―――  雨と恋 2【マ ヤ】  ――― 



どうしてあんな事言っちゃったんだろう。
速水さんが紫の薔薇の人だと知ったら、居てもたってもいられなくなって、
気持ちが滅茶苦茶になって、走っていた。

大都芸能の正面玄関前に速水さんを見つけて、胸がいっぱいになって、泣きそうになった。
言いたい事もわからなくなるぐらい、心がぐちゃぐちゃになったあたしを速水さんはじっと
待っていてくれた。

――ちびちゃん?

とても優しい声。


――一体どうしたんだ?

心配そうにあたしの顔を覗き込む瞳。

――言ってごらん。何を言っても怒らないから。

真っ直ぐにあたしを見る瞳は胸が痛くなる程優しい。

速水さんはいつも大事そうに見てくれる。
冷たいと思ったら優しくて。
あたしをバカにして笑っていると思ったら、怖いぐらい真剣な目をしていて。
遠くにいると思ったら近くにいて。

あたし、気づきたくなかった。
本当はあなたが凄く優しい人だって。

殺してやりたい程憎いって思った事もあったけど、憎めない。
母さんの墓参りに行った時、偶然見てしまったあなたの落ち込んだ背中。
声もかけられないぐらい弱々しく、あなたは泣いてた。
初めてあなたも母さんの事で苦しんでいる事を知った。

許せないと思っていたけど、あんなあなたを見てしまったらもう憎めない。
それに本当はあなたを憎みたくなかった。

あなたは劇団つきかげを潰して、母さんを死に追い詰めた人だけど、いつも私を助けてくれる人。
初めて舞台に立った日から、黙って紫の薔薇を贈り続けてくれた人。
高校に行かせてくれて、落ち込んでいるあたしを励まし続けてくれる人。

ねえ、どうしてですか?
どうしてあなたが紫の薔薇の人なんですか?
どうして何も言わずに援助してくれるんですか?

あたしが紅天女候補だから?金の卵だから?

あの時、そう聞こうとして違う言葉を口にした。

――あたし、速水さんが好きです。

あなたはとても驚いた目であたしを見た。
自分でもバカな事を言ったと思う。
どうしてあんな事を言ってしまったんだろう。
十一も年上のあなたに受け入れられる訳ないのに。
速水さんから見たらあたしは子供でしかないのに。

「お待たせ」
 水城さんのソプラノの声にコーヒーから顔をあげた。
 店内に流れている音楽と重なるように人の話し声や笑い声がしていた。
 水城さんに指定されたカフェには日曜日の、のんびりとした空気が流れていた。
「どうしたの?そんなに怖い顔をして」
 紺色のパンツスーツ姿の水城さんが笑う。
「あの、急にすみません」
「いいのよ。丁度ランチに行こうと思ってた所だから。マヤちゃんお昼は?」
「まだです」
「丁度いいわ。一緒に食べましょう」
「い、いえ、すぐに帰るつもりですから」
「そんな事言わず付き合ってよ。ここのローストビーフのサンドイッチ美味しいのよ」
 あたしの返事も聞かない内に水城さんはローストビーフサンドを二人分頼んだ。
 コーヒーが一杯800円もするような銀座のカフェ。財布の中身が心配になる。
 そんなあたしの懐事情を察するように水城さんが「つき合ってもらうお礼に奢るわよ」と何気ない感じで口にした。
「で、でも」
「年下は年上に奢られるのが当たり前なのよ。だから遠慮なんかしないで」
 何を言っても水城さんは払う気だ。だったら好意は素直に受けた方がいいのかも。
「ありがとうございます」
「どういたしまして。ところで、少し元気がなさそうに見えるけど、何かあった?」
 テーブルを挟んで正面に座る水城さんが心配そうにこちらを見た。
 昔から水城さんは鋭い。
「そ、そんな事ないですよ」
 無理に笑ってみせる。速水さんに告白した事なんて恥ずかしくて相談できない。
きっと笑われる。あたしみたいなおチビちゃんが十一も年上の速水さんを好きなんて。
「なら、いいんだけど」
 それから本題を切り出せないまま、水城さんに聞かれるまま学校の事や、つきかげのみんなの事を話した。
 学校でやった女海賊ビアンカの話をした時が一番楽しかった。体育倉庫を舞台にした話をしたら、
水城さんは興味深そうに聞いてくれた。
「良かった。あなたはやっぱりお芝居が一番なのね」
 水城さんが安心したように微笑む。 
「速水さんに無理矢理立たせてもらった舞台で、思い出したんです。芝居をしている時は幸せになれること」
 母さんが亡くなってテレビドラマや舞台を降板した時は芝居なんて出来ないと思っていたけど、今は早く紅天女を演じられるようになりたい。
 紫の薔薇の人――速水さんのためにも。
「本当にお芝居をしている時のあなたは生き生きとして幸せそうようね」
 水城さんが優しく微笑む。
「はい。とっても幸せです。母さんが亡くなって寂しいけど。でも、あたしには芝居があります」
「随分と前向きになったのね。社長が聞いたらさぞ安心されるでしょう」
「速水さんが?」
「ええ。ああ見えて社長はあなたのファンだから。あなたの芝居が好きなのよ」
 顔がカァッと熱くなる。気を落ち着ける為、最初に出された水を口にした。
 氷がとけてて、もう生ぬるい。
「社長が一人の女優に入れ込む事なんてないのよ。あの方が損得なしに行動する事なんて今までなかった」
 そう言って笑った水城さんが寂しそうに見えた。
「どうして速水さんはあたしに目をかけているんですか?」
 水城さんならあの人が紫の薔薇の人として援助してくれている事を知っているかもしれない。
「そういう事は社長本人に聞いてみなさい」
 期待した答えがもらえず、渋々コーヒーを口にした。
 あの人のマネをして砂糖もミルクも入れてなかった。やっぱり苦くてミルクが欲しい。
 でも、入れなかった。
「お待たせいたしました」
 水城さんとあたしの前にサンドイッチが置かれた。
 香ばしいパンの香りがした。食欲がなかったけど急にお腹がすいてきた。
「いただきます」
 レタスとローストビーフを挟んだサンドイッチにかぶりつく。
「美味しい!」
 素直に出た感想だ。
「でしょ」
 水城さんが得意げな顔をした。
「社長もここのサンドイッチ好きでよく買っていくのよ」
 速水さんの話題にまた胸がドキッとした。
「速水さんも好きなんですか?」
 手の中の具材がたっぷり入ったサンドイッチを見た。
「ええ。サンドイッチ片手に仕事してるわ」
「食べながら仕事を?」
「時間のない時はそうなるわ」
「速水さんてやっぱり忙しいんですね」
 そんな忙しい中、速水さんは紫の薔薇の人としてあたしの芝居を見にきてくれる。
 母さんを死に追い込んだのは速水さんだけど、芝居が出来なくなった時は側にいてくれた。
 行方不明になったあたしを探したり、速水さんちに置いてくれたり。
 あれは仕事だったのか、それとも……。
「仕事に対しては手を抜かない方だから、もう少しいい加減になってくれるといいんだけど」
「どうしてです?」
「秘書の私が休めないからよ。今日も休日出勤よ」
 水城さんが笑う。あたしもつられて笑った。
「じゃあ、速水さんも会社に?」
「いえ、今日は三ヶ月ぶりのお休みよ」
「そうなんですか。今頃お家で寝てたりするのかな」
 仕事に疲れてベッドで休んでる速水さんが浮かんだ。きっと一日中ゴロゴロしてるはずだ。
 あたしだったらそうする。でも、速水さんがゴロゴロしてるのってなんか合わない。
「にやけてるわよ」
 水城さんにつっこまれる。
「ちょ、ちょっと可笑しな事が浮かんで」
「何?」
「い、いえ。話すような事じゃないんで」
 ゴロゴロしてる速水さんを想像してたなんてやっぱり恥ずかしくて言えない。
「マヤちゃん、好きな人でも出来たの?」
「え!」
 口の中のサンドイッチに咽た。せきがとまらなくて苦しい。
 涙が浮かぶ。
「大丈夫?ほら、お水飲んで落ち着いて」
 水城さんが新しく水をもらってくれた。
「ごほっ、ごほっ、はい」
 何とかせきをおさめて水を飲み込んだ。
「はあー」
 ようやくせきが止まった。
「ごめんなさい。変な事聞いちゃって。あなたの雰囲気が少し変わった気がしたから」
「どう変わったんですか?」
 水城さんは様子を探るようにじっとこちらを見た。
「女らしくなった。一言で言えばそんな感じ」
 恥ずかしくなる。
「マヤちゃんも、もう高3ですものね」
 水城さんがしみじみとした声で言った。
「だから、勉強がどんどん難しくなって困ってるんです」
 軽やかな水城さんの笑い声が響いた。
「マヤちゃんらしいわね」
 デザートのチョコレートケーキを食べ終わった所で、水城さんの携帯電話が鳴った。
「もしもし、ええ。はい。わかりました。すぐに」
 きびきびと電話を終えた水城さんが申し訳なさそうな視線を向けてきた。
「ごんめなさい。あまりゆっくりしてられくなったわ」 
「いいんですよ。あたしの方こそ忙しいのにわざわざ来てもらってすみません」
 カバンからラッピング袋を取り出した。これが今日水城さんに会った本題だ。
「これを速水さんに渡しといて下さい」
「社長に?」
「はい。この間手を切った時にお借りしたハンカチです」
 水城さんは考えるように袋をじっと見た。
 何か変な事をしたのかと心配になる。もしかしてこのラッピング袋がまずいのかな。
 100円均一のお店で買ったものだけど。水玉は速水さんの嫌いな柄だったのかな。
無言の水城さんに次々と心配事が浮かんできた。
「マヤちゃん、社長に会えるように時間を作ってあげるから、自分で渡した方がいいわ」
 思いがない言葉に鼓動が早くなった。速水さんに今会うのは気まず過ぎる。
「えっ、でも、わざわざ時間を作ってもらう程のことじゃ」
「マヤちゃん、社長に何か聞きたい事があるって顔してるわよ。今日だってずっと社長の話ばかり」
「……してましたっけ」
「うん。マヤちゃんからの質問は全部社長に関係した事だったわよ」
 頬が熱くなる。速水さんの話をしたつもりなんて全くなかった。
「また連絡するわ」
 水城さんは伝票を持って立った。
「もう少しゆっくりしてていいわよ。じゃあね」
「あっ、水城さん!」
 水玉のラッピング袋をテーブルに置いたまま水城さんはレジの方に歩いて行った。
追いかけようと思ったけど、水城さんが頼んでくれた紅茶をすすった。コーヒー程は苦く感じない。
 窓の外を見ると雨が降り出してて、通りを歩く人たちが慌てて傘を広げていた。
その中に水城さんらしき後ろ姿も見つける。水城さんは赤い傘をさしていた。
傘をさして歩く後ろ姿から大人の女性らしい色気のようなものを感じてドキッとした。
速水さんの隣には水城さんのような美人が合う。
あたしと速水さんが並んでいたら絶対に変な感じだろうな。何だか落ち込む。
はあーっと胸の底からため息が出た。
 水城さんの言う通り速水さんに会いたかった。今度こそ紫の薔薇の事を直接聞いてみたかった。
 でも、その前に好きと言った事をどうしよう。
 二人きりになったらきっと速水さんにどういうつもりで言ったのか聞かれるかもしれない。
その時何て答えたらいいのか。
「どうしよう……」
 会うのが怖い。でも、会いたい。
 左手の薬指を見ると、ガラスの破片で傷つけた傷が薄く見えた。
 この傷に速水さんが触れた。長くて骨ばった指の感触は男の人の手だった。
 ずっとあの指に触れていたかった。
 前に里美さんを好きになった時とは違う、もっと深い所で気持ちが大きくなっていた。


 
「ただいま」
 アパート帰ると麗がキッチンで洗い物をしていた。
「お帰りマヤ。速水さんとすれ違わなかった?」
 ――速水さん!?
「つい今しがたマヤを訪ねて来たんだけどさ」
「……会ってない」
「そっか、すれ違いになったね」
「速水さん、私に用があったの?」
「うん。マヤに何か話しがあったみたい」
「速水さんが出て行ってどれくらい?」
「えーっと、五分ぐらい経つかな」
 走ればまだ間に合うかもしれない。
「それよりお土産にケーキ頂いたんだ。食べない?」
 麗がケーキの箱をかかげる。
「ごめん。あたし、ちょっと出てくる」
 脱いだばかりの靴を履いて外に出た。
さっきよりも一層強く雨が降っていたけど、傘をささずに雨の中を飛び込んだ。
走るのに傘は邪魔だった。早くしないと速水さんがいなくなってしまう。
速水さん、速水さん、どこ?どこにいるの?
住宅街の中を駅の方に向かって走った。
何人かとすれ違うけど、速水さんらしき人はいない。
走りながらどんどん悲しくなってくる。
さっきは会うのが怖いって思ってたけど、すぐ近くにいると聞いたら会いたくなる。
速水さんに会いたい。会いたい。
地面に叩きつけるような雨の中で速水さんの名前を呼んだ。雨音に声がかき消される。
体にあたる雨粒が痛かった。前が見えなくなる程雨は強くて耳の奥を鋭く貫くような雷が鳴った。
「キャッ!」
怖くてその場に座り込む。
昔から雷の音は嫌い。
雷を聞くと怖くて動けなくなる。
でも、速水さんを探さないと。
立ち上がろうとした所でドカーーッン!とまた雷が鳴った。
やっぱり怖い。
誰か助けて。
そう思った時、誰かが肩に触れた。
びっくりして顔を上げると速水さんがいた。
「ちびちゃん、どうした?」
 速水さんが傘をさしてくれる。
「か、雷が」と言った所でもう一発強烈なのが鳴った。
「きゃあ!」
「大丈夫だ。俺がいる。おいで」
 速水さんが手を伸ばしてくれた。その手を掴むと立たせてくれた。
 そして、支えるように肩を抱いてくれた。
「近くに車がある。そこまで走るぞ」
「はい」
 速水さんに肩を抱かれたまま走った。


 速水さんの車は公園の側に停まっていた。
あたしは助手席に座り、速水さんは運転席に座っていた。
ずぶ濡れのあたしに速水さんはスポーツバックからタオルを出してくれた。
「ジムに行くつもりだったんだ。タオル未使用だから」と言いながら速水さんはあたしの頭や顔や肩を拭いてくれた。
タオルからは柔軟剤の香りがした。
「君は雨の中を走るのが好きなのか?」
 拭き終わると速水さんがからかうような視線を向けてくる。
「ち、違います!」
速水さんに見られるのが恥ずかしくて怒ったような言い方になってしまう。
「じゃあ、なんでどしゃ降りの中」
「……速水さんを……その……」
 その先は言葉にならない。面と向かって必死になって探してなんて言えない。
「俺を何だ?」
「な、何でもないです!」
「何でもないはないだろ。ちゃんと答えなさい」
「女の子には言えない事もあるんです!」
「女の子?」
 速水さんがまたバカにしたように見て来る。
そして予想通り可笑しそうに笑い出した。恥ずかしくて頬が熱くなる。
なんで今日は速水さんといると恥ずかしいって気持ちでいっぱいになるんだろう。
「は、速水さんこそ、帰ったんじゃないんですか?麗から聞きましたよ」
「煙草が吸いたくて、公園の側に車を停めて吸ってたんだよ。そしたら、アパートから飛び出してくる君を見たんだ」
「それで追いかけて来てくれたんですか?どうして?」
「どうしてって、それは……大人が子供の心配をするのは当たり前だろ」
 子供って。あたしはそんなに子供なの?
「そうですか。それはわさわざすみませんでした」
 悲しい気持ちになる。もう一分一秒も一緒にいたくない。
「タオル、ありがとうございました!」
 肩にかかったタオルを強く突き返した。
「ああ」と速水さんが受け取る。
「それじゃあ、あたし帰ります」
 ドアに手をかけようとした時、速水さんに腕を掴まれる。長くて骨ばった指の感触にドキッとした。
 この間よりも強く胸がドキドキとしてくる。
「待ちたまえ。俺は君に話があって来たんだ」
「は、話?」
「この間の雨の日の事だ。あれは悪戯か何かなのか?」
 カァーッと頭に血が上る。ときめきは全て苛立ちに変わった。
 速水さんにとってあたしの告白は悪戯って言えちゃう程度なんだ。酷い。
「悪戯ですって!あれは……」
 言いかけて口が止まった。本気だと言った所で相手にしてくれるはずはない。
だったら、なかった事にした方がいいかもしれない。
「あれはなんだ?」
 今ならまだ引き返せる。悪戯だって言っちゃえばいい。
「い、悪戯です」
 口にした途端涙が溢れた。
「さよなら」
 速水さんの手を振りほどいて車の外に出た。
 そしてまた雨の中を走り出した。



つづく
 
 



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2016.7.14





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