2011.8.7 up


風邪ー2nd day-



 今朝目を覚ますと、彼女がいた。
彼女というのは月影千草の弟子にして紅天女候補の少女だ。
俺はまた夢の中にいるのではないかと、椅子に座ったままベッドの端で眠る彼女の顔を見た。
意外と睫毛が長いんだなと、その寝顔をしげしげと見つめながら思う。
熱にうかされながら、何度か彼女の声を聞いた気がした。
「速水さん、大丈夫ですよ。私がいますから」
そう何度か彼女の声を聞いた気がする。そして、俺の手も励ますように力強く握ってくれた。
そのおかげでスッキリと眠れ、まだダルさはあるが、気分はいい。
「ありがとう」
そう口にし、俺は彼女の艶やかな黒髪を撫でた。
こうして眠っている彼女を見ていると、微笑ましい気分になる。
いつも一生懸命舞台と向き合う彼女。
そのひた向きさが、俺の心を捕らえて離さない。
俺も彼女のように情熱を注ぐ事が出来る何かがあるだろうかと、13の彼女に会った時から考えるようになった。
彼女が役にぶつかっていく姿に何度も魂が激しく揺すぶられる思いをした。
この子は天才だ。
演劇界の宝だ。
それを俺はいつも忘れてはならないと思う。
遠からず演劇に関わる人間として、彼女をガラスケースにでも閉じ込めて、大事に飾って置きたいと思うのだが、
そんな事を言ったら彼女にパンチをもらうのは間違いないだろう。
思わず苦笑が漏れる。
「こんな所で寝てたら、風邪引くぞ」
そろそろ起こす頃合かと思い、思い切って声を掛ける。
彼女の形の良い眉がピクリと動き、小さな唇が「うーん」と、声を漏らす。
そして、彼女が突然驚いたように顔を上げた。
次の瞬間、ゴツンと音がして、顎に痛みが走る。
彼女の頭と俺の顎がぶつかったようだ。
「す、すみません」
彼女が消えそうな声で謝る。俺は右手で労わるように顎を撫でた。
いつもだったら、これぐらい咄嗟に避けるのだが、風邪のせいか、彼女のせいか俺は反射神経が鈍っていたようだ。
「今、何か冷やすもの持って来ます」
慌てて彼女が椅子から立ち上がろうとするので、俺の左手で彼女の右腕を掴んだ。
「いい。君の石頭には驚いたけど、大丈夫だ」
顎を撫でながら笑う。
痛みは段々小さくなって来た。
「本当にすみません。私っていつもそそっかしくて」
彼女は額を膝につけるように深く頭を下げた。余程悪いと思ったのだろう。
その光景に思わず微かな笑みが零れる。
「そんなに深々と頭を下げなくてもいいよ。君がドジなのはよく知ってる」
俺の言葉に予想通りのキツイ視線がかかる。
本当に素直過ぎる反応で面白い。
このまま彼女をずっと空かっていたいが、今日は確か金曜日。彼女は学校があるはずだ。
「そういえば、もう学校に行く時間じゃないのか?」
俺の言葉に思い出したように彼女が時間を確認する。
彼女が眉を上げ、今にも『遅刻だ』と叫び出しそうな顔をする。
もう少し早く起こしてあげれば良かったかと、反省はしないが。
「俺が車で送ってやりたいが、まだちょっとフラつくからな。タクシーを呼ぼう」
本当だったらこの手で送ってあげたいが、体中に残るダルさにまだ運転する自信はない。
ここは素直にプロに頼むのが筋だろう。
会社で利用しているタクシー会社の番号は携帯電話に登録してあった。
すぐに電話すると、頼みごとを一つして俺は電話を切った。
「5分後に来る。顔ぐらい洗えるだろう」
彼女は俺の言葉を聞くとバタバタと寝室を出て行き身支度を始めた。
本当に見ているだけで、騒がしい子だな。と、心の中で呟き、鬼の目のないうちに俺はベッドサイドに置かれた引き出しから、
愛用のマイルドセブンと、ライターを取り出した。
ベッドから起き上がると、一瞬立ちくらむが、歩けない訳じゃない。
いつもよりもゆっくり窓の方へ歩き、ガラガラと窓を開け、ベランダに出た。
 14階からの景色が広がる。
東京湾側に灰色の雲に突き刺さるように立つ朱色の東京タワー、
体を左側に向けると明治神宮外苑の黄色に染まった銀杏並木が見えた。
その奥には広大な赤坂御用地の紅葉が見える。
青山通りから一歩中に入ると、閑静な住宅街が広がる。
この場所は都内であっても自然に囲まれた景色を楽しむ事が出来た。
だから、ここに俺はマンションの一室を持つ事にした。
毎日無機質なコンクリートに囲まれた場所にいると、緑が恋しくなるのだ。
この部屋には一月に数日しか帰らないが、一人になりたい時、伊豆の隠れ家に帰れない時に利用する。
 ベランダに置かれた椅子に座り、煙草を噴かす。白く細い煙が曇り空に飲み込まれるように昇っていく。
朝起きた時のこの一服が堪らなく美味しい。ぼんやりとした脳が活発に動き出す。
熱が少しあるせいか、薄手のパジャマ姿でも寒くは感じなかった。
頬を冷やりと撫でる風が却って心地よいぐらいだ。
煙草を銜え、両手を後頭部の後ろで組み都会の喧騒にしばし耳を傾けた。
すると、突然、現実に引き戻されるようにガタンという音がする。
ハッとし、煙草を銜えたままベランダの窓を開けると、寝室の戸口に彼女が立っていた。
「まだ、いたのか?」
もうとっくにマンションを出て行ったと思っていので、少々驚いた。
「そんな体で何してるんですか!」
俺の問いには答えず、彼女はジロリと睨み返すように見る。
冷やりとした汗を心でかく。
こっそり煙草を吸っていたのを学校の先生に見つかるのは、こんな気持ちではないだろうか。
そんな事を考えながら銜えていた煙草の灰が落ちそうになっていたので、左手で近くの棚の上に置いてあった灰皿を取った。
「何って、一服してただけだ。寝起きはいつも煙草がないとダメなんだ」
灰皿の上で煙草をもみ消し、彼女を見ると、
ツカツカと大股で寝室を歩き、俺の目の前で立ち止まった。
そんなに怖い顔をして何をするのかと、次の彼女の行動を見る。
あっという間に俺から灰皿を取り上げ、元の場所にドンと大きな音を立てて置いた。
そして、俺を見上げ、爪先立ちになると、手を伸ばし俺の額に触れた。
あまりにも不意に触れられたので、胸の奥がくぅーと、締め付けられる。
何だか急に体が熱くなる。
「熱い!」
彼女が大きな声で口にする。
そんな事言われなくてもわかっている。
君がそんな意地らしい行動をするからだと、言ってやりたかったが、
11才年下の高校生に大都芸能の冷血漢が熱を上げているなんて、口が裂けても言えなかった。
「速水さん、あなたは病人なんですよ!寝てなきゃダメでしょ!」
気が遠くなりそうな大声で彼女が言う。その威力につい、足元がよろけてしまう。
倒れる事を防止しようと、咄嗟に彼女の右肩に捕まった。
「ちびちゃん、こんなに近くにいるんだから、そんなに大きな声を上げなくても」
肩に手を置いたまま少し彼女の顔を近づけるような格好でそう口にする。
「だって、速水さん、全然病人の自覚ないんだもん。とにかくベッドに戻りましょう」
彼女は何を思ったのか肩に捕まった俺の手をがっしりと掴むと、体の向きを変えて歩き出した。
俺は引っ張られ、抵抗する理由もなかったので、そのまま従う事にした。
すると突然、彼女が何かに躓きベッドに倒れた。
引力に引っ張られるように俺も彼女の上に覆いかぶさるように倒れる。
「ごめん。大丈夫か」
小さな彼女を潰してしまいはしないかと、慌てて顔を上げた。
彼女の長い髪はベッドの上で乱れ、何だか淫ら気分にさせられた。
「あっ、はい。大丈夫です。速水さんこそ・・・」
彼女が苦笑を浮かべ、俺を見る。
不意に視線が合った。
胸に雷が落ちたようなビリッとした強い衝撃が体中を駆け巡る。
このまま彼女が欲しい。この白くて小さな体を狂う程抱きしめ、俺の物にしたい。
そんな不埒な願望が胸に占める。
彼女を見ると、黒くて大きな瞳が驚いたように俺を捕らえていた。彼女の瞳から目が離せない。
このまま唇を重ねたら、彼女はどんな顔をするだろうか。真紅の薔薇のように赤い唇が俺にそんな事を思わせる。

ピンポーン!

その時、インターホンが鳴った。
そこで俺は正気に戻り、弾かれたように彼女から離れた。
良かった何もしなくてと、胸を撫で下ろした。
「きっと、タクシーが来たんだ。ちびちゃん、行っておいで」
努めて冷静に口すると、俺はベッドの端に座ったまま彼女を見た。
「・・・行ってきます」
という言葉を残して彼女は俺の部屋から消えた。
俺はバタリとベットに倒れ、フーッと息を吐いた。
「高校生相手に俺は何を考えているんだ」
あそこで襲っていたら、世間の援助交際をしている輩と同じになってしまう気がして、これ以上ない程落ち込んだ。
全ては風邪のせいだ。
それで妙に彼女が色っぽく見えただけだと、何度も自分に言い聞かせ、午前中いっぱい俺はベッドの中で眠った。
そして、夢を見た。
それが夢だとわかったのは、彼女が、マヤが俺の唇にキスをしたからだ。
間違っても俺の知ってるいる北島マヤは噛み付きこそすれ、キスなんかしない。
重なった唇が妙に柔らかくて俺を追い詰めた。
あぁ、このまま彼女から制服を剥いで、陶器のように白い肌に触れてみたい。
そう思い、何かに突き動かされるように俺は彼女のブラウスに手をかけボタンを外そうと・・・した。

「やっぱり夢か」
そこで都合よく目が覚める。
パジャマがぐっしょりと濡れていた。バケツ一杯分ぐらいの汗をかいたみたいだ。
気持ちが悪かったので、俺はクローゼットから着替えを出すとバスルームに向かいシャワーを浴びた。
「なんであんな夢」
熱いシャワーを浴びながら呟く。
口にした途端生々しく夢の出来事が思い出された。
「いかん。いかん」
頭を振り払い、無理矢理その考えを押し消す。
彼女をいかがわしい妄想の対象にしてしまう事が許せなかった。
俺にとってあくまでも彼女は演劇界の宝なのだ。金の卵なのだ。
そう頭ではわかっているのに、どこか満たされない思いがあった。
「もうやめよう。こんな事考えるの」
15分でシャワーを終わらすと、新しいパジャマに袖を通し、リビングのドアを開けた。
「速水社長、おかげんはいかがですか?」
意表をつくようにキッチンから声がする。
俺は一体誰だと、訝しげに対面式キッチンの前に立つ人物を見た。
紺色のスーツの上に白いエプロン付け、銀縁のメガネを掛けた我社の優秀な社員の顔があった。
「東野君か」
俺はダイニングテーブルの周りに四脚置かれた一つの椅子に座った。
彼女は企画部の社員だ。
そういえば昨日社を出る前に企画書を持って来たが、時間がなかったので社に戻ってから読むと約束をしていたのだ。
こんな所まで俺を訪ねて来るとは仕事熱心というか、融通が利かないというか・・・。
「どうやって入ったんだ?」
俺は少し棘を含ませ尋ねた。
「水城さんから借りて来ました」
東野は合鍵をエプロンのポケットから出してチラリと見せる。
「本当は水城さんが様子を見に来たかったのですが、どうしても今日は外せない用があるとかで、
私が代理を頼まれました。とりあえず栄養ドリンクなど買っておきましたが、他に何か必要なものがあれば言って下さい」
東野君の事は水城君も目をかけていた。それだけあって何となく水城君二号という雰囲気を持っていた。
「そうか。昨日の企画書を持って来たのではないのか」
俺はテーブルに頬杖をついて彼女を見た。
「ご心配なく。ちゃんとこちらも持ってまいりました」
そう言い彼女がどこから出したのか、A4サイズの紙の束を俺に見せた。
「抜け目ないな」
こういう所は彼女の良い所でもあるが、やる気があり過ぎて少々強引な感じがする。
「でも、風邪が治ってからでいいですから。今ビーフシチューを作ってます。お昼の分と夕食の分になるように多めに作っておきます」
屋敷から人を呼んで家事でもしてもらおうと思っていた所だったので、それはありがたかった。
「ありがとう」
俺は彼女の気遣いに素直に礼を言った。
「いいえ。お口に合えばいいのですが」
いつも硬い表情の東野君が、口元を少し緩める。
普段は冷たい美人というイメージだが、笑うと可愛い印象になる事を知った。
「そうだ。社長。お薬飲んでますか?」
思い出したように東野君に言われ、そういえば今朝から何の薬も飲んでなかった事を思い出した。
「やっぱり、忘れてましたね」
東野君は手際よく俺の目の前にグラスに注いだ水と、昨日医者から処方された薬が入った袋を置く。
「こういう物はあまり好きではない」
小さい頃上手く錠剤が飲み込めず、死ぬ思いをした事がある。
それ以来錠剤を見ると微かな拒絶反応が出てしまう。
「そんなワガママは通用しません。社長が薬を飲む所をちゃんと見届けるようにと、水城さんに言われてます」
やれやれ、水城君も俺の事はお見通しのようだ。
「わかったよ」
俺は抵抗するのを諦め錠剤を手にし、飲み込もうと口の中に入れ、すぐにグラスを掴んだ。
その時、ピンポーンとインターホンが鳴る。
そして、水を飲んだ時に東野が言った「北島マヤさんがお越しです」という言葉に咽た。
涙目になりながら、一頻り咳を出し終わると、東野を見る。
「あぁ。通してくれ」
動揺を悟られまいと、硬い表情を作ったが、俺を見て東野がクスリと笑った気がした。
俺はいじけるようにリビングに移動し、革張りのソファに身を預けるように横になった。
少しすると東野に案内され、彼女が入って来る。
「やぁ、ちびちゃん」
俺はゆっくりと身を起こし、彼女に声を掛けた。
今朝見たのとは違う服装だ。
灰色のパーカーにジーパンという出で立ちは普段着の彼女らしさが出ている。
個人的には制服姿の方が可憐な感じがして好きなのだが、そんな事を言ったらまた彼女に怒られそうだから、口にはしなかった。
「速水さん、起きてて大丈夫なんですか?」
彼女は心配するように俺に駆け寄り、額に触れた。
小さな手に触れられ、また胸がドキンと大きな鼓動を上げた。
大の大人のくせに情けない。俺は一体どうしてしまったのか。
それよりも、彼女が俺を心配してこの部屋に帰って来てくれた事が意外だ。
俺はゲジゲジだの、冷血漢だのと彼女に言われてきたはずなのに、一体どうしてこんなに彼女が優しいのだろう。
そう思いながら、彼女を見ると、何か落ち込んだように東野を見ていた。
「ちょっと目を通さなければならない書類があってね。そこにいる東野君に届けてもらった所だ」
あくまでも仕事上の付き合いだと言う事をハッキリとさせたくて、少し嘘をついた。
その瞬間、彼女の表情が曇り空から晴れに変わったように見えた。
まさか、彼女は嫉妬してたのか?
でも、どうして?
今日の彼女はなんでこんなに読めないのだろう。
「ところで、君はどうしてここに?」
俺は率直な疑問を口にした。
「見張りに来たんです。速水さん病人のくせに寝ないから、熱が下がるまでお付き合いします」
彼女が掲げた旅行鞄に俺は度肝を抜かれた。
まさか、まさか、まさか泊まるのか・・・!
「つまり、それって、ここに泊まる気か?」
「えっ、はい。そのつもりですけど」
彼女は何の迷いもなく、サラッとそう言った。一体この子は何を考えているのだろう。
若い男の部屋に一人で泊まるなんて、無防備過ぎる。
「俺一人だぞ」
どれだけ危険な事口にしているか、わからせようとそう言ってみたが、彼女は俺の意図なんて全く理解していないように首を傾げた。
彼女にとって安心して泊まれてしまう男なのは、きっと何とも思われていない証拠だ。
俺一人意識し過ぎて段々滑稽に思えてくる。
全く、11も年下の女の子に俺は何を考えているのか。むしろ俺の反応の方が不味いのかもしれない。
「だから、泊りがけで看病に来たんです」
彼女はやっぱり何て事のないようにニコリと笑ってみせた。
俺はため息をついき、頭を抱える。さっきから頭痛がするのだ。熱のせいかこの状況のせいかわからないが。
「さぁ、速水さん、ほら、熱測って下さい」
まるで小さな子供に言うように彼女は俺に言う。
差し出された体温計を無視する訳にもいかず、渋々とそれを脇に挟んだ。
「鬼社長も形無しですね」
東野君が可笑しそうに笑っていた。こんな姿出来れば見られたくなかった。
きっと水城君にすぐ伝わるだろう。
「社長、私はそろそろ失礼します」
お辞儀を一つすると、東野君は俺たちに背を向けた。
「そうだ。社長」
何かを思い出したように、一歩歩いた所で、東野君がくるりと俺たちの方に視線を向ける
「ちゃんと静養して下さい。もう28なんですから、風邪を侮ってはいけませんよと、水城さんからの伝言です」
気を落ち着かせるように、薬を飲む時に使った水を口に含んだ時、とんでもない事を言われる。
「俺はまだ27だ!」
28まで後一ヶ月猶予はある。
いつもはこんな事言われても何も感じないが、彼女がいるせいか、年齢の事に触れられたくない。
仏頂面を浮かべると、隣にいた彼女が急に笑い出す。
一体何がそんなに可笑しいのか。
「さぁ、速水さん、若くないんですから、ちゃんと寝室で寝て下さい。熱だって37度あるんですから」
意地悪く彼女が言う。
確かに彼女から見れば俺はおじさんだが、そんな言い方酷いではいか。
俺は傷ついたようにガクリと頭を落とす。
「君から見たら若くないかもしれないけど、俺はまだ二十代だ」
反論するように口するが、彼女の眩しい笑顔に俺は完全な敗北を悟った。
まぁ、いいか。いつもゴキブリでも見るように俺を睨む彼女が楽しそうに笑っているのだ。
俺は傷ついたふりをしながら、微かに口元を綻ばせた。
 それから俺は素直に寝室に行った。彼女は見張るようにベッド側の椅子に座る。
「ちゃんと目を閉じて下さい」
俺が彼女を物珍しそうに見ていると、何度かそう言われた。
彼女に言われる度にこの状況に可笑しさがこみ上げる想いだ。
「はいはい。わかったよ」
俺は笑いをかみ殺し目を閉じた。
目を閉じても彼女の気配を感じる事が出来た。俺が眠ったと思ったのか、彼女がゴニョゴニョと小さな声で呪文のように口走る。
今度やる芝居のセリフでも口にしてるかと思ったが、よく聞くとずっと英語を口にしていた。
そうか。試験勉強か。その発音はちびちゃん、ちょっと可笑しいぞと、心の中で突っ込みを入れながら、
俺はどこかイントネーションの変な英語を聞きながら眠った。



 どれだけ眠ったのだろう。次に目を開けた時、部屋は驚く程暗くなっていた。
今朝開けた遮光カーテンもいつの間にかかっていた。
枕元の置き時計のボタンを押すと、き20:05の文字が緑色に発色し浮かぶ。
薬がよく利いたのか6時間ぐらい寝てしまった。こんなに眠ったのは随分と久しぶりだ。
寝過ぎたのか、頭が呆けている。
熱は多分もうないだろう。軽く喉に痛みは感じるが、体中を包んでいたダルさは抜けていた。
「そうだ。マヤは」
ハッとし、ベッドから起き上がり近くの椅子を見ると誰もいない。
やっぱりあれは夢でも見たのだろうか。
そう思いながら、ベッドから出ると習慣のように煙草を取り出そうとしたが、今朝彼女に怒られたのを思い出した。
「今日はやめておくか」
一日ぐらい禁煙してもいいかと思いながら、カーディガンを羽織るとリビングに向かう。
ずっと食欲がなかったが、やっと空腹を感じた。
「速水さん、起きたんですか」
リビングのドアを開けると、ソファに座ってテーブルの上にノートや教科書を開いている彼女と視線が合った。
「・・・夢じゃなかった」
俺が呟いた一言に彼女が怪訝そうに眉を寄せる。
「いや、何でもない。お腹が空いたんだが、確か東野君がビーフシチューを用意してくれたんだ」
俺の言葉を聞くと、座ってて下さいと彼女にリビングのソファを勧められた。
彼女がキッチンに立つ。何かガチャガチャと準備を始める。
それは遠目に見て手際があまり良くない。
少し心配になり、ダイニングテーブルの方に移動した。
「ちびちゃん、鍋を焦がすのだけは勘弁してくれよ」
彼女がよく見える場所に座ると、そう言った。
「そんな事する訳・・・」
彼女が言い掛け、何かを思い出したようにトースターに向かう。
どうやら何かを焦がしたようだ。その不器用さが彼女らしい。
彼女が慌しくキッチン中を動き回り、俺の前にキツネ色が通り越したフランパンが置かれた。
真っ黒焦げを想像していたから、まだいい方だ。
「あの、焼き直した方がいいですか」
彼女が俯き、申し訳なさそうにしている。その姿が小さな女の子みたいで可愛らしい。
「大丈夫だよ。これぐらいの方が香ばしくて美味しい」
俺は安心させるよう彼女を見ると、フランスパンにバターを塗ってからパクリと口した。
これはこれで香ばしくて美味しいと思う。
「本当にすみません」
ビーフシチューを入れた白い皿を俺の前に用意すると、更に申し訳なさそうに彼女が頭を下げる。
そんなに気にしなくていいのに。それよりも、食卓に一人という状況に寂しさを感じる。
いつもだったら気にならない事だけど、せっかく二人でいるのだからと思う。
「君は食べないの?」
思い切って聞いてみる。
「えっ」
彼女は思いがけなかったのか、両眉を上げ、大きな黒々とした瞳を更に大きく見開いた。
「もしまだ夕食をとってなかったら、一緒に食べて欲しい」
彼女がもう夕食を済ませている可能性の方が高いが、口が勝手にそんな事を言っていた。
彼女は思案するように俺の顔を見ると、「はい」と頷いた。
やった。と心の中で口にする。
彼女は俺の斜向かいに座った。同じ食卓につけた事に知らず知らずのうちに笑顔になる。
ビーフシチューがさっき口にした時よりも百倍美味しく感じられた。俺も現金なものだ。
こうやって誰かと食事をするのはやっぱりいいものだ。
いつもの会食という仕事を絡ませた食事とは全然意味合いが違う。
一人が好きだったけど、彼女は例外だ。
「そういえば、今日の試験どうだった?」
彼女と視線が合い、ついそんな事を口にした。
彼女がスプーンを持つ手を止め、俺を見る。
段々不機嫌そうな顔になる。豆台風の登場だ。
どうやら俺は言ってはならない事を口にしたようだ。
「おかげさまで、さんざんな結果でした」
昨夜俺に付き合わされたのだから、彼女が俺を睨むのも当然だと思う。
「それは悪かった」
俺は軽く頭を下げ、謝罪した。これぐらいで彼女が許してくれるとは思わないが、責任を感じていた。
もしも彼女が落第してしまったら、俺のせいだ。
「いえ、普段から勉強していなかった私がいけないんです」
彼女がしゅんとした顔になる。てっきり責任取って下さいとかって、喰いかかってくると思っていたので、肩透かしにあった。
「他に試験は何が残ってる?」
俺はスプーンを置き、彼女を見た。
「えっと、英語と日本史ですけど」
彼女が考えるように視線を右上に向ける。
さっき彼女が枕元で唱えていたのはやはり英語だったかと、納得する。
しかし、あんな片言な英語では心配だ。
「そうか。よし。では俺が教えよう」
幸い英語も日本史も得意な科目であったので、俺は彼女の家庭教師を請け負う事にした。
熱ももうないし、明日は土曜日だ。彼女を繋ぎ止めるには立派な理由だろう。
勉強にかこつけてビシバシと彼女をしごくのは楽しそうだ。
俺は期待を胸に意地悪く笑った。


                                        3日目に続く


後書き
お久しぶりです。Catです。
9年ぶりに帰ってまいりました!気づけば私も速水さんと同じ年齢になりました(笑)
祝47巻発行という事で今回この連載物を書いてみました。

↓ご意見・ご感想など頂けると嬉しいです。

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