―――  三ヶ月の恋人 6  ――― 




  マヤが行方不明になったと速水の耳に入ったのは舞台「シャングリラ」初日だった。
主演のマヤの代わりに乙部のりえが舞台に上がる事になった。
 速水はマヤを探し歩くが、見つからない。
人を使い、あらゆる手段を使っても、マヤが行方知れずになって三日、何の手がかりもない。
 嫌な予感が募る。まさか、そんな、母親の後を追いかけたなんて事は……。
その想像が何度も速水の頭の中に過ぎる。
マヤに限ってそんな事は絶対にないと何とか否定するが、不安が募った。
 間違いなくマヤを追い詰めたのは自分だ。胸が締め付けられる。
母親を死に追いやり、マヤを裏切った。一生消える事のない深い傷を与えてしまった。
 どうしていつもあの子を傷つけるような事しか出来ないのだと、速水は頭を掻き毟った。
「真澄様、少しお休みになって下さい」
 社長室に入って来た水城が速水に駆け寄る。
この三日、速水は睡眠を取らずにマヤを捜し歩いていた。
食事もろくに取らず、いつもの余裕は完全に消え、憔悴して見える。
「いや、大丈夫だ。こんな事をしている場合じゃないんだ」 
速水は思い立ったように上着を掴むと、ソファから立ち上がる。
「真澄様、そんな体でどこに行くんですか」
「マヤを探すんだ」
「落ち着いて下さい。マヤは他の者が探しています。プロの探偵も動いています。
今は待ちましょう。必ず見つかります。それよりもマスコミの方の対策を考えなければなりません。
北島マヤは今、入院という事になっていますが、何の病気か問い合わせが殺到しています。
テレビ局と、映画の方も撮影に穴を開けて大変な事になっています。
真澄様直々に関係者と話して頂かないと収拾がつきません」
「だが、マヤを探しに行かないと」
「しっかりなさいまし!今、あの子を守れるのはあなたしかいないんですよ!」
水城の張りのある声が飛ぶ。
睡眠不足には応える声の大きさだった。
速水は水城を見る。
「わかったよ。俺が対処する」
 それから慌しく時間が過ぎた。テレビ局と映画会社に行き、頭を下げた。
記者会見を開き、マヤが過労で倒れた事を発表した。
「行方不明ではないのか」と一部記者からあがったが、有無も言わせない速水の迫力で
疑惑を否定した。誰も速水に追求する事が出来なかった。
これが広報部長あたりだったら、追求を交わす事は出来なかっただろう。
 水城は袖から会見をみながら、そんな感想を持った。

 それから一日が経ち、マヤが見つかったと連絡が入った。
マヤが発見されたのは長野県だった。母親が入院していた療養所を訪ねた所で
わかったのだ。
 マヤが生きていた事に、速水は心の底から安堵した。
部下に連れられたマヤと対面したのは、入院している事になっている病院だった。
速水は病室で人目もはばからずマヤを抱き締めた。
「バカ野郎、心配したぞ」
 強くマヤを抱きしめるが、マヤは黙ったままで、虚ろな表情を浮べている。
まさか気でも触れてしまったのではと、嫌な予感がした。
心配するように水城を見ると、「今、検査の結果を主治医の先生から聞いた所です」
水城は険しい表情を浮べる。
「検査の結果って何だ?」
「マヤは今、誰とも話せない状態です。こちらが言っている事も伝わっているかわかっていません」
「何だと」
「強い精神的なショックでそうなるそうです。回復する見込みは暫く入院して様子を見ないとわからないそうです」
信じたくない言葉に耳を塞ぎたくなった。
やっと会えたと思ったら、今度は話しも出来ない状態だと。
怒りがこみ上げてくる。それは自分と、理不尽な運命のサイコロ振る何者かにだ。
「くそっ」
 やり切れず速水は拳を壁にぶつける。
母親を監禁した事が、ここまでマヤを追い詰めるとわかっていれば絶対にしなかった。
自分のした事の罪深さを感じた。

 

 今自分はどこにいるのだろうか。マヤはぼんやりとそんな事を思う。
ベッドに横になり、白い天井を毎日見上げている。白い服を着た女性が
「ケンオンデス」とやってくる。そして何かを脇に入れる。それは体温計と呼ばれているものだと
少しずつわかってくる。頭の中がふんわりしていた。まるで夢の中にいるようだ。
自分がいつ起きているのか、寝ているのかもわからない。
 センセイと呼ばれる人が時折来て、話しかけられるが、何を言っているのかわからない。
一日、窓の外を見て過ごす。外が白くなって、赤くなって、黒くなる。黒くなると眠る時間だと言われる。
目を閉じなさいと言われ、閉じるとまた「検温です」の声で目を開け外が白くなっている事に気づく。
それから、白い天井を見る。センセイが来て話しかけられるが、何を言われているかわからない。
それがずっと続く。その中で、時々センセイとは違う人がいる事がわかった。
その人はハヤミサンと言われている。白い服を着た女の人がそう言っていた。
ハヤミサンは外が赤くなるか、黒くなる頃に来る。
ハヤミサンの声はセンセイとも白い服の女の人とも違う。
低くて、あったかい声をしていた。いつも「ゴメン、スマナイ」と言っている。
あったかい声をしているのに、寂しそうな顔をしている。
大きな手で頬に触れてくれる。優しい人だと思う。また「ゴメン」と言っている。
ゴメンって一体どういう意味なのだろう。前は知っていた言葉だったけど、
今はわからない。わかる言葉とわからない言葉がある。
ハヤミサンの言葉もほとんどわからない。でも、ハヤミサンの声を聞いているのはいい。
ポカポカとあったかくなる。
「お日様ポカポカ、あったかいね」と、大好きだった絵本に書いてあった。
ママがいつも眠る前に読んでくれた。ママって、何だろう。
ママ……急に胸が痛くなった。頭が痛い。白い女の人がやってくる。
センセイも来る。ハヤミサンも「しっかりしろ」と言う。
頭が痛い。苦しい。ママって何?どうして頭が痛くなるの。
「チンセイザイを打ちましょう」とセンセイが言って、それから黒くなった。
 また「検温です」の声で目が開く。白い女の人、その人は看護婦さんだとわかる。
センセイが来て「大丈夫ですか」と聞いてくる。今日は少しセンセイの言葉がわかる。
それからハヤミサンもいた。窓を見ると白かった。いつもハヤミサンがいるのは赤か、黒なのに違う。
ハヤミサンがずっと付き添っていたと看護婦さんが言っていた。
今日は少し気分がいい。ハヤミサンがいるからかな。「朝食です」と緑のおばさんが持って来る。
看護婦さんの他に緑のおばさんがいた事もわかる。
「今日はちゃんと食べような」と、ハヤミサンがスプーンでヨーグルトをすくって、私の方に向ける。
「ちびちゃん、ほら」
スプーンが唇に当たる。私はどうすればいいかわからない。
ハヤミサンが困った顔をする。
「ちびちゃん、食べよう」
ハヤミサンは私を見る。
「ほら、あーんってして」
ハヤミサンが口を開ける。
私は同じ事をすればいいのだとわかる。
「そうだ。マヤ、そう、そう、はい。あーん」
口の中にヨーグルトが入った。冷たい。イチゴの味がした。
ハヤミサンが笑う。
「マヤ、偉いぞ。偉いぞ、ほら、あーん」
ハヤミサンが喜ぶからまた私は口をアーンした。
ヨーグルトが入る。甘い。
「凄いぞ、マヤ、はい。アーン」
また私はアーンをする。ハヤミサンが頭を撫でてくれる。
ハヤミサンの手は気持ち良かった。
 アーンをすると看護婦さんも先生もハヤミサンも喜んでくれる事がわかった。
緑のおばさんは一日に三回来る。ハヤミサンはいつもアーンの時にいる。
 空が赤と黒の時しかいなかったのに、白もいる。
アーンが終わるとどこかに行ってしまう。
 「また検温です」で外が白くなる。緑のおばさんがご飯を持って来る。
ハヤミサンが来る。「おはよう」とハヤミサンが言って、頭を撫でてくれる。
やっぱりハヤミサンの手は気持ちいい。ママみたい。
ママって何?ママ、ママ、ママ……母さん、母さん!
「マヤ、どうしたんだ?」
頭が痛い。苦しい。母さん、私の母さん。
一緒にラーメンを食べた。ラーメン屋さんの二階が私と母さんの家だった。
「どうしました?」
看護婦さんが来る。看護婦、看護婦、母さんの担当だった看護婦。のりえさんが言っていた。
長野の療養所に母さんは入院していた。速水真澄が母さんを監禁した……!
目の前にいる男が母さんを死に追いやった。
「いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」



 ベッドの上で眠るマヤをじっと速水は見つめていた。
鎮静剤を打ち、すぐにマヤは意識を失った。毎日少しずつ何かを思い出しているのが側にいてわかる。
 小さな女の子のような表情をしている時もあれば、さっきみたいに速水に憎しみの目を向けている時もある。
自分の存在がマヤにとっては苦しみの塊でしかないと今更気づく。
 ずっとマヤの側にいようと思っていたが、それは間違っていた。マヤは速水の顔など見たくないのだ。
自分勝手な想いだけで突っ走っていた。マヤが上げた悲鳴が、お前など消えてしまえと言っているようだった。
 速水は重く息を吐く。マヤに何をしてあげればいいのだ。
どんな償いをすれば許されるのか。いや、何をしても一生許される事ではない。
かけがえのない母親を奪った罪は一生かけたって償えない。
「俺はどうすればいいんだ」
ため息が重なった。

 

 最近気づいた事。それはハヤミサンがいない。
アーンの時いつもいたハヤミサンがいない。
 代わりにいるのはミズキサンという髪の長い女の人。
優しい人だけど、ハヤミサンの方がいい。ハヤミサンに頭を撫でてもらいたい。
大きくて温かい手で触られるとホッとする。
 どうしてハヤミサンは来なくなったんだろう。どこか遠くに行っちゃったのかな。
母さんみたいに……。
 母さん、ごめんね。一緒にいられなくてごめんね。
私、どうしてもお芝居やりたいの。月影先生の所で紅天女になりたかったの。
 あぁ、亜弓さん、来てくたれの。ありがとう。
月影先生も、ありがとう。そんなに心配しないで。
泣かないでみんな。私は大丈夫だから。そんな目でみないで。
先生、すみません。すみません。すみません。
 桜小路君、えぇ、いつかきっと同じ舞台に立ちましょう。
 あぁ、麗!につきかげのみんな!来てくれたの!ありがとう!
会いたかったの。みんなに会いたかったの。
 またみんなと一緒にお芝居したかったの。
 お芝居……そうだ。私、沙都子にならなきゃ。香織にもならないと。
今日の撮影はどうしたの?水城さん、どうして私ベッドで寝ているの?
水城さん、あんなにいっぱいお仕事があったのに、私、どうしたの?
どうして、声が出ないの?なんで何も喋れないの。
 ハヤミサンは……速水さんはどこにいるの?私、謝らなきゃ。
母さんが亡くなったの全部速水さんのせいにして責めた。
私だっていけなかったのに。
 なんで、声が出ないの。イヤよ、イヤ、注射は打たないで。
せっかく思い出したのに、また忘れてしまう。
 いや、いや、いやよ――!打たないで――!




「マヤの様子はどうだ?」
速水は仕事が落ち着くと水城に電話する。
「今日も暴れました。苦しそうに頭を抑えて、何かをわめいて」
「そうか」
 沈黙が流れる。マヤの病状が段々悪くなっている気がした。
医者は様子を見ると言っているが、もう二ヶ月経つ。
一体いつになったらマヤは人と話しが出来る状態に戻るのか。
 もしかしたら、一生このまま、病室で送る事になるのでは、という不安が過ぎる。
堪らない。マヤを一生病院に閉じ込めるなんて嫌だ。舞台の上で輝くマヤが見たい。
女優北島マヤを潰す訳にはいかない!
「彼女が正気に戻る為に何か出来る事はないのか?」
「……月影先生が言っていましたけど、マヤに舞台を見せてはどうかと。
マヤちゃんは本能から女優です。もしかしたら何かを思い出す切っ掛けになるかもしれないと」
「だったら、すぐに芝居を見せに行こう」
「それが、主治医の先生がまだ外出は許可できないと。いつ暴れ出すかわからないし、
外は危険だと言っていました」
「だったら医者も一緒に連れて行け!何かあった時対応できるようにするんだ。
舞台は貸切にする。他の観客がいなければ暴れたって迷惑はかからんだろう。
丁度、姫川亜弓の舞台がある。亜弓君なら喜んで協力するだろうし、ライバルの芝居を見せた方が
刺激になるだろう。金ならいくらかかっても構わん!」
 一方的に言うと速水は電話を切った。すぐに姫川亜弓に電話する。
マヤが元に戻る可能性があるなら、何だってやる。命を差し出せと言われたら惜しげもなく差し出す。
それぐらいの強い覚悟が速水にはあった。




 頭がぼんやりとしていた。薬のせいだという事がわかった。
看護婦が話しているのを聞いたのだ。薬は嫌だ。何も考えられなくなる。
 水城がいなくなった後、点滴の管を抜いた。
点滴スタンドがすぐにピーピーピーという異常音を出す。
マヤはそれを振り切るようにベッドから逃げ出し、窓を開けた。
目の前にはマヤ一人が飛び移るのに丁度いい木があった。
病室は三階だった。下手をしたら、大怪我をするかもしれない。
 しかし、迷っている暇はない。
マヤは窓枠から木に向かって飛んだ。とにかくここから出なければならない。
 薬で頭を可笑しくされるのはもう耐えられなかった。




「何!?マヤがいなくなっただと!」
 出先で受けた電話に速水は声を荒げる。
今夜は速水会長を囲む二ヶ月に一度の定例食事会だ。
出席が許されるのはグループ会社の社長十人だけだった。
社長として一番若い速水は英介から遠い末席に座っていた。
 食事会とは名ばかりで、英介が一人ずつに小言を言う席だ。
丁度速水はみんなの前で北島マヤの事をどうするのだと詰められていた所だったが、
着信表示の水城の名にマヤに何かあった事がわかり、電話を取った。
「わかった。とにかく、すぐに行く」
 携帯を切ると速水は英介に鋭い視線を向ける。
「申し訳ありません。急用が出来ました」
「北島マヤの事か」
 英介は迫力ある眼光で返す。空気がピンと張り詰める。
「はい」
「だったら、捨てておけ。頭のおかしくなった女優などもう価値がない。大都芸能から即刻追い出せ!」
「なっ、何ですって」
 速水は自分の耳が信じられなかった。
なんて非道な事を口にるすのだ。血が繋がっていないとはいえ、父親の口からそんな事聞きたくなかった。
頭に血が上る。英介を感情的な目で射抜く。
「何だ、その目は」
 ドスのきいた英介の声が響く。
俺に逆らえるのか、という圧力があった。
速水はぐっと腹の底に言葉を沈めるしかなかった。
「失礼します」とだけ言ってその場を後にした。
 今はまだ英介に逆らえるだけの力はない。
あの男の権力を全て奪い取るまでは我慢するしかない。
そして、紅天女をこの手で上演して母の仇を討つ。その想いだけでやって来たのだ。
 だが、マヤは絶対に手放さない。英介に何と言われようとそこは意地を張るつもりだ。
社長職を解かれる事になったとしても、英介と親子の縁を切られる事になってもだ。
心の中に熱い闘志がみなぎる。
 速水は車の後部座席から流れる景色を見つめた。
 とにかく今はマヤを見つける事が先決だ。




 季節はいつの間に秋になっていたのだろうと、外気の冷たさにマヤは思う。
マヤが最後に記憶していたのは夏休みの最中だったという事だ。映画の撮影が終わる8月末まで速水とは
恋人という関係でいる事も思い出した。映画はどうなったのだろうか。ラストシーンの撮影だけがまだだった。
 ラストは余命短い浩也が香織の前から姿を消し、香織は彼を探し当てる。
そこは病院だった。何度も浩也は死をさ迷うが、香織の声に再び意識を取り戻すのだ。
そして、互いの本音をぶつけ合い、二人が同じ気持ちだった事を知る。
 マヤはこのシーンをずっと考えていた。
香織を不幸にしたくないと立ち去る浩也と、浩也がいない事が不幸だと追いかける香織。
香織にとって浩也が存在する事が大事なのだ。そして、浩也も本当は香織の側にいたい。
自分が弱っていく姿を見られるのは嫌だったが、最後まで愛する人の側にいたかった。
 マヤは二人の深い愛情が感じられる素敵なシーンだと思うが、速水はセンチメンタル過ぎると言っていた。
香織の幸せを願うなら、浩也はもっと香織を突き放して未練を残さないようにするべきだと言うのが主張だ。
速水の考えにマヤは納得できず、何度か口論になった事もある。
 そんな事を不意に思い出して恋しさが募る。
母さんを監禁するように仕向けた憎い男のはずなのに、憎みきれない。
 その事が母さんに申し訳ない。
速水に対して憎しみ以外の感情を持っている事を聞いたら、草葉の陰で母さんは泣くだろう。
どうしてあんな男がいいんだと恨み言を言われるかもしれない。
自分でも思う。どうしてあんな男をまだ想うのか。
どうして自分は今、大都芸能のビルの前に立っているのか。
速水に何を言おうとしているのか。
涙が滲む。
「ダメよ。やっぱり会えない。会ったらいけない」
 母親を裏切るような事は出来ない。
マヤはビルに背を向けて歩く。涙が頬を伝った。
歩くごとに涙の量が増して視界が曇る。
「ダメよ。泣いてはダメよ」
 涙を拭うとまた歩き出した。
横断歩道の所まで来ると、涙でぼんやりする赤い光を見つめた。
車がマヤの前を通り過ぎていく。その中に飛び込む事が出来たら、母さんの所に行けるだろうか。
足は無意識に横断歩道の上を歩き始める。大きなトラックが走って来る。
あれなら苦しむ事もなく一発で連れて行ってくれそうだ。マヤはトラックの方を見て笑う。
もう疲れた。母さんに会いたい。そう思った瞬間、強い力で引っ張られた。
大きくて長い両腕がマヤをしっかり抱き締める。
「赤だぞ」
耳にかかる低い声に涙腺が益々緩む。
ずっと会いたかった人が今、目の前にいた。
「……速水さん!」
マヤは速水の胸で泣きじゃくった。
歩道を歩く人々が驚いたようにマヤを見るが、速水はマヤを強く抱き締めたまま動かない。
二人は交差点でしばらく抱き合っていた。




「コーヒーだ」
 そう言って速水はマヤにコーヒーカップを差し出す。
パジャマの上に薄いカーディガンを引っ掛けただけのマヤは外気に触れ、
すっかり冷え切っていた。
暖を取るようにコーヒーカップを両手で包み込む。
温かさにホッとする。
速水はマヤの隣りに腰を下ろす。
 病院には戻りたくないというマヤの要求を聞いて、速水はとりあえず会社近くに借りている
自分のマンションにマヤを連れて来た。仕事で遅くなる時や、英介と顔を合わせたくない時は
ここに帰って来ていた。
 間取りは2LDKで、あまり広くはない。
寝室と書斎があって、後は14畳のLDKがある。
 これぐらいの広さが一番速水にとってしっくり来る。速水邸は広すぎるのだ。
家というよりもホテルのような公共の施設に住んでいるような感覚になる。
それに常に大勢の使用人に囲まれている生活も本音を言えば疲れる。
誰とも口を利きたくない日だってある。
「少しは落ち着いたか」
 心配するようにマヤに視線を向ける。
マヤは静かにコーヒーを飲んでいた。
「……はい」
しっかりとしたマヤの受け答えにホッとする。
こうしてマヤとまともに会話するのは二ヶ月ぶりだ。
「それにしても、一体どうして大都芸能の近くにいたんだ。病院を抜け出してまで俺に文句でも言いに来たのか?」
いつもの調子で口にする。マヤは肯く。
「速水さんに言いたい事、沢山あります」
コーヒーカップを置くとマヤは速水の方を見る。
「毎日病院に来ていたのに、どうして急に来なくなったんですか?私はずっと待っていたんですよ」
ストレートな言葉に速水は眉を上げる。
「私、いろんな事思い出したんです。紅天女の事、お芝居の事、速水さんがいつも側にいてくれた事。
速水さんが私と恋人になってくれた事……母さんが死んだ事」
マヤの目から涙が溢れる。
「速水さんずっと、病室で謝っていたでしょう。ゴメン、スマナイって、耳にこびりつくぐらい謝っていたでしょう?
私、全部聞いていたんですから。私の為なら何でもするって言ってくれたでしょう?なのに急にいなくなるのは酷いです」
「……マヤ」
何て言葉をかけたらいいかわからない。
ただひたすら眠るマヤに謝っていた。一生許してもらえない事はわかっていたが、
謝る事しか出来なかった。
「何でもするって、嘘ですか?」
マヤが真っ直ぐに速水を見る。
「いや、嘘じゃない。何でもする。君が俺を殺したいというなら俺は今すぐにでも自分で命を断つ」
「なんでそうなるんですか。嫌ですよ。私は速水さんに側にいてもらいたい。ずっと、ずっと……」
マヤは速水に抱きつく。
マヤの甘い香りが鼻をくすぐる。
「……キスして」
甘えるようなマヤの声に速水は唇を重ねた。
マヤの望むままに、何度も唇を重ね、そのまま体を重ねた。




 雨が降っているとマヤは思った。
夜中に目が覚めた。セミダブルのベッドに速水と並んで寝ていた。
速水の寝顔を見てこれが夢じゃなくて安心する。逞しい速水の胸板に顔を埋め、
鼓動を聞いた。それが雨音のようにマヤの耳に届く。このままずっと速水の側にいたい。
何もかも捨てて、母さんが死んだ事も忘れて、二人だけで生きていけたらどんなに幸せだろう。
そんな事を思うと泣きそうになる。それが無理だという事がわかるから。
 朝になれば速水はマヤから離れて仕事に行く。
マヤはきっと病院に戻されるだろう。また速水と引き離されてしまう。
「いやよ」
運命に抵抗するようにマヤは呟く。
片時も速水と離れたくない。でも、それは母さんが許してくれない。
死に追いやった男と一緒になるなんて、親不孝な娘だと嘆くだろう。
では、どうすればいいのか。このまま速水と別れるしかないのか。
「いやよ」
やっぱり嫌だ。嫌に決まっている。母を監禁していた速水を愛しているのだ。
自分勝手かもしれないけど、速水と一緒にいたい。
「どうした?眠れないのか?」
 速水の声がふって来る。マヤの髪を優しく撫でてくれる。
「……はい。母さんの夢を見て」
 暗闇にマヤの声が落ちる。不安な声だと速水は思う。
「母さんが速水さんと一緒にいる私に怒るんです。私を捨てて、今度はその男と一緒になるのかって」
 マヤの声が涙に滲む。速水の胸が痛む。
そんな風に思わせてしまう事が申し訳ない。
「ごめん」
胸の上にいるマヤをきつく抱き締めた。




 朝が来て、速水がスーツに着替えると連れて行く所があると言われた。
マヤは昨日速水に買ってもらったワンピースに秋物のジャケットを羽織る。
「可愛いよ」
着替え終わったマヤを見て速水が微笑む。
マヤは少し恥ずかしい気がした。
「連れて行くって、どこにですか?」
「月影先生の所だ」
その言葉にマヤはドキっとする。
今は月影に会いたくない。撮影を放り出して失踪したのだ。
きっと、物凄く怒られる。そんなんじゃ紅天女はなれないと言われるだろう。
それに、仕事も全て失くした。
「天の輝き」の沙都子も舞台も乙部のりえに取られてしまった。
 昨日、街で拾った週刊誌でマヤはその事を知ったのだ。
北島マヤ引退、紅天女は姫川亜弓の手にと見出しが出ていた。
月影の期待を裏切るようなマネをして、どんな顔をして会えばいいのか。
「嫌です。今は先生に会いたくありません」
速水は意外そうにマヤを見る。
「どうして?」
「怒られますから。私、撮影を放り出しましたから。そんなんじゃ紅天女にはなれないって叱られます。
でも、もういいんです。紅天女は諦めます」
「えっ」
思いかげない言葉に速水はマヤを凝視する。
「もうお芝居もいいんです。全部やめます。私はただ速水さんといられればそれでいいんです」
「マヤ、何を言っているんだ」
「だって、撮影があるのに私勝手な事しました。この世界は信用が第一って速水さんが教えてくれたでしょう。
仕事に穴を開けたものはそう簡単には元には戻れないって」
「大丈夫だ。君は大都芸能が守るから。また舞台に立てるし、仕事も来る。だから、芝居をやめるなんて言わないでくれ。
君らしくない」
「速水さんにとって、私はやっぱりただの商品としての価値しかないんですか?普通の女の子の私はいりませんか?」
「……マヤ、何言ってるんだ。そんな訳ないだろう。君が何をしていても、俺は好きだ。でも、芝居を放り出す事には
賛成できない。君は紅天女になるんだろう?その為にずっと頑張って来たじゃないか」
「もうそれは止めたいんです。疲れました。普通の生活がしたいんです」
「疲れたって、君はまだ16だろう。諦めるには早すぎる」
「そんな事言われたって、嫌になったんです。演劇を続ければ母さんを死なせてしまった事を忘れられない。
私さえ、舞台に立たなければ、母さんはあんな目に合わなかった。映画の宣伝に利用されるような事もなかった!」
「……君がそんな事言うなんて残念だよ」
速水は声を落とす。
「わかった。月影さんの所には連れて行かない。今の情けない君を見せる訳にはいかないからな」
「情けないって、どういう事ですか?」
「情けないじゃないか。今の君は逃げているだけだ。俺が好きになったマヤはそんな女じゃない。
いつも前を向いていて、一つ、一つの芝居を大事にしていた。どんな困難な状況でも諦める事なく
前を向いていた。俺はそんな君に惹かれたんだ」
 マヤは俯き、黙り込む。
「今日はここにいていいから。後で水城君を使いにやる」
 それだけ言うと速水は部屋を出て行った。
マヤは玄関の壁を背にして蹲る。
速水の言うとおり、今の自分は情けない。
芝居に対する情熱はどこかに消え、何もしたくなかった。



 まさかマヤがあんな事を言い出すとは夢にも思わなかった。
芝居が死ぬほど好きで、絶対に弱音を吐かないマヤが見せた弱い一面に、速水は動揺した。
 もう少し優しい言葉をかけてやれば良かったかと思うが、それはマヤの為にならない。
今、出来る事は速水を逃げ場にしようとするマヤを突き放す事だけだ。
「俺に出来るだろうか」
 窓の外に広がる景色を見つめる。二十階の社長室から高層ビルと東京タワーがよく見える。
昭和三十三年に開業した東京タワーは戦争で焼け野原となった東京の復興のシンボルでもある。
 333メートルの鉄塔はみんなに希望を与え続けているのだ。そして、速水も勇気づけられる事がある。
決断の難しい問題にぶち当たると、東京タワーを見つめながら、焼け野原だった東京を想像するのだ。
終戦から十三年で建てられた東京タワーは命綱もつける事なく、職人が作ったという。今、思えば考えられない仕事だが、
人の強さを感じる事が出来た。自分にもその強さはあるだろうかと、問う。
 手にした愛する存在を永遠に失う事になったとしても、自分は折れないだろうか。
速水は決断をする。
 マヤの恋人でいる事よりも、社長という立場でいる事を。
どれだけ憎まれようと、マヤを舞台に立たせる。
愛しているからこそ、マヤに芝居の情熱を失わせる訳にはならない。
「マヤ、俺がお前を舞台に立たせてやる」
 速水は机の上の電話に手を伸ばした。




 水城に連れて来られた場所は映画の撮影所だった。
「サマーラブレター」を撮っていた所だ。控え室に通され、台本を渡されるとマヤは動悸が早くなる。
「ラストシーンまだだったでしょう?みんな、マヤちゃんを待ってくれていたのよ」
 水城がマヤに優しく語り掛ける。
「……そんな事言われても、今は出来ません」
 マヤは水城から視線を外し俯く。
「私、もう芝居はしたくないんです。そのせいで母さんを死なせてしまったから、もう嫌なんです!」
「監督は二ヶ月あなたを待っていたのよ」
「そんな事言われても無理です。のりえさんにでも代わってもらえばいいでしょう!」
 パチンと乾いた音が響く。水城がマヤの頬を叩いたのだ。
「そんな情けない事言わないで頂戴!マヤちゃんを待っていたみんなの気持ちがわからないの!
あなたがいつ戻ってくるかわからないのに、監督は主役は絶対北島マヤで行くって譲らなかったの。
映画の公開がなくなるかもしれないと言われても、監督はあなたを待ってたのよ!」
 水城の言葉が突き刺さる。沢山の人に迷惑をかけた。その事を思うと胃が痛くなる。
でも、嫌なものは嫌だ。母さんは芝居のせいで死んだのだ。
「無理です!そんな事言われても私には出来ません」
 マヤは椅子から立ち上がり、楽屋から逃げ出そうとドアノブを掴む。そこで扉が開いた。
「……速水さん」
 戸口にはスーツ姿の速水がいた。マヤはホッとする。
「速水さん、助けて下さい。私、もう芝居は無理なんです」
 甘えるようにマヤは速水を見上げる。
速水は無言でマヤの腕を掴み、楽屋から連れ出す。
「どこに行くんですか?」
 無言のまま速水が廊下を歩く。歩いている方角がスタジオの方だとわかると、マヤは泣き顔を浮べた。
「やめて!行きたくない!」
「ダメだ」
「いやだ!放して下さい!」
 マヤが強く抵抗するが、速水は更に強い力でマヤの腕を掴む。
「痛いです!速水さん、痛い!」
 速水はマヤを無視して、スタジオの扉を開けた。
ラストシーン用に病室のセットが組まれていた。スタッフが忙しそうに動き回っている。
「監督、よろしくお願いします」
 マヤを連れて監督の前まで来ると、速水は頭を下げた。
「嫌です!私は芝居なんかやらない!」
 マヤの叫び声に速水は頬を叩いた。マヤが床に尻餅をつく。
「いい加減にしろ!お前が芝居をしたくなかろうが、やるしかないんだ。それが嫌なら、
今すぐ違約金の一億円を払え」
 速水はマヤの前に契約書見せる。
「これはお前が大都芸能と交わした契約書だ。ここにはどんな仕事でも引き受けなければならない。
万が一、反した場合は違約金を払えと書いてあるんだ。いいか。この紙がある限り、お前は大都の為に働かなきゃならないんだ」
 速水は厳しい表情でマヤを見下ろす。
「鬼!母さんを殺しておいて私に無理矢理働かせるの!」
「その通りだ。さぁ、スタッフの皆さんに謝れ!お前は撮影に穴を開けたんだぞ。土下座して謝れ!」
別人のような速水にマヤは言葉を失い、言われるまま、正座をすると床に手をついた。
「……迷惑をおかけして、すみませんでした」
 マヤは頭を下げる。
その横に速水も並び、土下座をする。
「本当に申し訳ありませんでした!この度の勝手な振る舞いでスタッフの皆様にご迷惑をおかけした事をお許し下さい!
『サマーラブレター』は大都芸能が全力でバックアップします。必ず劇場公開させます。だから、どうか北島マヤにラストシーンを
撮らせて下さい」
 マヤは驚いて隣の速水を見る。床に頭がつくぐらい低く頭を下げていた。
プライドの高い大都芸能の社長が、いつも人を見下したような人が……。
 初めてどれだけ沢山の迷惑をかけていたか、マヤはわかった気がした。


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