ベッドシーン 前編



 大都芸能の社長室は20階にあった。
社長室に案内されると、主のいないデスクの後ろには大きな窓があり、ビル街が見える。
マヤは視線を一瞬向け、眩しそうに瞳を歪める。
「社長は今会議中だから、ちょっと待ってて」
秘書の水城がマヤを革張りのソファに座らせると、彼女の前に麦茶を置く。
「突然、すみません」
マヤは恐縮し、何度も頭を下げる。
「いいのよ。あなたは特別だから」
盆を抱えたままテーブルの前に立つ水城が微かに口元を上げる。
今日の彼女は夏らしい水色のスーツ姿だ。腰まである黒髪は日本人形のように整っている。
「特別?」
マヤは黒々とした大きな瞳を水城に向ける。
フード付きのTシャツに膝丈のデニムのスカート姿の彼女は相変わらず二十歳には見えない。
「紅天女候補の女優さんだからね。『忘れられた荒野』良かったわよ。私、実は三回観に行ったの」
水城が親しみをこめた笑顔を向ける。
「ありがとうございます。水城さんに観てもらえたなんて光栄です」
マヤは頭を下げる。
「そういえば、東堂夏子監督から声が掛かったんでしょ?」
水城の問いにマヤは曖昧な笑みを浮かべる。
「お断りしようと思ったんですけど、月影先生が紅天女を演じる上で良い経験になると言われて」
マヤはため息を零すと、青いグラスに入った麦茶を口にした。
「東堂監督と言えば今年カンヌ国際映画祭で大賞のパルム・ドーム賞を受賞した今一番注目の監督じゃない。
ハリウッドからも声が掛かっているって聞いたわよ。私も女優として良い経験になると思うわ」
水城がそう口にした所で、ドアが開く。
「なんだあの企画は。俺は絶対許可しないからな」
速水が二人の社員とともに入って来る。
マホガーニのプレジデントデスクの前にドカッと座ると、速水は社員に檄を飛ばす。
三十一歳になる速水よりも二人の社員は年上に見えた。
銀座のテーラードで仕立てたチャコールグレーのスーツは隙なく体にフィットしている。
「とにかくもう一度検討してから、持って来い」
声のトーンを下げ、速水はため息をつく。
社員二人は腰を折るように頭を下げると、社長室を出て行った。
「水城君、コーヒー」
ちらりとソファの方に視線を向けると、速水はハッとしたように目を見開く。
「やぁ。ちびちゃん。来てたのか」
不機嫌そうにしかめていた顔が、パッと緩むのを水城は見逃さなかった。
「突然、すみません」
マヤはソファから立ち上がると、速水の方を向きお辞儀をする。
彼は椅子から立ち上がると、マヤの正面に立った。
「今日はどうした?また俺に文句でも言いに来たのか?」
速水はからかう調子で言う。
その途端、マヤがカーッと顔を赤らめる。その反応の意味がわからず、速水は眉を上げる。
「コーヒーお持ちしました」
いつの間にか社長室を出ていた水城がコーヒーを持って戻って来る。
「では、失礼します」
テーブルの上に速水愛用の有田焼きのコーヒーカップを置くと、水城が退出する。
「とりあえず座ろうか」
速水がソファに腰を下ろすと、マヤもテーブルを挟んだ正面に座る。
沈黙が流れ、マヤは太腿の上に置いた両手をキュッと拳にした。
「あの、速水さん」
思い切ってマヤが速水を正面から見る。
速水はコーヒーを口にしていた。
「何だ?」
コーヒーカップをソーサーの上に置くと、ゆっくりとマヤを見る。
「これを見てくれますか?」
脇に置いた鞄からマヤが本を出す。
藤色の表紙には『紫の恋』と書かれていた。
「台本か」
速水は本を手にするとパラリと紙をめくっていく。
「東堂夏子監督から今度撮る映画の主演を依頼されたんです。
源氏物語をモチーフにしていて、それを現代劇に置き換えたものです」
「東堂監督か。それは素晴らしい話じゃないか。きっと役者としての君のステップアップにもなるだろう」
速水は嬉しそうに口元を綻ばせる。
「はい。いいお話です。でも、今回の役には自信がないんです。その……私には経験がありませんから」
マヤがそう言った時、速水はあるページで目が止まる。
それは大胆なベッドシーンだった。硬直したように動けなくなり、速水は唇を噛んだ。
「月影先生が紅天女を演じる上で必要な役になると言われて」
マヤがため息を零し、自信なさ気に速水に視線を向ける。
彼は眉を潜め、台本を見つめていた。
「だから、このお話受ける事にしたんです。明日製作発表の記者会見があります。
撮影は一週間後から始まります。それで、最初のシーンはその、ベッドシーンから撮るそうです」
台本を勢い良く閉じると、速水が顔を上げ、彼女を見る。
そして、感情をぶつけるようにバンと手にしていた台本でテーブルを叩く。
マヤは黒々とした瞳を見開き、顔を強張らせた。
「ダメだ。こんなの絶対ダメだ。清純派の君のイメージが壊れる。今すぐにこの話は断った方がいい。
君が言いずらいなら、俺から監督に言っといてやる」
速水は眉を鋭く上げ、腹立たしそうにコーヒーを口にした。
「全く、月影先生は何を考えているんだ」
コーヒーカップを置くと、彼は怒りの先を月影に向ける。
「先生の事悪く言わないで下さい」
マヤは尊敬する師の事を言われ、堪らず口にする。
速水はウッと声を漏らし、黙る。
「私も先生の意図がわからなかったけど、台本を最後まで読んでみて、何となくわかったんです。
紅天女の恋を演じるには、この役はいい経験になると思うんです」
瞳を尖らせ、マヤは彼を見る。
「じゃあ、君はこの役からどうしても降りないという訳なのか?」
速水の問いにマヤが大きく頷く。その瞳にはしっかりとした力強さがあった。
そういう目をしている時は何を言っても聞かない事を彼はよく知っていた。
「それで、俺とこの台本に何の関係があるんだ」
ため息とともに、彼が口にする。
マヤは一瞬目を伏せ、俯く。
「東堂監督にこの役を本気で理解したいなら、経験を積んで来いと言われました」
マヤ顔を上げ、再び彼を見つめる。
胸が鼓動を早くしていた。喉がカラカラと渇く。
この後の言葉を口にしたら、彼は自分を嫌いになるんじゃないかと思う。
「経験?」
速水が眉を寄せる。
「相手役の人は速水さんと同じ年齢の方です。だから、あの……」
そこまで口にしてマヤは再び顔を赤らめる。
「私、速水さんにお願いしたいんです」
真っ直ぐな瞳でマヤが速水を見る。彼の瞳が大きく見開く。
「速水さんには婚約者がいる事も知っています。これは紫織さんに対する裏切りになる事もわかっています。
でも、あの、仕事だと割り切って私と……してくれないでしょうか?」
マヤは必死だった。監督に経験を積みなさいと言われてから、ずっと速水の事を考えていた。
彼女にとって愛しい人だ。自分は紅天女候補の役者である事以上に見られていない事は知っている。
心が自分になくても、それでも初めての経験は彼としたかった。
彼なら仕事としてもしかしたら割り切ってくれるのではないかと思い、最後の言葉を強調した。
「何を言っているんだ。君は……」
速水の瞳に戸惑いの色が浮かぶ。
「バカなお願いだという事はわかってます。でも、私、速水さん以外にお願いできる人がいないんです。
お願いです。紅天女の為だと思って、引き受けてくれないでしょうか」
心臓が破裂するのではないかと思う程、鼓動を早めていた。
全身に変な汗をかく。何度も頭の中で彼にお願いする所を思い描いたけど、
いざ実行に移してみると、自分が何て卑しい女なのかと、マヤは思う。
「いくら仕事だと思えと言われても、できる事とできない事がある。
それにまだ君が紅天女に決定した訳でもない。ちびちゃん、悪い事は言わない。この仕事は断った方がいい。
君には無理だし、君のベッドシーンなんて俺は見たくない」
速水の言葉にマヤは胸から血が出た気がした。
「私が子供だからですか?私に女性としての魅力がないからですか?」
拳にした手が震えていた。
「あぁ。そうだ。ベッドで男と抱き合う君なんて似合わない。ハッキリ言って俺は不快だ」
マヤは居た堪れずソファから立ち上がると、社長室から出て行く。
目には涙が浮かんでいた。
水城がマヤに気づき、何か話しかけてくれたが、彼女はそれに応える余裕はなく、
エレベーターまで走った。






 翌日午前9時にアパートを出ると、マヤは電車に乗った。
今日は製作発表の日だ。場所は千代田区にある帝国ホテルだ。最寄駅は有楽町になる。
薄いピンク色のワンピースを着て、化粧をしていた。
麗にちゃんとした格好をしなさいと言われたからだ。
 マヤは立ったままつり革に捕まると、窓の外の景色を見つめた。景色に段々高層ビルが増える。
昨日も電車でこの辺りまで来たと思い、ため息をつく。
速水の言葉が胸を抉る。悲しくて、悲しくて夜は泣いていた。
麗が心配して側にいてくれた。
 有楽町という車内アナウンスが流れ、マヤは電車を降りた。今日も暑かった。
ムッとした熱気がホームを包み、誰もかれもが暑そうにしている。
マヤは階段を降りて、改札を出ると、人ゴミに紛れた。

「北島さん、こちらになります」
ホテルのロビーに煌く大きなシャンデリアに目を奪われていると、声が掛かる。
何度か帝国ホテルには演劇関係の受賞式などで来ていたが、豪華な作りに来るたびに圧倒される。
スタッフに案内され、控え室に行くと、メイクさんがスタンバイしていた。
マヤは化粧台の前に座った。
「あれ、北島さん泣いた?」
ベテランの女性メイクはマヤの化粧を落とすと、涙の跡を見つける。
マヤはえぇと小さく頷く。
「心配しないで大丈夫よ。これぐらいならメイクで隠れるわ」
手早くマヤの顔に化粧をしていく。マヤはその様子をじっと見詰めていた。
「北島さん、お花です」
メイクをしていると、後ろから声が掛かる。
鏡越しに紫の薔薇の花束を目にした。
速水の姿が浮かび、脈を一つ大きく立てる。
「紫の薔薇なんて珍しいですね」
鏡台の上に置かれた花束をメイクが見る。
「ずっと匿名で送ってくれる人がいるんです」
マヤはそう言うと、花束からカードを取り出した。

いつも応援しています

カードには印刷された字でそう書かれていた。
胸がギュッとした。


 メイクが終わると、紫色のドレスに着替えたマヤはスタッフの誘導で孔雀の間に向かう。
その途中に共演者や監督たちと会いマヤは挨拶をした。
司会者の声とともに、マヤたちは会場に入り、壇上に並べたられた金屏風の前の席に座る。
記者や関係者が千人以上招待されていた。
東堂監督が注目されているのがよくわかる。
まずはプロデューサーからの挨拶が始まり、それから監督と共演者に順番にマイクが渡されていった。
 マヤは会場内に速水の姿を見つけ緊張を強くした。
水城と二人で、後ろの方の席に座り、マヤたちに視線を向けていた。
今回この映画に大都芸能は絡まないのに、なぜこの場に速水がいるかマヤにはわからなかった。
「北島さん、お願いします」
司会者の声にマヤはハッとする。
目の前に置かれたマイクを持つと、立ち上がり会場に視線を向ける。
「えー、北島マヤです。今回、村山 紫(ゆかり)を演じる事になりました。今まで演じた事のない役柄になるので、
私にとっては大きな挑戦となりますが、精一杯頑張りたいと思います」
マヤが頭を下げると、会場から拍手がなる。速水の方に視線を向けると、水城とともに席を立ち、会場を出て行く所が見えた。
彼が怒っている気がした。
 質疑応答は濃厚なベッドシーンについてのものが殆どだった。
マヤの経験について聞かれるという突っ込んだものもあり、マヤは言葉を詰まらせた。
「えーでは、製作発表記者会見をこれで終りにします」
マヤの沈黙を助けるように司会者の声が響く。
記者たちは不満そうにしつこく、マヤに言葉をなげかけるが、マヤは無言のまま退出した。
「無様な会見だったな」
舞台の袖に行くと、そう声を駆けられる。
「……速水さん!」
グレーのスーツを着た速水がいた。
彼は壁に寄りかかり、腕を組んで彼女を見下ろす。
「見てたんですか?」
彼の正面に立ち、見上げる。
「ああ。ここで見てた」
静かな声で彼が答える。
「ちびちゃん、止めておけ。この映画は降りた方がいい。君には無理だ」
昨日と同じセリフを彼が口にすると、マヤはため息をつく。
「そんな事私だってわかってます。でも、月影先生が経験した方がいいと言うから……」
「君はスクリーンの前で肌を晒すんだぞ。男と絡み合って、声を上げて」
「やめて下さい!」
速水の言葉に堪らず、マヤは声を上げた。周囲のスタッフが二人に視線を向ける。
「北島さん、会食の時間です。皆さんお待ちになっています」
助け舟を出すように会見を仕切っていたスタッフがマヤに声をかける。
「あっ、はい。今行きます」
マヤが顔だけスタッフの方に向け、応える。
「これから監督とランチなんです」
速水の方を向く。
「そうか。丁度俺も腹が減った。一緒に行こうじゃないか」
「えっ?速水さんも来るの?」
「あぁ。行く。どんな監督か俺が見極めてやる」
そう言うと速水がマヤの腕を掴んで歩き出す。
彼女が抵抗しても彼の耳には何も届いていないようだった。





 エレベーターで三階に上がるとイタリアンレストランがあった。
マヤと速水はウェイターに案内され席に行くと、監督を始め共演者たちがもう席についていた。
ランチに参加したのは全部で二十人ぐらいになる。
みんな記者会見の時の衣装のままだ。
「待ってたわ。北島さん」
紺色のスーツを着た東堂監督が最初にマヤに声をかける。
彼女は今年45歳になるが、実年齢よりも十歳ぐらい若く見える。
「お待たせしました」
マヤはペコリと頭を下げた。
「そちらは、まさか大都芸能の速水さん?」
監督がマヤの隣に立つ彼の姿に視線を向ける。
「初めまして。速水です。監督に会いたいと言ったら、彼女にランチに誘われましてね」
速水の言葉にマヤは片眉を上げて、彼を睨む。
「確か紅天女の上演をめぐって大都さんはいろいろと北島さんと因縁があると聞きましたけど」
監督がけん制するように速水を見る。
「因縁と言う程のものじゃありませんよ。ただ、彼女が紅天女候補の女優ですから、下手な映画にはこちらとしても出演させたくないだけです」
速水がキッと眼光を強める。
「下手な映画ってどういう意味ですか?」
監督が椅子から立ち上がり、速水の前に出て行くと、顔を上げる。
彼女は170センチぐらい身長があった。182センチの速水と睨み合う姿は迫力がある。
マヤはおろおろと二人を見上げるしかない。周りにいたスタッフも空気が冷たくなっていくのを感じる。
「女性の裸体が出てくるような映画ですよ。芸術性が高いとカンヌでは評価されたみたいですが、あんなのAVもいいところじゃないんですか!」
監督が賞をとった映画は全裸の女性同士が抱き合うシーンが10分以上あり、そのシーンが話題性を集めていた。
「あなたに芸術の何がわかるんですか!」
監督はそう言うと近くにあったコップを手に掴み、中に入っている水を速水にかける。
バシャリと水がかかる音がして、彼の方を見ると、庇うように顔の前に右腕が出ていた。
「俺を誰だと思ってるんだ!大都芸能の速水真澄だぞ!」
ズブ濡れになった右腕を降ろすと、速水が声を荒げる。その声が本気で怒っている事がわかり、マヤは怖かった。
「速水さん、これ以上はやめて」
眉をハの字にして懇願するように速水を見る。
「社長」
水城が騒ぎを聞きつけ、慌てて店内に入って来る。
「マスコミに見られます。これ以上はお止め下さい」
水城の言葉に速水がフーッと息を吐くと、彼女が差し出したタオルを取り、水に濡れた腕と顔を拭いた。
マヤの方にちらりと視線を向けると、速水は何も言わずその場から水城とともに歩き出した。
「監督すみません」
マヤは東堂に頭を下げると、速水を追って店を出た。
もうこの場にはとてもいられなかったからだ。



「速水さん!」

エレベーターの前でマヤは速水を捕まえる。
扉がしまりかかっていたが、水城がボタンを押しマヤの為に扉を開ける。
マヤは勢いよくエレベーターの中に乗り込んだ。
「ちょっと、さっきのはどういうつもりですか!」
エレベーターの真中に立つ速水をマヤが睨み上げる。
彼の前髪はまだ微かに濡れていた。
ぶすっとした表情を浮かべたまま速水は何も言わない。
「東堂監督をあんなに怒らせて、私の立場がなくなるじゃないですか!他の共演者だって、
気まずそうに私を見ていたし」
マヤはとにかく苛立ちをぶつけた。
エレベーターが地下一階の駐車場に着く。おもむろに速水が降りると、マヤはその後に続くように歩く。
「さっきから黙ったままで、何とか言ったらどうですか!」
マヤの腹立ちはまだ収まらない。駐車場にマヤの声が響く。
「乗って行くか?」
黒塗りのベンツの前で立ち止まると、ようやく彼が口を開く。
「えっ」
マヤは一瞬冷静になり、車を見つめる。
運転席から運転手が降りて来て、後部座席のドアを開けていた。
「いえ、結構です!」
ぷいっと速水に背を向けると、マヤは駆け出した。
 控え室に戻ると、紫色のドレスから今朝着て来たワンピースに着替える。
何だか泣きそうな気分だった。速水のせいで自分の立場が危うくなっている。
これから監督の所に行って謝るしかないと思うと、気が重い。
「速水さんのバカ」
ソファに座り、マヤは呟いた。





 次の日マヤは東堂監督に呼び出された。
場所は赤坂にあるホテルの最上階にあるスカイバーだ。
午後八時、東堂に指示された通りの胸元の開いた赤いドレスと、赤いハイヒールを履いて店内に入った。
ピアノがショパンのノクターンを奏で、数組のカップルが窓際の席に座り、景色を楽しんでいた。
カウンター席に黒いワンピース姿の東堂がいた。
「こんばんは」
マヤが東堂の側に行くと、彼女から声を掛けてくれた。
微かにアルコールの香りがした。もう何杯か飲んでいるようだ。
「丁度今、連れが席を立った所なの」
東堂の隣の席には飲みかけのグラスが置いてあった。
連れがいるとは知らなかったので、マヤは急に落ち着かなくなる。
「似合ってるわね。そのドレス」
東堂はじーっと彼女の前に立つマヤを眺めた。
「いきなりびっくりしました。東堂監督の使いの方が現れて、私にメイクまでして行ったんですから」
今日のマヤは髪はアップにし、赤いルージュを引いていた。どこからどう見ても二十歳には見える。
「偶にはいいでしょう。こういう世界を知るのも。さあ、座って」
空いている方の隣の席をマヤは勧められ、座る。
「彼女にピーチフィズ作ってあげて」
口髭を上品に生やしたバーテンダーを東堂が見る。
彼女の注文を聞くと、バーテンダーが鮮やかな手つきで銀色のシェイカーを振る。
氷のシャカシャカした音がリズムよく響いていた。
マヤの目の前にピンク色の液体が入ったグラスが置かれる。
「とりあえず乾杯」
東堂がグラスを持ったので、マヤも彼女に合わせ、グラスをカチリと鳴らした。
「それでね。唐突なんだけど、北島さん、好きな人いるでしょ」
カクテルを口にしたマヤは思わず咽る。
「大丈夫?」
心配そうに東堂がマヤを見る。
「ごほっ、ごほっ、はい」
何とか声にして、マヤは深呼吸を一つついた。
「それで私、北島さんの好きな人呼んでおいたの。やっぱり初めての経験は好きな人がいいと思って。
彼にもそれとなくお願いしといたわ」
東堂がそう口にした時、店内に入って来る速水の姿を見つける。
彼が一直線に東堂の方に歩いて来る。それでマヤは東堂の連れが速水である事を知った。
胸の鼓動が早まる。緊張で手が汗ばむ。
「遅かったじゃない。速水さん」
彼が席に戻ると、東堂が甘えたように速水に言う。昨日の昼間とは別人のようだ。
「すみません。仕事の電話だったので」
速水が申し訳なさそうに謝る。やっぱり昨日とは別人のような態度だったので、マヤは何がなんだかわからない。
いつ二人は和解したのだろう。
「まぁ、いいわ。北島さんも来たし、私はそろそろ帰るわ」
東堂が席から立ち上がる。
「後は速水さん宜しく」
東堂がポンと速水の肩を叩くと、歩き出す。
「あっ、そうだ。北島さん、ちょっと」
思い出したように東堂が立ち止まると、手招きでマヤを呼ぶ。
マヤはスツールから降りると東堂の元に行く。東堂はハンドバックからホテルの鍵を出し、マヤに渡した。
一瞬でマヤの顔が赤面する。
「遠慮なく使ってね」
そっとマヤに耳打ちするように言うと、東堂が再び背を向けて歩き出す。
マヤは呆気に取られながら、店を出て行く東堂を見つめた。
「あの女」
席に戻ると速水が苛立たし気に呟いた一言をマヤは耳にする。
今夜の彼は縦縞の模様が入った黒っぽいスーツを着ていた。
ワイシャツは白でネクタイは紺色だ。
「仲直りしたんじゃないんですか?」
監督がいた席にマヤは座ると、速水を見る。
「誰があんな女と仲直りするか。圧力をかけられたんだよ。あの女国会議員の愛人だからな」
悔しそうにため息をつくと、速水は目の前のグラスを一気に呷る。
「……愛人!」
思わぬ言葉にマヤは黒目を大きくする。
確かに東堂は美人ではある。
「東堂が銀座のクラブに勤めていた時に知り合ったそうだ」
速水がポツリと口にする。
「銀座で働いていたなんて知らなかった」
マヤはピーチフィズを口にすると、速水の横顔を見つめた。
「速水さんでも国家権力には逆らえないんですね」
クスリとマヤが笑うと、速水が頬杖をつき、マヤの方に顔を向ける。
一瞬二人の視線が正面から合い、マヤはぎこちなく顔を正面に戻した。
「何とか映画の話を潰そうと思ったけど、無理だ。監督はすっかりちびちゃんの事を気に入ってる。
まあ、その点では俺も彼女と気が合うけど、でも、やっぱり過激なベッドシーンはやらせたくないんだ」
ちらりと見た速水の目はいつもより潤んで見える。すっかりお酒が回っているようだ。
「何時からここにいるんですか?」
話題を変えたくて、マヤはそんな事を口にする。
「えっーと、午後7時半かな。東堂に呼び出されたんだ」
お代わりのウィスキーを彼が一口飲む。
「今夜ここに来る東堂の連れとデートしたら昨日の事は水に流そうって言われてたんだ。まさか君が来るとは思わなかったけどな」
彼が微かに口の端を上げて笑う。
「そうですか。私も東堂監督に会いに行ったら、今日この場所に来いって言われたんです。こんな服まで用意されて」
マヤが赤いドレスを見る。
「君にしては随分大人っほい格好していると思ったら、それは東堂が用意した物か」
納得したように彼が笑う。
「やっぱり似合いませんか?」
伺うように隣の彼を見る。マヤの問いに速水がじっと彼女を見つめる。
「いや、似合ってるよ」
静かに言葉にすると、速水はグラスに口を付ける。
「それで、これからどうしようか?」
グラスを置くと速水がマヤを見る。
「えっ」
マヤは東堂に渡された鍵をカウンターの下でギュッと握った。
鼓動が早まる。この鍵を彼の前に差し出したらどう思うだろうか。
という考えが彼女の頭の中をぐるぐると回る。
「マヤ」
不意に彼が距離を詰め、彼女の左腕を取る。
「きゃっ」
思わぬ事に彼女が小さく声を漏らす。
あっという間に速水はマヤの左手から鍵を取り去る。
「やっぱりこういう事か」
部屋番号が書かれたカードキーを手にすると、マヤを見つめる。
マヤは悪戯が見つかった子供のようにバツの悪い顔をしていた。
「東堂にさっき渡されたんだな?」
彼の問いにマヤは弱く頷く。
「全く、東堂は何を考えているのか」
呆れたように吐息をつくと、速水はグラスの中のブランデーを呷った。
マヤは速水に怒られるんじゃないかと、びくびくとしている。
「それじゃあ、行こうか」
速水が立ち上がる。
「えっ、どこへ?」
マヤの問いに答えるように速水が右手に持ったルームキーを振る。







 東堂が用意した部屋は十八階にあった。
エレベーターから降りると、速水が先頭を歩き、マヤはおずおずとその後に続く。
一番端の部屋の前まで来ると速水は何の躊躇いもなくカードキーを差し込み、部屋を開けた。
ドアを開け、電気を付けると、広々とした客室が見える。まずリビングルームがあり、窓に面して革張りのソファセットがあった。
その隣のコーナーにはダイニングテーブルと6脚の椅子が置かれている。
「中々いい眺めだな」
窓際に速水が立ち、景色を見下ろす。
マヤは入り口のドアの近くでその後ろ姿を見る。
彼の引き締まった背中からは何も読み取れない。緊張で喉が渇き、咽そうになった。
「いつまでそんな所につっ立ってるんだ」
速水がマヤの方を振り向く。
「えっ」
顔を上げ夜景越しに速水を見る。彼は笑っていた。
「すみません。急に足がすくんじゃって」
マヤの足は凍りついたように動けない。
彼女の言葉を聞くとまた速水が笑う。
「この間の威勢はどうした?俺に仕事だと割り切れと言ったのはどこの誰だったかな」
速水がゆっくりとマヤに近づく。彼女の正面まで来ると、ひょいと彼女をお姫様抱っこで持ち上げる。
マヤの体が硬直する。
「あの、速水さん」
彼の顔から笑みが消えると、彼は一目散にリビング隣のドアを開けた。
そこには三人ぐらい寝れそうなダブルベッドがでーんと部屋の面積を占めていた。
マヤはこれ以上のない程、胸の鼓動を早める。
無言のまま速水はマヤをベッドに寝かせると、スーツの上着を脱ぎ、ネクタイを取り去る。ベッドの端に腰を下ろすと、
マヤを見つめた。
「君にあんな事を言われて、俺なりに悩んだ末の結論だ」
ポツリと速水が口にすると、横になったままのマヤに覆いかぶさる。
「君が本気でそうして欲しいなら、仕事と割り切る事にする。でも、本当にそれでいいのか?君の一番大事な経験を
憎い俺なんかとしていいのか?今はよくても恋人が出来た時、君は後悔する事にならないのか?」
マヤの顔の目の前に速水の顔があった。彼は真っ直ぐにマヤを見つめている。
微かにアルコールとコロンの混ざった香りがする。
「一度してしまえば、もう後戻りは出来ない。本当に本当に俺でいいのか?」
彼が苦しそうに眉を寄せる。
マヤはじっと彼を見つめたまま緊張で声一つ出せない。
それを速水は拒絶と受け取った。
「帰るよ」
彼女から起き上がると、ベッドの端に再び座り、彼は脱いだ上着を着る。
ネクタイは無造作に上着のポケットに突っ込んだ。
「じゃあ」
立ち上がると、彼は寝室のドアを開け部屋を出て行く。
マヤはハッとしたようにベッドから起き上がると、彼を追うように寝室のドアを開ける。
もうリビングルームに彼の姿はない。部屋のドアを開けると、廊下の先に彼の下向きな背中を見つける。
「待って」
彼女の声にピクリと彼の背中が動くが、彼は歩みを止めない。
「待って下さい。待って、速水さん!」
彼の背中に向かってマヤが走る。
勢いよく彼女は背中に抱きついた。
「お願い。行かないで」
彼を捕まえるようにしっかりと腰に腕を巻く。触れた場所から彼の体温と鼓動が伝わってくる。
彼女は彼の背中に顔を埋め、涙した。
「速水さん……速水さん……」
彼女の声は涙に濡れていた。
「どうして泣いている?」
彼が彼女を振り返ると、顔中涙に染まっていた。
「……速水さんを帰したくないって思ったら急に……」
彼女がそう口にした途端、彼が体を折り曲げるようにして、彼女を抱きしめる。
アルコールとコロンの香り包まれ、彼女の胸がキュンとする。
「そんな事男に言うもんじゃないよ。ちびちゃん」
耳元に落ち着いた彼の声が流れた。
「だって、本当にそう思ったから」
洟をすすり上げると、彼を見つめる。
「俺はどうしたらいいんだ?」
困惑した彼の瞳とぶつかる。
「……抱いて下さい」
喉の奥に詰まっていた言葉を口にすると、彼はその言葉を合図にするように彼女を抱き上げた。
「本当にいいんだな?」
彼の問いに今度は間を置く事なく、マヤは大きく頷いた。




 翌朝、目が覚めるともう彼の姿はなかった。
彼女はベッドから起き上がると、自分が何も着ていない事に驚く。
ゆっくりと昨夜の記憶とともに、彼が付けた体の感覚が蘇る。
体中に愛撫の跡が残り、下腹部には違和感があった。
それは確かに速水と一つになった証拠だ。彼は最初から最後まで優しかった。
彼女の体を気遣い、時間をかけて丁寧に愛してくれた。
彼が彼女の中に入った時は思ったよりも痛みはなく、むしろ気持ちが良かった。
頭の芯が初めて知る快楽に何度も震え、行為の最後には彼女は涙した。
「速水さん……」
ベッドの側に脱ぎ捨てられたバスローブを着ると、彼女は起き上がりシャワーを浴びた。
取り返しのつかない事をしてしまった罪悪感に襲われる。
いくら役の為とは言え、婚約者のいる彼に無理をさせた。
マヤはシャワーを浴びながら、ずっと泣いていた。






                                               後編へつづく


【後書き】
どうも。Catです。
久しぶりに速水さんとマヤちゃんが書いてみたくなり、妄想に浸りました(笑)
前編お付き合い頂きありがとうごさいます。タイトルのわりにあのシーンがなかったのでガッカリした方、すみません。
いやぁぁ、その辺はご想像にお任せ致します(汗)
さてさて後編はどうなる事でしょうか。

2012.8.10.


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