―――  三ヶ月の恋人 5  ――― 





 速水と待ち合わせたのは六本木ヒルズにあるグランドハイアット東京だった。
 マヤは夏休みに入り、朝から晩まで撮影に追われる日々が続いていた。好きな芝居に集中出来る事は楽しいが、
睡眠がほとんど取れない日が続き、目の下には大きなクマを作った。
 そんな話をしたら、ステーキを食べに行こうと、一週間前に速水に誘われたのだ。 
ステーキの後はマヤが行きたがっていた速水行き着けの六本木のバーに連れて行ってくれる約束だった。
 その約束をした時は凄く楽しみにしていた。カレンダーを見ながら、後、何日で
速水に会えると励みにしながら、更に仕事を頑張った。
 なのに、今日突然見せ付けられた週刊誌がマヤの心を突き刺した。
ホテルの地下駐車場でキスを交わす二人の姿をハッキリ確認できる写真だった。
 グランドハイアット東京に足を踏みいれた時、
もしかしたらこういう豪華で都会的なホテルで女性と会っていたんじゃないかと、勝手に想像が膨らんだ。
一度浮んだ考えはマヤを追い詰め始める。
ラウンジまで来るとマヤは耐えられず外に飛び出していた。
 そして、映画館に避難した。考えを消したかった。何か違う事で埋めたくて、映画を観た。
でも、全く内容に集中できない。待ち合わせ時間を過ぎた辺りから携帯電話が気になり出した。
 速水から何か連絡があるかもしれないと、五分に一回は携帯を見ていた。
 しかし、映画が終わっても何の連絡もない。
 だとしたら、速水は来なかったのかもしれない。約束をすっぽかしたのはマヤではなく、速水の方だった。
その事実が更にマヤの胸を苦しくさせる。週刊誌の写真が頭の中に浮んで来る。
 一緒に写っていた女性は一度会った事があった。
速水からは学生の時の友人で、今は仕事のつきあいをしていると説明された。
その時は何の疑いもなくその言葉を受け入れたけど、本当はマヤと付き合う前から付き合っていた
恋人だったかもしれない。そう思うと、写真の事は怒れない。横から入ったのは明らかにマヤの方だ。
 速水に会ったら記事の事を怒ろうと思っていたけど、怒られるのはマヤの方だ。
映画の為に速水は恋人を犠牲にしてくれたのだ。相手の女性にとっても酷い事をしている。
何も知らずに浮かれていた自分がバカみたいだ。
「私、何やってるんだろう」
ため息混じりの声で呟くと、マヤは映画館を出た。
外に出ると雨が降っていた。小さな肩を落とし、その中を歩き出した。



「ラストオーダーの時間になりますが、いかがいたしましょうか」
 ウェイターの声に速水は腕時計を見る。午後10時半を過ぎた所だ。
マヤと待ち合わせたのは7時半だった。
彼女が現われるまで、ワインをちびちびと飲みながら待っていた。
あと少しだけ待とう。後少し……そう粘っていたら、もう閉店30分前だ。
 この速水真澄が、待ちぼうけを食うとはなと、心の中で笑う。
「いや、いい。帰るよ」
速水は椅子から立ち上がった。
 ホテルから出ると雨が降っていた。タクシー乗り場を見ると行列が出来ている。
車を呼ぼうと携帯電話を手にした所で、気力がなくなる。
もしかしたら、マヤからのメールなり、着信履歴があるかもしれないと思っていた。
が、恐くて携帯のディスプレイを見る事が出来なかった。
「何もなしか」
上着の内ポケットに携帯を仕舞うと速水は空を見上げる。
さっきよりも粒の大きい雨が速度を速め、アスファルトを叩き続ける。
速水はその光景に諦めの笑みを浮かべると躊躇いもなく、雨の中へと体を進めた。
真っ直ぐに前を向き、歩く。堂々と歩くさまに周囲の人たちが傘越しに不思議なものを見るような
視線を向けていたが、速水は気にせず歩き続けた。
仕立てたばかりのスーツも、ピカピカに磨かれたイタリア製の革靴も、雨でびっしょりと濡れていた。
 とことん自分を苛めたかった。週刊誌の記事でマヤに辛い思いをさせてしまった事が許せない。
いつもマヤを傷つけてしまう。劇団つきかげを潰した時、初めて罪の意識を持った。
紅天女をこの手で上演するという目的の為なら、心だって捨てられると思っていた。
 しかし、本当にそれでいいのだろうかと、マヤと出会い思うようになった。
マヤの母親を監禁している件でも、日に日に罪悪感が大きくなる。
もしも、マヤに監禁の事実が知られれば、心底憎まれるだろう。
もう恋人としての顔も向けてくれなくなるだろう。
 それでいいではないか。と、もう一人の自分が言う。
所詮これはままごとなのだ。恋人と言っても本当の恋人ではない。
マヤだって本気で恋をしている訳ではない。
何を熱くなっている。真澄、お前だって本気じゃないだろう。
その声に胸の奥が痛んだ。ため息が零れる。
いつもは私情を挟む事なく判断できるが、今回はどうしたらいいのかわからなくなっていた。




 「カット!!!」
監督の怒声が飛んだ。マヤは身体をビクッと縮こまらせる。
サングラス越しに監督が睨んでいるのがわかる。今日二十回目のNGだ。
 「天の輝き」の撮影中だった。スタッフの間から重苦しいため息が零れる。
「沙都子どうしたんだ!台詞と表情が全く合っていないじゃないか」
「すみません」
 謝るしかない。マヤは滲む涙を堪え、頭を下げた。
「もういい、沙都子は今日は飛ばす。他のシーンだ」
 監督の投げやりな言葉にマヤは唇をかみ締め、スタジオを飛び出した。
沙都子になれない自分が悔しい。涙が頬に流れた。
 速水に会えなかった事を引きずっているのが、自分でもわかる。
昨日、マンションに戻ってから何度も電話しようとした。しかし、出来なかった。
恐かった。もしも、電話した時に週刊誌に出ていた女の人と一緒にいたらどうしよう。
もうマヤとの関係を終わりにしたいと言われたらどうしようと、悪い事ばかりが浮んだ。
 久しぶりに撮影のない夜だったのに、マヤは眠れない夜を過ごすしかなかった。
「マヤちゃん」という呼び声に足を止める。
振り向くと相手役の里見茂が着物の衣装のままいた。
「オレのシーンもなくなったんだ」
「私のせいですみません」
マヤはおろおろと頭を下げる。迷惑をかけてしまったという事が重くのしかかる。
里見茂と言えば、今を時めく青春スターだ。マヤ以上に殺人的なスケジュールだと聞く。
きっと、スケジュールを調整する為に里見もまた睡眠時間をギリギリまで削る事になるだろう。
その事がわかる分、マヤは居たたまれない。
「ううん、むしろラッキー!遊びに行く時間が出来たよ。マヤちゃんもでしょ?」
てっきり責められると思っていただけに、鳩が豆鉄砲を食ったような顔になる。
「マヤちゃん、驚き過ぎ」と里見が笑い出す。
「じゃあ、行こう」
里見がマヤの手を掴む。
「えっ、行こうってどこに」
突然の事にマヤはあたふたする。
「スタジオ以外ならどこでもいいよ。マヤちゃん、せっかくだから付き合ってよ」
「……でも」
本当にいいのだろうかと迷う。まずは水城に確認しないといけない。
「マヤちゃんのマネージャーならプロデューサーと話してたよ。多分スケジュールの調整してるんじゃない。
オレのマネージャーもだけどね。だから、今がチャンス。さぁ、行くよ」
マヤの手を掴んだまま里見が走り出す。マヤは「えっ、えっ」と戸惑いながら走るしかなかった。





 週刊誌の記事から一日が経ち、三日が経ち、一週間が経ち、
速水はまだマヤとの時間を持てずにいた。こんな時に限って目まぐるしい程忙しい。
 ハリウッドと協力して作る映画企画の為、速水は一泊二日という強行スケジュールで
ロサンゼルスまで行き、帰って来た早々、別の案件で福岡に飛び、その足で京都に行き、
ハリウッド映画の為の根回しをして来た。
 気づくと一週間が終わっていた。忙しさのあまり、この二ヶ月かかさずしていたマヤとの電話もない。
いや、正確に言えばマヤから電話がかかって来なくなった。
 レストランに来なかったマヤは間違いなく速水のスキャンダルを見ている。
電話がないという事は百パーセント怒っている。こちらからアクションを起さなければならないのに、
肝心の時間が足りない。こんな時一日が三十時間あったらいいのにと、バカげた事を思う。
「社長、大変です。こんなものが」
 秘書の声に速水はパソコンから顔を上げる。
今朝は社長室で書類仕事をしている所だ。
「うちのタレントのスキャンダルです」
 その言葉に速水は表情を険しくさせる。
記事には里見茂と北島マヤが抱き合っている所が載っていた。
しかもその場所はホテルの地下駐車場だ。
記事は面白おかしく二人が情事を終えて出て来た所だと書いている。
目の前が真っ暗になる。マヤに限ってそんな事あるはずはない!
あの子はまだ未成年だ!そんな事するような子ではない!と、拳を振り上げ、
記事ごと机の上に叩き潰した。
「潰せ。どんなに金がかかっても構わん。こんな記事表に出すな」
 未成年がホテルから出て来たなんて、イメージダウンだ。
しかも相手はドラマで競演中の青春スター里見茂だ。
こんな軽率な事をしたマヤに怒りが募る。
「今すぐ水城を呼べ!」
 ドンと怒りにまかせもう一度机を叩いた。
秘書は青い顔をして社長室を出て行く。
扉が閉まると、速水は机の上のコーヒーカップを床に投げつけた。
破片が大理石の床に砕け散るが、気分はすぐれない。
「くそっ!なんで、俺があんな子に嫉妬してるんだ!」
 怒りが体から湧いて来る。
自分以外の人間がマヤに触れたかと思うと、いてもたってもいられない。
大人気ないとわかりながらも、速水は仕事を投げ出し、社長室を後にした。

 水城が出社すると肝心の速水の姿はない。
代わりのように床に砕け散ったコーヒーカップがあった。
物に当り散らすとは冷静な速水にしては珍しい。それだけマヤのスキャンダルが頭に来たようだ。
「真澄様は今日はもう戻って来ないわ」
 今速水の秘書をしている後輩の男に水城が口にする。
「えっ、そんな、この後の予定はどうすればいいんですか?」
「風邪でも引いたと言っておけばいいわ。そうね。インフルエンザなんかどう?」
「夏ですよ」
「じゃあ、食中毒で入院したとでも言っておきなさい。感染力が強いからお見舞いも無理だと
先方には伝えなさい。それで三日ぐらいは持つでしょう。それから、記事の方は私が処理しておきます」
 テキパキと指示を出すと水城はマヤのスキャンダルの件に取り掛かる。
幸い、記事は週刊誌が発売前のものだ。
一応記事になる前にこんな内容のものが載ると雑誌側からお伺いが来るのだ。
速水のスキャンダルの時もきっと同じような事があったはずだ。
それを見逃してしまったのは、秘書のせいなのか、速水の忙しさのせいなのか。
そんな事を考え水城はため息をつく。
マヤに集中し過ぎて秘書課を留守にしたのは失敗だった。
自分が側にいれば、速水にも、マヤにも余計な気苦労はかけなかっただろうに。
今度の事は水城にとっても悔しい。
「真澄様、すみません」と、水城は床に散ったコーヒーカップの破片を広い集めた。


 映画の撮影が休憩に入ると、マヤは急ぎ足でスタジオを出た。
行く先は隣の練習室だ。次はピアノを弾くシーンだ。
 音は編集の時に入れるので、弾けなくてもいいと言われていたが、
マヤはピアノのレッスンを希望した。撮影が始まる一ヶ月前から、練習して来た。
 寝る時間を削って一日一時間はピアノに向かい、何とか指の格好だけはつくようになった。
曲の方は一ページ分がゆっくりと、弾けるぐらいにはなった。
 赤い防音扉を開けると、マヤは聴こえてくるピアノの音色に目を見開いた。
アップライト型のピアノの前に座る黒い背広が見えた。速水だ。
弾いている曲はショパンの別れの曲。マヤが映画の中で弾く曲だ。
マヤがたどたどしくしか弾けない曲を流れるように弾きこなす。圧倒される演奏に声も出ない。
最初は呆然と聞いていたが、マヤは段々胸の奥がかきむしられるような痛みを感じた。
 ピアノは心を写す楽器だと言ったのはマヤをレッスンしてくれた先生だった。
寂しさと孤独感を感じるのは速水の心の内側が写っているからなのだろうか。
 いつか速水が孤独な人間だと言っていた。その言葉通りいつも寂しさで詰っているのかもしれない。
しかし、人前では絶対速水はそういう所を感じさせない。それは速水が心を隠して生きているという事だろうか。
本音で生きて来たマヤにはよくわからないが、そんな世界で生きる事がどれ程苦しく辛いのだろう。
マヤは泣きたくなった。
堪らず、速水の背中を抱き締めた。
「……ちびちゃん」
背中のぬくもりに驚き、速水はマヤを振り返る。
「久しぶりだね」
低くてハリのある声が耳に落ちる。速水の声を最後に聞いたのはもう、一週間以上前だ。
恋しさが涙になって溢れる。
「……速水さん、速水さん……!速水さん!」
マヤは振り向いた速水を更に強く抱き締めた。
「会いたかったよ……会いたかった」
 速水もマヤを強く抱き締める。煙草とコロンが混じった速水の香りがした。
「俺も会いたかった」
 力強い声にマヤは肯く。
「速水さんと離れたくない。何もかも捨ててどこか二人で行きたい」
 追い詰められた想いがそんな事を口にさせる。
速水の恋人がいない場所に二人きりで行きたいと本気で願う。
 速水と離れたくない。速水が欲しい。
ずっと、一緒にいたい!速水が側にいてくれるなら何を失ってもいい……。
いつの間にか速水はマヤにとっての全てになっていた。
「速水さんが好きなの。速水さんに恋人がいても好きなの」
 涙に濡れた瞳で速水を見上げる。
「苦しくても辛くても速水さんと一緒にいたいの」
「……マヤ」
 思いがけないマヤの激しさに速水は飲み込まれそうになる。
里見茂との事を聞こうと思ったが、それ所ではなかった。




 撮影を投げ出す勢いだったマヤを何とか宥め、
速水はスタジオの隅でマヤを見守っていた。絶対に帰らないで下さいと
何度も釘を刺され、マヤは速水の居場所を確認するように何度も振り返る。
 今日のマヤの不安定さは一体何だろうと心配になりながら、速水はマヤに向けて
軽く手を振った。それを見てマヤはやっと安心したようにカメラの前に立った。
 今日のシーンは余命短い浩也に香織が最後まで側にいさせて欲しいと
涙ながらに訴えるシーンだ。
 香織を演じるマヤにはさっき速水に見せた激しさがあった。
これが演技だとは思えないぐらい真に迫ってくるものがある。
 スタジオ中が息を飲んで、香織と浩也を見守る。
「カット、OK!」
 監督の声に現場の空気が緩む。
マヤは香織の仮面を外すと速水の方に走り出す。
水色のワンピースの裾がフワリと揺れて向かって来る姿が眩しく見えた。
周りにスタッフがいなければ両手を広げて待ち構えたい心境だ。
「速水さん、どうでした?」
 マヤが勢いよく立ち止まる。微かに頬が赤くなっていた。
速水は笑顔を浮べる。
「良かったよ。香織の言葉に心が動いた」
 マヤが硬い表情を崩し、弾かれたように笑う。
ホッとさせる笑顔だ。
「それを聞いて安心しました」
 マヤがそっと速水の手を握ると、温もりが伝わる。
小さな手だけど、安らぎを感じさせてくれた。
「速水さんの事を思って演じました。香織の言葉は私の速水さんへの想いです」
 潤んだ瞳でマヤが見上げる。反則ワザ過ぎる。そんな顔をされてはやっぱり、
里見茂の事は聞けない。目の前のマヤがどうしようもなく可愛い。
里見との記事を見た時の不快な感情は小さくなっていた。
「ねぇ、速水さん、どこかに連れて行って」
上目使いでマヤが見る。そんな甘え方いつの間に覚えたのだろう。
ちょっと前のマヤにはなかった表情だ。
「あぁ、わかった」
 仕事の事が頭に過ぎったが、口が反射的に答えていた。
今はマヤだ。何を失ってもいいから、マヤと一緒にいたいと思った。




 映画スタジオからタクシーで伊豆の別荘に向かった。
マヤがもう一度行きたいと言ったのだ。
 マヤはどうした訳か速水にくっついたまま片時も離れようとはしない。
 タクシーに乗っていても、速水の肩に頭を乗せ。速水の腕を抱き締めていた。
運転手がチラリとミラー越しに見ていたが、速水も離れられず、マヤの求めるままにしていた。
 またスキャンダルになりそうだなと、心の中で苦笑する。でも、その時は必ずマヤを守る。
どんな事を書かれても、あらゆる権力を使って握りつぶす。自分にはそれが出来る。
マヤの為ならどんな苦労だって惜しまない。そんな事を考えている自分にまた苦笑が零れそうになる。
 11才年下のマヤに完全に骨抜きにされ、夢中になっている。こんな恋初めてだ。
マヤの全てが欲しいと思う。おそらく二人きりになったら、マヤを放さないだろう。
体中にキスをして、マヤの中に自分を深く刻みつけるだろう。
 いや、ダメだ。それだけはしてはいけない。未成年の彼女にする事ではない。
それにこの恋は期間付きなのだ。抱いてしまえば別れが辛くなる。
自分よりもマヤの方がきっと辛い気持ちを引きずる事は想像出来た。
彼女と綺麗に別れられる距離を保っていなければならないのだ。
「どうしたの?」
 マヤが不安そうに見る。
「速水さん、恐い顔してる。私といるのが退屈?」
「そんな事ない。楽しいよ」
 速水は笑顔を作り、マヤを抱き締める。
肉体的な関係を結ぶ事が出来なくてもいいじゃないか、
こうして一緒にいられるだけで幸せではないかとマヤの温もりを感じながら思い直した。

 別荘に着いたのは午後10時頃だった。タクシーには四時間乗っていた。
いつの間にか眠ってしまったマヤを一人で抱きかかえ、速水はタクシーを降りた。
 そのまま二階の客室にマヤを連れて行った。ベッドに寝かすと、長い髪がシーツの上に広がる。
その髪を撫でながら、じっとマヤの寝顔を見下ろす。
 あどけない顔をしていた。十六歳、高校二年生の顔だ。
自分より11も年下の少女だと実感する。
 そんな彼女が里見茂とホテルに行ったのは本当なのだろうか?
週刊誌の写真を見たが、未だに信じられない。
 マヤに限ってそんな事は絶対にない。そんな子ではない。と、強く思う。
 しかし、感受性の強い子だ。彩子とのスキャンダルに傷ついて自棄を起こしたのかもしれない。
冷静な判断力を失い、里見に言われるままついて行ってしまったのだ。
 だとしたら、自分の責任だ。マヤに本気になりそうだった自分から逃げた事がいけない。
全ては身から出たサビだと速水は唇を噛む。恋人を苦しめるなんて男として情けない事だ。
「すまない。マヤ」
マヤの頬に触れ、キスをした。唇を放すとマヤが大きな目を開けていた。
「速水さん、どうして謝るの?」
「だって、俺は……」
 そこまで口にすると、マヤが起き上がり、速水にキスをする。
長くて深いキスだ。胸の奥が熱くなる。マヤに対する想いに胸が締め付けられる。
マヤと共にベッドに沈み、キスを繰り返した。
 薄氷の上に自分はいる気がした。彩子の名前を出した途端に氷は砕け、息も出来ない深い海の底に落とされるのだ。
そこにあるのは苦しみしかない。時間を戻せるのなら、彩子と会った自分を全て消し去りたい。
「……速水さん、そんな顔しないで」
唇が離れると、マヤが速水を見つめる。
「悪いのは私なんです。映画の撮影の為に速水さんの恋人に迷惑をかけました。
ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい」
マヤの言葉にハッとする。一体それはどういう理屈なのか?
謝るのは自分の方だと口を開けようとしたが、マヤの言葉が続いた。
「私、速水さんの事、本当に好きになって、別れなきゃいけないってわかっていたけど、
気持ちが抑えられなくて。速水さんの恋人に対して酷い事をしているってわかっているけど、
速水さんが欲しいんです。離れられないんです」
――どうしてそういう解釈をするんだ。君は……。という言葉を速水は喉の奥で飲み込んだ。
マヤの言葉に最後の鉄壁が崩れ去る。
マヤが愛しい。11年が離れていようと、高校生だろうと、愛している。
「……マヤ」
零れそうになる涙を堪え、速水はマヤを抱き締めた。
「俺も君から離れられない。愛しているよ。それから、記事の事はごめん。
彼女は恋人じゃない。俺が君との事に耐えられなくて浮気をしたのは事実だ」
マヤが目を丸くする。
「……うそ」
「嘘じゃない。本当に浮気をしたんだ」
「……どうして……」
「無理矢理、君を抱きそうになる自分が恐かった。あの時の俺は気持ちを抑える必要があったんだ」
 マヤはゆっくりべッドから起き上がる。
速水に背を向け、窓辺に立つ。速水もベッドから起き上がり、マヤの背中を見つめた。
紺色のワンピースのファスナーは半分降りていて、白いブラジャーが見えた。
キスを重ねながら、速水がそうした。
「それは私が未成年だから?商品だから?」
「あぁ、そうだ。俺は社長で、君は女優だし、まだ高校生だ」
マヤが力なく、側にあった椅子に沈み込む。
「……酷い、速水さん」
マヤが俯く。
「酷いです。そんなの……。本物の恋人じゃないけど、三ヶ月は俺の事を恋人だと思えって
言ってくれたのは何だったんですか!抱きたいと思うなら、抱けばいいじゃないですか!他の人で気を紛らわす
なんて、そんな理屈私にはわかりません!」
怒鳴り声が響く。厳しい顔でマヤが速水を睨む。
「……ごめん、マヤ。返す言葉もない。俺は最低だ。自分の性欲を抑える為に君にも彩子にも酷い事をした」
「本当、最低です。どうして私にぶつけてくれなかったの!私だって速水さんに抱かれていたら、こんなに苦しい想いしなかった!
里見さんとも……」
里見という言葉に胃が痛くなる。
「やっぱり、記事にあった通りなのか?里見と寝たのか?」
速水の言葉にマヤは近くにあった花瓶を投げる。速水はギリギリの所で避ける。
花瓶は壁にぶつかって砕け散った。
「何でそんな風に言うんですか!私がそんな事する訳ないでしょ!」
「じゃあ、里見とホテルに入ったという記事は何なんだ!駐車場で抱き合っている写真は何だ!」
感情的になる。大人気ない事はわかっていたが、この事については冷静になれない。
「それは」とマヤが言いよどむ。
「何だ?」
厳しい調子で速水が言う。
「……速水さんが女の人と使ったホテルに行っただけ。記事に出ていた駐車場にいったら、
悲しくて、涙が止まらなくなって……そしたら、里見さんが私を抱き締めてくれたんです。
それだけです。何もありません」
マヤは真っ直ぐに速水を見つめる。
純真な瞳は嘘などついていないと訴えた。
速水はため息をつく。ベッドから立ち上がると、マヤの近くに行き、膝をついた。
「ごめん。悪いのは全部俺だ。悪かった。許してくれとは言わないけど、君の気が済むように、叩くなり、好きにしてくれ」
速水は殴れと言わんばかりに頬を差し出す。
マヤは右手を振り上げる。速水は歯を食いしばり覚悟した。
次の瞬間、マヤの手が速水の頬にそっと触れる。
「……どうして、叩かないんだ」
「叩ける訳ないじゃないですか」
マヤの瞳に涙が浮かぶ。
「好きです。速水さん」
しっとりしたマヤの声が零れる。胸が熱くなった。
「速水さんが最低な人だったとしても好きです」
「酷い言い様だな」
速水はマヤを抱き締めた。




 翌朝、マヤは速水の腕の中で目を覚ました。
幸せな朝だ。穏やかな気持ちで満ち足りていた。
 昨夜の速水は今までで一番優しかった。思い出すだけで甘い気持ちが広がる。
マヤがじっと速水の顔を見ていると、瞼がゆっくりと開いた。
「おはよう、ちびちゃん」
爽やかで、甘い声が響く。
マヤは速水と目が会うと微かに頬を赤らめる。
「……おはようございます」と言って、マヤは布団を頭まで被った。
そんなマヤに速水が笑う。
「そんなに恥ずかしそうにされたら、俺はどうしたらいいんだ」
速水はマヤの布団をはいだ。生まれたままの姿のマヤが露になる。
速水は遠慮なくその体にキスをした。
「もうっ、やめて下さい」
艶のある声でマヤが抵抗する。
明るい陽の下でマヤが赤くなっていく姿を見るのは堪らなく可愛かった。
もっとマヤの反応を楽しみたいと思う。すぐに起きるつもりだったが、速水はベッドから出られなくなる。
「もうっ、朝ですよっ、えっ、やだ、そんな……」
顔を真っ赤にしたマヤが甘く速水を睨む。
「仕方ないだろ。君が可愛い過ぎるんだ」
速水はマヤの耳たぶにキスをする。昨夜の情事で弱い場所だという事は学習済みだ。
マヤは力が抜け、ベッドに沈んだ。

 朝食を取る頃には昼近くになっていた。
マヤはバスローブ姿のままダイニングテーブルに速水と並んで座った。
朝食のメニューはマヤが焼いた焦げたトーストと、速水が作った形の良いオムレツに
ヨーグルトとコーヒーだ。
「速水さんて何でも出来ちゃうんですね」
フンワリ半熟のオムレツをマヤはフォークですくう。
「君は演技以外の事は本当に不器用だな」
速水は焦げたトーストを口にする。
マヤは苦笑を浮かべた。
「……すみません」
「まぁ、そんな所も可愛いんだけどな」
速水のセリフにマヤは赤くなる。
「か、からかわないで下さい」
わかりやすい反応に速水は愉快に笑う。
「本当に可愛い」と、マヤの頬にキスをした。
 朝食の後は二人で片付けをして、テラスから海を眺めた。
速水に抱き締められたままマヤは椅子に座っている。
 こんなに一日中速水とくっついていた事はないので、嬉しい。
浮気の事はまだ少し棘になっていたが、昨夜マヤを精一杯愛してくれた速水にマヤは救われた。
速水に愛されているという事実がマヤの中で自信となった。
「……マヤ、ありがとう」
耳元に低い声が落ちる。マヤは驚いたように速水を見上げた。
「どうしたんですか?」
今生の別れのような穏やかな響きにマヤは戸惑う。
「君といて幸せだなって思ったんだ。君と出会えて本当に良かった」
「……速水さん、私もありがとう。速水さんに出会えて良かった」
マヤは速水の胸板に顔を埋めた。幸せだった。
速水と一緒にいるといつも安心する。これが年上の男性に恋するという事なのだろうか。
マヤは目を閉じて速水の胸の鼓動に耳を澄ませていた。
いつまでも幸せな時間が続きますようにと祈りながら。




 その知らせを聞いたのは映画の撮影中だった。
行方不明中の母親が死んだと水城の口から語られた時にはこれが夢なのか、現実なのかわからなくなった。
 マヤはすぐに母が収容されている病院に向かい、霊安室で眠る母と対面した。
 母の側に行き、その姿をじっと見つめる。最後に会った時よりも随分とやつれていた。
マヤは母にすがりつくように泣き崩れた。
 自分さえ演劇の道に行かなければ、ずっと母の側にいる事が出来たなら、
こんな事にはならなかったんじゃないかと、後悔が募る。
 だとしたら、母が死んだのは自分のせいだ。その事に気づいた時、心の中で何かが割れた気がした。

 告別式と一緒に初七日が終わり、マヤは建ててもらった母の墓前にいた。
 母の事をちょっとでも思い出すと涙が止まらない。
 幼い時に父はもうなく、ずっと母だけが肉親だった。いつも側にいた母。
ラーメン屋の二階で貧しいながらも、幸せな生活を送っていたと今なら思える。
「マヤ、撮影の時間よ」
水城が静かに声を掛ける。
「……行きたくない。母さんの側にいる」
そんな我がまま聞いてもらえないのはわかっていたが、
口にせずにはいられなかった。
会いたくて堪らなかった母にやっと会えたのだ。
あと少しだけ、ここにいたっていいじゃないかと思う。
「マヤちゃん」
水城がそっとマヤの肩に手を置いた。
「月影先生との約束を忘れたの?あなたは紅天女になるんでしょう?
今、あなたが撮影に行かないという事は紅天女を放り出す事になるのよ」
厳しい声が耳を貫く。マヤは「いや」とすぐに頭を振った。
紅天女を諦める訳にはいかない。それはわかっている。
でも、今は、母さんの側にいたい。涙が溢れた。
「さあ、行きましょう」
水城に促され、マヤは渋々母の墓前を離れた。


「沙都子、ちがう!そこは泣く所じゃない!」
 監督の声にマヤは涙を拭う。どうしても涙が止まらなかった。
母親と楽しく話すシーンだったのに、目の前の女優を母と思った瞬間から、
気持ちが暴走するのだ。全く沙都子の仮面が被れない。
言葉なく俯く事しか出来ない。
「すみません。休憩させて下さい」
見るに見かねて水城が監督の前に出る。
監督は「仕方ねぇな」とため息をつき、三十分の休憩に入った。
 マヤは逃げるように楽屋に戻った。
ドアを開けると乙部のりえが深刻な表情で「マヤさん、ひどかこつよ。うちゃ、聞いたとよ」と話しかけてくる。
「のりえさん、どうしたの?」
マヤは心配そうにのりえを見る。
「驚かんでね、マヤさん、大変なこつ。芸能界ちゅうのはひどかとこばいね、大都芸能は非常ばい」
のりえの言葉にマヤは動機が早くなるのを感じる。
「さっきマヤさん訪ねてお客がみえたとよ。亡くなられたお母さんのいんしゃった療養所の付き添い看護婦たい」
「母さんの付き添い看護婦?」
母親が長野の療養所にいた事は薄っすらと聞かされていた。
「うちゃ、聞いたとよ。あらいざらいなんもかんも。マヤさんのお母さん大都芸能に監禁されちょったとよ!
マヤさんの母さんは大都芸能に殺されたとよ!速水真澄に殺されたとよ!」
最後の言葉が胸に突き刺さる。まさか、そんな事あるはずない。速水はそんな事をする人じゃない!と
マヤは言いそうになった。
「そん人、近くの喫茶店で待ってくれちょるから」と、のりえに腕を引かれマヤは楽屋を後にした。



 速水はこれほど後悔した事はなかった。マヤの母親の死の責任は間違いなく自分にある。
それをもし、マヤに知られたらどうなるのか。恋人として過ごした時間が更に罪を重くする。
 水城から母親の死を聞かされた時は信じられなかった。
母親と対面したマヤは小さな体をそれ以上に小さくしているように見えた。
恋人として駆け寄って抱き締めてやりたかった。
でも、出来ない。そんな事は許されない。
母親を監禁し、このような事態を引き起こした張本人は速水自身なのだから。
 あの日から、マヤの顔を見れなくなった。葬儀の時も速水はすぐに立ち去った。
マヤの母親を殺した。それは一生かけても償えない罪だ。
 速水は重たく息を吐くと、社長室から見える景色に目を向ける。
さっきまで晴れていた空に黒い雨雲が覆っていた。
出先から社に戻った時にゲリラ豪雨が降ると秘書が言っていたのを思い出す。
 次の瞬間、稲光が空を包み、大きな音がした。雷が落ちたのだ。
それも何度も何度も落ちる。そして、電気が突然切れた。
 秘書が懐中電灯片手に慌てて、社長室に入って来た。
「社長、停電です」
その通りの事を言われ、笑いたくなる。
「あぁ、わかっているよ。他に用件は?」
「あの、社長に会いたいと北島マヤが来ていますが、どういたしましょうか」
マヤの名を聞いた瞬間、速水の胸にも雷が落ちる。
今、一番会いたくない相手だ。だが、逃げる事は出来ない。
「通しなさい」
速水の声に秘書は会釈をすると出ていった。
少ししてマヤが薄暗い社長室に入って来る。
「どうぞ」と速水はソファをマヤに勧めた。マヤは人形のような表情で、促されるままソファに座る。
「すまないね。停電なんだ」
マヤと向き合う位置に腰を下ろすと速水はそっとマヤを見た。
稲光がマヤの顔を照らす。その顔は怒っているようにも、泣いているようにも見えた。
その表情を見て、これからマヤが何を口にするかわかる気がした。
「あなたが、母さんを監禁したって本当ですか?」
予想通りの言葉に速水は肯いた。
マヤはこれ以上ない程、険しい表情を浮べる。
「酷い!」
言葉が胸に突き刺さる。憎悪でいっぱいの目をマヤに向けられ、思わず視線を外してしまう。
「こんな事になってすまないと思っている。本当に申し訳ない」
速水はテーブルに手を付いて頭を下げた。
「……どうして何ですか。どうして母さんにあんな事をしたんですか!」
マヤの声は怒りに震えていた。
「君をスターにしたかった。話題を作って、映画の公開と同時に母親と対面させればいい宣伝になると思ったんだ」
「いい宣伝ですって!酷い、酷い、酷い!宣伝なんかの為に目の見えない母さんを監禁するなんて許せない!
私がどんなに会いたがっていたか知っていたでしょう?それなのによくそんな事出来ましたね!」
ドンと感情的にマヤがテーブルを叩く。
「私、一生速水さんの事許さない!速水さんなんか大嫌いよ!」
そう叫ぶとマヤは社長室を飛び出して行く。速水は追いかける事が出来なかった。



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