―――  ラブ・ゲーム 3  ――― 



 1
 二年前にマヤの演劇の師である月影千草が亡くなった。
月影の葬儀は紅天女の舞台となった梅の谷で行われ、演劇関係者が集まる盛大なものとなった。
 誰もが月影千草が紅天女の後継者を決め、幸せな最期だったと口にした。
だから葬儀中は常に弔問客から、マヤは紅天女後継者として好奇の視線にさらされた。
 息が詰った。体中に穴が空く程の熱心な視線を感じて苦しかった。
たまらずマヤは葬儀が終わった後、誰にも言わず寺を抜け出し、誰もいない平原まで走った。
 一人になりたかったのだ。
 梅の谷は月影から最後の稽古をつけてもらった場所だった。
ライバルの姫川亜弓とともに、風、火、水、土の演技を勉強し、無我夢中で紅天女に向かっていた。
 その頃はただ目の前にある紅天女しか見えなかった。
純粋に演じる事だけに夢中になれ、余計な視線を感じる事もなく演者として自由だった。
こうして思い返してみると、月影と過ごした時間は涙が出る程幸せな時間だったと気づく。
 もう月影に指導をしてもらえない。その事がどれだけ不安な気持ちにさせるか。
演劇に関して手を抜かない厳しい人だったけど、その奥には深い愛情があった。だから信じてついて来れたのだ。
マヤにとって月影は母親同然の存在であった。
 マヤは平原に腰を下ろし、空を見つめた。
あたりは暗闇に包まれ、空には数え切れない程の星が輝いている。
 星を見た瞬間、視界が曇ってくるのを感じる。葬儀中は人目を気にして涙を堪えていたが、もう限界だった。
抑えていた悲しみが体の底からこみ上がる。ただ、ただ月影の死が悲しい。
 声をあげて泣き始めてみると、涙が止まらなくなった。
どんなに声をあげても、頭が痛くなる程泣いても涙は水道の蛇口をひねるように溢れ出る。
 どうしたら蛇口を締める事ができるのかわからず、マヤは途方に暮れ泣くしかなかった。
顔中が涙で濡れていた。一層の事、このまま死んでしまえばどんなに楽だろうか。
そんな事を思い始めた時、マヤは誰もいないはずの平原で人の気配を感じる。
 驚いて顔をあげると、ハンカチがマヤの前に差し出された。
 暗がりの中目を凝らすと男がいた。共演者の桜小路よりも年上に見える。
喪服姿から彼も月影千草の葬儀に来た事が推測できた。
「すまない。君が来る五分ぐらい前からいたんだ。
帰ろうかと思ったが、君が泣いてたから動けなくなった。良かったら使ってくれ」
 張りのある低い声だった。不器用に口の端をあげ、彼はばつが悪そうに微笑んだ。
そのぎこちなさにきっと普段笑わない人なんだと思う。
 マヤは彼の微笑みに思わずハンカチを受け取る。チェック柄のハンカチだ。
それで涙を拭った時、微かに甘い香りがした。居心地のいい香りだと思った。
「俺も父の付き添いで月影千草の葬儀に来たんだ。でも、俺にとって居心地の悪い場所でね。
だから、誰もいない場所で一息つきたくなった。そしたら星があまりにも綺麗だったから、動けなくなってね。
まさかこんなにハッキリ天の川が見えるとは思わなかった。普段は東京にいるから見たくても見れないんだよ」
 彼は少し興奮気味に見えた。星が見える事が余程嬉しいのだろう。
「天の川って、あれですか?」
 マヤは涙にかすれた声で聞き、うすく雲のようにかかる光の帯を指した。彼はマヤの隣に座りながら答える。
「そうだ。肉眼でこんなにハッキリ見えるのは珍しいんだ。
ほら、天の川を隔て織姫星のベガと彦星のアルタイルが見えるだろう?」
「ああ、七夕ですか」
 今日が7月7日だという事をすっかり忘れていた。
「じゃあ一晩中空を眺めていたら、織姫と彦星が天の川を渡る所が見れるんですか?」
 それは素朴な疑問だった。次の瞬間彼は「いや」と可笑しそうに笑う。
「あれはただの伝説だ。ベガとアルタイルの実際の距離は16光年も離れているんだ。一晩で渡れる距離じゃないよ」
「光年って何ですか?」
 高校で何となく習った気もするが、マヤはすっかり忘れている。
「光年とは光が届く距離の長さの単位だ。1光年は約9兆5千億kmになる」
「という事は16×9兆5千億kmをかけると……うわっ!計算できない。
物凄くベガとアルタイルが離れている事がわかりました」
 マヤは苦笑を浮かべる。彼もクスクスと可笑しそうに笑っていた。
いつの間にか涙が止まっていた。悲しみに沈んでいた気持ちも和らぎ始めている。
どうしてか、初対面の彼の気配は昔から知っている人のように感じさせ、ホッとできるものだった。
「俺たちからベガまでの距離は25光年、アルタイルまでは16光年あるんだ。
そんな遠くにある星の光をこうして見ていると不思議な気持ちになる。
宇宙には無限の世界が広がっていて、俺たちが生きている世界なんてちっぽけなものだって思うんだ」
「そうですね。大きなものを見ると確かに、私の悩みなんて小さく見えます」
 月影の死も。紅天女の後継者である事も。宇宙の広さから見れば小さいかもしれない。
それに月影はマヤに命の橋渡しをして死んでいったのだ。月影の肉体が灰になっても、その魂はマヤの中に残っている。
 だったらマヤも同じように橋渡しをしなければならない。それが紅天女を受け継いだ者の使命だと初めて気づいた。
 何をくよくよと泣いていたのだと、マヤは思った。泣いている暇なんてない。月影の紅天女を超える演技を一日も早く
身につけなければならないのだから。
「ありがとう。あなたのおかげで大事な事に気づきました」
 マヤは彼にハッキリとした笑顔を見せる。彼も笑い返してくれる。
胸の中に温かい気持ちが広がった。
 それからしばらく二人で星空を眺めた。マヤは興味を星に移し、星座の名前を沢山教えてもらった。
とても楽しい時間だった。麗が心配して探しに来るまでマヤは彼とずっとそこにいた。
 しかし麗と入れ替わるように、いつの間にか彼の姿は煙のように消えていた。
 マヤは名前を聞かなかった事を後悔した。もう一度会いたいと思った。
 彼を探すヒントは借りたハンカチぐらいしかなかった。
しかもそれは特別な物という訳ではない。それだけで持ち主を探すのは難しかった。
 でも、彼は東京にいると言っていた。もしかしたら偶然どこかですれ違う事があるかもしれない。
だからマヤはどこに行くにも、肌身離さず彼のハンカチを持ち歩くようになった。いつの間にかマヤにとって
それはただの借り物のハンカチではなく、大事なお守りのような存在になった。
 そして月影の葬儀から二年が経ち、マヤはついに彼にたどり着いた。
それは本当に偶然だった。マヤは紅天女の舞台に立っていた。
客席の最前列に速水英介と並んで座る彼を見つけた。一目でマヤはあの時の彼だとわかった。
舞台終演後に彼は、速水英介と楽屋まで来てくれた。
英介はマヤに「わしの息子だ」と、彼を紹介した。
 車椅子の英介の後ろに立つ彼の姿を見て、胸が弾んだ。
やっぱり星空の下で会った彼だ!マヤは何て話しかけようかと言葉を探した。
「はじめまして。速水真澄です」
 マヤよりも先に彼が口を開いた。その言葉にマヤは彼が自分の事を覚えていない事を知る。
だからマヤも、七夕の話をしようと開きかけた口を閉じて、「はじめまして」と、彼に答えた。
 無理もない。彼と会ったのはもう二年も前の事。お互いに名前さえ言い合わなかった。
彼にとってマヤは通りすがりの人でしかなかった。覚えている方が難しいというものだ。
そう思うが、忘れられていたのはやっぱり少し寂しかった。
「あなたの紅天女は素晴らしかった。これを受け取ってくれますか」
 差し出された紫の薔薇の花束にマヤは目を見開く。沈みかけた気持ちが浮上した。
女優という職業がら花束はよくもらったが、紫の薔薇なんて初めて見た。すごく綺麗だと思った。
「ありがとうございます」
 マヤは心からの言葉を口にした。
まさかそれから数ヶ月後に英介からの頼みごとを引き受ける事になるとは、露ほどにも思わなかった。



2
 マヤが目を覚ますと、真澄の顔がすぐそばにあって驚いた。
昨夜の記憶が蘇る。ここは軽井沢の速水家の別荘で、 マヤは速水真澄と文字通りベッドを共にしたのだ。
下半身に残るけだるさがその事をハッキリと証明していた。
 照れくささにマヤは真澄に何て声を掛けたらいいかわからなかった。
そんなマヤに彼がフッと優しく微笑んだ。そしてじっとマヤの目を覗き込む。
「俺はいい加減な気持ちで君を抱いたんじゃない」
 意志のこもる強い眼差しがマヤに注がれる。その瞬間、嬉しさと後ろめたさが混ざって、
マヤは彼の言葉を封じるように同じ言葉を口にした。
「私もいい加減な気持ちで真澄さんに抱かれたんじゃない。
初めて会った日から真澄さんに惹かれていた。英介さんの息子だとわかっていたけど、私は真澄さんの事が……」
 口にしてみて星空の下で真澄に会った時から惹かれていたのだと気づく。
それなのに何て愚かな事をしてしまったのかと、涙が滲んだ。
「……ごんめなさい」
 マヤは涙を指で拭う。裸の真澄がマヤを抱き締める。彼の肌は温かく心まで沁みた。
「どうして謝るんだ。俺は君の気持ちを聞けて嬉しいのに」
 耳元にかかる優しい声に更にやましさが募った。
「だって私は、英介さんの」
 言葉の途中で真澄がマヤの唇を塞いだ。
唇から真澄の情熱的な想いが伝わってくる気がした。息もできない程唇を吸われ、骨が折れそうな程強く抱き締められる。
 苦しいのにずっとそうされていたい。何もかも忘れてこのまま溶け合う事が出来たらどんなにいいのか。
「親父の事は言うな。君の口から聞きたくない」
 唇を放すとかすれる声で真澄は口にした。ドキッとする程言葉に温度があって胸が震える。彼の嫉妬が嬉しかった。
「……真澄さん、好きよ」
 今度はマヤの方から唇を重ねる。
この刹那だけは真澄の事だけを見ていたかった。辛い想いをする事になるとわかっていても、真澄が好きだ。
愛しい気持ちが胸に溢れていた。マヤは何度も「好き」と口にした。
そして真澄も「好き」だと言ってくれた。その言葉が嬉しくてまた涙が浮かんだ。

 気づくと午前11時を過ぎていた。山下夫妻が昼に別荘に来る事を真澄は思い出した。
「そろそろ服を着ないと。山下さんが来るんだ。君とこんな事になっている事はさすがに見せる訳にはいかないよ」
「英介さんの耳に入る?」
 マヤが英介の名を出すと、真澄は一瞬不機嫌な顔をする。
「その通り」
「私たちこれからどうするの?」
 マヤは不安そうに真澄を見た。
「山下さんにはすぐに帰ってもらう。明日の早朝軽井沢を出よう。それまで二人で好きなだけベッドの中」
 真澄が冗談ぽく笑う。
「せっかく軽井沢に来ているのにずっとベッドなの?」
「俺は素敵だと思うがな」
「真澄さんてエッチなのね」
 クスクスとマヤが笑う。
「好きな人と一緒にいたいと思うのは自然な事だ」
 昨日とは明らかに違う甘い真澄の一面を見て、マヤは胸の奥がくすぐったいような、甘ったるいような、そんな心地になる。
「せっかくだからどこかに連れて行って下さい。英介さんにお土産も買わないと」
 マヤはわざと英介という名を口した。
「親父の名は口にするな」
 子供のように真澄がむくれる。そんな真澄が可愛い。マヤは甘えるように真澄に抱きついた。
「真澄さんて意外とヤキモチ焼きなのね。可愛い人」
 頬にキスをした。今は都合の悪い事は忘れて、幸せな時間に埋もれていたかった。
「それじゃあアウトレットに行くか。どうせ君は買い物がしたいんだろう?」
「確かに買い物は好きだけど。でも、ちょっと違うかな。真澄さんと森の中とか歩いてみたい」
「アウトドアがいいのか。じゃあ山に行くか。今の時期は紅葉が綺麗だ」
 真澄の言葉でマヤは大急ぎでベッドを出てシャワーを浴びた。
真澄と山の中を歩く。それは軽井沢でしか出来ないとても素敵な事だ。
 山下夫妻が来る前に身支度を整えた二人は、ベッドにいた気配を一切感じさせなかった。
 山下夫人が用意してくれたおにぎりと、玉子焼きを持ってマヤは真澄の運転する車に乗った。
目的地は白糸ハイランドウェイ。滝が有名な事を真澄から聞きマヤが興味を持ったからだ。


 

 白糸ハイランドウェイは森の中にある有料道路で、その長さは十キロ程あり、旧軽井沢から草津温泉に抜ける道でもあった。
その途中に観光名所として、白糸の滝があり、マヤと真澄はそこを目指していた。
 別荘から車で二十分走ると、白糸ハイランドウェイの料金所が見えて来た。
車窓の外には紅葉した背の高い木々が並びトンネルのようになっていた。夏は緑が綺麗だという真澄の解説を聞き、
夏も真澄と一緒に来てみたいと、マヤは甘えるように口にした。 そんなマヤの頭を真澄は左手で愛しそうに撫でた。
真澄に触れられた所に柔らかな温もりが残り、マヤは胸がキュンとする。恐いぐらい幸せだった。
 でも、この幸せは今だけのものだとマヤは思う。真実が明るみになった時、真澄はマヤに失望するだろう。
その時の事を思うとマヤはどうしようもなく不安になった。
「どうした?」
 塞ぎこんだマヤの気配に真澄は気づく。
「もうすぐで滝に着くぞ」
 真澄は普段よりも明るい声を出した。
マヤは安心させるように笑顔を作る。前を見ると、道の先に白糸の滝駐車場が見えて来た。
 真澄が滑らかなハンドルさばきでBMWを駐車場にいれる。
 車を降りるとマヤはツンとした空気を吸い込んだ。今日は厚手のセーターにジーパン、その上にダッフルコートを着ていた。
旅行鞄に詰めた装備で最大の防寒をしたが、それでも少し寒く感じる。
 しかし、隣にいる薄手のトレンチコート姿の真澄の方が寒そうだ。
真澄も同じくコートの下はセーターとジーンズだ。
 彼は寒そうに両手をコートのポケットに入れている。そんな姿が微笑ましく見える。
マヤは甘えるように真澄の腕を取って歩き出した。すぐに土産物屋の前でマヤが足を止める。
店先には信州名物とうたった商品がズラリと並び、その中にリンゴのキャラクターが見えた。
「わぁーかわいい」と、思わずマヤの手が伸びる。
リンゴのキャラクターは耳掻きだった。
「まだ滝まで着いてないぞ。土産は帰りにしなさい」
子供に言うような口ぶりで、真澄が言う。そこに11才の年齢さを感じて、
マヤはくすぐったい気持ちになった。
「はーい」と、元気よく返事をすると、リンゴの耳掻きをマヤは店先に返した。
 それから滝に向かって遊歩道を歩いた。歩きながら真澄は子供の時、軽井沢でキツネを見かけた話や、
リスを見た話を得意気に披露した。
「あっ、私も狼少女を演じた時森でキツネを見ました。紅梅の谷に行った時はリスを見ましたよ」
 真澄に対抗するようにマヤも動物たちと遭遇した話を展開していく。
真澄はマヤが山で野宿した話を聞いて眉を上げた。
「もう朝起きたら虫に刺されていて大変だったんです」
「何才の時?」
「狼少女を演じた時だから、18ぐらいかな」
「凄いな。普通18の女の子だったら、一人で野宿なんてしないぞ」
「思いつきで山に入ったから私、普通の格好で。リュックとかも持ってなかったんですよ」
「装備なしで山に入ったのか?」
「はい」
「よく無事に帰って来れたな」
「それはもう大変でしたけど、野生の動物の気持ちを掴みたくって。それしか頭になかったんです」
 マヤがあっけらかんと笑う。真澄は苦笑を浮かべた。
「君と結婚すると心配事が増えそうだな」
「えっ」
 結婚という言葉にマヤは足を止めた。真澄も足を止め、マヤをじっと見つめる。
「俺は君と結婚したいと思っている。だから、軽井沢から東京に戻ったら親父に言うつもりだ」
 急な展開にマヤは目まいを感じた。
「結婚だなんて、そんな」
「君以上の人とはもうめぐり合えないよ。初めて君の舞台を観た日から、俺は君に惹かれていたんだ。
変な話だが、君を見た時魂が揺すぶられたんだ。遠い昔から知っている気がした。
君と言葉を交わす度にこの人しかいないと思うようになった。だから昨夜君を抱いた時、俺は親父から君を奪う覚悟を決めた。
いい加減な気持ちで君を抱いたんじゃないと言ったのはそういう訳だよ」
 真澄の言葉は正直に言えば嬉しい。でも、素直に喜べない。
いや、自分にはそんな資格はないとさえ思った。もしも真澄が英介にマヤと寝た事を話せば
真澄が窮地に立たされる事をマヤは知っていた。自分のせいでそんな立場になって欲しくない。
「待って、真澄さん。そんなのいきなり過ぎる。英介さんに言うなんて」
 マヤは困惑した瞳で真澄を見た。
「待てない。俺は決めたんだ。君が親父に触れられる所なんて想像もしたくない。
君は俺だけの愛する人にしたいんだ」
「私、英介さんと手さえ握ってないわ。昨夜だって初めてだったってわかるでしょう?」
「確かに君が親父と寝てない事がわかって嬉しかった。だが、君が親父の婚約者でいる事はもう耐えられない」
 真澄の手が真っ直ぐにマヤの両肩を掴む。真摯な瞳が切羽詰った想いを語っていた。
 マヤは真澄の目を見れなかった。視線を下げ足元を見つめた。
泥がついた真澄の革靴と枯葉のついたマヤのブーツが向き合い、つま先が触れていた。
昨日までなかった親しさのある距離が、とても悲しく見える。
自分のした事をマヤは突然許せなくなった。
「待って下さい。私にも立場があります。英介さんには私から切り出します。
だから、それまで待って下さい……」
 語尾は涙にかすれそうになった。マヤは大きく息を吸い込み深呼吸をした。
今から自分は仮面を被らなければならない。女優北島マヤの仮面を。
心の中で一、二、三と数え、顔を上げる。弱い自分を押し込めた顔でマヤは真澄に笑いかける。
「私に一週間下さい。一週間以内に私から英介さんに結婚出来ない事を話します。
婚約者としてのケジメをつけさせて下さい」
「親父との結婚を考え直してくれるのか?」
「言ったでしょう。私だっていい加減な気持ちで抱かれたんじゃないって」
 マヤはわざと明るく笑う。
「真澄さんを愛しています。真澄さん以外の人と結婚する気なんてありません」
 真澄が安堵の表情を浮べる。帰り道がわからなくなった子供が母親を見つけたような顔だ。
「良かった。その言葉を聞いてホッとした。本当言うと俺よりも親父が良いと言われたらどうしようかと
弱気になっていたんだ」
 マヤは真澄を安心させるように笑みを浮かべると腕を取った。
「白糸の滝、行きましょう」
 マヤは真澄を引っ張るように歩き出した。さっきまでの深刻さを消すように鼻歌を歌った。
曲はピクニックだ。「丘を超え行こうよ〜♪」とマヤの声が森の中に木霊する。
 マヤはサビの部分がくると真澄を見ながら口ずさむ。
「ララ ララ ララ あひるさん♪」
「ガァガァガァ」
 真澄がマヤの視線に負けて合いの手を入れる。
「ララ ララ ララ やざさんも♪」
 マヤの声が弾む。
「メーエ」
 真澄の合いの手にマヤが可笑しそうに歌う。
そうやって滝につくまで何度もマヤは歌っていた。
余計な事は考えず今だけでも真澄との時間を楽しんでいたかった。




 月影千草が亡くなってから、マヤは紅天女の上演権でトラブルに巻き込まれていた。
毎日のように自宅に上演権を譲って欲しいと電話があったり、稽古場でヤクザ風の男たちが待ち伏せしたりという事があった。
 彼らは多額の金を積み、強引にマヤから上演権を買い取ろうとしていた。
最初は絶対に上演権は譲らないと突っぱねていたマヤだったが、それがしつこい程毎日続く内に
精神的に追い詰められていった。
 決定的だった事件は公演が終わり、劇場から出た時に起きた。
その日もいつもと同じように迎えのタクシーに乗り込みマヤは帰路につく所だった。
 しかし、タクシーは見慣れない道を進み始める。不審に思いながらも、「道が混んでいるから抜け道
を使っているんです」という運転手の言葉を信じた。
 だが、連れて来られた場所はどこかの埠頭だ。刑事ドラマに出てくるような胡散臭い雰囲気が漂っていた。
運転手は黒塗りの車の隣にタクシーを停めると、後部座席のドアに鍵をかけたまま降りた。
黒塗りの車から、サングラスをかけたスーツ姿の男が三人現われる。
マヤは危機的状況にいる事を察知し、タクシーから降りようとドアのロックを解除しようとする。
 運転席にサングラスの男が乗り込む。他の男たちはタクシーを囲むように立っていた。
その男たちが上演権を強引に買い取ろうとしている奴らだという事はすぐにわかった。
「無駄ですよ」
 運転席から男の低い声が漏れる。男の言うとおりでロックを解除する事は出来なかった。
それでもマヤは抵抗するようにドアの取っ手をガチャガチャと動かした。
 何かしていないと恐怖に飲み込まれてしまいそうだからだ。
「北島マヤさん、用件はわかっているでしょう?いい加減に上演権を譲ってくれませんかね。
今日中にあなたから買い取って来いと言われているんですよ」
「何度来られても無理な物は無理です。どうしても上演権が欲しいと言うなら、紅天女を私以上に演じられる
役者を連れて来て下さい。月影先生がそうしたように、私も上演権を譲る程の演技力がある方でないと
お譲りする事は出来ません。この芝居は誰が演じても出来るような芝居ではないんです」
 マヤは震えそうになる声で主張した。
「そんな事こっちには関係ないんですよ。俺たちが欲しいのは紅天女の権利書だ。
ボスは十億出すと言ってるんです。どうです?今までで一番高い額ですよ。
あなたにとっても悪い話じゃない。十億あれば女優なんかしてないで、一生遊んで暮らせますよ」
 男の言葉に腹が立った。紅天女には命を削って芸を教えてくれた月影や、一緒に過酷な修行をした姫川亜弓や、
沢山の演劇関係者たちの想いが募っている。
いくら積まれても絶対に渡す訳にはいかない。紅天女を受け継いだ日からマヤは何があっても守らなければならないのだ。
 マヤは大きく息を吐くと男を睨んだ。
「いくら積まれてもダメな物はダメです!いい加減私をここから解放して下さい。明日も公演があるんです」
「どうしてもダメですか」
「ダメです」
「仕方ない。手荒マネはするなと言われていますが、あなたには死んでもらうしかないようですね」
 抑揚のない声で言われ、マヤは一瞬何を言われているのかわからなかった。
男がサングラス越しに笑うのがわかった。
「このタクシーはね、運転席以外は開かないんですよ。だから、もし海に車が落ちたら、
あなたはそこから運転席まで移動しなきゃならない。でもね、頑張って運転席まで来れても
水圧がかかって簡単にドアは開きませんよ」
マヤは目の前の真っ暗な海を見た。5メートルも進めばタクシーは防波堤を超えて海に落ちる。
これから起きる事を想像してゾッとした。
「幸運を祈ってますよ」
 男はエンジンをかけ、ハンドブレーキを外し、オートマ式のギアをパーキングからドライブに切り替えた。
車が緩く動き出す。男はゆったりとした動作で走っている車から降り、素早くドアを閉めた。
それを合図にタクシーを囲んでいた男たちが、タクシーを海に向かって押す。
車が加速し、マヤが逃げる間もなくタクシーが防波堤を超え、海に落ちた。
 マヤは恐怖に体中が震え出す。真後ろの窓から防波堤の方を見ると、男たちが無表情に沈むタクシーを見ていた。
 本気で殺されるとマヤは感じた。車内に少しずつ海水が入ってくる。マヤは後部座席から運転席に細い体を移動させた。
取っ手を掴み開けようとするが、扉はビクともしない。
ガチャガチャと取っ手を掴む音が車内に響く。気持ちが焦る。
海水が膝の所まで来ていた。窓を開けようとバワーウィンドウのボタンを押すが何の反応もない。
 運転席がダメなら助手席はどうだろうかと、微かに残る理性が言っていた。
男が言った運転席しか開かないという言葉は引っ掛けで、本当は運転席以外の場所だったら、
ドアが開くんじゃないかと思った。しかし、本当に運転席しか開かなかった場合はどうする?
 海水は胸の所まで来ていた。もう余計な事を考えている時間はない。
マヤは自分の考えを信じて助手席に移動した。そしてドアを開けようと取っ手を掴む。
次の瞬間、ゴホッという音が響きドアが開いた。一気に海水が車内に流れ込む。
水の勢いに押されてマヤはタクシーから抜け出し、海面に浮かんだ。
 防波堤の方を見ると男たちがマヤの姿に笑っている。あっちに行けば殺されると思った。
マヤは防波堤とは反対の方に向かって泳ぎ出した。手足が鉛みたいに重たかった。
そして、突然全ての力が抜けマヤは意識を失った。

 マヤが気がついたのは病院だった。ベッドの側に車椅子の老人の姿を見つけ、マヤはハッとする。
速水英介だ。紅天女の公演がある日は毎日劇場に足を運び、マヤに花束を贈ってくれていた。
劇団つきかげを潰したが、匿名でマヤに援助をしてくれていた。
 月影千草の葬儀の日、マヤは英介から真実を打ち明けられたのだ。それから英介の事を恩人のように思った。
「大変な目に合いましたね。偶然見回りで通りかかったパトカーが、あなたを助けてくれたんですよ」
 しゃがれた声で英介はマヤに話しかけた。
英介の言葉に自分の身の上に起きた事を思い出した。ポロポロと悔し涙がこぼれ落ちる。
 どうして自分がこんな危ない目に合わなくちゃならないのか。
頑張って紅天女を継承したのに、この仕打ちは酷いじゃないかと誰かを恨みたくなった。
 毎日不安な想いを抱えて過ごすのはもう嫌だった。
 しかし、上演権を手放す訳にはいかない。そんな事をすれば役者として魂を売る事になる。
死んでも守らなければならない。マヤの命よりも紅天女の上演権の方が重たかった。
それはわかっている。けれど、本当に死んでしまったらと、矛盾した想いが膨れた。
ブレーキとアクセルがかかっているような状態で、マヤはどちらにも進めなかった。
そんな時に英介から「守ってやろう」と言われた。
マヤは藁にもすがる思いで「お願いします」と口にした。
とにかく今は誰かに命を狙われるような生活から解放されたい。何の心配もなく日常を過ごしたい。
その思いが強かった。だから、英介から頼みごとをされれば引き受けるしかない。
平和な日常を得る為に、卑劣な頼みごとさえも、断る事が出来なかった。




5
 軽井沢から戻ると慌しい日常が始まった。大都芸能に所属した事により飛躍的に忙しさがアップした。
マヤは一ヶ月後に始まる紅天女の全国20ヶ所を巡る公演の準備に追われていた。 
チケットは全体で八割売れていたが、芝居を観る文化が薄い地方によっては四割ぐらいしか売れていない所もあった。
 毎日のように雑誌や、テレビ局からの取材を受け公演の宣伝をした。
公演のチケットを何としてでも完売させたい大都芸能側の思惑がハッキリとわかるプロモーション活動だ。
 スケジュールは分刻みで行われ、常にスタッフに囲まれて移動していたから、
マヤは張り付いたように笑顔でいなければならなかった。
 本当は泣きたいぐらい追い詰められているのに、そんな一面を見せる事もできない。
それは恋人となった真澄の前でもだ。いや、真澄の前だからこそ本当の事を隠しとおさなければならない。
「忙しそうだね」
 真澄と夕食を共にしたのは軽井沢から戻って五日目だった。
真澄がマヤを呼んだのは横浜にある海が見えるレストランだった。
 一面の窓の前にカウンター席が設けられ、景色を見ながら食事が楽しめた。
 対岸にはみなとみらい21の景色が見える。ランドマークタワーや、コスモワールドの灯りが夜空を賑やかに染めていた。
「おかげさまで」
 マヤは皮肉を込めて真澄を見る。
大都芸能の思惑という事はトップに立つ真澄の意図でマヤを忙しくさせているのだ。
皮肉の一つも言いたくなる。
「恐い顔だな」
 真澄は苦笑を浮かべる。今夜の彼はグレーのスーツを着ていた。ネクタイもワイシャツもセンスのいい色で合わせてあった。
どこからどう見てもやり手のビジネスマンにしか見えない。マヤはジーンズにセーター姿で真澄に会った事に引け目を感じた。
「大都芸能に所属する前はここまで忙しくはなかったです。分刻みのスケジュールだったので、
家に帰って着替えてくる暇もありませんでしたよ」
 マヤは真澄が選んだ銘柄の白ワインを口にした。
「忙しい中、突然の誘いに来て頂けて嬉しいよ」
 真澄が気取った調子で言う。真澄流の冗談だという事はわかっている。
いつもだったら笑うけど、今夜はそんな気にはなれない。
「これじゃあ、公演が始まる前に睡眠不足で倒れてしまうわ」
「そうだと思って明日はオフにしてもらった。俺もオフだ」
「えっ」
明日が休みだという事をマヤは初めて知った。
「本当に?」
 真澄が肯く。
「やった!明日は一日寝てます」
「二人でのんびり過ごすのも確かにいいかもな。家も買った事だし」
 家という単語にマヤは眉を潜める。
「何ですか、家って」
「もちろん君と俺の家の事だ。マンションにしようか一戸建てにしようか迷ったが、
横浜に手ごろな一戸建てを見つけてね。三日前に買った所だ。ディナーが終わったら行こう」
「それって、私たちが一緒に住むって事ですか?」
「ああ。俺は君と結婚する気でいるって言っただろう?」
 展開の早さにマヤはついていけなかった。
まだ英介にも何も話せていない状態だというのに。
しかも、マヤに一言の相談もなく家を決めてしまうなんて。
 マヤはため息をついた。それから無言で前菜のサーモンのカルパッチョを機械的に食べた。
嬉しそうに二人の今後について話す真澄にマヤはますます不安になる。
もしも真澄に本当の事が知られたら、一生マヤは憎まれるかもしれない。
できる事なら今すぐ逃げ出したかった。でも、真澄への気持ちが留まらせた。



6
 約束通り真澄はレストランを出ると、マヤを二人の新居まで連れて行った。
山手と呼ばれる地区には洋館が並んでいた。かつて外国人居留地があった場所は
その名残を残すように、英国風の建築物が多く見られた。
 タクシーが教会と学校の前を通り、坂を少し下った所で停まった。
マヤの背丈よりも高い煉瓦で出来た塀と洒落た作りの鉄製の門があった。
 タクシーを降りて、マヤは真澄と手を繋ぎ門の中に入った。
足元を照らすようにアプローチには照明が並んでいた。オレンジ色の光の中、石畳を進んだ。
庭は公園のように広く、手入れのされた木々がバランス良く配置されていた。今、葉が落ちている木は
全て桜の木だと真澄が説明する。春になったら庭でお花見をしようと言われ、マヤは曖昧に肯いた。
 アプローチの先におとぎ話に出てきそうな洋館が見えてくる。
それは結婚式でも行いそうなクラシカルなホテルという外観だった。
 一目でマヤはその建物が気に入った。さっきまでは不安で仕方なかったけど、素敵な物語の中に自分が
入ったような気になり、わくわくとしていた。
「開けるよ」
 真澄は玄関ポーチに立つと、鍵を差し込んで美しい彫刻がされた両開きの木のドアを開ける。
真澄と一歩中に入ると自動的に電気が点灯した。吹き抜けには豪勢なシャンデリアがあった。
 一階には四十畳のリビングダイニング、八畳のキッチン、南側には縦長のサンルームまであった。
玄関横の階段から二階に行くと洋室が6部屋もある。
 そのうちの一つには真新しいダブルベッドが置かれていた。
 真澄が「俺たちの寝室」とマヤにキスをする。寝室にはバスルームも付いていて、
二人で入るのに充分な広さのジャグジーがあった。
 マヤは家の豪華さに言葉が出なかった。真澄に唇を奪われたままベッドに沈んだ。
真澄と肌を合わせた途端、5日前の情事を思い出した。体中が熱くなり、我を忘れる程抱き合う事に夢中になった。
 そして、5日前よりも強く真澄の事を愛している自分に気づく。
本当は真澄に会えなかった5日間が寂しくて仕方がなかった。
だから、仕事を詰めてもらえた事はある意味では良かったのだ。
「会いたかった。会いたかった」
 マヤは真澄に何度もキスをした。
「俺も会いたかった」
 真澄が強くマヤを抱き締める。マヤも真澄を抱く腕に力を入れた。
もう二度離れたくなかった。抑えていた心が解放され涙が浮かぶ。
 それは誰かを愛しく思うだけで自然と流れる涙だった。

 朝になると、マヤはベッドに一人でいた。昨夜の事が全部なかったように
寝室に真澄の気配がなかった。マヤはガウンを着ると、慌てて一階に降りていった。
 キッチンの方に行くと温かい匂いがした。長身の真澄の背中を見つけてホッとする。
 マヤは声を掛けるよりも先に真澄の背中に抱きついた。
「おはよう。朝食を作ってるんだ。君は嫌いな物ある?」
 フライパンの上でオムレツを焼きながら真澄が話しかける。
「ないです」
 マヤは真澄の背中に顔を埋めたまま答えた。
「動きずらいよ」
 マヤが真澄のお腹の前に両腕を回し抱きついていた。
「離れたくありません」
「今朝は甘えん坊だな」
「だって真澄さん、起きた時にいなかったから」
「朝食が出来たらマヤを起こしに行こうと思ってたんだ。
大分お疲れのようだったからね。今日は一日寝てたいんだろう?」
「そんなの勿体ないです。真澄さんとくっついてた方がいい」
「可愛い事言ってくれるんだな。俺は昨日まで片思いだと思っていたよ」
「片思い?」
「俺だけがマヤを好きで、マヤは俺の事をそんなに好きじゃないと思った。
軽井沢の帰りから、少し俺を避けているように見えたから。もしかして俺との事後悔しているのかと思った」
「……後悔だなんて、そんな」
 軽井沢で白糸の滝を見に行った帰り、マヤは東京に着くまで真澄とは何も話さなかった。
真澄の事を考える余裕がなかったのだ。それに気持ちにブレーキもかけた。
 これ以上好きになったらどうしようもない所まで行ってしまうじゃないかと思って、恐かった。
「家を買ったのも、君と一緒にいる時間を増やしたかった。暮らしている事実を作ってしまえば君は
どこにもいかない気がしたんだ」
 真澄の声が寂しく響く。マヤの中にある迷いをまるで見透かしているようだった。
「あっ、焦げ臭い」
 話を逸らすようにマヤは声を上げた。
「しまった」と、真澄は慌ててオムレツをひっくり返すが、黒々とした焦げ目が焼きついていた。
「失敗だな」
 真澄が苦笑を浮かべる。
「もう一度作るよ」
 真澄はマヤを背中にしょったままシンクの後ろにある冷蔵庫に移動した。
マヤは幸福感と後ろめたさに包まれていた。



7
 英介から電話があったのは真澄と外国人墓地近くのカフェでランチを取っている時だった。
マヤは携帯電話を置くと夜には帰る事を真澄に告げ横浜を出た。
 電車に乗ると気持ちが張り詰めていくのがわかった。英介に真澄との事を何と言えばいいのか。
 窓際に立つと流れる景色を見つめながらマヤはあの日の約束を思い出した。
 初めて速水邸に呼び出された日、マヤは英介からマヤを守る代わりに頼みがあると言われた。
「頼みって何ですか?」
 マヤはソファに座り、向かい側に座る英介を見た。
「息子を誘惑して欲しい」
 何かの聞き間違えかと思い、マヤは黙ったまま英介を見た。
だがそれは聞き間違えではなかった。
「恥ずかしい話だが、どうも息子はわしが邪魔らしい。わしを権力の座から引きずり下ろして、
自分がトップになろうとしているんだ。いずれは息子に会社をやるつもりだったが、
息子が会社を売ろうとしている事がわかったんだ。わしとしては悲しいよ。会社はわしの人生だ。
ここまで会社を育てるのに人には言えない苦労をしてきた。マヤさん、紅天女を掴んだあんたにもわかるだろう?」
 同意を求めるように英介が見たので、マヤは勢いに押されて肯いた。
「しかし、その話は人づてに聞いたものだから、真澄の本心かどうかわからない。
そこで真澄の気持ちを試したいと思ったんだ。もしもわしと結婚する女性に真澄が誘惑される
事があったら、わしは真澄を切り捨てるつもりだ」
「つまり息子さんの忠誠心を試す為に私に息子さんを誘惑しろと?」
「その通りだ。誘惑と言っても二人で食事に行ったり、デートするだけでいいんだ。
体を使って誘惑しろとまではいわん。頼む。わしは真澄の心が知りたい」
 英介の真剣さにマヤは断る言葉を失った。それからはレールの上を歩くように真澄に近づいた。
そして、あっけない程簡単にマヤは真澄に恋をした。
二年前に星空の下で真澄と会った事が尾を引いていたからかもしれない。
 真澄に本気で恋をしてからは、罪悪感が募った。
 マヤはバックからハンカチを取り出すと大事そうに手の中に包んだ。
それは真澄にまだ返せないでいたハンカチだ。真澄と出会った今でもお守りとして持ち歩いている。
あの時ハンカチを差し出されなかったら、今の自分はいるんだろうかと思う。
紅天女として舞台に立ち続ける事が出来ているのは、あの夜の真澄との出会いがあったからだ。
 真澄はいつの間にかマヤにとってかけがえのない存在になっていた。
そんな大切な人なのに、英介の頼みを聞き、真澄を落し入れるような事をした自分が許せなかった。
 今の自分に出来る事は口を噤む事しかない。英介に何を聞かれてもマヤは嘘をつく事を決めた。 



8
 マヤが田園調布にある速水邸に着くと、朝倉が出迎えてくれた。
朝倉の案内で応接間に通された。一目で高価な物だとわかるソファに腰を下ろし、
マヤは落ち着かない様子で英介を待った。
 テーブルの上には淹れたてのコーヒーが香ばしい湯気を立てている。
マヤはコーヒーカップを見つめながら、英介に伝えるべき事を考えていた。
 真澄を誘惑する事は出来なかったと言ったら、英介は信じてくれるだろうか。
嘘をつくと決めたけど、英介に疑われたらどうしたらいいのかわからなかった。
ただでさえ嘘は苦手だ。それに英介は用心深い。マヤの言う事を簡単に信じるはずもない。
 でも嘘を突き通すしかないのだ。そして真澄には結婚できないと言うしかない。
真澄がマヤと結婚すれば、英介の手で潰されてしまう。
真澄は今ある地位を失い、会社からも、速水邸からも追い出されてしまう。
そんな事は絶対にあってはいけなかった。真澄のそんな姿をマヤは見たくない。
 それにマヤは速水英介の力を知っていた。英介が守ると言った日から、あんなに恐れていた
ヤクザ風の男たちはマヤの前に現われる事がなかった。
マヤの後ろに速水英介がいる事を知ると、周囲の人間の態度も変わった。マヤがテレビ局に行けば重役が必ず挨拶に来た。
ホテルに泊まれば支配人がわざわざマヤのご機嫌伺いに来た。
パーティーで会う人たちはみな大企業のトップばかりになった。
どこに行ってもVIP待遇でもてなされた。
 だからマヤは恐かった。真澄が英介の力でどうなってしまうのか、考えただけで不安になる。
「待たせたね」
 ドアが開き、朝倉に車椅子を押されて英介が入ってくる。
英介の車椅子はマヤとテーブルを挟んで向き合う場所で停められた。
 すぐに朝倉がマヤに一礼をして、部屋を出て行った。
「あの」
 マヤは緊張に両膝の上の手を握りしめた。
「真澄さんは私なんか見向きもしませんでした。どんなに誘惑しても、英介さんと結婚する私に誘惑される事はありませんでした」
 マヤは用意していた言葉を一気に口にした。喉がカラカラになる。
テーブルの上のコーヒを飲んだ。
 次の瞬間、わっはっはっはっはっ!という豪快な英介の笑い声が響いた。
マヤはコーヒーカップから口を放し、英介をまじまじと見た。
「真澄は誘惑されなかったか。それで、マヤさんは真澄の事をどう思った?」
 自分の事を聞かれるとは思ってもみなかった。マヤは挙動不審に目をきょろきょろさせた。
「その、質問の意味がよくわかりません」 
「つまり、マヤさんが真澄を庇ってる事はないかね?」
 心臓が飛び出そうになった。マヤは背中に汗をかき、引きつった笑みを浮かべた。
「そんな訳ないじゃないですか。私は真澄さんなんて最初から興味ありません。
偉そうで、いつも怒ったような顔をして、何考えているかわからなくて、強引で……」
 でも、恐いと感じたのは初めて速水邸で真澄に会った時だけだ。
無愛想だけど、時折見せる笑顔は心に沁みる程あったかいものだった。
 本当の真澄はきっと温かくて優しい人なんだって、マヤにはすぐにわかった。
けれど、そんな事を口にしたら英介に真澄への恋心がバレてしまう。だから、マヤは反対の事を言うしかなかった。
「人をバカにして、冷たい目で私を見て、いつも自分だけが正しいと思っていて……」
 胸が痛んだ。こんなに嘘をついて痛いと思ったのは初めてだ。
気を抜くと涙が浮かびそうになる。真澄に恋をしてから随分と泣き虫になった。
 今朝だって真澄の姿が見えなかっただけで、マヤは泣きべそをかいていた。
「私、あんな人大嫌いです。だから、庇うなんてマネ絶対にしませんから」
 マヤはぐっと涙を飲み込んだ。
英介はマヤから視線を外すとドアの方を見た。
「真澄、入れ」
 英介の言葉の後に応接室のドアが開いた。
戸口に立つ真澄の姿を見た時、マヤはナイフで刺されたような衝撃を受けた。
「マヤさんと結婚したいとさっき真澄から言われてね。どうも二人の気持ちは食い違っているようだ」
 英介は可笑しそうに口の端を上げる。
「真澄、お前が結婚したくても、マヤさんは違うようだ。
聞いていたと思うが、彼女はわしの為にお前を誘惑したのだよ。そしてお前はまんまとわしを裏切った。
どうなるか覚悟しとけ」
 英介の冷たい声が響く。
マヤは信じられない思いで真澄を見つめていた。






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2014.12.1
Cat





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