―――  三ヶ月の恋人 4  ――― 



 「カット、OK!」
 監督の声に現場の空気が緩む。
今日はNGを100回出したキスシーンの撮影だった。
マヤは表情を緩めるとカメラの向こうに立つ水城に視線を向けた。
すると、さっきまではなかった姿に胸が時めいた。
水城の隣りには腕を組んで佇む速水がいた。
チャコールグレーのスーツが眩しく見える。
マヤはカメラの奥へと駆けていく。
「速水さん、来てたんですか?」
 速水の前まで来ると立ち止まる。
「あぁ、撮影所に来る用事があってな」
 速水は険しい表情でマヤを見る。そんな厳しい表情を向けられる程、
今の演技はよくなかったのかと、マヤは心配になった。
「あの、今のシーン、どうでしたか?」
 おどおどと速水を見上げる。速水は深いため息をついた。
「水城君、今は休憩時間か?」
 マヤの方を見たまま、速水が水城に尋ねる。
「はい、一時間の休憩に入ります」
「少し借りていくぞ」
 速水はマヤの手を掴むと歩き出す。
「ち、ちょっと速水さん」
 有無を言わせない速水の態度にマヤは引きずられるように歩き出す。
掴む手には強い力が入っている。速水の横顔は怒っているようにしか見えない。
どうしてそんな顔をされるのか訳がわからない。
もしたかしたら、今の演技に失望されたのだろうか。
監督はOKを出したけど、それは仕方なく出したのだろうか。
「君の楽屋はここか?」
 廊下の奥のドアにはマヤの名前が貼られていた。
「は、はい」
 マヤの返事を聞くと速水はマヤを連れて楽屋に入る。
ドアを閉めると鍵をかけた。4.5畳の畳敷きの部屋に二人きりになる。
「速水さん、あの」
 マヤが声をかけた瞬間、速水がマヤを抱き締める。
「妬けたよ」
 耳元に速水の吐息混じりの声がかかる。
「えっ」
「胸が痛くなった。君のせいだ。演技だとわかっていても、本物の感情が伝わってくるようなキスシーンだった」
「……速水さん」
 速水の熱い眼差しが突き刺さる。
「嫉妬で胸が焦げた」
 嬉しさと切なさがマヤの心の中で混じる。
「しばらくこうさせて欲しい」
 抱き締める腕に速水は力を込める。コロンと煙草の混じった香りをマヤは愛しく思う。
「はい、速水さん」
 マヤは目を閉じ、速水の胸に顔を埋めた。昨日よりも速水の事を好きになっていた。





 火曜日、マヤは三日ぶりに高校に顔を出した。
昨日は朝から映画の撮影が入っていたので、休んでいた。
 朝から数学の授業に眠くなる。期末テストも近いので勉強に手は抜けないが、
やはり数字の話は眠気を誘う。段々、瞼が重たくなる。いけない。ちゃんと勉強しなければ。
紫の薔薇の人のご好意を無駄にしてはいけない。頭ではわかっているが、
やっぱり意識が遠くなり始める。
 土、日は速水と伊豆で過ごし、昨日は朝6時から夜10時まで撮影だった。
今日も午後三時からテレビの撮影がある。気が抜ける時間は今しかない。
そう思うと更に眠気が……。
「北島、北島!」
 突然の怒鳴り声にハッとする。
「ハイ!わかりません!」
 マヤは咄嗟に答えた。ドッとクラス中から笑い声が響く。
「もう昼休みだぞ」
 担任が呆れたようにマヤを見ていた。
「ひ、昼休み!」
「ほら、時計を見てみろ」
 担任が腕時計を見せると、午後十二時十分になった所だ。
一限から四限まで完全に寝ていた。
机の上には一限の数学の教科書が置いたままだった。
「芸能の仕事で忙しいのはわかるが、学校は寝に来る所じゃない。しっかりしなさい」
「はい。すみません」
 マヤは深く頭を下げた。


 「マヤちゃん、また伝説作ったね」
屋上でマヤがアンパンをかじっているとクラスメイトの宮里茜が現われる。
マヤと一番親しくしている友人だ。クラス委員長をやっていて面倒見も良く、
マヤが欠席した分のノートをいつもコピーしておいてくれる。
そのお礼にマヤは茜が好きな芸能人のサインを何回か頼まれてもらってきている。
「一限から四限まで寝てた人見たの初めてよ。私」
 茜が笑う。
「寝てたつもりはないんだけど」
 マヤは苦笑を浮かべる。
「しっかり寝てたよ。先生たちがいくら起しても起きなかったもの」
「そうなの?」
「そうよ。教科の先生たちはもう諦めたのよ」
「そんなに深く寝てたんだ」
「それで伊豆はどうだった?コンドーム使った?」
 茜の言葉にマヤは口にした牛乳にむせた。
「ごほっ、ごほっ、ちょっと、茜ちゃん、そんな訳ないじゃない」
「そうなの?何もなかったの?相手は十一も年上なんでしょう?」
 一見優等生に見える茜だったが、恋愛話になると人柄が変わる。
根堀葉堀聞かれてしまう。
「何も」と口にし、速水とキスした事が浮んだが、「……ないよ」と続けた。
「怪しい。今変な間があったよ」
「もう、茜ちゃんが想像している事はないよ。だって彼は大人なんだよ。
私の事子供としか見てないんだから。そんな気になる訳ないじゃない」
 確かにキスはしたが、寝る時は別々の部屋だった。
後は手をつないだぐらいだ。帰り際は頬にキスをしてくれた。
それでマヤは十分だと思うが、聞いている茜は納得のいかない顔をする。
「何それ」
茜が呆れたため息をつく。
「それ付き合っているって言うの?大人の男なら体の関係を築くんじゃないの?
マヤちゃん、胸も揉まれてないの?」
「もうっ!茜ちゃん、ヤメテ!速水さんはそういう人じゃないの!
いいの。気持ちが通じていれば。ちゃんと好きだって言ってくれたもん」
「好きなら体の関係も出来るのが普通じゃないの?マヤちゃんはそういう欲求ないの?」
 ドキッとした。体の関係という言葉が妙に艶かしく響く。
速水に対して求めていないと言えば嘘になる。昨日速水に会った時は抱き締めてもらった。
でも、キスはない。マヤはして欲しかった。
「頑張れよ」と最後にマヤの頭を撫でて行ってしまった態度が素っ気無く感じられた。
もう少し何かあってもいいものだ。
ギュッと抱き締めてくれたのだから、キスだってあったっていいじゃないか。
それとも、速水はやっぱり恋人のフリをしているだけなのだろうか。
「はぁ〜」
 マヤは深いため息をついた。
「もうこの話はお終いにしよう。今は考えたくないの」
 泣きそうなマヤの顔に茜も黙るしなかった。

 
 「はっはっはっはっは。それじゃあ、君は一日寝てたという訳か」
 速水はマヤからの電話をいつものバーで聞いていた。
一限から四限まで寝ていたマヤの話が可笑しくて仕方ない。
「君はいつも信じらない事をするな。それじゃあ、ちびちゃん、そろそろ子供は寝る時間だ。
明日はしっかり勉強して来なさい。おやすみ」
 携帯電話を切ると内ポケットに仕舞う。
「随分と楽しそうね」
 右隣りから声がかかり、見上げると別れた恋人がいた。
「……彩子」
「先日はどうも。パーティー楽しかったわ」
 マヤと恋人の契約を交わした日に連れていた。
彩子との恋人としての関係は大学時代に終わっていたが、
仕事上のつながりが今でもあった。
「どう?良かったら今夜は一緒に飲まない?」
 帰るつもりだったが、彩子の甘い囁きにもう少しだけいようと思う。
「そうだな。奢るよ。この間のお礼もしたいんだ」
 彩子が速水の右隣りに座る。
「マスター、こちらにブルームーンを」
 ヒゲ面のバーテンダーが「かしこまりした」と答える。
 BGMにはスタンダードジャズが流れていた。
 速水が初めてバーを訪れたのは大学生の頃だった。彩子に連れて来られた。
その時は面白味が全くわからなかったが、繰り返し足を運ぶうちにバーの良さがわかった。
それは一人でいてもいいという所だ。話がしたかったらバーテンダーと話せばいいし、
黙っていてもいいのだ。煩わしい人間関係から解放され、酒を愉しむ時間は心を解してくれる。
「ブルームーンです」
 彩子の前に紫色の液体が入ったグラスが置かれる。
ジンをベースにしていて、レモンの爽やかな酸味が楽しめる。
「覚えていてくれたのね」
「もちろん」
 速水はジャックダニエルが入ったグラスを掲げる。
彩子もグラスを持ち、二人は軽く合わせた。
「素敵な夜に乾杯」
 彩子が艶やかに笑う。肩の出た黒いドレスと赤い口紅が目を引いた。
その美貌に一度女優にならないかと彩子を口説いた事があるが、見事にふられた。
彼女は表に出る事よりも、会社を経営していたいタイプなのだ。今はコンサルタント業をしている。
「それで、この間のお嬢さんとはどうなったの?びっくりしたわ。ホテルの部屋に行ったら
あなたが女の子相手におろおろしているんですから」
 パーティーの夜、マヤを連れ込んだのは彩子が用意した部屋だった。
「別におろおろなんかしていない。看板女優の機嫌を取っていただけだ。
あの年頃の子は扱いが難しいんだ」
「ふーん。じゃあ、あの子はあなたの商品て訳?」
 商品という言葉にどこか後ろめたい想いを感じる。
「あぁ、そうだ」
 速水はぐいっとジャックダニエルを呷る。
「マスター、同じの」
 空のグラスをマスターに向ける。マスターは受け取ると丸い一塊の氷と
ジャックダニエルを注いだ。すぐに速水の前に三杯目のグラスが置かれた。
「北島マヤだったかしら。可愛いわね。沙都子、私も観てるのよ」
「それはどうも」
「さっきの電話、彼女?」
「あぁ。そうだ」
「凄く楽しそうだった。商品にあんな顔するのね」
「あんな顔って?」
「優しい顔」
 彩子がじっと速水を見つめる。
「私と付き合っていた時だってあんな顔しなかったのに。少し妬けるな」
「彼女は面白い子なんだ。見ていて飽きない」
「真澄さんのお気に入りって訳ね」
「まぁ、そうだな」
「あの子の事が好きだったりして」
 図星過ぎる言葉に速水は軽く咳払いをした。
「何言ってるんだ。11も年下の子を好きになる訳ないだろう」
「あら、好きになったら年齢なんて関係ないのよ。
本当はあの子と寝たい程好きなんじゃないの?」
「下らない事言うな。あの子とはそんなんじゃない」と口では否定したが、
彩子の言う事は当たっていた。伊豆でだって本当はそうしたかった。
 でも、マヤはまだ高校生だ。彼女の立場を考えるといきなりそんな事を
させる訳にもいかなかった。何度か危ない所はあったが、ギリギリの所で
持ちこたえた。昨日もマヤを抱き締めたまま畳に押し倒して、
強引に服を脱がせて……という所まで考えて速水はハッとする。
そんな事考えるべきではない。三ヶ月で終わる関係ならこれ以上
何もしてはいけないのだ。
「今、イヤラシイ事考えてた?」
 黙りこんだ速水をじっと彩子が見る。
「相変わらず君はハッキリと言うな」
「そう?」
「それでいやらしい事を考えていた俺にどうしろって言うんだ。まさかこの間のつづき
をしようなんて言い出すんじゃないだろうな?悪いが君に対してそんな気はない。
君とは仕事上だけの関係だ。俺は今、恋人を持つ気がない。仕事の事で頭が
いっぱいだ」
「あなたも相変わらずね」
 クスリと彩子が笑う。
「別に私も何もないわよ。あなたとは飲み友達でいたいだけ」
「それなら結構」
「今夜はとことん飲みましょう」




 日曜日、マヤは速水と待ち合わせた上野の動物園の前にいた。
マヤが「白クマが見たい」と言い出したのが切っ掛けで、動物園に行く事になったのだ。
 待ち合わせの午前10時に帽子と眼鏡で変装したマヤが動物園の正面ゲートの前に立つ。
変装なんてマヤはいらないと思うが、速水から君は芸能人なんだぞと、釘を刺されて渋々だ。
 なるべく目立たない服装でと言われていたので、ジーパンに黄色いTシャツ姿で来た。
どこからどう見ても中学生にしか見えない。もう少し可愛い服を着てくれば良かったなと、
マヤは後悔する。
「どこの中学生かと思った」
 突然声をかけられ、ハッとする。顔を上げると速水がいた。
今日の速水は紺色のポロシャツにジーパン姿だ。普段よりも速水が年上に見えない。
何だか頬が赤くなる。
「目立たない格好って言われたから、こうなったんです」
 恥ずかしくて速水と目が合わせられない。
毎日電話で話していたけど、顔を合わせるのは二週間ぶりだ。
「中々可愛いよ。くっくっくっくっ」
 速水が人をバカにしたようないつもの笑い方をする。
マヤはムッとする。
「もうっ、笑わないで下さい。だから、速水さんなんて嫌い」
 プイッとマヤは速水に背を向けて歩き出す。
「はいはい。わかりましたよ。お嬢様、アイス買ってあげるから、おいで」
 アイスという言葉にマヤの足が止まる。速水の方を振り向くとゲートの側の売店の方を指していた。
「ストロベリーがいいです」
 マヤは渋々速水の隣りに立つ。
速水がクスリと笑うと、マヤの手を掴んだ。
そして、俗に言う恋人つなぎという結び方で手をつなぐ。
「了解しました。行こう」
 手をつなぎながら売店まで歩く。それだけでマヤの機嫌は直る。
しっかりとした速水の手に胸がドキドキとしていた。
 アイスを買ってもらうと、マヤは速水と一緒に動物の中に入る。
夏休みに入ったばかりだったので、家族連れが目立った。
 子供たちの楽しそうな声を聞きながら、マヤはパンダの行列の方に進んだ。
「凄い人だかりだな」
 速水がパンダの前の人だかりにため息をつく。軽く見て二、三百人はいるんじゃないかと思えた。
ちびのマヤからは人が邪魔してパンダは見えない。
「よし、ちびちゃん、抱っこだ」
「えっ」
 マヤが驚いて速水の方を見ると、抱きかかえられる。
小さな子を抱きかかえるような抱っこだ。
「ほら、見えるか」
「は、はい」
 二匹のパンダがこちら側に背を向けているのが見えたが、
速水と視線の高さが同じになったマヤはそれどころじゃない。
「なんだ。あいつら、全然、こっちを見ないな」
 速水がつまらなそうに呟く。
「は、速水さん、あの、もう大丈夫ですから」
「もういいのか」
「だって、あの、人が見てます」
 何人かの視線がマヤの方に注がれていた。
「別に気にするな。ちょっと大きな子供だと思われているぐらいだ」と
 速水が笑う。
「……私、そんなに子供じゃありません」
 マヤがむくれる。速水は更に可笑しそうに笑う。
「わかった。わかった。下ろすよ」
 マヤを地面に下ろすと、速水は再びマヤの手をつないだ。
「次に行くか」
「はい」
 それから鳥類、ライオン、トラを観て、サル山まで来た。
「かわいい」
 マヤはニホンザルの子供に目が留まった。
小さな体はサル山の端から端までせわしなく走っている。
無邪気な姿に気持ちが和む。そして、母ザルの所まで来ると抱きついた。
母ザルが愛しそうに子ザルに応えてやる。その姿に胸がキュンとした。
「……母さん」
 一日も忘れない日はない、行方不明中の母の事を想うと胸が張り裂けそうだ。
マスコミでも取り上げてもらったが、一向に母の行方はわからなかった。
「母親に会いたいか」
 速水がマヤを見る。
「もちろん、会いたいですよ。マスコミで取り上げてもらったのに、何の音沙汰もない。
もしかしたら、もう母さんは……」
 この世にいないかもしれない。という言葉をマヤは飲み込んだ。
口に出したら現実になりそうで恐いからだ。
「そんな顔するな。大丈夫。君のお母さんはどこかで元気で暮らしているから」
 速水はポンとマヤの頭を撫でる。
「時期が来たら、絶対に会えるから、心配はいらない」
 断定するような速水の言い方にマヤはエッと思う。
「速水さん、母さんがどこにいるのか知っているんですか?」
「えっ」
 速水の動きが止まる。マヤの真っ直ぐな視線が痛い。
「……もう、昼だな」
腕時計を見ると十二時を過ぎていた。
「ちびちゃん、腹は減ってないか?」
 速水に答えるようにマヤのお腹がぐぅ〜と、音を立てる。
くっくっくっくっと速水が笑い出す。
「正直だな、君は。行こうか」
 速水がマヤの手をつなぐ。マヤは速水に引かれて歩き出した。

 園内のレストランに入ると行列が出来ていた。
「どこも混んでいるんだな」
そう言いながら速水が笑う。
「まぁ、いいか。こういうのも」
 速水がマヤを見る。
「どうした?不思議そうな顔して」
「だって、あの大都芸能の社長さんが普通の人と同じように列にならぶから」
「君は俺を何だと思っているんだ。俺だって会社から出れば普通の人間だよ。
偉そうに見えても休日はこうして動物園で行列に並んでいる。社会的地位なんて関係ないよ」
「そんなものなんですか」
「よし、豚角煮丼に決めた。ちびちゃんは?」
「えっ、えーと、じゃあ、同じので」と言ってマヤはぷっと笑い出す。
11も年上の速水と普通のデートをしているのが急に可笑しく思えた。
前は少し恐いと思っていたけど、今は全くそう思わない。
それ所か優しい。動物を見て周りながら、一夜漬けしてきたという薀蓄を披露してくれた事も嬉しい。
ただ、ただ楽しい。速水と笑い合っている時間がこのまま止まればいいと思う。
三ヶ月だけの恋人という事を忘れそうになる。

 陽が傾き出した頃、マヤは速水と並んでホッキョクグマを見ていた。
ゆったりとした動きで歩いている姿は見ているだけでもホッとさせられる。
「思ったよりも、白クマって大きいんですね。何か速水さんみたい」
「俺はあんなに大きくない」 
「そうかな」
 マヤはチラリと速水の方を見る。速水もマヤの方を見る。
目と目が合い、マヤはすぐに逸らす。恥ずかしくて見てられなかった。
そんな様子に速水が笑う。
「いつまで恥ずかしそうにしているんだ」
「だって、速水さんとはあまり会えないから」
マヤは俯く。
「恋人同士なら見つめ合えるはずだろ?映画でも浩也と香織が見つめ合うシーンがあるだろうに」
「……まぁ、そうですけど」
「撮影は大丈夫なのか?」
「そこは何とか、香織になって浩也さんを見つめますから、大丈夫です」
「じゃあ、俺を浩也だと思って、見てごらん」
「えっ」
「俺相手じゃ出来ないか?」
 挑戦的な目で速水が見る。マヤの役者魂に火がつく。
「いいですよ」
 マヤは目を閉じると香織の仮面を被る。そして、目を開けるとじっと速水の方を向いた。
いつもはちゃんと見れない速水の瞳は、とても優しい目をしていた。
胸がドキドキとしてくる。香織でいるはずなのにマヤとして速水を見ていた。
心が持っていかれる。深く深く速水がマヤの中に入り込んで来る。
感情が高ぶって涙が流れた。好きで好きで堪らない。
強く速水に愛されたい。ずっと速水と一緒にいたい。そんな想いでいっぱいになった。
「……カット」
 速水の声がかかり、マヤは涙を拭く。
「君はやっぱり凄い役者だ。浩也への熱い想いが見つめるという動作だけで
伝わって来たよ。あんな風に一途に見つめられたら、俺は……」
そこで速水は言葉を飲み込む。その先の言葉は言えなかった。
言ってしまったら、マヤを無理矢理自分のものにしてしまいそうで恐かった。
「ちびちゃん、そろそろ帰ろうか」
フッと速水はいつもの優しい笑みを浮かべた。
マヤはもう少し一緒にいたいという言葉をしまい、肯いた。

 帰りは速水にしては珍しく電車だ。
今日はマヤに合わせた普通のデートをしたかった。夕方の電車はそれなりに混んでいた。
 楽しそうに話しているカップルや家族が多い。平日とは違う景色だろうなと、速水は思う。
マヤと並んでドア付近の椅子に座っていた。マヤはさっきから何も喋らない。
沈黙が不安にさせる。今日のデートは楽しくなかったのだろうかと、子供っぽい問いかけをしそうになった。
「疲れたのか?」
 速水の問いに俯き気味だったマヤが顔を上げる。
「寂しいなって思って」
「寂しい?」
「だって、今度速水さんに会えるのがいつかわからないから」
 恋人として飛び上がりたくなる程、嬉しい言葉だった。
「可愛い事言うんだな」
「速水さんは寂しくならないの?」
「もちろん、君と離れるのは寂しいよ」
「だったら、もう少し一緒にいて下さい」
「でも、明日は早朝から撮影があるだろう?遅くまで君を連れまわして疲れさせたくないんだ」
「そうですか」
 何だか頭に来る。速水の言っている事は正しい。
でも、やっぱり離れたくないのだ。どうしてわかってくれないのだろう。
「そんな顔するな。ブスになるぞ」
 マヤはブスッとした顔をしている。
「元々こんな顔ですから」
 言い方がきつくなる。次の駅で降りなければならない事が、いじけさせる。
電車の速度が落ちはじめ、ホームが見えてくるとマヤは泣きたくなった。
そして、電車が停まり、停車駅を車掌がアナウンスする。
扉が開き、一斉に人が降りはじめる。それでもマヤは椅子から立ち上がらない。
「ドアが閉まるぞ」
 速水に促されるが、動けない。
「もう、仕方ないな」と、速水はマヤを抱きかかえ、ホームに降りた。
次の瞬間、電車の扉が閉まり、走り出した。
「君のせいで、電車がいってしまったよ」
 抱きかかえたままのマヤに言う。マヤは涙ぐんだ。
「だって」と言葉が詰る。
「帰れなくなった責任取ってもらうぞ。このまま君のマンションに行くからな」
「えっ」
「本当は俺も君と離れたくないんだ」
 速水がバツの悪い笑いを浮べた。

 近くのスーパーで食材を買い、マヤは速水とマンションに帰宅した。
部屋に入るとマヤは速水に抱きついた。
「甘えん坊だな」
 速水が笑う。
「ずっと、こうしたかったの。人前じゃ出来ないから」
 速水の体温と鼓動を感じた。幸せだった。
「汗くさいだけだぞ。今日は一日中動物園の中を歩いていたんだから」
「速水さんの匂いはいい匂いです」
「何だか俺は夢を見ているようだ」
「夢?」
 マヤは速水を見上げる。視線が重なると、速水はマヤを抱き締め、唇を重ねた。
このままマヤの全てを自分のものにしたい。そんな衝動にかられる。
キスは深くなる。マヤの唇の中に無理矢理舌を入れ、絡ませる。
「うんっ」とマヤが女の声を上げた。
 キスしたままマヤを抱き上げるとベッドまで行き、二人で倒れこむ。
マヤのTシャツに触れた所で、携帯電話が鳴った。
速水は理性を取り戻し、電話に出る。
「寺田です。例の件ですが、院長を買収できました」
 部下の言葉に心が凍りつく。
マヤを求める一方で、自分は非道な事をしている。
こんな自分がマヤを愛する資格なんてない。
 速水はベッドから離れた所で電話を終わらせると、マヤを見た。
「ちびちゃん、ごめん。仕事だ」
 逃げるように速水はマヤの部屋を後にした。



 「今夜は浮かない顔してるわね」
その声に顔を上げると紫色のワンピース姿の彩子がいた。
速水はいつものバーで酒を飲みながら、昨日のマヤとのデートを考えていた。
 動物園なんて行ったのは子供の時以来だった。隣りではしゃぐマヤを見ているのが楽しかった。
いつもマヤといると自然に笑っている自分がいる。
一緒にいると心から落ち着ける。余計な計算もマヤといる時はいらない。
心から笑い合う事が出来たのは母親以外では初めての人だ。
11も年下のマヤに心を奪われている自分に戸惑いを覚える。
「何、難しい顔しちゃって」
彩子が速水の隣りに座り、ブルームーンを頼む。
「ここが苦しいんだ」
 速水は胸を抑える。こんなに苦しいと思った事は今までなかった。
マヤに母親の事を隠している事が重苦しい。
「もう、俺は限界かもしれない。これ以上あの子に嘘をつき通す事が辛い」
速水は深いため息をつく。
「嘘をついたまま、あの子を抱く訳にはいかない。でも、あの子が欲しいんだ」
「あなたらしくないわね」
彩子が表情を曇らせる。
「彩子、助けてくれ」
「いいわよ」
彩子が艶かしい笑みを浮かべた。




 映画の撮影は順調にいっていた。早いもので一月もすればクランクアップだ。
速水との関係も後一月……。それを思うと胸が痛む。マヤはため息をつく。
この恋に期限がある事は最初からわかっていた事だ。
忙しい速水が三ヶ月も付き合ってくたれのだから、これ以上わがままは言ってはならないと、
自分に言い聞かせる。
 マヤが楽屋に戻ると、付き人の乙部のりえがマヤの前に週刊誌を差し出した。
「マヤさん、これ見て下さい」
 言われて見たページにはよく知る人物が写る。
「これって、大都芸能の社長さんですよね」
 地下駐車場で美女とキスをしている速水の姿があった。
記事を読むとそこはホテルの駐車場で女性とチェックインした速水が二時間後に
駐車場に降りて来たという内容のものだ。実業界のプリンスに珍しい情事だと面白可笑しく書かれていた。
 血の気が引いていく。手が震え、雑誌を床に落とした。
「マヤちゃん、どうしたの?」
 控え室に入って来た水城が蒼白な顔をしたマヤを見る。
「なんでもないんです。なんでも……」
 マヤは平静を装って水城の前を通り過ぎ、衣装から着替えた。
今夜は速水と食事の約束があった。だから、大人っぽいワンピースを着ていた。
少しでも速水とつり合いたいとの思いからだ。
でも、そんな自分が惨めだ。写真の女性はマヤとは違う大人の女性だ。
憎らしい程絵になるカップル。速水の隣りには大人の女性が相応しい。
胃に穴が空きそうだ。レストランなんて行く気にはならない。
食べたら食べ物で穴が空きそうだ。
ドロリとした重い感情が胸を締め付ける。
映画の撮影が終わるまでは恋人でいると言ったくせに、他の女性とホテルに
行くなんて許せない!これは怒るべき事だ!声を荒げて速水を罵るべきだ!
そう思うが、今ひとつ速水と恋人でいる自信もなかった。
速水から「好き」だと言われたのは一度しかない。キスはしてくれるけどそれ以上はない。
本当にそれは恋人として付き合っていると言えるのだろうか?
言葉も、キスも、全部映画の撮影の為、マヤに年上の男との恋愛を教える為の
義務的なものだったのではないか。だとしたら、本当の恋人とは言えない。
 マヤはこみ上げてくる涙に唇を引き結ぶ。
泣き叫びたい感情を堪え、何とか控え室を後にした。

 「もう夕方ね」
彩子の言葉に速水はベッドから起き上がる。
服は着ていない。さっきまで彩子と抱き合っていた。こんな事をするのは今日で三度目だ。
 速水は限界だった。マヤに対する想いが大きくなる一方で、
自分の気持ちに歯止めがかけられなくなっていた。
無理矢理マヤを抱いてしまう日も近いと想い始めた頃、酔った勢いで彩子とベッドを共にした。
 快楽に身を沈めている間は何もかも忘れられる気がした。
しかし、情事の後にはいつも罪悪感がつきまとう。
映画の撮影が終わるまでマヤに恋人でいると言った以上、これは立派な浮気だ。
心がなくても、衝動を抑える為の行為だったとしても、許されない。
マヤに説明してもきっとわかってはくれない。ならば、バレないようにするしかない。
「そろそろ行った方がいいんじゃないの?お嬢さんとの約束があるんでしょ?」
 彩子はバスローブ姿で窓際で夕陽を背にして速水を見下ろしていた。
「あぁ、行くよ」
 速水はベッドから出ると手早く服を着た。
シャワーも浴びたかったが、その時間はない。
淡々とスーツを着る速水を彩子は寂しそうに見つめている。
その様子に気づき、速水は彩子の方を向いた。
「一つ聞いていいか?」
「何?」
「どうして俺と寝る?」
「好きだから」
 彩子の言葉にYシャツのボタンを留める手が止まる。
「嘘よ」
 彩子がイタズラっぽく笑う。
「あなたこそ、どうして私と寝るの?本命がいるんでしょうに」
 本命という言葉が後ろめたさを百倍にした。
「恐いからかな」
「恐い?」
「本気になるのが恐いんだ。この速水真澄が誰かに心惹かれるなんて認めたくない。
認めてしまったら、冷血漢の俺じゃなくなる」
「何それ?好きなら好きでいいじゃない。
どうして自分の気持ちに嘘をつこうとするか、理解できないわ」
「別に理解してもらおうとは思っていない」
 ネクタイを結ぶと速水は上着に袖を通す。
仕立てたばかりのチャコールグレーのスーツが更に速水を引き立てる。
「そうだ。これ、知ってる?」
 彩子が手にしていた雑誌を速水に投げる。
「何だ?」
「あなたと私よ」
 速水が雑誌を見るとそれは写真週刊誌だった。ホテルの駐車場で彩子とキスしている姿が載っていた。
まさに晴天の霹靂だ。経済誌には載る事があったが、
芸能人でもない自分が一般大衆誌にフォーカスされていたなんて夢にも思わない。
「あの子の目に触れてないといいけどね」
「どういう事だ。なんで、俺たちが載っているんだ」
「どうしてかしらね」
 彩子が小さく笑う。ドロっとした嫌なものを感じさせる笑い方だ。
「まさか」
 速水は固まったように彩子を見る。
「一体どういうつもりだ!こんな事して君にだってマイナスだろ!」
 速水は彩子の前に立つと厳しい視線を向ける。
「何考えているんだ!」
速水の怒鳴り声が響く。
彩子は無表情に速水を見上げると、力いっぱい速水の頬を平手で叩いた。
乾いた音が鳴る。
「あなたこそ何してるの?好きでもない女を抱いて、私を何だと思ってるのよ!」
 彩子の目から涙が流れる。
「私だって辛かったわよ。あなたの欲求不満のはけ口にされて。
あなたはいつも優しいけど、心はくれない。体を重ねてもあなたは私に心はくれない。
それがよくわかったの。だから、あなたに復讐してやりたくなった」
「……彩子」
速水は申し訳なさでいっぱいになった。
マヤから逃げていた事がこんな形で表面化するとは思ってもみなかった。
自分一人の問題だと思っていたが、彩子を巻き込んでいた事に後悔が生まれる。
「……すまない」
「謝らないで。愛されていないって言われているみたいじゃない」
「もう君には甘えない。これで最後だ」
 それだけ言うと速水は部屋を後にした。
彩子に対して重たい気持ちをひきずったまま、この後マヤに会うと思うと気が沈む。
しかし、これが自分が犯した罪だと思う。
もしかしたら、マヤにも知られているかもしれない。
重たいため息が零れた。


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