――― 同居物語 1 ―――
「あなたが、紫の薔薇の人だったんですか?」
高校の制服を着たままのマヤが突然、真澄のオフィスに現れた。 そして、思いがけない言葉を口にする。 「えっ」 彼は思わず、呟いた。 彼女は冗談とは思えない、真剣な眼差しで、彼を見つめていた。 「お願いです。答えて下さい!!!」 バンっと真澄のデスクの上に両手を置く。 その勢いに一瞬、飲まれそうになる。 ここで、いつものように笑い飛ばすか、真実を告げるか・・・。 答えは決まっている。前者だ。 だが、彼の心の中にもしも、という思いがあった。 もしも、真実を口にすれば、彼女は俺の方を少しでも向いてくれるのだろうか。 彼女の事を愛していると自覚したのは、そんなに前ではない。 時に恋は人を惑わせる。 彼とて、普通の人間である。いつもは頭の切れる彼でも、この時ばかりはただの恋する男だった。 「・・・もしも、俺がそうだと言ったら、君はどうする?」 鋭く、目の前の彼女を見つめる。 彼の言葉に彼女の瞳は一瞬、大きく見開いた。 「・・・一体、今度は何を企んでいるんですか・・・」 僅かな間の後、小さな声で彼女が呟く。 「・・企む?」 眉を寄せ、見つめる。 「・・・だって、あなたが、何の見返りも求めず、私に紫の薔薇を贈るなんて事、絶対あるはずがない!」 彼女の言葉に自分の考えが甘かったと気づく。 そうだ、やっぱり、俺は彼女の敵なのだ。母親を殺した俺は憎まれるべき存在。 ならば、とことん、憎まれるべきなのか・・・。 彼女の瞳をじっと見つめ、考える。 「・・・見返りか・・・もし、俺が君に見返りを求めたら君は応じてくれるのか?」 彼が口にした言葉に、彼女の表情が変わる。 彼に憎悪を抱くような視線を向ける。 「・・・あなたが、求めるのなら、応じるわ!あなたにだけは借りを作るような事はしたくない!」 いつもの気の強い彼女が顔を出す。 「・・・借りか・・・」 だんだん、真澄は自分が悲しくなってきた。 彼女から視線を逸らし、デスクから立ち上が.ると、背を向けるようにして窓際に立った。 ここで、違うと言ってしまえばいいではないか。 まだ、誤魔化しは効くはずだ。 しかし・・・。 彼女の応じるという言葉に迷う。 紫の薔薇は彼にとって、汚れ無きものだった。 何の見返りも求めず、彼女を援助し続ける事は彼女の女優としての才能に惚れたからた。 それを今、彼は自らの手で汚そうとしている。 ここで、彼女に何かを求めたら、全ては崩れてしまう。 正体を明かす必要はない。今後も紫の薔薇の人として彼女を支えていくには何も言わない方がいいのだ。 頭ではわかっている。 だが・・・。 愚かな恋心が彼に違う言葉を口にさせた。 「・・・そうだ。君の言うとおり、認めよう。俺が紫の薔薇の人だ」 振り向き、告げる。 その瞬間、彼女の瞳から涙が零れ落ちる。 「俺が紫の薔薇の人で、そんなにショックか?」 寂しそうな瞳で彼女を見つめる。 彼女は何も答えず、泣いていた。 「・・・どうして、私を援助してくれたんですか?」 涙交じりの声で彼女が言葉にする。 「・・・全ては君の言うとおりだと言っただろ」 感情を閉じ込めた瞳で彼女を見つめる。 「・・・見返り?一体、私から何が欲しいんですか?まさか、紅天女の上演権? 亜由美さんが、もしも選らばなれなかった時の為の保険という訳ですか?」 彼女にしてはもっともな理由を口にする。きっと、真澄が紫の薔薇の人だと知った時から、彼女なりに結論を出していたのだろう。 「・・・いや、違う・・・」 少しの間を置き、答える。 「じゃあ、一体・・・」 不思議そうに彼を見る。 真澄はその問いに軽く瞳を閉じた。 「・・・側にいてくれないか。俺の側に君にいてもらいたいんだ・・・」 再び、瞳を開け、彼女を見つめる。 みるみるうちに彼女の表情が驚きに変わる。 きっと、真澄が紫の薔薇の人だと知った時と同じくらいにこの言葉には驚いたのだろう。 「・・・どうして?」 信じられないような瞳で彼を見つめる。 彼はその問いには答えなかった。 「・・・答えは今すぐ出さなくていい。今日一日君に時間をやる。 俺の要求に答えなくも、君が困るような事にはならない。援助した分を返せなんて事は言わない。 君の高校卒業までの学費は今まで通り援助する。その後、君が大学に行きたいと望むのなら、その学費も出す」 真澄の言葉にマヤの思考は止まりそうだった。 要求に応じなくても援助し続ける・・・あの、速水真澄がそんな事を言うなんて彼女の許容範囲を超えていた。 「もし、応じてくれるのなら、明日、この場所に来てくれ」 そう言い、真澄はデスクの上でサラサラとどこかの住所を書き、そのメモを彼女に渡した。 その後、どうやって、大都芸能を出たのか、マヤは覚えていなかった。 気づけば、手には彼に渡されたメモがあり、どこかの通りを歩いていたのだ。 「側にいて欲しい・・・だなんて・・・あいつ、一体、どんなつもりで」 寂しげな彼の表情が浮かぶ。 いつもの彼とは別人のような瞳で彼女を見つめていた。 胸の奥が熱い。 あの瞳が彼女の胸を切なくする。 彼に対して、こんな気持ちになったのは初めてだった。 「・・・俺は何をしているんだ・・・」 来るはずのない彼女を真澄は、彼のプライベ−トマンションで待っていた。 昨日の自分にほとほと呆れ返る。 あんな事を言って、これからどうするべきなのか・・・。 やはり、彼女に紫の薔薇の人である事は秘密にしているべきだった。 しかし、いくら後悔しても認めてしまった事実は変わらない。 いや、今なら、まだ何とかなるかもしれない。 本当は違うと言い。ただ、単に君をからかっただけだ。なんて言ってしまえばいいのだ。 間違いなく、さらに彼女に嫌われるのは目に見えてるが・・・。 もう、それしかない。 ピンポ−ン あれこれ考えているインタ−ホンが鳴る音がした。 まさか、彼女が来たのか? 胸がざわめき始める。 「あの、北島です・・・」 インタ−ホンに出ると、モニタ−にマヤの顔が写る。 真澄は我が目を疑った。 「今、開けるから」 そう言い、マンションの玄関にある自動ドアを開けた。 「部屋は14階だ」 それだけ、告げると、真澄はインタ−ホンを切った。 高校生のマヤにとっては別世界のようなマンション、いや、億ションだった。 エレベ−タ−に乗り、窓から地上の景色を見つめる。 街の灯りが段々小さくなる。 それと反比例して彼女の胸の鼓動は大きくなるようだった。 昨日、彼のオフィスを出てから、ずっと、ずっと、考えていた。 ”・・・側にいてくれないか。俺の側に君にいてもらいたいんだ・・・” そう告げた時の真っ直ぐな眼差し。 いつもの彼とは全く違った。 冗談で言っているとも思えない程、真剣に見えた。 そして、その言葉を聞いた時、彼女の中の何かが揺れていた。 「・・・君は来ないと思っていたよ」 彼女を部屋に通すと、真澄は苦笑を浮かべた。 「コ−ヒ−でいいか?」 彼の問いに彼女は静かに頷いた。 仕事から戻ったばかりなのか、彼はまだス−ツ姿だった。 リビングの座り心地の良さそうなソファに座り、マヤは彼がコ−ヒ−を入れてくれるのを待った。 部屋には無駄な家具はなく、シンプルだった。 広い室内を見渡し、落ち着かない気持ちを何とか静めようとした。 「お待たせ」 コ−ヒ−カップを持って、彼がキッチンから戻ってくる。 何だか、彼にコ−ヒ−を入れてもらった事が不思議な光景のように見える。 「頂きます」 そう口にし、コ−ヒ−を口にすると苦さが口に広がり、思わずしかめっ面を浮かべる。 「ちびちゃんには、砂糖とミルクが必要だったかな」 その様子をクスクスと笑いながら、真澄が口にする。 いつもの彼の態度に少しホッとするとともに、ムっとした。 「大丈夫です!」 そう言いきり、マヤはコ−ヒ−を一気に飲み干した。 その様子に、堪えきれなくなり、真澄はいつものように笑い出した。 「はははは。君は本当に見ていて飽きないよ」 真澄の馬鹿にしたような笑いにマヤは顔を赤くして、彼を睨んだ。 「どうせ、私は子供です!速水さんこそ、こんな子供捕まえて、側にいて欲しいだなんて、どうかしているんじゃないんですか!」 何の考えなしに口にしたマヤの言葉に真澄は笑みを止めた。 そして、傷ついたような表情で彼女を見る。 「・・・確かに、どうかしているかもな。君に言われなくてもわかっている」 そう告げた彼があまりにも寂し気に見え、自分の言葉が失言だったと、マヤは後悔した。 「・・・すみません。そんなつもりで、口にしたんじゃ・・・。ただ、あなたの気持ちが見えなくて・・・」 空のコ−ヒ−カップを見つめ、呟く。 「・・・それなのに、君はここに来た。それは、昨日の俺の要求に応じてくれると思っていいのかな」 答えを求めるように彼女を見つめる。 「・・・はい・・・私でできる事なら」 彼女の言葉に胸が熱くなる。 「・・・そうか・・・」 呟き、時計を見つめると、午後8時を回っていた。 午後9時には社に戻って会議に出なければならなかった。 今もどうしても抜けられないのに、水城に何とか時間を調整してもらってここにいるのだ。 「すまないが、俺は会社に戻らなければならない。手短に言おう。俺の要求に応じてくれると言うのなら、 君にはここで俺と一緒に住んでもらう事になる。それでも、本当にいいのか。俺が戻るまで考えといてくれ。 もし、無理だと思うなら、帰ってくれて構わない。昨日も言ったように俺の要求に応えなくても君の困るような事にはならない」 マヤに一言も挟ませずにそう告げると、真澄は部屋を出た。 残された彼女は彼の言葉を何度も頭の中で繰り返していた。 「・・・すまない、水城くん、少し遅れたか?」 社に戻ると、彼の帰りを待っていた水城に言う。 「いえ、お時間ぴったりですよ」 水城は真澄に会議の資料を渡した。 その日、真澄は会議など頭の中に入らなかった。 部屋に残してきた彼女の事が気がかりで仕方がない。 はたして、真澄が戻るまでに彼女はあの部屋にいるのだろうか。 それとも、やはり、帰ってしまうのか・・・。 彼女にいて欲しいような、帰って欲しいような複雑な気持ちになる。 何だか、まるで、女子高生と援助交際しているその辺のオヤジたちと自分が同じ部類に思えた。 「・・・どうかしている・・・」 小さく呟く。 「社長何か?」 隣にいた重役の一人が彼を見る。 「いや、何でもない。で、この企画の意図は何かね」 いつもの表情を作り、冷静な態度で真澄は口を開いた。 マヤは広い部屋に残され、考えていた。 ここで、速水と暮らすべきか・・・。 一度、要求に応じると答えたのだ。 返事を変えるのは何だか、彼に負けを認めるようで嫌だった。 それに、なぜか、彼女自身も彼と一緒にいたいと思えたのだ。 「・・・麗に、何て言おうかな・・・」 今、一番の悩みはそれだった。 今、劇団つきかげと一角獣は関西の方まで公演に行っていたので、今日の所は理由を言わずに済むが、 麗が帰るまでには何とか理由を考えておかなければならない。 まさか、速水と一緒に住むとは言えず、それらしい事をいろいろと考えてみるが、どれもしっくりとこない。 やっぱり、本当の事を話した方がいいのかな・・・。 マヤは小さくため息を浮かべた。 「・・・ただいま」 真澄が部屋に戻った頃にはもう、深夜を回っていた。 彼女がいるかどうか不安な思いに駆られながら、部屋中を見渡すと、リビングのソファに彼女の姿があった。 胸の奥が大きく脈うつ。 「・・・帰らなかったのか・・・」 彼女の背中に声をかける。しかし、何の反応もない。 「・・ちびちゃん?」 声をかけるがやはり、彼女からは何も返ってこない。 そっと、近づき、彼女の顔を覗き込むと、そこには安らかな寝顔があった。 何だか、唖然とする。 次の瞬間には笑みがこぼれる。 「・・・風邪ひくぞ、こんな所で寝ていると」 彼女の隣に腰を下ろす。 「・・・君らしいな」 呟き、頬にキスを落とした。 「・・・学校は休みなのか?」 誰かの声がかかる。 「へっ」 その声に眠そうに目を開ける。 「もう、七時だぞ?大丈夫なのか?」 目の前には速水の姿があった。 「・・・速水さん!!どうして!」 驚いたようにベットから飛び起きる。 「やっと、起きたな。何度も声をかけたんだぞ」 真澄は既に支度はできているようでス−ツ姿だった。 目覚めと同時に記憶が蘇る。 「・・その様子だと思い出したみたいだな」 クスリと真澄が笑う。 「顔洗ってこい。朝食が出来ているぞ」 そう言いうと、真澄は寝室から出て行った。 ぼんやりと、時計を見つめると、7時15分を回っていた。 そして、制服がここにない事に気づく。 「いっけない!!!制服取りに行かなきゃ!!!」 「いいのか。アパ−トまでで?学校まで送るぞ」 マヤのアパ−トの前に着くと、真澄が口にする。 「そこまで、速水さんにご迷惑かけられませんから。それに、速水さんも会社遅刻しちゃうでしょ」 マヤの言葉に何だか、ジ−ンと胸が温かくなる。 「君が俺の心配をしてくれるとは意外だな」 真澄の言葉になぜか頬が赤くなる。 「私だって、そのぐらいの良識は持っているんです」 恥ずかしさを隠すように突き放したように言うと、彼の車を降りる。 「今夜は一緒に食事をしないか?昨日の件について、ゆっくりと話したいんだ。 まだ君から最終的な返事は貰ってないからな」 「えっ、あっ、はい。別にいいですけど」 車の中の彼を覗き込む。 「じゃあ、7時にアパ−トまで迎えに来る」 そう告げると、真澄は車を走らせた。 午後7時。 仕事が押していて、マヤとの約束の時間になっても、真澄は社を出られないでいた。 まいったな・・・。 秒針が進む毎に焦りが生じる。 「どうかなさいました?」 落ち着かない様子の彼に水城が声をかける。 「いや、何でもない」 表向きは冷静さを装っていたが、彼にとって何でもない所ではなかった。 何とか仕事を早く切り上げようとするが、終わった頃には8時を回っていた。 「水城君、後を頼む」 それだけ、告げると、真澄は物凄い勢いでエレベ−タ−ホ−ルまで走った。 「・・・怒っているだろうな・・・」 ボタンを押しても中々上がって来ないエレベ−タ−に苛立ちながら、呟く。 マヤの脹れっ面が脳裏に過ぎる。 何だか、急に笑いたくなってきた。 まるで、恋人の事を心配するような自分が急に可笑しくなってきたのだ。 「・・・何か楽しい事でもあったんですか?」 真澄が笑みを浮かべていると、エレベ−タ−の扉が開き、マヤが立っていた。 「ちびちゃん・・・どうして?」 驚いたように口にする。 「速水さんの事だから、きっと、朝の約束を忘れているんじゃないかと思って、お迎えに来たんです」 予想通りの脹れっ面が彼の前に現れる。 「・・・すまない。仕事が押してしまって・・・」 申し訳なさそうに彼女を見る。 そんな彼を見て、マヤはクスリと笑った。 「怒ってなんていませんよ。ちょっと、からかっただけです。さぁ、行きましょう。私。お腹すいちゃった」 無邪気なマヤの笑顔に真澄は面くらいそうになった。 「ちびちゃん、ひっかけたな」 エレベ−タ−に乗り込み、彼女をくすぐる。 「ははははは。やだ、速水さん、くすぐったい・・・はははは」 扉が閉まり、二人きりになると、二人はじゃれあっていた。 「さて、君の結論を聞きたいんだが」 コ−スもデザ−トに差し掛かった頃、真澄は真剣な表情で聞いた。 アイスを食べる手を止め、マヤは彼を見つめた。 「あなたが私と一緒にいたいと言うのなら、私はそうするまでです」 マヤの言葉に大きく瞳を見開く。 「・・・本当にいいのか?俺と住むんだぞ?」 まるでNoと言って貰いたいように彼が口にする。 「・・・えぇ。構いません。あなたがそうしたいなら。速水さんこそ、本当に私なんかと一緒に住んでいいんですか? 私、家事とか苦手ですよ。それに、かなりの不器用だし・・・お鍋とかいっぱい焦しちゃいますよ」 真澄とは対象的に彼女は何て事のないように言う。 本当に、俺と住むという意味が彼女にはわかっているんだろうか・・・。 何だか不安になる。 「別に俺は君をメイド代わりに置くんじゃない。部屋には週3日、来てもらっているしな。 どうなっても、知らないぞ。本当にいいんだな」 念を押すように彼女を見つめる。 「速水さんもしつこいですね。いいって言ってるじゃないですか。何だか、私に断って貰いたいみたい」 彼女の言葉に図星を指されたような気がした。 「・・・後で君に泣かれるのが嫌だからな。わかったよ。君がそこまで決心しているのなら、何も言わない。 だが、最後に付け加える事がある。この同居は君の意思で止める事ができる。 君が俺とこれ以上住むのは無理だと思ったら、いつでも出て行ってくれて構わない」 真澄の言葉を聞いて、マヤは笑みを浮かべた。 「速水さんの方が出て行きたくなるかも」 その言葉に真澄は”かもな”と呟き、いつもの笑みを浮かべた。 かくして、二人の同棲、いや、同居生活が始まったのである。 はたして、この二人の運命は? それはまた次回のお話で・・・。 |