下さい」
 甘い言葉に立ち眩みがした。
「ちびちゃん、酔ってるだろ?」
「ちびちゃんじゃありません。マヤって呼んでくれるって言ったじゃない」
 甘えたような声でそう口にするマヤは女の顔をしていた。
「速水さんと朝まで一緒にいたいの」
 かわいい言葉に胸がうずいた。酔った上での言葉だとわかってても、マヤが欲しくなる。
 閉じ込めていた気持ちが爆発しそうなぐらい大きくなる。
 ヤバイ。このままでは。
 冷静にならなければ。冷静に……。
「マヤ……」
 マヤの頬に手が伸びた時、マヤの携帯電話が鳴った。
 マヤが電話に出る。相手は青木君のようだった。
 話はもうすぐ青木君が帰ってくるという内容のものだった。
 電話を切るとマヤが気まずそうな顔をした。
「良かったな。青木君が帰って来て」
 マヤは黙ったまま俯いた。
「帰るよ」
 マヤに背を向けた時、背中に何かがぶつかったような衝撃があった。
 マヤの細い両腕が腰に巻かれ、背中から抱きしめられたような恰好になっていた。
「マヤ……」
「速水さんと一緒にいたいの」
 涙混じりの声に、切羽詰まった想いを感じた。

3

 自分でもどうかしていると思う。マヤとホテルに来るなんて。
 紫織さんとの婚約が解消できない内はマヤに指一本触れるつもりはなかった。
 好きだからこそ不誠実な事はしたくない。そう思うのに、マヤと一緒にいたいという気持ちを抑えられない。
 欲望を抑えられないなんて、結局自分はあのプロデューサーと同じじゃないかと、ホテルに入りながら思った。
 ホテルは稽古場近くのシティホテルで、ツインの部屋を取った。
 12階の客室に入ると、マヤは上機嫌に鼻歌を歌いながら、部屋中をきょろきょろと動き回り、最後は窓際に立って夜景を眺めていた。
「うわー。東京タワーが見えるー。あ、スカイツリーも」
 子どものようにはしゃぐ声が響いた。
「ねえ、ねえ、速水さん、朝になったら富士山も見えるのかな?」
 マヤがこっちを見た。
 マヤと距離を取るようにドアの側に立っていた。
「なんでそんな所にいるんですかー」
 マヤが不満そうにこっちに来る。
「来るな!」
 反射的に声をあげた。
 マヤがビクッと立ち止まった。
「なんでですか?」
「なんでって、それは……君が酔ってるからだ」
「私、酔ってるんですか?」
「ああー、かなり酔ってる。いつもの君と違いすぎる。俺に甘えるなんてありえない」
「そんな事ないですよ」
 マヤが近づく。
「だから来るな」
 マヤから逃げるように一歩ずつ後ろに下がった。
 トンと背中にドアノブがあたり、これ以上、逃げ場がない所まで追い詰められた。
「なんで逃げるんですかー」
「君が近づいてくるからだ」
 マヤがクスッと笑い、「つーかまえたー!」と、抱き着いて来た。
 マヤの匂いがした。甘くて、いい匂いだ。
 マヤのぬるい体温と匂いに包まれて、一気に追い詰められた。
「離れなさい!」
「やだ」
「やだって、子どもか」
「だって、ずっとこうしたかったんだもん」
 潤んだ瞳でマヤが見上げてくる。
「速水さん、素っ気ないんだもん。この間だって、ワンナイトクルーズでの事、いい退屈しのぎになったなんて。酷い!どんなに傷ついたか」
「それは、すまなかった」
「なんであんな事言うんですか?私は速水さんの事がこんなに好きなんですよ!好きで好きで今だって胸が苦しくて、ほら」
 マヤが俺の手を取って、自分の胸にあてた。ブラジャー越しでも十分やわらかさが伝わってくる。手のひらいっぱいの丸い乳房の形も。
 男としていろんな所が反応しそうになる。
「や、やめなさい」
「しっかり触って下さい。ドキドキしてるでしょ?速水さんの事が好きだからドキドキしてるんですよ」
 一途な眼差しに心が持って行かれる。
 好きだ。
 俺だって、君が好きだ。
 ハッキリとそう言えない立場が嫌になる。
「やめなさい」
 マヤの手を振り払った。
「そんなに私の事が嫌いなんですか?」
「俺には婚約者がいる」
「そんなの知ってます。それでも好きなんです」
「迷惑だ」
 マヤが傷ついた顔をした。
 俺から離れると、背を向けてベッドの方に行き、パタリと横になった。
 しくしくと泣いているような声が聞こえてくる。
「泣いてるのか?」
 マヤは答えずに黙ったままだ。
 心配になる。側に行って顔を覗き込むと涙に濡れる顔があった。
「やだ。見ないで下さい」
 布団をかぶってマヤが顔を隠した。
「帰って下さい。もう速水さんの顔なんて二度と見たくない」
 弱々しい声で言った
 慰めの言葉が喉の奥に詰まった。
 何を言ったって、傷つけるだけだ。
「……帰るよ」
 ベッドの側から立ち去ろうとした時、腕を捕まれた。
「やだ。帰らないで」
 か細い声で言われた。
 小さな子供が母親を引き留めるような声だった。
 胸が掴まれた。
 帰らなければいけないと思いながらも、マヤの手を振り払えない。
 そばにいたい。
 布団を被ったままのマヤを抱きしめた。
 一番幸せにしたい人なのに、傷つけてしまう自分が情けない。
 なんで俺はマヤと一緒になれないんだろう。
 強い憤りを感じた。

4
 マヤの事がずっと頭から離れなかった。
 マヤとホテルに泊まった日、彼女が眠ったのを確認してから部屋を出た。朝まで一緒にいたかったが、深夜に水城君から緊急の電話がかかって来た。
看板俳優が不祥事を起こし、警察に捕まったと一報が入った。すぐに社で対策を話し合わなければならなかった。
 それから不眠不休で三日働き、久しぶりに自宅に帰って来た。
 家に帰ると、紫織さんから何度か連絡があった事を聞かされたが、電話はしなかった。今は彼女と話したくないし、会いたくない。
 自室で一人になり、マヤの事を思った。
 マヤから好きだと言われて、改めて彼女の事を愛していると思った。
 一時も離れたくない。許されるならそばにいたい。あのワンナイトクルーズの時みたいに。
 マヤの顔が見たい。ほんの少しだけでも会えないだろうか。五分でもいい、マヤと会って話しがしたい。
 今から会いに行こうか。
 上着を取ってソファから立ち上がった時、部屋のドアが叩かれた。
 朝倉だった。親父が呼んでると言われた。
 重たい気持ちで親父の所に行った。
 話は紫織さんとの結婚だった。鷹宮グループの後継者の椅子が手に入るのだから、破談にするなよという話だった。
「はい、お父さん、わかってます」
 そう言って、親父の部屋を出た。
 息苦しく感じた。
 自由はない。この速水の家に入ってから。
 わかっていた事だ。
 好きな人と一緒になろうなどと夢を見る事は許されないのだ。
 わかっている。
 マヤに会いたい。そう思う事さえ許されない立場にいる事もわかっている。
 紫織さんとの結婚を破談にすれば社員たちにも迷惑がかかる。
 それにマヤに危害が加わる事だって……。
 苦しい。苦しいな。マヤ。

5
 マヤの稽古場に顔を出したのは、ホテルでマヤと過ごしてから一週間後の事だった。
 マヤの顔を見るのは少し怖かった。あの夜の事を彼女はどう思ってるだろうか。
 そんな事を思いながらスタジオに入ると、桜小路と白熱した芝居をしている所だった。
 一真と阿古弥のラブシーンに胸が妬ける程、二人の芝居は本物の感情を感じさせた。
 やはりこのまま声はかけない方がいいと思い、差し入れのプリンだけ置いて帰った。

「速水さん!」

 駐車場まで行った時、呼び止められた。
 振り向くと稽古着姿のマヤがいた。
「稽古はいいのか?」
「今、休憩に入った所です。あの……」
 マヤが言いずらそうな顔をした。
「何だね?」
「この間、私、その……。速水さんに失礼な事しませんでしたか?」
「え?」
「あの、一週間ぐらい前に速水さんにアパートまで送ってもらったらしいんですが、
あんまり覚えてなくて」
 
 ――あの夜をマヤは覚えてないのか?

 信じられない想いでマヤを見ていると、さらにマヤが言葉を続けた。

「私、飲み過ぎてたみたいで。麗に速水さんに送ってもらったらしいって聞いたんですけど、
でも、その日の朝はなぜかホテルに一人でいて。フロントで聞いたら速水さんらしい人がお金も払ってくれたって……」
「本当に覚えてないのか?」
「はい。全然」
「そうか」
「私、飲み過ぎると記憶が飛んじゃう事があって。だからあの、もし失礼な事をしていたら全部忘れて下さい。あれは全部、本当の私ではありませんから」
 マヤが必死な様子で言った。
 ショックだった。
 全部を忘れろだなんて。本当の私じゃないなんて。
 でも、そう思うと合点がいく。甘えて来たのも。好きだと迫って来たのも。全部酒のせいだったんだ。酔って正体をなくしただけだったんだ。
 落胆した気持ちが広がった。
「速水さん?」
 心配そうな顔をしてマヤが見てくる。
「君が鍵を無くしたと言ったから、稽古場の近くのホテルに部屋を取ってあげただけだよ」
「速水さんも泊まったんですか?ツインルームだったけど」
 マヤが頬を染めて言った。
 否定するように笑い声をあげた。
「まさか。あの日は部屋がツインしか空いてなかったからそうしただけだ。俺は君を部屋まで連れて行って、すぐ帰ったよ」
「そうですよね。速水さんがあたしなんか相手する訳ないですよね。この間の事は退屈しのぎだったんですものね!」
 怒ったような声でマヤが言った。
「お世話になりました!さようなら!」
 マヤが背を向けて走って行った。
 引き留められない不甲斐なさに胸が痛くなった。
 マヤを追いかける事が出来たらいいのに。
 結婚は会社の利益になる相手とすると、昔、誰かにそう答えたのを思い出した。
 望む通り会社の利益になる相手を選んだが、それでは幸せになれない事が今ならわかる。
 俺は幸せじゃない。
 好きな人にも本当の事が言えないなんて苦しいだけだ。

6

「好きな相手と巡り会えた時、人は本当の意味で幸せになるんじゃないだろうか」
 おでん屋の屋台で黒沼龍三がそう言った。
 マヤに会った二日後だった。稽古場に顔を出した日に電話がかかって来て、飲みに行こうと誘われた。
 マヤの様子が知りたかったので、水城君にスケジュールを調整してもらい今夜の飲みになった。
 コップ酒三杯で黒沼はけっこう酔っていた。
 試演に向けてのプレッシャーがいろいろとあるようで、最初はその愚痴を聞いていた。
 そして紅天女の話になると黒沼がそんな事言い出した。
「紅天女ってのは結局はそういう話なんだよ。俺たちは本物の愛を感じさせなきゃいけないんだ。愛する人との幸福ってやつをさ」
 黒沼はそう言って勢いよくコップを空けた。そして四杯目を頼んだ。
 白髪の親父がついでくれた。
「本物の愛ですか……」
 マヤの事が浮かんだ。この間の怒ったように背を向けて走って行く姿だ。
 そんなマヤの姿でさえも愛しかった。
「速水の旦那はいいよな。そういう相手いるもんなー。今、一番幸せだろう。あんな美人な婚約者がいてさ」
 紫織さんの事だと思った瞬間、気持ちが沈んだ。
 愛情のない結婚をこれからすると思うとうんざりだ。
 一気にコップ酒を空けて、お代わりを頼んだ。
「おっ、いい飲みっぷりだなー」
 黒沼がはやしたてた。
「黒沼さん、教えて下さいよ。好きな相手と巡り会えたとしても、その相手と結ばれなかったら、どうなるんですか?」
「そうだなー」
 黒沼が考えるように言った。
「それは不幸になるだろうな。好きな相手も含めて」
「好きな相手も?」
「そうだ。自分だけではなく、相手も不幸にする。それだけ強く惹かれ合ってるのに成就しない想いってのは苦しいだけだと思うね」
 そう言って、黒沼は尾崎一蓮と月影千草の話をした。
「これは源三さんから聞いた話だが」
 そう前置きをして、強く惹かれ合いながらも結ばれなかった一蓮と月影の話を黒沼は淡々とした。
「紅天女の台本を読み返す度に、俺は尾崎一蓮の月影千草への愛情を感じる。そして今、月影千草が命がけで後継者を選ぼうとしているのも一蓮への愛しかない。
人生を捧げる程、一蓮を愛してたんだろうな」
 二人の話は紅天女の事で情報収集をする内に耳に入っていた。
 俺の親父が二人の恋を壊してしまった事も。
 息子として俺はその報いを受けてるんだろうか。
「でも僕は、尾崎一蓮と月影千草は不幸な結末を迎えたとは思いませんよ。二人はお互いの気持ちを知る事が出来たんですから」
 本当の事を言えないままの方が百万倍も辛い。
 辛いに決まってる。
「あんたがそんな事を言うとは意外だね。社長はロマンティストだな」
 黒沼が笑った。
 黒沼の携帯が鳴った。
「おお!北島かー。今、速水の社長と一緒だぞーお前も飲みに来い。奢ってもらえるぞ」
 調子よく言って、黒沼は電話を切った。
「十分で北島は来るってさ」
「ちょっと、黒沼さん!」
 思いがけない事に動揺した。
「北島を呼んだらいけなかったか?」
「いや、だって、僕は彼女の天敵ですから」
「犬猿の仲だよなー。速水の旦那と北島は。北島なんて普段は大人しいのに、速水の旦那には気持ちよく食ってかかる。俺はそれを見るのが愉快だ」
「悪趣味ですね」
 黒沼がカッカッカッと笑った。
 マヤは本当に十分で来た。
 つきかげのメンバーと近くで飲んでたみたいで、既に出来上がった状態だった。
「速水さんだー♪」
 楽しそうな顔をして、マヤは隣に座った。
「さてと、俺はそろそろ行くぜ」
 黒沼が立ち上がった。
「じゃあ、僕も」
「速水の旦那は北島の話を聞いてやってくれ。北島、明日は稽古休みだから、ゆっくり飲んでて大丈夫だぞ。速水さんに沢山おごってもらいなさい」
「はーい。黒沼先生」
 マヤは笑顔で返事をし、酒と、おでんの具を注文した。
 たまごと、大根とちくわが好きだと上機嫌にマヤは食べだした。
 その様子に口角が上がる。
「楽しそうだな」
「速水さんと一緒ですからね」
 甘えるように言い、マヤが腕を絡めてきた。
 この間の事で学習した。マヤは酔うと甘えてくる習性がある。
「酔ってるだろう?」
「酔ってませんよ。ちょっと眠いぐらいです」
「いや、酔ってる。どれくらい飲んできたんだ?」
「芋焼酎を二杯、日本酒を三杯、あとはカクテル二、三杯だったかな?飲み放題だったから」
「そんなに飲んだのか。親父、この子に熱い茶を」
「えー、お茶なんて嫌です」
「いくら明日稽古が休みだからって、酒はもうやめた方がいい」
「いやだ―。もっと飲むー」
「子どもだな」
「この間も私の事、子ども扱いしましたよね」
「この間?」
「えーっと、ホテルのバーで、いや、その後にアパートに送ってもらって、それからホテルに行った時に」
「覚えてるのか?」
「覚えてますよ。速水さん、抱きしめてくれました」
 胸がざわついた。
「稽古場で会った時は覚えてないって言ってたじゃないか」
「今、思い出したんです」
 マヤがニッコリと微笑んだ。
 複雑な気持ちになった。覚えててくれたのは嬉しいが、泣かせてしまった事までは思い出して欲しくなかった。
「そうか」
「楽しかったなー。速水さん、優しく頭なでなでしてくれましたよね」
「君を泣かせてしまったからな」
「速水さんに抱きしめられて、速水さんの匂いが沢山して、安心しました。そうだ。それで寝ちゃったんだ。あ」
 と言ってマヤが眉を上げてこっちを見た。
「なんだ?」
「今夜は朝まで一緒にいてくれるんでしょうね?この間は朝になったら速水さんいませんでした」
 酒にむせそうになった。
「バカな事言うな。終電がある時間には帰す」
「えーつまんないー。朝までがいい」
「酔うと手がつけられなくなるな」
「酔った時ぐらい、本当の事を言ったっていいじゃないですか」
「本当の事?」
 マヤと目が合った。

「速水さん、好きです」
 
 噛みしめるように言ったマヤの言葉に胸が苦しくなった。
 息苦しくてネクタイを緩めた。
「また君はそんな事言って」
「冗談じゃありませんよ」
「酔っ払いの言う事なんか信用できるか」
「ひどいー」
 マヤがパカパカと腕を叩いた。
「痛いな」
「だって、人の一世一代の告白をさらっと流すから」
「流すしかないだろ」
「……結婚するから?」
 その問いに胸が締め付けられた。
「そうだ」
 マヤの目に涙が滲む。
 ふえーんと、カウンターに伏せて泣き出した。
「おい」
「なんてね」
 顔を上げてマヤがべーと舌を出した。
 涙なんてどこにも見当たらなかった。
「ウソ泣きか」
「びっくりした?」
「本当に子どもだな。タチが悪い」
 マヤが笑った。
 それからマヤといつもの言い合いをした。
 どっちが酒が強いかという話になって、酒をじゃんじゃんお代わりした。
 大人気なくムキになった。マヤに悲しい顔をさせたくなくて必死だった。
 明るく振る舞ってるけど、泣きそうになるのを堪えてマヤは笑っているように見えた。
 勝ったのは俺だった。
 酔いつぶれた彼女をおぶって屋台を出た。
「速水さん、結婚しないで」
 背中でマヤが呟いた。
「お願い。結婚しないで」
 弱々しい声で、もう一度マヤが言った。鉛を飲んだような重たい気持ちになった。
「何言ってんだ。酔っぱらい」
 そう言っておおげさに笑い飛ばした。
 笑い飛ばして、冗談にして誤魔化して、マヤを泣かせたくなかった。
 マヤの気持ちに応えられたらどんなにいいか。
 夜道を歩きながら、この道がどこまでも続けばいいのにと願った。
 永遠にマヤと一緒にいたい。
「速水さん……むにゃむにゃ」
 寝言のような声が聞こえた。
 とても愛しい気配だった。

 愛してる。マヤ。
 君だけを愛してる。
 
 歩きながら強くそう思った。

 
つづく



メニュー 後編

【後書き】
お粗末様でございました。一年ぶりに速水さんとマヤちゃんを書いてみました。
久しぶりにガラスの仮面を読み返したら、いろいろとストレスが溜まったもので、発散してみました(笑)
時期的には49巻あたりの二人を想定して書きました。製作期間は二日です。一気に書きました。
楽しんで頂ければ幸いです。ありがとうこざいました。

2019.8.27

【追記】
改めて読んでみると、いろいろと描写が足りない箇所があったので書き直しました。
長くなってしまったので、前編、後編に分けました。

2019.8.28
Cat

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