――― 雨と恋 12【マ ヤ】 ―――
今あたしはパリにいる。 日本から13時間飛行機に乗って、シャルルドゴール空港に着いたのは朝の五時半。 空港には黒のパンツスーツ姿の女性が迎えに来ていた。今日一日お世話になるブライダルスタッフの人だ。 挨拶をして、黒塗りのリムジンに速水さんと一緒に乗り込むと、ブライダルの人が今日の予定を説明していく。 隣で速水さんは涼しい顔をして聞いているけど、あたしはもう許容範囲を超え過ぎて、パンク寸前だ。 速水さんからプロポーズをされたのはほんの一ヶ月前だった。 紅天女の最終日が終わった日に、話があるとレストランに呼び出され、「君ももう24才になった。俺なんてもう35才だ。お互い結婚するには丁度いい年だろ」と いきなりプロポーズされた。戸惑っていると、俺は七年君を待ったんだの重たい一言に押しつぶされて気づけばOKしていた。 それからは結婚式をどうしようかという話になって、別にあたしはなくてもいいみたいな事を言ったら、物凄い勢いで速水さんに怒られて、 一生に一度の事なんだからちゃんと考えなければいけないと説得された。 何か憧れの結婚式はないのかと聞かれ、何となく映画で観た教会が素敵だったという話をしたら、その教会がパリにある教会である事を速水さんが調べて、 まさかのパリ挙式になってしまった。そして怒涛のように日々が過ぎて今日を迎えた訳だ。 初めての海外旅行が自分の結婚式になるとは思ってもみなかったけど、パリ挙式が決まってから外国に行くのは楽しみになっていた。 だけど、速水さんの気持ちが実はよくわからない。 確かにプロポーズしてくれたけど、なんというか、あたしたちには恋人のような甘い時間はまだない。 会ってもいつも結婚式の話し合いになって、速水さんから好きだとか、愛してるみたいな甘い言葉はなく、キスとかハグとか、恋人らしいスキンシップも全くない。 本当に速水さんはあたしの事が好きで結婚するんだろうか?まさか、まだあたしの母さんの事を気にしてて、責任を取る為に結婚してくれるんじゃないだろうか。 手ひとつ握ってこない速水さんにそんな疑いさえ持ってしまう。 「どうした?」 速水さんの端正な横顔を見ていたら、心配そうにこちらを向いたのでドキっとした。 「えーと、その……速水さんってカッコいいなって思ってたんです」 速水さんが甘い言葉を言ってくれないなら、こっちから言ってやる。と思って言ってみたけど、速水さんは表情一つ変えずに呆れたようなため息を一つついただけだ。 それからブスっとした顔をして窓の方を見てしまった。 褒めたつもりだったけど、気に障ったのかな。婚約者ならこういう時どうしたのって聞けるんだろうな。なんて、少し沈んだ気持ちになる。 やり場がなくて窓の外を見ると、エッフェル塔が見えた。車はもう市街に入ったようだった。 中世の名残が残るゴシック様式だが、何だかの石積みのビルが並び、日本とは違う景色にわーっと声が出た。 「あれが凱旋門だな。オーステルリッツの戦いの勝利を記念してナポレオンの命令で建てられたんだ。 それで凱旋門の先にあるのは有名なシャンゼリゼ大通りだ」 背後から声がして後ろを見ると速水さんがすぐ近くにいた。 煙草とシトラス系のコロンが混ざった速水さんの匂いに急に胸がドキドキしてくる。 いろいろと街並みについて説明してくれるけど、速水さんの存在が気になって全く頭に入って来ない。 うんうんと相槌をうちながら、何気なく肩に置かれた速水さんの大きな手とか、指とかに意識がいく。 恋人らしいスキンシップが欲しいと思ってたけど、撤回。そんな事されたら心臓が止まって死んじゃう。きっとあたしたちはつかず離れずの距離感がいいんだ。 と思い直して、ちょっとだけ速水さんと距離を取るように座り直した。 教会はパリ8区のジョルジュサンク通りにあった。通り沿いには多分ゴシック様式の五、六階建てぐらいの石積みのビルが見渡す限りに並んでいた。 東京と違って高層ビルのような高い建物は見当たらなかった。だからか、空が広く見える気がした。気持ちのいいぐらいの青空で、公園にピクニックとか 行ったら楽しいだろうなと口にしたら、リムジンから降りて来た速水さんに随分のん気だなと笑われ、恥ずかしくなる。 「いいじゃないですか。あたしが何を考えようと勝手でしょ!」 恥ずかしさを打ち消したくてつい強く言ってしまう。 「つき合わされる俺の身にみなってみろ。ただでさえ強行スケジュールだったんだ。挙式の後はホテルでゆっくりしたい」 ホテルという単語に緊張してくる。速水さんと二人きりっで泊まるって事はやっぱり……同じベッドで寝るって事だよね。だって今日は初夜……って、きゃぁぁぁ! いきなりそんな事できないよ。無理無理無理! 「べ、別に速水さんにつき合ってもらう必要はありませんから!麗とか、つきかげのみんなもいるし」 結婚式には劇団つきかげのみんなや、親しい人たちも参列してくれるに事なっていた。 「亜弓さんだっているし、桜小路君だって……」 「桜小路だと?あいつは仕事で来れなかったんじゃないのか?」 速水さんがムッとしたような顔をした。 「スケジュールを調整してくれて、来れる事になったんです。ブライダルの人には伝えておきましたから」 「ブライダルの人に言って、なんで俺に言わない?」 「言いませんでしたっけ?」 「聞いてない」 「別にいいじゃないですか。桜小路君もあたしにとっては大事な人なんです」 あたしの言葉を聞いた途端、速水さんから殺気のようなものが漂い始める。怖い。 どうしようこの空気。何か不味い事言ったのか? 「花嫁様も花婿様もお仕度をして下さい」 険悪になり始めたあたしたちの空気を取り払うように、ブライダルの人が側に来てくれて助かった。けれど、こんなんで速水さんとやっていけるんだろうか。 益々不安が募る。それにやっぱり速水さんの気持ちがわからない。結婚式の準備もずっと仕事をしているような感じだったし。13時間も飛行機に乗ってたのに 特に何かを話す訳でもなかったし。さっきリムジンの中で距離を縮められた時はびっくりしたけど。 速水さんはどういうつもりであたしにプロポーズしたんだろう? そういえば17才の時、あたし速水さんに告白したんだよな。あの時はただ自分の気持ちをぶつける事しか出来なかったけど。 あの時の速水さん優しかったな。ずっと一緒にいてくれたし、キスもしてくれたし……。あ!キスって、これから結婚式でするんだ。 大人になってから速水さんとする初めてのキスだ。しかも人前……。なんかお腹痛くなって来た。 「花嫁様、大丈夫ですか?」 「え」 介添えの人に話しかけられてハッとする。 今あたしは花嫁控室にいて、二人がかりでウェディングドレスを着せてもらってる所だ。 「だ、ダイジョウブです」 緊張のあまりおかしな発音になってしまった。 「皆さん、緊張するものですよ。深呼吸しましょうか」 介添えの人の穏やかな表情にホッとしながら言われるまま深呼吸をした。張りつめていた気持ちが少しだけ緩んでくる。 もうあれこれ考えるのは止めよう。せっかく素敵な教会で式を挙げるんだから。と自分に言い聞かせて何とか悶々とした思いを胸にしまった。 バージンロードは源造さんに一緒に歩いてもらった。 中学生の頃から随分とお世話になった人だ。 あのマヤさんが、もう結婚するお年なんですねと、源造さんは目に涙を浮かべていた。 源造さんの涙に胸がじんわりとして来て、目頭が熱くなった。 月影先生の所で役者を目指し始めた頃の気持ちを思い出した。 役を追及する事が楽しくて仕方なかった。 月影先生に初めてもらった役は若草物語のべスで、べスとして一日過ごしたり、熱を出したべスの気持ちが掴みたくて一晩中雨にも濡れた。 あの時、速水さんとも出会った。劇団つきかげを潰した嫌な奴だと思ってた事が懐かしい。 中学生のあたしに速水さんと結婚する事になるって言ったらどんな顔するんだろう。きっと信じないだろうな。速水さんは物凄く大人で遠い人に見えてたから。 「花嫁様、そろそろ始まります」 係の人の声にあたしは紫の薔薇のブーケを握りしめ源造さんと腕を組んだ。 両開きのドアが開き、パイプオルガンの音色で結婚行進曲が鳴り響いていた。 バージンロードの先にチャコールグレーのフロックコート姿の速水さんが見えた。その佇まいは歴史ある教会に負けない威厳があった。 あんなに立派な人の所に嫁ぐんだ。源造さんと歩きながらそんな事を感じて胸が篤くなる。 参列席には月影先生や麗たちや、亜弓さん、桜小路くん、黒沼先生の姿もあった。 ここにいる人たちに出会えたから紅天女を演じる事が出来たとしみじみと感じて、感謝の気持ちで胸がいっぱいになった。 そして、一番の恩人は紫の薔薇の人……速水さん。 高校に通わせてくれて、壁に当たった時はいつも助けてくれた。 速水さんの顔を見た時感極まって涙ぐんでしまう。 ヴェールをめくった速水さんは驚いた顔で、涙をそっと拭ってくれた。 それから誓いのキス。 目を閉じると、額に優しく速水さんの唇が当たった。……って!え?額?額?額?なんで唇じゃなくて額なの!? キスが終わった後、速水さんを見るといつもの涼し気な表情を浮かべていた。 その後もいろいろと誓いの言葉とか、誓約書へのサインとかあったけど、誓いのキスがひっかかって全然気持ちが入らなかった。 どうして唇じゃなくて額だったのって聞きたいけど、速水さんと二人きりになるチャンスが全くなく悶々とした気持ちのまま結婚式が終わった。 結婚式の後は教会と同じ通り沿いにある五つ星ホテルに参列者と共に移動して、レストランで食事をした。 二時間ほどでそれもお開きになり、ウェディングドレスからワンピースに着替え、いよいよ今夜泊まる部屋に移動となった。 部屋は六階のスィートルームで、リビングもダイニングも、寝室も貴族感漂うインテリアに囲まれた部屋だった。 豪華な部屋は嬉しいけど、やっぱり慣れない。普通だったら素敵って喜ぶのかもしれないけど、全然そんな気になれない。 だって速水さんの気持ちが全くわからないから。 レストランにいた時も隣にいたけど、速水さんから話しかけられる事はなかった。あたしといるよりも水城さんとか、黒沼先生と話してる時の方が楽しそうに見えた。 「疲れたな」と言って、速水さんはリビングのソファに当たり前のように座った。 貴族感漂うソファが恐ろしい程似合う。速水さんってセレブなんだ。こういうの普通なんだ。 育ちの違いを改めて認識させられて何だか落ち込んだ。 「どうした?そんな所に立ってないで座らないのか」 貴族ソファにおどおどして、所在なさげにしてるあたしを速水さんが不思議そうに見てくる。 ワイシャツにスラックス姿の速水さん。シャツのボタンは2つ外れててネクタイをしていない。しっかりとした鎖骨が見えていた。 きちんとしたスーツ姿の速水さんしか見ていなかったから、着崩した姿にドキドキしてくる。 「えーっと、お茶でも淹れましょうか」 速水さんから逃げるようにキッチンにバタバタと向かった。 「大丈夫か?」 心配そうな速水さんの声が返ってくる。 「大丈夫ですよ。お茶ぐらい淹れられますよ。ほら、紅茶のティーパック見つけましたよ。お湯は電気ケトルで沸かせばいいみたいです」 緊張が伝わらないように努めて冗談ぽく口にしてみた。 「じゃあ、頼む」と言って速水さんはテレビをつけ、視線をテレビの方に向けた。フランス語が聞こえてくるけど、さっぱり何を言ってるのかわからない。 でも、速水さんはわかったような顔をしてテレビを見てた。速水さんってフランス語もわかるのかな。 パリに着いてから流暢に英語を話す姿は見ていたけど。なんて事を考えていたら胸の鼓動がさらに速くなってきた。 こんなにドキドキしてたら身がもたないかもしれない。どうしてこんなに素敵な人と結婚出来たんだろうと今更ながら不思議に思う。 「お湯が沸いた頃じゃないか」 速水さんに言われ、電気ケトルを見ると沸いてた。 「い、今淹れます」 薔薇の絵が描かれたいかにも貴族風なカップにティーパックを入れ、お湯を注ごうとした時、電気ケトルを持つ手が滑った。 手から落ちた電気ケトルが床に落ちた時、熱湯が足首にかかる。 熱さにきゃっ!という声をあげてしまう。 「マヤ!」 涼しい顔をしていた速水さんが怒ったような顔をして側まで飛んで来た。 「ごめんなさい」 速水さんの迫力に謝罪の言葉しか出てこない。 「足にかかったのか?」 「足首に」 「すぐに冷やさないと。よし、風呂場に行くぞ」 「え?風呂場?」 きょとんと速水さんを見ると、いきなりお姫様抱っこをされて、バスルームに連れて行かれた。 そして有無も言わせない迫力で猫足のバスタブの中にあたしを立たせ熱湯のかかった左足に冷水のままのシャワーをかけた。 熱を持っていた患部に当たり痛みはすぐにひいてくるが、そうじゃない部分は冷たくなってくる。 「速水さん、寒いです」 「すまない」 速水さんがシャワーの栓をひねると、お湯に変わった。 冷えた足元が温められて心地いい。 しばらくそうしていると、速水さんがバスタブの栓に蓋をした。 「お湯が溜まっちゃいますよ?」 「当たり前だ。風呂に入るんだから」 「えっ」 いきなりの展開に頭がくらくらとした。 「そのままだと濡れるぞ」 シャワーが全開になり、物凄い早さでバスタブにお湯が溜まっていく。 慌ててワンピースの裾を太ももの位置まで上げた時、速水さんに見られてる事に気づいた。 「なんで見てるんですか」 「見たいから」 いつもの涼しい顔で面と向かって言われ顔が熱くなる。 「な、何言ってるんですか!真顔で変な冗談言わないで下さい」 「冗談なんか言ってない。君の全てが見たいと本当に思ってるんだ」 「な、な、な……」 言葉にならない。だって、いきなり狼になるなんて聞いてない。 「七年君を待ったと言っただろ」 怖い程真剣な目を速水さんが向けてくる。 「好きだ。マヤ」 とどめの一言に思考が止まった。 速水さんの顔が近づいて、唇に唇が重なった。 力が抜けて速水さんに身を預けるとバスタブに沈んだ。 突然の事にどうしたらいいかわからなくなる。 速水さんもあたしもズブ濡れになって抱き合っている。服が重たくなって、お湯が揺れて、またキスされる。 吐息交じりの声で何度も速水さんに好きだ。好きだ。と言われ続け、ついに心のブレーカーが落ちた。 「マヤ?おい、マヤ、マヤ、マヤ!」 速水さんに呼ばれてる事はわかっていたけど、返事は出来なかった。 あたしの意識はすーっとどこかに飲み込まれ、目の前が真っ暗になった。 ――こい、ジェーン! 暗闇の中で速水さんの声がした。 目を開けると華やかなパーティー会場で、あたしは見世物のように狼少女をやっていた。 目の前の速水さんが憎い。人前で笑いものにしてなんて下劣な男なんだろう。 ――さあ、どうした?狼少女! ――エサは床の上だぞ!欲しければ取ってみろ! 骨付き肉を投げてけしかける速水さんが許せなかった。 本物以上の演技をして見返してやる。 速水さんに飛びついて噛みついた。速水さんが痛みに怯んだ隙に階段の上の肉を取った。 ――ゲームセットだな。チビちゃん ――これで気がすんだでしょ速水さん! ――あなたなんて最低だわ!大っきらい!あなたなんて死んじゃえ! 悔しい想いで胸がいっぱいになった。 速水さんはもうあたしの事なんて何とも思ってないって、その時は思った。 でも、後で水城さんから速水さんが考えなく行動する人じゃないって言われて速水さんの思惑に気づいた。 速水さんが大勢の前でけしかけてきたのは、演劇協会の人に興味を持ってもらう為だった。 参加が認められていなかった「忘れられた荒野」はアカデミー芸術祭に参加出来て、あたしは最優秀演技賞を受賞する事が出来た。 みんな速水さんのおかげだった。 昔から速水さんはそうやってあたしを助けてくれた。17才の秋に別れてからもずっと……。 だから、プロポーズされた時は本当は凄く嬉しかった。 やっと速水さんと堂々と胸を張って一緒になれるって思って、結婚式を迎えて、それから、それから……。 何だか胸が苦しくなってくる。 あれ?どうしてこんなに胸が痛いんだろう。どうして苦しんだろう。速水さん、どこ?どこに行ったの? 気づけばまた暗闇の中にいて速水さんがいない。どんどん不安になってくる。 速水さん、速水さん、速水さーーーん! 「大丈夫か?」 人の気配にハッとして目を開けると、すぐ側に速水さんの顔があった。 あまりにも近かったから、驚いて起き上がった拍子に速水さんの顎に頭突きしてしまう。 「痛っ」 パジャマ姿の速水さんが顔をしかめて顎をさする。 「この石頭」 呆れたような視線がささった。 「ごめんなさい」 居たたまれない気持ちになった。 「そんな顔するな。痛かったけど怒ってはいないから」 ベッドの縁に座り直した速水さんが安心させるように笑った。 笑顔にほっとして今の状況に気がつく。あたしはバスローブ姿でベッドで眠ってたようだ。 バスローブの下は何もつけてないようでハッとする。 「君が風呂で倒れたから仕方なく濡れた物を脱がせて、タオルで拭いて、バスローブを着せたんだ」 という事は速水さんに全裸を見られたって事? 羞恥心が体中を駆け巡り、湯気が出そうな程顔が熱くなった。 「エッチ!変態!スケベ!」 頭に血が上って、枕を速水さんに向かって振り回した。 「うわっ、こら、やめなさい!」 速水さんが器用に枕から避けていく。 「酷い、酷い、人が何にもわからなくなってる時に裸にするなんて!速水さんなんて大嫌い!」 恥ずかしさのあまり言ってしまう。だって顔色一つ変えず服を脱がしたなんて言うんだもの。そりゃ、速水さんは大人で女性の裸なんて見慣れてるかもしれないけど。 経験値の差を物凄く感じて、地中に埋まりたくなる。いっそ、穴を掘って逃げ出したい。 「また君はそういう事を言うのか」 速水さんがあたしから枕を奪い取り、深いため息をついた。その表情が傷ついたような、悲しむようなものに見えて、何も言えなくなる。 大嫌いは不味かったかもしれない。 「大嫌いなら、どうして俺と結婚した」 静かな声は怒っているようにも聞こえた。声の冷たさに心が萎んでいく。何も言えずにいると速水さんの表情はどんどん悲しそうになって 苦しそうになって、終いにはあたしから視線を逸らした。 「俺はリビングで眠るから」 速水さんがベッドから立ち上がる。 「今夜はゆっくり休みなさい。大丈夫、何もしないよ」 と言った速水さんの声は優しかったけど、全ての感情を隠したような、大人の顔をしていた。 さっきお風呂であたしに好きだと言った速水さんは別人のように熱い目をしていた。 もしかしたら速水さんはずっと、ずっと、感情を押し殺して来たんじゃないだろうか。狼少女の時も、今も……。 そうさせて来たのはあたしだ。 物凄く大事にされてる事に気づいて、胸がいっぱいになって、涙が溢れ出た。 行かないで。側にいて。今度こそあなたの気持ちを受け取めるから。そう言いたいのに涙で声が塞がる。 「ああ、もう君は仕方ないな」 ベッドから離れた速水さんが側に来てくれる。 泣きじゃくるあたしを宥めるように優しく背中をさすってくれた。ほら、やっぱり物凄く優しい。そう思ったら更に目頭が熱くなって、涙が止まらない。 「落ち着くまで側にいた方がいいか?」と聞かれ、素直に頷いた。 「相変わらず手のかかる子だ」 速水さんが小さく笑った。 「何だかあの時の事を思い出すな。君は17才で、ホテルに泊まった日、俺と離れたくないって手をつないでて」 そう言いながら速水さんの手があたしの手を握った。大きくて温かい。 「こうやって繋いでたな」 しみじみとした速水さんの声に甘酸っぱい気持ちが蘇る。 怖いもの知らずだった17才。少しは大人になったつもりでいたけど、速水さんを目の前にしてるとあの頃と少しも変わってない気がする。 「好きです」 涙の間からようやく声が出た。 「速水さんが好き。あの時からずっと、ずっと」 「マヤ」 「好きなの。好きで仕方ないの。だからさっきも速水さんが好き過ぎて許容範囲を超えたっていうか……、なんかいっぱいになっちゃって。 あたし自信なかったの。速水さんにプロポーズされてからも、速水さんが全然変わらないから。速水さん、本当にあたしの事好きなかなって思ってたの。 教会でだって、唇にキスしてくれなかったし」 気づいたら不安な気持ちを口にしてた。 「だってあたし11も年下だし、ちびちゃんだし、芝居の事しか知らないし、速水さんに好かれる要素が何もない気がして、それに」と次の言葉を口にしようとした時、 速水さんの唇が重なった。 「もういいよ。わかったから」 唇を放すと速水さんがギュッて抱きしめてくれた。 「不安にさせて悪かった。プロポーズしといて素っ気なかったのは、自分を抑えられなくなりそうだったからで、教会で唇にキスしなかったのはもったいない 気がしたからだ」 「え?」 思いがけない言葉に眉をしかめると速水さんが小さく笑った。 「つまり、とんでもなくマヤの事が好きなんだ」 体の底から喜びが込みあがって、嬉しくて速水さんを抱きしめた。 「マヤ、愛してる」 その言葉を合図にあたしたちはベッドに沈んだ。 次の日、セーヌ河のほとりを速水さんと腕を組んで歩いていると、突然雨が降って来た。雨はパラパラっと軽く降っただけですぐに止んだ。 エッフェル塔の方を見ると思わず笑みが浮かんだ。 「速水さんあれ」 指をさした方に速水さんが視線を向けた。 そして速水さんも頬を緩めて笑顔を浮かべた。 セーヌ河にかかる橋からエッフェル塔の方へと虹がかかっていた。 雨上がりの空はキラキラと輝いてて、誰かに感謝したくなる。 「綺麗だな」 速水さんの言葉に頷いた。 「速水さん、虹をバックに写真撮ってもらいましょうよ」 「君はいつまで俺の事をそう呼ぶんだ?」 「え」 「君も速水になったんだぞ」 「ああ、そうか」 速水さんって呼び方が定着し過ぎていて忘れていた。 「まあ、君に速水さんって呼ばれるの好きだったけどな」 「じゃあ、このままで」 「えっ」と速水さんが慌てた顔をする。 「冗談ですよ。真澄さん」 そう呼んだ時、真澄さんの頬がこれ以上ない程赤くなるのがわかった。 「ふ、不意打ちはズルいぞ」 照れくさそうな顔をして精いっぱいの強がりを口にした真澄さんが可愛い。 「真澄さん、かわいい」 「バ、バカ。大人をからかうな」 11才も年上で物凄く大人で、遠い人に思えたけど、今は物凄く近い人。 こんな風に真澄さんと雨上がりの空をずっと見ていられたら幸せだな。 「ねえ、真澄さん、子供は二人がいいですね」 あたしの発言にまた真澄さんが照れたように赤くなる。 そんな真澄さんを見られてとっても、とっても幸せ。 終わり |
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目次
1【速水】 2【マヤ】 3【速水】 4【マヤ】 5【速水】 6【マヤ】 7【速水】 8【マヤ】 9【速水】 10【マヤ】11【速水】
【後書き】 最後までおつきあい頂きありがとうございました。 書き始めた時は梅雨で、梅雨が終わらない内に書き終わる予定だったので、タイトルは「雨と恋」に しましたが、もうすっかり秋も深くなりましたね(苦笑) 今回久しぶりにガラかめを読み直しましたが、47巻で萌え、49巻で悶えました。 速水さんって実は一番の苦労人じゃないかと思います。 せめて、私の書く速水さんには幸せになって頂こうとラストは甘くしました。 気が向いたらまた幸せな速水さんを書いてみようと思います。 ハッピーバースデー 速水さん♪ 2016.11.3 Cat |
2016.11. 3