2011.10.7

「Stay. Stay the night with me. And not because I'm paying you, but because you want to
(今夜は一緒にいてくれ、金のためではなく君の意志で)」

あの夜速水さんが別れ際に口にした言葉が私は耳から離れなかった。
「北島!聞いているのか!」
怒号のような声にハッとし、顔を上げると日本史の先生が私を睨んでいた。
「あっ、はい」
今は日本史の試験中。
「もうみんな試験を始めてるぞ。ちゃんと集中しなさい」
先生はため息とともにそう言った。
「すみません」
私はいつの間にか配られていた問題用紙を開いた。




                 風邪-3nd day-(マヤ)








 今日で試験は無事に終了した。
速水さんの看病をしてなぜか彼に家庭教師をしてもらった。
そのかいもあり珍しく日本史と英語はよくできたと思う。
しかし、なぜかずっと心に速水さんの事が引っかかっているのだ。
 試験も終わったしお礼がてら大都芸能に行ってみようかと思う。
そう思い私は今電車に乗っている。
お昼を少し過ぎた頃、山手線の車両には私のように高校の制服姿の学生が目立つ。
きっとみんな試験期間中で授業が早く終わるのだろう。
つり革を掴みながらぼんやりと流れる景色を見た。
木々の彩りや、コート姿の人を見ると季節が秋から冬に向かっている事がわかる。
ふいに二週間前に出した冬物のコートをクリーニング屋さんに取りに行ってなかった事を思い出した。
そんな事をぼんやりと考えていると、ガラス張りの大都芸能社のビルが窓から見えた。
社長室は確か上の方だ。
速水さんは今社長室で仕事をしているのだろうか。
彼の風邪はもう完全に治っただろうか。
最後に彼に会ってから2日が経っていた。
「・・・速水さん、いるかな」
お礼にと駅前のお菓子屋さんで買ったクッキーに視線を向ける。
白い袋の中にはピンク色の包装紙に包まれたクッキーが入っていた。
プレゼント用でと口にすると、赤いリボンをちょこんと付けてもらった。




「君何しに来たの?」
大都芸能社の自動ドアをくぐると、ガードマンが待ち構えていた。
素通りして受付に行こうとしたら、すぐに捕まる。
「速水社長に会いに来たんです」
私の答えにガードマンが笑い出す。そのガードマンは今まで見た事がない。
どうやら新入りかもしれない。
「あのね。お嬢ちゃんみたいに芸能人になりたいって、社長に会いに来る子を
毎日見るけど、そう簡単に会えるもんじゃない」
「いえ、私、芸能人になりたいとかじゃなくて、速水社長の知り合いです」
私の答えに更に可笑しそうにガードマンが笑う。
私はそんなに可笑しな事を口にしているのだろうか。
「はいはい。わかった。わかった。社長はお忙しいから知り合いだとしても約束がないと会えませんよ」
約束と言われて、特に何もないので私はそれ以上は何も言えない。
「・・・約束はしてないですけど、でも、ここで速水さんが通りがかるのを待たせて下さい。
一言言いたいだけですから」
私の言葉にガードマンがため息をつく。
「それは困ります。お約束がないのならお引取り下さい」
丁寧な言い方だが、これ以上ここにいてはいけないと言う威圧感を感じさせる言い方だった。
いつものガードマンさんだったら通してくれるのにと思いながら、私は諦めたように踵を返した。
「社長!」
その時背後で声がした。
ちらりと向くとエレベーターから下りてくる速水さんの姿が遠くに見える。
数人の社員が彼の元に駆け寄る。
咄嗟に私は柱の影に隠れ、彼の姿を目で追った。
今日は黒いスーツに水色のYシャツ紺色のネクタイをしていた。
何だかその姿に胸がドキンとした。
「あれ、私、どうしたの?」
急に手が震える程緊張する。速水さんの姿を見ただけなのに。
彼の周りには何人かの取り巻きがいる。
その中にこの間速水さんのマンションで会った東野さんもいた。
彼女が速水さんに何かを話す。そして、彼が彼女に親しそうな笑いを浮かべる。
その光景を目の当たりにして今度は胸が締め付けられるようにギュッとした。
訳のわからない感情がどんどん胸の奥を苦しめる。
私は堪らずその場から逃げるように走り出した。
「一体、私どうしたの?」
無我夢中で走り、気づいたら駅にいた。
肩で息をしていた。
ベンチに何とか座り、手にしていたクッキーの袋をギュッと抱きしめるように胸の前に置いた。
「・・・速水さん」
さっきの光景が浮かぶ。
紺色のスーツ姿の東野さんと、優しい笑みを浮かべる速水さん。
まるで何かの映画を見ているように日常が絵になる二人。
それに引き替え私は、高校生で、ちびで、不器用で、全然速水さんの隣に合わない。
「やだ。何考えてるの?」
思わず自分の考えにそう口にする。
速水さんと私が釣り合わない事なんて別にどうでもいい事なのに。
あいつは嫌なヤツで、意地悪で、冷血漢で・・・。
「でも、優しい人」
3日間速水さんの側にいて思った。
朝食を用意してくれる速水さん。勉強を教えてくれる速水さん。
どの速水さんも私が今まで知らなかった優しさに溢れていた。
彼の側にいると楽しくて、いつの間にか笑っていた。
もっと一緒にいたいって思った。
「11才も年上なのに。どうかしてる」






「また来たの?」
大都芸能ロビーで昨日のガードマンに捕まる。
私は今日も渡せなかったクッキーを持っていた。
「はい」
「昨日も言ったけど、社長には会わせられませんよ」
「はい」
「わかっているなら、帰ってくれ」
「はい」
「君?聞いてるの?」
「はい」
「おい、君?」
「はい」
「もう、いい加減ふざけるのはやめなさい。子供に付き合ってられないんだ」
「私、子供ですか?」
ガードマンの子供≠ニいう言葉がズシリと響いた。
「えっ?」
「私、そんなに子供ですか?」
ガードマンを見上げると困ったような顔をしていた。
「あっ、社長」
ガードマンが口にした言葉に胸がズキンとした。
また私は慌てて柱の影に隠れる。一体私はどうしたのか?
彼に会いに来たのではないのか?
このクッキーを渡して、ただお礼を言うだけなのに、どうしても隠れてしまう程緊張してしまう。
そっと、速水さんの様子を探ると、昨日と同じようにエレベーターから下りて来る速水さんが見えた。
今日はグレーのスーツ、白いYシャツに黒っぽいネクタイ絞めていた。
そして、その隣には当然のように東野さんがいた。
二人の姿がお似合いのカップルのように見える。
東野さんが話し、速水さんが答える。
そして、東野さんが微かに笑う。
そんな光景が胸に突き刺さる。
今日も私はそんな二人を見て逃げ出した。
どうしてもあの二人を見ると速水さんの前に出て行けない。何も言えなくなってしまう。



「今日は社長まだ出社してないよ。取引先を回っているみたいだ」
学校帰りに大都芸能に行くとすっかり顔馴染みになった新入りガードマンが教えてくれた。
「そうですか」
「君もめげないね」
「はい」
「しかし、社長に会いに来ているのに、社長の姿を見ると逃げてしまうんだね。
この6日で三回社長に会うチャンスがあったのにどうしてだい?」
不思議そうにガードマンが私を見た。
私だって知りたい。どうして速水さんの姿を見ると逃げ出してしまうのか。
「わかりません。急に緊張しちゃって」
「あら、マヤちゃんじゃない?」
ガードマンと話していると弾んだ声が後ろから聞こえて来た。
「あっ、水城さん」
そこにはベージュ色のスーツを着た水城さんがいた。
知ってるいる人に会えた安堵感に自然と笑みが浮かぶ。
「また社長に文句でも言いに来たの?」
茶化すように水城さんが言う。
「えっ、あっ、いえ。この間勉強を見てもらったお礼を」
「あら、丁度いい所に来たわね。今から社長をお迎えする所よ。一緒にいらっしゃいな」
水城さんの言葉に急に落ち着かない気持ちになる。
「えっ、でも、いいんですか?」
「構わないわよ。さあ、こっちよ」
水城さんが正面玄関に向かって歩き出す。
私も後ろに続く。自動ドアの外に出ると冷たい風が頬に伝わった。
「寒くなったわね」
感慨深そうに隣に立つ水城さんが言う。
腰まである長い黒髪が微かに風に揺れていた。
「あっ、社長の車よ」
水城さんの声で黒塗りのベンツが走ってくるのが見えた。
ドキンと胸が高鳴る。
やっと彼に会える。今日こそクッキーを渡してお礼を言わなきゃ。
私はキュッと気合を入れるように手提げ袋を握り締めた。
ベンツがゆっくりと玄関に横付けするように停まった。
また訳のわからない緊張感に襲われる。私は今にも逃げ出したい気持ちになる。
「ダメよ。今日はダメよ」
小さく呟きながら目の前のベンツを見ると後部座席のドアが開いた。
脈が速くなる。
全身で鼓動を打っているのがわかる程鼓動が大きくなる。
どうして速水さんに会うのにこんなに緊張するのか。
ゆっくりと中から人が出て来る。
「あっ」
最初に降りて来たのは速水さんではなく、東野さんだ。
その瞬間、弾かれたように私は走り出した。
背後でマヤちゃんと私を呼ぶ水城さんの声が聞こえたが、それに答える余裕はなかった。
全力で走り、気づいたらいつものように駅にいた。
「マヤのバカ。どうしちゃったのよ」
力なくベンチに座り、自分の頭を何度も小突いた。
何だか段々自分が情けなくなって私は目に涙を浮かべていた。





 それから一週間私は大都芸能には行かなかった。
速水さんの事で自分が振り回されるのが嫌だからだ。
よく考えみれば可笑しな話だ。
何とも思っていない人にどうしてこんなに心をかき乱されるのか。
「それは何とも思ってないっていわないよ」
麗が横槍を入れるように私に言う。
「何とも思ってないったら、速水さんなんか、大嫌いよ」
八つ当たりをするように夕飯のおかずのハンバーグにグサリとお箸を立てた。
「やれやれ」
呆れたように目の前の麗が呟く。
「マヤは難しいお年頃だね」
麗はそう言い笑った。




「北島頑張ったな」
日本史の先生が私に答案を渡す。
「わっ、92点」
自分でも信じられない点数だ。
「はい。ありがとうございます」
受け取ると自分の席に戻り、私は確認するように答案用紙の点数を眺めた。
こんな点数をとったのは本当に生まれて初めてだ。
勉強なんてしてもいい点なんか取れる訳はないと、どこかで諦めていたけど、
そんな事はないという事がわかった。
「マヤちゃん、凄いね」
周りの席の子たちにそう言われ照れくさくなる。
やっぱり速水さんにお礼を言いにいった方がいいかなという気になった。
しかし、また逃げ出してしまうんじゃないかと思う。
「はぁ」
ため息をつき、窓の方を見つめた。
青い空には羊雲が広がっていた。




「マヤちゃん」
学校を出た所でポンと誰かに肩を叩かれる。
「あっ、水城さん」
振り向くと今日はパンツスーツ姿の水城さんがいた。
「ちょっとお茶でもしない?」
「えっ、あっ、はい」
水城さんに誘われ駅近くのカフェに入る。
午後3時。店内は学校帰りの学生でにぎわっていた。
「何だか懐かし雰囲気ね」
窓際の席に座り水城さんが店内に視線を向ける。
「私も高校生の時よくこういう可愛いお店でケーキとか食べたものよ」
テーブルの上のコーヒーを口にすると、水城さんが私に笑いかけた。
「へぇ。水城さん甘い物好きなんですか?」
いつもクールな水城さんにそんな一面があるなんて意外だった。
「あら、大好物よ。今でも仕事で嫌な事とかあると、ちょっと高いケーキとか食べてストレス解消したりするわ」
そう言った水城さんの前に出来たてのチョコレートパフェが運ばれて来た。
そして私の前にも同じ物が置かれる。
生クリーム、バナナ、アイスにチョコレートソースがかけられていて美味しそうだ。
私と水城さんはほぼ同時に生クリームを口の中に運び満面の笑みを浮かべた。
「うん。美味しい」
水城さんが満足そうに言う。
「本当、美味しいですね」
二人であっと言うの間にパフェを平らげると、お店を出た。
「久しぶりに私も女子高生に戻った気がしたわ。付き合ってくれてありがとう」
駅まで来ると、水城さんがそんな事を口にする。
「いえ。こちらこそご馳走様でした。楽しかったです」
水城さんを見上げると、彼女の表情から笑みがフッと消える。
「ねぇ、マヤちゃんは社長の事どう思う?」
いきなりの質問に体の真ん中を突き抜かれた気がした。
「どうって・・・別に、ただの年上の・・・意地悪虫です」
「そう」
水城さんが短く答える。
「どうしてそんな事聞くんですか?」
「あなたが毎日大都芸能に来てるって、ガードマンの人に聞いてね。社長に会いに来たのに、
社長の姿を見ると帰ってしまうって言うから、どうしたのかと思って」
心配そうに水城さんが私を見る。
「その、別に意味なんてないんです。ただ、試験勉強のお礼が言いたくて行くんですけど、
でも、何か速水さん忙しそうだから・・・それで言いそびれて」
自分の中の言葉を何とか繋げ口にする。
「そう。それじゃあ、今から行くと良いわ。午後5時に社長は外出するわよ」
「えっ」
「今日はね。あなたに一つお願いがあって来たの」
水城さんはそう言うと悪戯をしかける子供のような笑みを浮かべた。




 午後4時40分。水城さんに言われた時間よりも早く大都芸能に私は着いてしまった。
落ち着かない気持ちをぶつけるようにビルに入ると、いつものガードマンを通り抜け、
受付に向かった。
案の定受付け嬢に嫌な顔をされた。
別にここで待っていれば会えるのはわかる。しかし、少しでも用事は早く終わらせたかった。
「俺ならここにいるよ」
背中にバリントンの声が掛かる。
ドキッとした。
「あっ、速水さん!」
振り向くと、紺色のスーツ姿の彼がいた。
「何だ?」
「私に嘘ついたでしょ!」
両手を腰につき彼を見上げる。
ここから私はいつもの私を演じた。
「嘘?心外だな。俺は今まで嘘なんて言った事はないぞ」
「私に吉原はお酒を飲む所だって言ったでしょ!私はおかげで大きな恥を学校でかいたんですから」
別にそんな事を言いに来たのではないけど、口が勝手に走っていた。
この緊張感を隠す為かもしれない。
「別に俺は嘘は言っていない。お酒を飲むというのは本当だ」
「だって、それだけじゃないってみんな言ってたわ」
「それだけじゃない?ほお。その先を聞かせてもらえるかな」
彼の言葉に私は何て説明したらいいのか、口ごもる。
だって、そこから先の事は高校生の私にはとても口にできる事ではない。
きっと彼はそれをわかってて、聞いているのだ。
「それは、その・・・だから・・・その・・・あれですよ・・・あれ・・・」
どうしてこんな話題を速水さんに振ったのか。
すっかり墓穴を掘ってしまった私はどうしたらいいのかわからない。
「聞こえないな。えぇ?何だって?」
速水さんが可笑しそうに笑うのがわかる。その笑顔を見て胸がキュンとしてしまう。
「社長。立派なセクハラです」
速水さんの後ろに東野さんが立っていたのが見えた。
彼女の姿を見た途端、私の演技の仮面が剥がれ落ちそうになる。
「マヤさんもそんな事こんな公衆の面前で口にしちゃダメよ」
東野さんが口元を微かに上げる。
とても美人だと思う。
「あっ、はい」
私は力なく頷いた。
「それでは社長、そろそろお約束の時間ですよ」
「あぁ。わかった。じゃあ、またな。ちびちゃん」
速水さんが通り過ぎる瞬間、小さい子を撫でるようにポンと私の頭に触れた。
ほんの一瞬なのに、息が止まりそうになった。
「速水さん」
私は拳をギュッと握り締め彼の名を口にする。
「なんだ?」
彼が足を止め私を見る。
「日本史92点、英語88点でした」
ピースサインとともにそう口にした。
「それは良かったな」
彼が僅かに口の端を緩めた。そして、再び歩き出す。
私はその背中を見送った。




 午後7時。
水城さんに指定されたホテルに行くと、ロビーで彼女の姿を見つける。
さっき別れた時と同じスーツ姿だ。
「決心したのね」
水城さんの問いに私は大きく頷いた。
それから私は水城さんに連れられホテルの客室に入った。
そこには女性が一人いて、メイクさんだと水城さんから紹介される。
「さぁ、どうぞ。イーリン・チャン」
水城さんにそう呼ばれ私は戸惑うように彼女を見た。
「イーリン?」
水城さんは私の視線に映画のパンフレットを渡した。
白いチャイナドレスを着て、髪をアップにした小柄な女性が立っていた。
そして、何となく自分に似ている気がした。
「今香港映画で一番人気の女優よ」
私は鏡台の前に座りながら水城さんの説明を聞く。
「社長はイーリンのファンなの。だから大都芸能でも彼女主演の映画を手がけたいと思っている所なのよ」
水城さんが淡々と話すなか、私の顔は段々メイクさんに寄って作られていく。
濃い目のアイシャドウにマスカラ、真紅の口紅。パンフレットに載っていた女優の顔立ちになっていく。
「それで、今夜のパーティーで極秘で来日しているイーリンに会う予定になっているんだけど、
実はイーリンのスケジュールを抑える事ができなかったの」
水城さんの話に嫌な予感がした。
「まさか。私がそのイーリンに成りすますって事ですか?」
後ろに立つ水城さんを思いっきり振り返ると彼女は満面の笑みを浮かべる。
「あなたは今から香港から来た女優イーリン・チャンよ」
水城さんの言葉に私は途方にくれたような気持ちになった。
しかし、今更帰りたいと言って帰してくれるような人ではない事はわかっていた。
私は腹を決めるしかない。



「綺麗よ。どこから見てもイーリン・チャンだわ」
髪をアップにし、紅いチャイナドレスに身を包んだ私は、水城さんに連れられエレベーターに乗り込む。
「大丈夫。社長は広東語は話せないし、イーリンも日本語は少しわかる程度になってるから、
ただ笑って、頷いていればいいのよ」
エレベーターが5階のパーティー会場がある階で止まる。
「それにこれで誤魔化せるわ」
そう言い水城さんが目元だけが隠れる赤い仮面を渡す。
「今日は仮面パーティーよ」
黒いタイトなドレスに着替えた水城さんはエレベーターから降りると、白い仮面を付けた。
「さぁ、仮面パーティーの始まりよ」
水城さんの言葉に私は女優イーリン・チャンの仮面を被った。
とにかくやりきるしかない。


会場には仮面を付けた男女が三百人ぐらいいた。
豪華なシャンデリアに楽団が奏でる音楽。
高校生の私には知らない世界が広がっている。思わず足がすくみそうになる。
「ほら、社長はあそこにいるわ」
水城さんが指差した方に長身の男性の背中が見えた。
水城さんが私を案内するように歩き出す。
「水城君、俺はもう帰る。こんなバカバカしいパーティー出ていられるか」
水城さんが速水さんの前で立ち止まると、苛立たし気にそう言った。
彼の仮面はタキシードのポケットに突っ込まれていた。
「これも仕事のうちですわ。業界人が集まるんですから、顔つなぎの為です」
彼を宥めるように水城さんが言う。
「それに今日は例のイーリン・チャン嬢に極秘で来て頂いたんです。
我が社の映画に出てもらえるかは社長が後は口説くだけです」
水城さんがそっと速水さんに耳打ちするように、そう言ったのが聞こえた。
彼の視線が私の方に向く。
「こんばんは。速水社長。イーリン・チャンです」
私は笑顔を浮かべ彼に会釈をした。
速水さんが瞳を大きく見開く。
「まさか。本当にイーリン・チャンを連れて来たのか?」
驚きの声に混じって彼がそう言った。
「はい」
水城さんは少しも動揺する事なく頷いた。
急に私は速水さんを騙す事に後ろめたくなる。
どうしてこんな役を引き受けてしてまったのか。
もう逃げ出したい。
「社長。イーリンは日本語が少しわかるそうです。ね、イーリン」
水城さんが私を見る。
「はい。少しわかります」
速水さんはずっと私を見つめたままだった。
まさかもうバレたのか。
「社長はイーリンのファンなんですよ」
水城さんが口にする。
「ありがとうございます。うれしいです」
私は少し片言な発音でそう答えた。





「本当によく似ている」
速水さんはまじまじと私を見ながら呟いた。
水城さんはもうパーティー会場にいない。
「えっ」
「いや、何でもないです。良かったら踊りませんか?」
そう言い彼は仮面を付けた。
ダンスの誘いに冷や汗が出た。高校生の私に踊れる訳ない。
一度速水さんと授賞式の時に踊ったぐらいしか経験はない。
「さぁ」
速水さんが手を差し出す。
香港の女優がダンスの一つも出来ないのは変だと思い、私は思いきって彼の手を取った。
後はもうどうにでもなれという心境だ。
ダンスフロアに移動する。
楽団がワルツを演奏する。
彼がステップを踏む。私は彼のステップに合わせて一歩を踏み出した。
彼の動きに合わせるようにまた一歩、一歩を出す。
しかし、彼の足を何度か踏んでしまう。
彼を見ると苦笑を浮かべていた。
「ごめんなさい。私、ダンスってあまりしたことがなくて」
ダンスフロアを離れ私たちはバーコーナーにいた。
「いや。お上手でしたよ」
彼が笑う。
「さぁ、どうぞ」
彼はそう言いシャンパンを私の前に置いた。
イーリンは22才だった。だからここでお酒を断る訳にもいかない。
「二人の出会いに乾杯」
「乾杯」
私は意を決してシャンパングラスを持ち、一気に飲み干した。
もうなるようになるしかない。
彼の方を見ると、驚いたように目を丸くしている。
「いい飲みっぷりですね」
「喉かわいちゃって」
それから気づけば勧められるままにシャンパンにワインを4、5杯飲んでいた。
お酒の力のおかげか私は段々大胆になってきた。
もう気分はすっかり香港の女優イーリンだ。
彼の話しに控えめな笑いを浮かべたり、頷いたりした。
聞かれては不味い事には日本語がわからないフリをして何とかやり過ごした。
いつの間にか彼とイーリンとして過ごす時間が楽しくなる。
速水さんの話は必ずオチがあって、私を笑わせてくれる。
こんなに楽しい人だったなんて知らなかった。
「それで、その俳優は舞台で頭からラーメンを被る事になって、しかもスタッフが間違えて舞台用のじゃなくて、
出前で取ったばかりのラーメンを出したから、もう熱くて熱くて大変だったって言ってましたよ」
速水さんの話に私はもうお腹を抱えて笑った。
「良かった。イーリンさんが日本語をよくわかってくれて」
速水さんが意外そうに私を見る。
「えっ、まぁ。勉強しましたから」
笑いすぎた事に私は冷や汗をかいた。
「勉強って語学学校とかに行ってるんですか?」
興味深そうに彼が聞く。
「ええ。まあ」
ここで下手な事を言ったらバレる。
何か話題を変えなくてはと私は頭の中をぐるぐるとさせた。
「ええーと、速水社長は休日は何をしているんですか?」
「休日?そうですね。最近は仕事ばかりで。あっ、でもこの間風邪をひいて寝てました」
風邪というキーワードに私はハッとした。
「大丈夫ですか?」
「えぇ。もうすっかり治りましたよ。看病してもらいましたから」
「看病?優しい看護婦さんにでも看てもらったんですか?」
私の言葉に急に速水さんが笑い出す。
「おっと、失礼。いえ、優しい看護婦さんという言葉があの子のイメージに合わなくて」
笑いが収まると、速水さんはそう言いウィスキーを口にした。
「私に会うといつもゴキブリを見たような顔をして、冷血漢だの、イヤミ虫だのって言うんですよ。
全く目上の者に対する礼儀って物を知らない無礼な子です」
その言葉に私は口にしていたワインに咽た。
「大丈夫ですか?」
速水さんが驚いたように私を見る。
「えぇ。大丈夫です」
何とかセキを抑えると、私は一気にワインを呷った。
全く無礼な子なんて酷い言われだ。
苛立ちにアルコールが進む。





「イーリン、大丈夫?」
遠くの方で速水さんの声がする。
その声に目を開けると、見知らぬ天井が見えた。
すっかり記憶が飛んでいる。
「速水さん」
視界に彼が入る。仮面を取り、タキシードを着崩した姿だ。
私はハッとし、自分の顔に触れた。
仮面がいつの間にか取れていた。
パッとベッドから起き上がり咄嗟に彼に背を向ける。
「ここはどこです?」
「ホテルのスィートルーム。君がぐでんぐでんに酔っていたから部屋を取ったよ。
今夜はここに泊まるといい。俺は帰るよ」
そう言い終わると背中で彼の靴音がした。
「待って」
思わずそう口にする。
「あの」
彼は背を向けたまま立ち止まっていた。
「もう少し一緒にいて下さい」
速水さんの帰るの一言に急に現実に戻された気がした。
私はもう少しイーリンのまま彼といたいのかもしれない。
速水さんの話を聞きたい。彼の笑顔をもっと見ていたい。
そんな思いに突き動かされるように私はベッドから立ち上がった。
「お願い。速水さん」
佇む彼の背中を引き止めるように抱きしめた。
甘いコロンの香りがする。温かい彼の体温を感じる。
「見ず知らずの男にそんな事気軽に言うものじゃないよ。イーリン」
彼は背を向けたまま腰に巻かれた私の手に触れる。
彼の長い指先が私の人差し指に触れた。
「だって、知らない人じゃないわ。私は、私はあなたの事を・・・」
私は何を言おうとしているのだろう。
もしも今北島マヤだと言ったら、速水さんから笑顔が無くなってしまうかもしれないのに。
速水さんは私をイーリン・チャンだと思っているから優しくしてくれる。
それはわかっている事だ。でも、私はもう本当の事を言わずにはいられないのかもしれない。
「・・・北島マヤ」
沈黙の後、彼がそう口にした。
「えっ」
「俺が好きな女優の名だ。彼女が初めて舞台に立った時からのファンなんだ。
まだ高校生だけど、とても魅力的な子だ。俺は彼女の事を女優以上に愛している」
速水さんの言葉に耳が赤くなる。
まさか、そんなふうに速水さんが私を思っていたなんて知らなかった。
これはこの前見た甘い夢の続きなのか。
「イーリン。君は北島マヤによく似ている。だから、俺を困らせないでくれ。
君にそんな事言われたら俺は自分を抑えられなくなる」
彼の言葉がしっとりと耳に響く。私は彼の広い背中に顔を埋めた。
涙が流れる。
彼の言葉に熱い想いに。
「Stay. Stay the night with me. And not because I'm paying you, but because you want to
(今夜は一緒にいてくれ、金のためではなく君の意志で)」
あの夜彼が言ったセリフを私は口にした。
その瞬間、彼が弾かれたように振り向く。
そして、驚いたように私を見つめる。
「・・・まさか・・君は・・」
彼が探るように私を見つめる。
私は問うような視線に静かに頷いた。
その瞬間、彼が私を抱き寄せる。そして、私たちは唇を重ねた。




「おいちびちゃん、ちびちゃん、起きろ」
尖ったような声でそう呼ばれた。
「うーん」
目を開けると、速水さんが怖い顔で私を睨んでいる。
私はハッとし、起き上がると教科書の上にヨダレの海を作っていた。
「あっ、ははは」
側にあったティシュッでヨダレを拭いた。
「まだ勉強は終わってないぞ。ほら、次の問題」
速水さんがそう言い、英語の問題を書く。
すっかり頭の中がごちゃごちゃだ。
「あれ?イーリン・チャンは?仮面パーティーは?」
「何の事だ?すっとぼけてないでやる」
速水さんが眉間に皺を寄せて睨む。
「今度居眠りなんかしたら頭から水をかけるぞ。
なにせこの大都芸能の速水真澄が直々に勉強を見てるんだからな」
速水さんの脅しに夢の中の速水さんが幻想だった事に気づく。
という事は試験で92点を取ったのも夢という訳か。
何だかゴール直前で振り出しに戻ったような気分だ。
まぁ、速水さんが私の事愛しているなんて言う訳ないか。
そこまで考えると、つい笑みがこぼれる。
「何が可笑しいんだ?」
怪訝そうに速水さんが私を見る。
「いえ、何でもないです」
私は表情を硬くし、シャーペンを持つと英語の問題向かった。


『Stay. Stay the night with me. And not because I'm paying you, but because you want to』

「あっ、これ」
その英文は何度も夢の中に出てきた思わせぶりなセリフだった。
「わかるのか?」
挑戦的な目で速水さんが私を見る。
「『今夜は一緒にいてくれ、金のためではなく君の意志で』でしょ」
私は得意げに答えた。



終わり




【後書き】
皆様、お待たせしました♪やっと「風邪」が完結致しました。
初日から3日目まで書くのに何年かかったんでしょう(笑)
かなり強引に遊ばせてもらいました。
最後までお付き合い下さり本当にありがとうございます。

cat598232629@yahoo.co.jp
感想等頂けると調子にのってまた何か書きます(笑)

2011.10.6 cat

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