ベッドシーン後編


 速水がホテルを後にしたのは午前五時を過ぎていた。
明け方の空には白くて頼りない三日月が浮かんでいる。それをタクシーの窓から眺めた。
 自宅には戻らず会社に向っていた。早朝の外掘通りには大型のトラックが数台走るぐらいで、日中からは考えられないぐらい、道路はガラガラだった。
 赤坂からほんの十分で到着した。正面玄関ではなく、裏の社員通用口の前につけてもらい、タクシーを降りた。
 通用口から入ると、顔なじみの守衛が驚いたような視線を向けてくるが、速水は無言で通り過ぎ、エレベーターに乗った。
扉が閉まり、小さな箱が上り始めると、ため息をついた。胸に浮かぶのはほんの一時間前まで一緒にいたマヤの事だ。
 白い彼女の裸体を思い浮かべるだけで、どうかしてしまいそうだ。何度も追い詰められたような想いに捕まり、好きだと口にしそうになった。
しかし、それは言ってはいけない言葉だと充分過ぎる程承知している。
 ベッドの相手に選ばれたのは、マヤが言ってた通り、偶々相手役と同じ年だった為だ。それ以上の理由は何もない。
決してマヤに好かれている訳ではない。そんな事はわかっている。いつもゲジゲジだの、冷血漢だの言われてるのだ。
なのに、マヤも好意を持ってくれているかもしれないという、甘い期待、いや、願望が胸に沸き上がる。
「……マヤ」
 壁に寄りかかると吐息とともに口にした。
救いようのない程心を持って行かれている事がわかる。
女を抱いたのは初めてという訳ではないのに、妙に切なく、狂おしい。
目を閉じれば声をあげ、必死に耐えていた彼女の事が生々しく浮かんでしまう。
「いかん、しっかりしろ」
その淫らな光景に思わず自分の頬を平手で叩く。
その瞬間、エレベーターの扉が開き、ハッとして、急ぎ足で社長室に向かった。
 当然の事ながら社内には誰もいなく、昼間は社員の行き来をしているフロアは閑散としている。
 赤い絨毯敷きの廊下を突き当たりまで歩くと、社長室があった。
電気を付けると蛍光灯の白すぎる灯りに一瞬、目が眩む。
 黒皮の長い背もたれの椅子に体を預けると、両足をマホガーニのデスクの上に投げ出し、足を組んだ。
その反動で机の上に置かれた何枚かの書類が床に落ちたが、拾う気にはならず、そのままにした。
 考えるように腕を後頭部の後ろで組むと、大きな欠伸が一つ出る。
急に眠気に襲われ、寝てはいけないと、二、三度頭を振るが彼は意識を失った。








「ねぇ、真澄さん」
耳元で声がする。
「寝てるの?」
悪戯するような甘い声に目を開けると、彼は目を丸くする。
「……ちびちゃん」
目の前にいたのはマヤだった。
しかもパジャマ姿で、ベッドに横になっている彼の胸の上に顎を置いて無邪気な笑顔を浮かべている。
「ちびちゃん?懐かしい呼び方ね」
クスリとマヤが笑う。それは彼が今まで見た事のない親しみのある笑みだ。
彼は何が何だかわからない。
「どうしたの?びっくりした顔して」
可笑しそうに笑うと、彼女の唇がチュッと彼の唇に一瞬触れる。
「真澄さん?」
唇を離した彼女が不安そうに眉をハの字にした。
「本当にどうしたの?」
「いやぁ、その、ちょっとびっくりして……」
飲み込めない状況に彼はわけも分からない。
「俺は一体、どうしたのだろう?」
彼の言葉に彼女の顔が泣きそうになり、彼から離れる。
「もういいです。わかりました。真澄さん、今日は疲れているんでしょ?でも、そっちから誘っておいて、知らないふりするなんて酷い。
そりゃ、ちょっと待たせた私が悪いと思いますけど……でも、でも、マコトを寝かせなきゃいけなかったし、マコト、今日幼稚園で何かあったみたいで、
それで真澄さんに叱られたものだから、更にへそをまげちゃって大変だったのよ」
彼女の眉が責めるように少しきつく上がる。
「マコト?」
初めて聞いた名前に彼は動転する。
「最近パパが仕事が忙しいから、すっかりマコトいじけてます。明日はちゃんと親子のコミュニケーション取って下さい。
私は紅天女の公演で明日から福岡ですからね」
彼女はそこまで口にするとため息をついてベッドから起き上がり、戸口に向かって歩く。
「マヤ」
思わずピンク色のパジャマを着た背中に彼は声をかける。
「何?」
彼女が首だけ向く。
「俺たちは……その……結婚して何年になる?」
彼女の話しを注意深く組み立てていくと、導き出した結論はもうそれしかなかった。
「あぁ、酷い。忘れちゃったの?」
彼女がぷっと頬を膨らませる。
「うん……その、ちょっと、いろんな事がわからなくて」
彼の言葉に彼女が眉間に皺を寄せる。
「いや、だから、ここの所仕事が忙しくて、つい、ど忘れをしたんだ」
彼の言葉に彼女の眉間の皺が消える。
「仕方のない人」
口の端を微かに上げると、彼女は背を向けて歩き出す。
「マヤ、どこに行くんだ?」
彼女の後を追いかけるように、ベッドから起き上がり、細い腕を掴む。
「どこって、隣の寝室です。私の方が朝早い時はいつも隣の部屋に行くでしょ?」
彼女の黒々とした瞳に出会い、胸がキュッと掴まれる。
思わず彼女を抱きしめた。石鹸の清潔な香りが鼻をかすめる。
「何?やっぱりするの?」
彼女が苦笑交じりに彼を見ると、彼は反射的に頷いた。
彼女の腕が彼の腰に伸びる。
「私も。だって明日から真澄さんに会えないんだもん」
甘えたような表情で彼女が彼を見上げる。彼にはそれがたまらない。
こらえきらず、彼女の唇にキスする。それは暫く水を口にする事ができなかった、砂漠の旅人のような激しさがある。
「うんっ」
キスとキスの間から吐息が漏れる。その声に彼の体が反応する。
彼女を抱え上げるとベッドに寝かせた。
「5年よ」
唇を離すと彼女が呟く。
その一言に彼はえっと彼女を見つめた。
すると突然、頭痛がする。それは鋭く彼を追い詰める。
「真澄さん?」
マヤがベッドから起き上がり、頭を抱える彼に寄りそう。
何度も心配そうな彼女の声がしたが、彼は答える事もできず気を失った。




「社長!」

鋭い女の声がした。
耳元に響くキーンとした響きで彼女がかなりの大声で叫んでいた事がわかる。
「やっと起きましたね」
目を開けると、サングラス越しに睨む水城の顔があった。
速水はハッとしたように体を動かし、見事に椅子から転げ落ちた。
そして、立ち上がると今目の前にいたマヤの姿を捜すが、そこはいつもの社長室でマヤの気配は一切ない。
「……どうかなさいました?」
水城が不思議そうに速水を見上げる。
「水城君、俺は結婚しているのか?」
速水の問いに水城はこれ以上ない程眉間に皺を寄せる。
「いいえ、私の記憶している限りでは未婚だと思います。まぁ、紅天女の試演が終わったら、紫織様と結婚しますけど」
彼女の一言に速水は全てに合点がいく。
「……やっぱり夢か」
ぼそりと落胆のため息とともに口にする。
妙に生々しくマヤを感じた気がしたが、それは昨夜の事があったからだろう。
「何があったか知りませんが、もう始業時間はとっくに過ぎています」
水城の目が寝起きの速水に鋭くささる。
「あぁ、すまない。今何時だ」
彼は今落ちた黒皮の椅子に座ると、眠そうに目を擦る。
「午前十一時でございます。メインバンクの三友銀行頭取とのランチがございますから、ちゃんとスーツは変えて下さい」
速水の少し皺になったスーツを水城が一瞥する。
「あぁ、わかってるよ。シャワーを浴びてくる」
彼は立ち上がると社長室の隣にあるプライベートルームに入った。
そこは6畳程の広さで、仮眠用のベッド一つと作りつけのクローゼットがあり、その隣はシャワールームになっていた。
よく会社に泊まりこむ事があるので、こういう施設もあるのだ。
プライベートルームで服を全て脱ぎ去ると、彼はシャワー室に入る。
立ったまま頭から熱いシャワーを浴びた。ぼんやりとした頭が段々くっきりとしてくる。
 昨夜もこうして情事の前にホテルでシャワーを浴びた。
先に彼が浴びて、その後にはマヤが入った。
大きすぎるバスローブを頼りなく着る彼女がいつもよりも小さく見えて、彼はどうしようもない愛しさを感じた。
彼が待つベッドの前に来ると彼女は泣きそうな顔をしていた。
何度も何度も彼女に確認したが、決して止めようとはしなかった。
「いかんな」
気がつくと彼女の事ばかり考えていた。そんな自分に苦笑が浮かんだ。
好きでたまらない。今度会ったら果たして正気でいられるのだろうか。バカな事をしてしまうのではないだろうか。
「もうやめよう。過ぎた事だ。ただの仕事だ」
ホテルを出てからずっと呪文のように自分に言い聞かせていた言葉だ。
「俺は冷血漢の仕事虫の速水真澄じゃないか。感情に溺れるなんてらしくない」
シャワーを止め、目の前の鏡を見た。
厳しい表情を浮かべた余裕のない彼がいた。
思いっきり顔を叩いて、頭の中からマヤを追い出した。




 三友銀行頭取とのランチに行く為、青山一丁目にあるフレンチレストランに向っていた。
青山通りを車で走りながら、後部座席から速水は赤坂御用地の緑を見つめる。
この場所から赤坂までは目と鼻の先ほどの距離だった。忘れようと思った昨夜の事が溢れるように浮かび、頭の中はすぐにマヤでいっぱいになった。
 速水は気を落ち着けるように、窓の外に視線を向けて、嘆息した。
「もう三十回目です」
 隣に座る水城がハッキリとした声で言った。
「えっ」
 速水は何の事かわからず、伺うように水城を見た。
「ため息です。会社を出てからもう三十回目だと言ったのです」
 そんなにため息をついていたとは思ってもみなかった。
「何か心配事でも?」
 速水は首を振った。
「なんでもない。大丈夫だ」
 いつものポーカーフェイスを作り、速水はまた窓の外を見て気を静めようとするが、マヤに会いたいという想いは消えなかった。
 目的のレストランに到着し、速水は黒光りするクラウンから水城に続いて降りた。
 重厚な木の扉を開けると、ウェイターが深くお辞儀をしてオーナーを呼びに行った。
 すぐに速水より一回り以上年上のオーナーが現れる。
「速水様、お待ちしておりました。ついさっき相手の方もお見えになりました」
 オーナーに案内され、速水は歩き出すが、二、三歩進んだ所で足を止めた。
「社長?」
 後ろを歩いていた水城が怪訝そうに速水の視線の先を追うと、そこには北島マヤがいた。
 東堂監督と相手役の俳優の三人が窓際の席で何か談笑しながら、料理を楽しんでいた。
「あら、マヤさんも来ていたんですね」
 水城の一言に速水はあぁと素っ気無く口にし、再び歩き出す。案内された個室に入ると、頭取が気さくな笑顔で速水を出迎えた。
 頭取と挨拶を交わし終わると、速水は席についた。
 速水たちのいる個室には窓があり、店内の様子を見る事が出来た。
 偶然にも速水が座った席の正面にある窓からマヤが見えた。何度も口に手をあてて楽しそうに笑うマヤの姿を目にする。
そして、時には信じられないぐらい相手の男優と距離を縮める事があった。
その光景を目にする度に胸に痛みを抱え、速水は目の前のテーブルに全く集中できない。
「社長」
 何度も水城に言われ、ハッとし、相手に謝った。
「本当に申し訳ない。それで今何を」
 速水がそう口にした途端、頭取が笑い出した。
「仕事の虫の速水社長もそんな事があるんですね」
 デザートのクリームブリュレを食べる手を止め、頭取が速水を見る。
「えっ」
 何の事を言われているのかすっかりわからず、速水は眉を上げる。
「まるで恋をしている少年のようだ」
「なっ、僕は別に恋だなんて」
 からかわれているとわかっていても、ついムキになる。
「そういえばご結婚は紅天女の試演が終わってからですか」
 思い出したように頭取が口にした。
「鷹宮紫織さん、美しい人だ。あなたが夢中になるのもわかる気がします。きっと今が一番恋をしている時期でしょうね」
 頭取の言葉がさらに胸を重たくした。
「えぇ。まぁ」
 曖昧に頷いた。
 改めて自分の立場を思い出す。婚約者がいて他の女に心を奪われているなんて人に知られたら、信用は失墜するだろう。
 融資だって危うくなるかもしれない。そう思ったら冷静にならなけれぱいけないと感じた。
「失礼、少し頭を冷静にして来ます」
 速水は立ち上がり個室から出た。何となくマヤがいた方の席に視線を向けた。
マヤたちの姿はいつの間にかいなくなつていた。ガッカリしたような、ホッとしたような気分だ。
「どうかしてる」
 深呼吸一つして、手洗いに行こうとした時、声が掛かる。
「あら、速水さんじゃない?」
 気安く声を掛けて来たのは東堂夏子だった。
「奇遇ですね」
 表情を引き締め、赤いパンツスーツ姿の東堂を見た。その隣には紺色のワンピースを着たマヤがいた。二人だけだった。
「はっ、速水さん、こんにちは」
 マヤが軽く頭を下げた。
「やぁ、ちびちゃん」
 いつもだったらここで嫌味の一つでも口にするが、マヤを目の前にして何て言ったらいいのかわからなくなる。
二人の間に沈黙が横たわる。その空気を察したように東堂が笑う。
「なんだ。そういう事か。マヤちゃん目的は達したんだ。良かったわね」
 東堂の言葉にマヤが顔中を赤面させ、俯いた。
 東堂の態度にイラッとした。
「今言う事じゃないだろう?」
「私、何か不味い事言ったかしら?」
東堂が気の強そうな瞳で速水を見上げる。
「失礼する」
速水は二人に背を向け、個室に戻る。
とてもじゃないが東堂とやり合う気力は残っていなかった。





 それから一週間後、速水は東堂から電話をもらった。
その内容はベッドシーンの撮影にてこずっていて、撮影が進んでいないというものだ。
「それが俺と何か?」
 社長室で電話を取った速水は頬杖を付きながら話を聞いていた。
「それでって、随分他人事ね。それもあなたのやせ我慢なのかしら」
 言葉の後にクスリと笑う東堂の声が聞こえ、バカにされたような気がして今すぐ電話を切りたくなる。
「忙しいんです。大した用がないなら切ります」
淡々とした調子で言うと、「待って」と慌てた東堂の声が聞こえた。
「今から撮影スタジオに来て欲しいの。気持ちを立て直すのはあなたじゃないとダメなのよ」
「今から?」
 時計を見ると午後八時を回ろうとしていた。
この後は銀座の高級クラブでの接待が控えている。
「そうよ。今来ないと彼女、女優としてダメになるわ。救えるのはあなたしかいないのよ」
 東堂は一方的に電話を切った。
「勝手な女だな」
 苛立ちをぶつけるように乱暴に受話器を置いた。段々マヤの事が気になってくる。だが予定もある。どうしたものか。
「社長そろそろお時間です」
 机の上のインターホンから水城の声がした。
「あぁ、わかった今行く」
 迷いを断ち切るように立ち上がり、ハンガーに掛けてあったチャコールグレーのスーツの上着に袖を通した。
鏡の前に立ち身なりを整えながら、東堂の言葉を考える。
――女優としてダメになる
その一言が引っかかって仕方ない。
「だが、俺に何ができる」
鏡の中の自分に問うが、答えはわからない。
それでも、彼女の役に少しでも立てるなら行くべきだと思う。
しかし、今彼女に会ったら、歯止めが利かなくなり、バカな事をしそうな自分が怖かった。
「どうすればいい」
 胸がキュッと締め付けられる程切なかった。まるで恋愛映画の主人公になったような自分に笑えてくる。
「こんなの俺らしくないな」
鏡の中の自分に向かって笑い、社長室を出た。
予定通り銀座に向かった。






 翌日出社すると、朝一番に東堂から電話がかかってきた。
「あなたのせいで、昨日どれだけマヤちゃんが泣いていたかわかる?」
 いつもの人を食ったような余裕はなく、いきなり責めるような調子だった。
 速水はコードレスフォンを持って椅子から立ち上がると、窓の外の景色を見つめた。ビル街と青空が見える。
遠くには東京タワーが見え、幼い頃母に一度だけ連れて行ってもらった事を思い出した。
「どうしてマヤが俺のせいで泣くのです?俺は彼女の望む通りの事をした。他に何をしろと言うのですか」
「あなた本当にわからないの?」
 東堂の言葉に眉を上げる。全く話が見えて来ない。
「何がです?」
「相当な鈍感ね。わかったわ。もういい。あなたとこれ以上話しても無駄ね」
 電話がブツリといきなり切れた。
「一体何だったんだ?」
 ツーツー言っている受話器を見つめ速水は眉を潜めた。
 それからいつも通りに一日を過ごし、午後7時に退社した。今夜は紫織さんとの約束がある。
週に一度は紫織さんの日があった。この日程憂鬱な事はない。
決して彼女の事は嫌いではないが、会う度に価値観のズレを感じるのだ。
「はぁ」
 息を漏らし後部座席から窓の外を眺めた。
丁度雨が降り出した。歩道を歩く人々は慌てた様子で走り出したり、雨宿りをする場所を見つけていた。
信号待ちの時にその様子を何となく見ていると、走り出す訳もなく、雨宿りする訳もなく歩く一人の女性の姿に目が留まる。
「……マヤ」
ハッとした。
「停めてくれ」
 考えるよりも先にそう運転手に指示を出していた。
 赤信号から青に変わり走り出そうとしていた車は慌てて、路肩に車を寄せる。
 速水は何も持たずに車から降りると彼女に向かって走った。雨脚がさっきよりも強くなる。
「マヤ」
 小さな肩に触れると、驚いたようにマヤが振り向いた。
頭からつま先までずぶ濡れになったTシャツにジーパン姿の彼女はきょとんとした表情で見上げていた。
 速水は躊躇う事なくスーツの上着を脱ぐと彼女の頭に被せ手を引っ張って走り出す。
「すまない。予定を変更する。青山のマンションにやってくれ」
 彼女を連れて後部座席に座ると、運転手に指示を出した。車が静かに発進する。
 速水は冷たくなったマヤの手を握ったまま放さなかった。
「速水さん」
 不安そうにマヤが視線を向けた。
「君はバカか!雨の中傘もささずに幽霊のように歩いて」
 苛立ちがこみ上げる。
「今映画の撮影中だろ?風邪でもひいたらどうする?健康管理も役者の仕事のうちだろ!」
 マヤは俯いたまま説教を聞いていた。
その姿が泣いているように一瞬見え、速水はドキリとする。少し強く言い過ぎたかもしれない。
「いや、だから、気をつけなさい」
 その一言を最後に速水は黙り込み窓の外を見つめた。
景色はよく知っているものにいつの間にか変わっていた。
 十四階建ての白い建物の前で車が停まる。さっきよりも雨は弱くなっていた。
「ありがとう。君は今夜はもう帰っていいから」
 運転手にそれだけ言うとマヤと繋いだままになった手を引っ張り車を降りた。二人を降ろすとすぐにクラウンが走り出した。
「ここに俺の部屋があるから」
 速水が歩き出す。マヤは引っ張られるような形で後に続いた。
オートロックのドアをくぐり、エレベーターに乗ると11階のボタンを速水が押す。
ウィーンと音を立ててエレベーターが上り始める。
「あの、速水さん」
 マヤが小さな声で言った。
「何だ?」
「放してくれませんか?」
 マヤが繋がれた左手を見つめる。速水は無意識にマヤと手を繋いでいた事に気づいた。
「あっ、すまん」
 慌てて手を放すと、照れくさくなった。
 エレベーターが11階で止まり、二人は降りた。速水の部屋は一番奥にあった。
 玄関ドアの鍵を開けて、中に入ると大理石の玄関でマヤが恐縮たように立ったままでいた。
「何してる?早く入りなさい」
 上がり框から促すようにマヤを見た。
「あの、でも、いいんですか?」
 マヤが躊躇うような視線を向けた。
「いいも悪いも、ここには俺しかいないから誰にも遠慮はいらない。早く冷えた体を温めなさい。着替えは適当に用意しておくから」
 マヤはおずおずと靴を脱いでやっと上がった。そのままバスルームに案内した。
「脱いだものはここに入れておいて、タオルはこれを使って、バスローブもここにある」
 説明を聞きながらマヤが頷いた。
「じゃあ、ごゆっくり」
 速水は洗面所から出ると、扉を閉めた。
 速水は隣の寝室に行き、濡れた服を脱いだ。
白いワイシャツと新しいスーツのズボンだけをはき、濡れた髪をタオルで拭きながら奥のリビングに行った。
 立ったまま携帯電話で鷹宮紫織に電話をした。
「紫織さん、申し訳ない、急な仕事が入ってしまって今夜は行けません。この埋め合わせは後日必ずしますから」
 話しながら、キッチンに行き冷蔵庫から500ミリのペットボトルに入ったミネラルウォーターを取り出した。
「えぇ。どうしても今夜は無理なんです」
 紫織は中々速水を放さなかった。
 三十分近くやり取りをして、やっと紫織が速水を解放する。
「本当にすみません。えぇ。明日ですか?そうですね。わかりました。必ず時間を作ります」
 正直、マヤが出てくる前に電話を終わらせたかったので、紫織の言葉に速水は応じるしかなかった。
「えぇ。では明日。おやすみなさい」
 電話を切ると、フーッとため息をつき、左手に持ったいたペットボトルを口にする。喉が乾いていた。
「あの、お風呂ありがとうございました」
 後ろからか細い声がした。
 振り向くと、バスローブ姿のマヤがいた。そんな彼女を見たのは二度目だ。
 思わず手が伸びそうになる寸前で、引っ込めた。
「早かったな。いや、普通か」
 速水がクスリと笑うと、マヤも曖昧な笑みを浮かべる。
「今、乾燥機回してくる。二時間で乾くから、それまで、ここにいなさい」
 バタバタとマヤの前を通り過ぎ、洗面所の洗濯機と一体型になった乾燥機の電源を入れた。
 マヤの姿を見た瞬間から、胸が鼓動を早めていた。つくづく彼女に惚れているのだと思う。こんな感情紫織には一度も感じた事はなかった。
 壁に寄りかかり、ため息をついた。感情に溺れそうになる自分がいた。
 さっき車からマヤを見つけた時は、理性の半分はどこかにいっていた。普通に考えれば婚約者がいる男がマンションに女を連れ込むなんてどうかしている。
 バスローブ姿のマヤを見た時、残っていた半分の理性も吹き飛びそうになった。無理矢理にでもマヤを抱きたい。そう思った自分にハッとした。
「何を考えているんだ。俺は」
 頭を振り、呼吸を整えてから速水はマヤが待つリビングに戻った。
 マヤはソファの前でどおしたらいいかわからないというように立っていた。その姿に思わず笑ってしまう。
「立ってないで座ったらどうだ」
 ビクッと肩を揺らし、マヤが振り向いた。マヤに警戒されている気がして、気まずくなった。
「何か飲むか?水とコーヒーしかないが」
 動揺と下心を隠すように速水はキッチンに行く。
「あの、じゃあ、お水を下さい」
 マヤの注文に彼は自分が飲んでいたのと同じ銘柄のミネラルウォーターを冷蔵庫から取り出した。
それをコップに注ぎソファに不安げに座っているマヤの前のテーブルに置いた。
「どうぞ」
 彼女との間に一人分のスペースを空けてソファに腰を下ろした。
「いただきます」
 彼女が白い手でコップを持ち、礼儀正しそうに口にする。
 思わずその唇に目がいく。イチゴのような赤い唇。程よく肉厚があって触れると想像した以上に柔らかかった。
「私の顔に何かついてるんですか?」
コップをテーブルの上に置くとマヤは彼を見る。
「いや、別にそういう訳ではないのだが」
もう理性は吹っ飛ぶ寸前だった。マヤに見つめられただけでどうかしてしまいそうだ。
「ごめんなさい。今夜は紫織さんと予定があったのに」
マヤが瞳を伏せる。
「聞いていたのか」
「すみません」
「気にしなくていい。君は金の卵なのだから、これも仕事のうちだ」
わざと心にない事を口にした。そうしないと今にもマヤに手が伸びそうだった。
バスローブ姿のマヤに胸がドキドキしている。その下に何もつけていないと思うと冷静ではいられない。
「……そうですよね。私は速水さんにとって金の卵なんですよね」
 マヤは唇を噛み締め、傷ついたような目を向けてくる。
「あぁ、そうだ。それ以上の気持ちはない」
 マヤが悲しそうに笑う。
「わかってます。この間の事も仕事のうちですよね。私だけバカみたい。もしかしたら少しぐらい私に気持ちがあるのかもしれないなんて、動揺して」
 笑ったマヤの顔に涙が浮かんだ。
「本当にバカみたい。そうですよね。速水さんにはステキな婚約者がいて、私なんか全然子供で」
 言葉の最後は涙で声が震えていた。
「本当にバカですね」
 マヤが人差し指で涙を拭う。
 思わず抱きしめたくなるが、ぐっと堪えた。
「でも、後悔はしてません。映画は降板する事になりましたけど」
 降板の言葉に眉を上げる。
「降板てどういう事だ?」
「ベッドシーン撮れなかったんです。NG百回も出して、とうとう監督に無理だと言われました」
 信じられなかった。どんな難しい役でも入り込むのが彼女だ。ましてその為に文字通り体を張ってあんな事までしたのだ。
「君はそれでいいのか!」
 急に言いようのない怒りがこみ上げてくる。
「いいんです。私も今回だけはできません」
 マヤはもう泣いてはいなかった。
「でも、それじゃあ、君、俺とあんな事までして……」
 ホテルの部屋まで取ってマヤをけしかけた東堂が許せない。
「俺から東堂監督に話をつける」
 テーブルの上に置いたままになっていた携帯電話に手を伸ばす。
「やめて。いいんです。本当にいいの」
 マヤの右手が止めるように重なった。
その瞬間、抑えていたものが全て飛び出して行くのがわかった。
「マヤ」
 彼女の手を掴み引き寄せると、華奢な体を抱きしめる。石鹸と彼女の香りに眩暈がした。
彼女が抵抗するように体を強張らせたが止められない。
感情のまま唇を奪い、バスローブの中をさまようように右手を忙しなく動かした。
「いやっ、やめて、あっ……」
抵抗するようなマヤの声が段々艶やかな嘆息に変わる。
ソファの上に押し倒し、あらわになったマヤの白い肉体に唇を這わせる。
くっきりとした鎖骨から、小さな肩、そして小ぶりだが、形の整った胸の先を口に含むと、マヤが「あっ」と声を漏らした。
抵抗し、強張っていた体が静かに開かれていく。
マヤは快楽の波に耐えるようにソファの肘掛の部分を掴んだ。
きつく目を閉じた表情が彼の気を狂わせ、更に彼女を攻め立てる。
バスローブの紐を取ると、彼女の全ての部分が露わになった。
彼は彼女の下腹部から下の部分を舐めた。
「いやっ、やめて」
 吐息交じりに彼女の声が聞こえたが、今更やめる事なんてできない。
強引に閉じられた太腿を開くと、その間に何度も触れる。
「やめて、やめて、いやっ!」
 彼女の声が悲鳴のように響き、本気で嫌がってるのがわかった。
マヤの顔を見ると、涙がたまった怯えきった瞳があった。罪悪感で胸がいっぱいになった。
マヤの肌蹴けたバスローブの前を閉じて、彼女から離れた。
 マヤは起き上がり、背を向けるようにソファに座った。しくしくと泣く声が聞こえてくる。
「……ごめん。俺が悪かった」
 マヤを泣かせてしまった事に心苦しくなる。
 隣に座り、宥めるようにそっと肩に手を置くと、拒絶するようにビクッとマヤが体を震わせた。完全に恐れているのが伝わった。
すぐにマヤから離れ、ソファから立ち上がった。
「隣の部屋にいる。もう君に嫌な思いはさせないから」
 リビングから逃げ出し、寝室のベッドに頭を抱えて座った。
 なんて事をしたのだろう。自分が世界一最低な男に思えた。
 これ以上ない程落ち込んでいると、トントンと控えめにドアを叩く音がした。
「マヤか?」
「はい」
 ベッドから立ち上がり、ドアを開けようとノブに触れる。
「あっ、開けないで。そのまま聞いて下さい」
 ノブを掴もうとした所で手の動きを止めた。さっきの事があって彼女が自分を怖がっているのだと思う。
「わかった」
 返事をすると彼女が静かな声で話し始めた。
「……さっきは、すみませんでした」
「いや、俺こそ、最低だった。君の気持ちも考えず酷い事をした。俺は本当に最低だ」
「いいえ、そんな事ないです。元々私がいけないんです。速水さんに抱いて欲しいなんて無理な事お願いしたから。
それで役を降ろされるんですから、速水さんにしたら、私に振り回されただけですよね」
 マヤの微かな笑い声が聞こえる。
「どうしてできなかったんだ?ベッドシーン」
 マヤから返事はなかった。代りに聞こえて来たのは鼻をすするような音だった。
 泣いてるのかもしれない。
「すまない。言いたくない事なら答えなくていい。俺はデリカシーがないな」
 その場を取り繕うと笑うが、マヤからは何も返って来ない。
「ちびちゃん?」
「ごめんなさい。ちょっと胸がいっぱいになって」
「悔しいよな。役を降ろされるなんて」
「はい」
 涙声でマヤが言った。
「でも、北島マヤのままでいた私がいけないんです。速水さんに愛された体を他の人にどうしても触られたくなかったんです」
 まさかという想いが膨れ上がる。
「私、バカでしょ?速水さんにとってはただの仕事のうちなのに、こんな感情を持って……。
速水さんには婚約者がいて、私の事なんて何とも思ってないのに。でも、それでも私は速水さんを……」
そうマヤが口にした時、ドアを開けた。
「速水さん!」
バスローブ姿のマヤが黒々とした瞳を見開いた。
「もう俺の負けだ。ちびちゃん、いや、マヤ」
 大事な宝物に触れるようにそっとマヤの頬に触れた。
「好きだ。マヤ」
ハッキリとした声で告げると、信じられないものでも見るような目をマヤが向けてくる。
「……うそ」
「嘘じゃない。だいたい仕事だと割り切って女を抱ける程俺はストイックじゃない。気持ちがなければできない。わからなかったか?」
 マヤの頬が微かに赤らんだ。
「マヤを抱いたあの日から俺は自分の気持ちに偽れなくなった。自分でもこんなに感情に振り回されたのは初めてだ。
11歳年下の君を俺は本気で好きなんだ。今こんな事を言うべきではないのはわかっている。
紫織さんとの婚約を解消したら、君に全てを打ち明けるつもりだった。でも、君の言葉を聞いたら言わずにはいられなかった」
 マヤの瞳がまた涙で埋まる。
「私も、私も……速水さんが好き」
鼻をすすりあげながら、マヤが口にした。胸が熱くなり彼女をギュッと抱きしめる。
「好きで仕方がないの」
 マヤが真剣な眼差しで見つめてくる。
「俺を待っていてくれるか?全てが片付いたら必ずマヤを迎えに行く」
 涙ぐみながらマヤが大きく頷いた。
「ありがとう」
 約束の印にマヤの額に口づける。その時、洗面所の方からこの場にあわない乾燥機の軽快なメロディが流れて来た。
 マヤと顔を見合わせて思わず笑ってしまう。
「乾燥が終わったんだ。今取って来る」
 止めるようにマヤに手を掴まれた。
「それはちょっと、恥ずかしいから自分で取りに行きます」
 マヤが顔を赤らめ、もじもじとする。
「だって、ほら、今日はその、普段のよれよれになった下着とかだったし」
マヤの言葉にぷっと速水は笑い、そう言えばこの間の夜は彼女にしては大人っぽい物を付けていたと思い出す。
「そうかな。君が言う程よれよれではなかったような気がしたが」
「あっ!速水さん見たの!」
「見たというか、乾燥機のスイッチを入れる時にイチゴ模様のパンツが見えただけだ」
速水の言葉にマヤがゆでタコのようになる。
「もうっ!速水さんのエッチ!」
 マヤがぷいっと背中を向けてリビングから出て行った。そんなマヤが可笑しくて声を上げて大笑いした。
「もう速水さん、笑い過ぎです」
 釘を刺すようにマヤが洗面所から顔を出した。
それが可笑しくて更に笑い転げた。こんなに笑ったのはいつ以来だろう。




外に出ると雨上がりの月が出ていた。
車で送って行くつもりだったが、マヤが歩きたいと言ったので、駅まで送る事にした。
「三日月ですね」
 隣を歩くマヤが目を輝かせる。
「君は何でも嬉しそうにするな」
 速水は目を細めて彼女を見る。
「だって、好きな人と一緒だから」
何気ない彼女の一言に彼は甘い胸のうずきを覚える。
「マヤ」
「はい?」
「さっきの続きはいつしようか」
 彼女がまた赤面する。
「もう、速水さんのエッチ」
頭から湯気を出しながら彼女が口にすると彼はまた声を上げて笑う。
そんな彼の腕を彼女が取って引き寄せると、彼の耳元で囁く。
「……今度会った時に」
思いがけない言葉にドキリとする。
「あっ、速水さんでも顔が赤くなるんですね」
 お返しとばかりにマヤが笑う。
「違う、これは別に赤くなっている訳じゃなくて……だから、その……」
 図星だったので、何と反論したら良いのかわからない。でも、こんな無邪気な会話が楽しかった。
「じゃあ、今度会った時はイチゴがいい」
 彼女の耳元に唇を寄せて言うと、マヤがまた赤くなるが、怒る訳もなく、彼を見上げて頷いた。
そして、手を繋ぎながら駅までの道のりを歩いた。


                                                    終り








【後書き】
どうも。Catでございます。ここまでお付き合い頂きありがとうございます。
マヤちゃんよりも速水さんを書くのが好きなんだとつくづく思います(笑)
二人の今度について書いてみようかなと、少し思っています。でも、地下室ネタになってしまいそです(汗)
読んで下さった皆様の声があれば頑張ります(笑)
最後までお付き合い頂き本当にありがとうございました。

2012.8.21
Cat

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