―――  ラブ・ゲーム 4  ――― 




 12月になると街中が鮮やかなイルミネーションに染まる。
街路樹には枝いっぱいにシャンパンゴールドのLEDライトが点灯され、それが見渡す限り続いていた。
味気ないビル街も、夜は幻想的な空間へと変わり、行き交う誰もがその景色に見惚れているように見えた。
 イルミネーションを作る事は物語を作る事だと言った、ある電飾作家の言葉を真澄は思い浮かべる。
確かに街は物語を持ったようだ。それも幸せなクリスマスの物語だ。街中がサンタクロースとトナカイを
心待ちにしているように見えた。
 不幸の底にいるような男には別世界の物語だ。
ジングルベルのメロディも、浮き足立つ街も、全て黒く塗りつぶしたくなる。
「全く、何がクリスマスだ」
 真澄は街路樹に向かって悪態をついた。今はクリスマスを忘れられる場所に逃げたかった。
 だから、避難するように真澄はバーブルーノートに逃げ込んだ。しかし、BGMに流れるwhite Christmasを耳にした時、
裏切られた気がした。
 真澄は仕方なくいつものカウンター席に落ち着くと、ウィスキーをオンザロックで頼んだ。
BGMは気にいらないが、この場所以外で酒を飲む気にはなれない。それ程この店は真澄に馴染んでいた。
「クリスマスか」
 真澄はあきらめたように呟く。
「えっ」と、三浦がカウンター越しに真澄を見る。
「最近じゃ、どこにいてもクリスマスだと思ってさ」
「そりゃ、12月だからな」
 三浦は真澄の前にグラスを置いた。真澄の好きなウィスキー、響17年が入っている。
真澄は味わうように口にし、これだけが楽しみだと思う。
「12月なんて憂鬱なだけだ」
「それはお前がだろ」
 三浦の言葉が胸に突き刺さる。
今は生きているだけで憂鬱だった。こうなった原因は二週間前に遡る。
速水邸でマヤと会った時、真澄はマヤが英介が仕向けた罠だったという事を知ってしまった。
それ以来、何も手がつかなくなり、マヤに会う事もなくなっていた。
「いつまで腐ってるつもりだ」
 三浦が心配したような目で真澄を見る。
「別に腐ってなんかいない」
 三浦が言いたい事はわかったが、落ちぶれたように見られるのが耐えられない。
「金も家もある。毎日遊んで暮らして何が悪い。俺は自由になれて幸せなんだ。会社の事も、親父の事も、もう関係ない。
好きな時間に起きて、一日中好きな事をする自由が手に入ったんだ」
 精一杯の強がりだった。正直な所は会社を離れ、速水の家を離れ、時間を持て余している。
マヤと暮らす為に買った横浜の家で夕方まで寝ているしかない、自堕落な生活を送っていた。
 それを象徴するように真澄の顎には無精ひげが生え、上等なスーツを着ていたが、
ワイシャツの袖には、数日前にバーで付けたシミが見えた。
染み付きのワイシャツを平気で着ているなんて、以前の真澄では考えられない。
家の中だって荒れ放題だ。三浦が真澄を家まで送り届けた時、すぐに家政婦を雇えと忠告する程だった。
「お前らしくないな。やられたら倍返しだろ?」
 流行ったドラマのセリフに真澄は鼻で笑う。
「親父さんへの復讐はどうしたんだ?それだけがお前の生きがいだったじゃないか」
「急に下らなくなった」
 真澄はウィスキーを呷る。
「なぜ?」
「親父と俺が似ているとわかったからだ」
 英介がマヤに真澄を誘惑させたのは、真澄が英介を会社から追い出そうと裏工作をしていたからだ。
やられたらやり返す。その単純さが自分と愚かな程似ていると思った。
真澄もまた、英介の罠にはまったと気づいた時は、すぐに英介が執着している大都芸能を潰そうと思った。
後ろ暗い経営をしていた証拠はいくらでも揃っている。警察に証拠を出せば、英介は捕まるだろう。
そのつもりで裏取りまでした。
 だが、そんな事をして何になるのだ。今度は真澄が英介に報復されるだけだ。
執念深い英介の事だから、真澄を逮捕させる証拠を捏造してでもやるだろう。
そしたら次はどうする?真澄がまた英介にやり返したら、また英介に仕返しをされるだけだ。
どちらかが倒れるまでこのゲームは終わらないのだ。
 下らないと思った。お互いが倒れるまで潰しあうなんて。
 それに、大都芸能を潰せば、紅天女の公演は流れてしまう。
そんな事になればマヤはどうなってしまうのか。マヤの事を思うとそこまでの事はしたくない。
大嫌いだと言われても、マヤを憎む程にはなれなかった。
「復讐なんて下らない。あんな男の為に自分の人生をボロボロにはしたくない。
だから速水の家を出た。会社も自分から辞めた。もう親父とは何の関わりも持たない。そう決めたんだ」
「じゃあ、親父さんが再婚しても気にならないのか」
 三浦が今日の新聞を真澄に渡す。芸能欄が開いてあった。
「なっ」
 真澄の目に見出しが飛び込んでくる。

『北島マヤ、大都グループ総帥速水英介氏と39歳差結婚!』

見出しの下にはマヤと英介が仲良さそうに並んでいる写真があった。
「はっはっはっはっはっ」
 あまりの事に笑ってしまう。
 三浦は突然笑い出した真澄を心配そうに見る。
「おいっ、大丈夫か」
「笑えるな。まさかあの老人と結婚する女性がいるとはな。これは可笑しい。可笑しくて堪らない」
 真澄は尚も笑い転げる。笑いきると、ウィスキーグラスを空にしてバーを出た。
まだ午後八時だった。タクシーを拾うと田園調布の速水邸に向かった。一言英介に言ってやりたかった。
こんなに人をバカにした事があってたまるものか。真澄は怒りに震えていた。




2

 マヤが英介からプロポーズをされたのは速水邸で真澄と遭遇し、全てがバレた後だった。
真澄はマヤにも英介にも何も言わずその場を立ち去った。
 マヤが追いかけようとした時、英介に呼び止められた。
有無も言わせない目で見られ、マヤは仕方なくソファに座り直した。
「真澄の事を何とも思っていないのに、どうしてわしに嘘をついた?」
冷たい声が胸に突き刺さる。マヤは両膝の上で拳を作り、俯いた。
何を言ったら、真澄にこれ以上迷惑がかからないのか、マヤは必死で考えるが、
英介を納得させるだけの理由は思い浮かばなかった。
だから、仕方なくマヤは本当の事を口にした。
「真澄さんを守りたかったんです」
喉の奥から振り絞るように、マヤは言葉を発した。
「真澄に惚れたのか?」
「はい」
「ぶっはっはっはっはっは。傑作だな。ミイラ取りがミイラになったという訳か」
「真澄さんには何もしないで下さい。あの人を傷つけるような事があったら、私が許しません!」
マヤは体中の勇気を振り絞って英介を睨んだ。
英介はいやらしい笑みを浮かべる。
「そんなに真澄が大事か。真澄を守りたいか」
「はい」
「ならばわしと結婚しろ。真澄には何もしないでやる。あんたの身も今まで通り守ってやる。
どうだ?悪い話ではないだろう」
 英介の提案に胃が痛み始める。いつもの胃痙攣だとわかる。
針でちくちくと刺されるような痛みから、ナイフで刺されるような痛みになるのだ。
 マヤは一刻も早くこの場を去りたかった。
「帰ります」
 マヤはソファから立ち上がる。
「返事は公演が終わるまで待つ。それまで真澄には何もせん。あんたの身の安全も保証しよう。
だが、それ以降は返事次第でどうなるかはわからん」
 英介は別人のような冷たい目でマヤを見る。マヤは初めて英介の本性を見た気がして、恐くなった。
その場にいるのが辛い程、更に胃が痛くなり、マヤは逃げるように立ち去った。
 速水邸を出ると田園調布の駅まで走った。
駅前まで来ると自販機で水を買い、赤い屋根の駅舎の中に入るとベンチに腰を下ろした。
バックから常備していた痛み止めの薬と、お守りのハンカチを取り出した。ペットボトルのキャップを外し、
錠剤を口に入れると、水で流し込んだ。三十分もすれば薬は効いてくるが、その三十分を待つのが辛い。
額に冷や汗をかく程、まだ胃が痛んでいた。痛みを抱えたままでは、電車に乗ることも出来なかった。
 マヤは耐えるように真澄のハンカチを握り締める。いつも胃が痛み出すとそうやって我慢しているのだ。
 不意にパーティーの夜を思い出した。真澄を誘惑しようと一緒にタクシーに乗ったあの夜、胃が痛み出したのだ。
あの時は何て言って真澄を部屋に誘うかという事を考えて胃が痛くなった。
真澄にバカな事を言うんじゃない!と怒られる気がして内心ヒヤヒヤしていた為だ。
 結局部屋に誘うタイミングもわからないまま、タクシーはマンションに着いた。
その時は胃の痛みがピークに達していた。
真澄に迷惑をかける訳にはいかず、無理してタクシーを降りた。
でも、すぐにタクシーは戻って来て真澄が心配顔でマヤを抱えてくれた。
あの時の真澄を思い出すと、涙が出そうになる。
 星空の下で会った時と変わらず、真澄は大きな優しさを持った人だと思った。
タクシーの中でもずっと抱き締めてくれていた。
「もうすぐ病院だ。大丈夫だ。俺がついてる。ずっと側にいる」と、何度も励ましてくれた。
その言葉がどんなに安心感をくれたか。
 そんな優しい人に自分は何て事をしてしまったのか。
悔やんでも悔やみきれない。この胃の痛みはきっと真澄を騙したバツだ。
 少しでも真澄を裏切った事を償えるなら、英介と結婚したっていい。
それで自分の身も、真澄の身も守れる。
 胃の痛みが引き始めると、そんな風に英介との結婚を考えていた。






 真澄はバーを出た後、二週間ぶりに速水邸を訪れた。出迎えた朝倉が心配そうに真澄を見る。
「親父はどこだ?」
 真澄の苛立った声が玄関ホールに響いた。
「旦那様はもうお休みです」
嘘だと思った。朝倉がそう言って英介にとって都合の悪い来訪者を追い返すのを
子供の頃から見て来ている。
「わかった。俺が起しに行く」
勝手知る家の中を真澄は歩き出す。朝倉は「おやめ下さい」と止めるが、真澄を止める事は出来なかった。
 真澄は英介の書斎がある一階の西側の部屋に向かった。
部屋の前まで来るとノックする事なくドアを開けた。
 デスクの前に座る英介が真澄に視線をやる。
真澄はづかづかとデスクの前まで行くと、新聞を叩きつけた。
「これはどういう事だ!マヤと結婚するのは芝居じゃなかったのか!」
 英介は顔色を変える事なく真澄を見上げる。威圧感のある眼差しだった。
「最初はそのつもりだったが、お前が執着する程の子がどんな子か味見がしたくなってな」
 真澄は両手でデスクを叩き、苛立ちを爆発させる。
「それが俺への制裁か!!!」
 英介が笑う。
「冷静沈着なお前らしくない。余程あの子が気に入ったのだな」
「ふざけるな!」
真澄は英介の胸倉を掴んだ。
「おやめ下さい!」
朝倉が止めに入る。
真澄は構わず渾身の力で英介の頬を殴った。
車椅子から英介が転がり落ちる。
「旦那様!しっかり」
 朝倉が英介に駆け寄るが、英介はその手を払い、自分の力で起き上がった。
そして、床に座るような格好で真澄を見上げた。そんな体勢でも英介の真澄を見る目は支配者の目だった。
真澄は殴られた事に少しも動じない英介に苛立ち、奥歯を噛み締める。
「父親を殴るのか。お前にどれだけの投資をして来たと思う?わしはお前を後継者にしたくて、お前の母と結婚したんだぞ。
それなのに会社を捨てやがって。わしの期待を裏切るな!お前はわしの人形だ。人形が勝手に動き回るな!
お前は大都グループを継ぐんだ」
「大都グループを継げだと?ふざけるな!あんたなんか父親じゃない!俺はあんたへの憎しみだけで生きて来たんだ!
紅天女の打ち掛けなんかの為に母を殺したあんたを一生許さない!
俺はもう会社には戻らないし、速水の姓も捨てる。あんたと親子でいるのはもう終わりだ」
「だったら、何でここに来た?わしが誰と結婚しようと関係ないだろう」
「その通りだ。あんたが誰と結婚しようと関係ない。だが、北島マヤだけは許さない!
あんたがあの子と結婚する目的は紅天女の上演権が欲しいからだ。あの子を自由に動かしたいからだ!
裏でマヤを襲わせて恐怖心を植えつけて、マヤを人形のように動かした。俺はそれが許せない!」
「何の事だ」
「しらばっくれるな。証拠はこっちにある。あんたがヤクザを使って北島マヤを襲わせたのはわかってるんだ。
あんたはマヤに恐怖を与え、俺を誘惑させる道具に使ったんだ。そして、マヤから紅天女の上演権をもぎとるつもりだろう」
「何の事かさっぱりわからんな」
「何だと!」
「仮にそうだとしても、お前はわしとマヤの結婚を止める事は出来ない。
マヤは自分の意思でわしと結婚する事を選んだ。彼女の選択を邪魔する権利がお前にあるのか?
この結婚を止めたいなら、わしよりも彼女を説得すればいいだろう。わしだって嫌がる女性と結婚する気はない」
「あんたが自分と結婚させるようにマヤを追い込んだんだ!そうに決まっている!」
「見苦しいぞ真澄!紅天女の全国公演が終わったら結婚式を挙げる。これはもう決まった事だ」
 英介が勝ち誇ったように真澄を見る。真澄はやり場のない怒りを発散するように、感情的に机を蹴った。
このまま英介とマヤが結婚するのを指をくわえて見ている訳にはいかない。
 真澄は速水邸を出ると、タクシーを拾い、下北沢に向かった。
マヤに会って英介のした事を話し、英介との結婚を考え直させるつもりだった。






 昨日まで紅天女の公演で福岡にいたマヤは、一週間ぶりに東京に帰って来た。
今夜は演出家の黒沼龍三を囲んだ反省会という名の飲み会を下北沢でしていた。
そこは黒沼行きつけの庶民的な居酒屋で、今夜は座敷を借り切っていた。
 集まったメンバーは紅天女の舞台に立つ役者や裏方も合わせて全部で二十名程だ。
 マヤは自然と相手役の桜小路の隣に座っていた。向かい側には気心の知れた、麗、さやかがいる。
テーブルには名物の比内地鶏を使った料理が並び、マヤは大皿の焼き鳥に目が留まった。
手を伸ばそうとした時、桜小路がさりげない仕草でマヤの皿に乗せた。それも数種類の焼き鳥が並ぶ中から、
マヤが食べたいと思っていた鶏ももを取ってくれた。マヤは皿の上の焼き鳥を不思議な気持ちで見つめた。
「どうしたの?マヤちゃん」
 桜小路が皿とにらめっこしているマヤに笑いかける。
「だって桜小路君、私が言わない内に食べたい物をお皿に入れてくれたから。
なんで私が食べたい物わかったの?」
 マヤは不思議そうに桜小路を見る。
「魂の片割れだからね」
 桜小路は少し照れくさそうに笑う。
マヤもその笑みにつられ、笑顔になる。
「ところで、マヤちゃん」
 桜小路が笑顔を仕舞い、真剣な顔を向けた。
「何?」
「結婚って本当?」
一瞬笑顔がひきつる。触れて欲しくない事だった。
「うん、本当」
マヤは精一杯の笑顔を作った。
 マヤが答えた瞬間、向かい側の席から「おめでとう!」の声が上がる。
びっくりして、視線を向けると、麗とさやかだった。
「北島、本当に結婚するのか?」
 麗の隣の黒沼が便乗するように声を掛ける。
「えっと、あの、本当です」
 マヤは恥ずかしそうに俯く。
 次の瞬間、「おめでとう!」という歓声がテーブル中からあがった。
 一気に反省会から、マヤの結婚祝いの会に変わった。
 みんなからなれ初めを聞かれ、マヤは英介に匿名で高校時代に援助されていた事を話した。
それから英介がマヤを守ってくれると言った事も話した。
 みんなから冷やかされ、マヤは頬を赤くする。そうやってマヤは精一杯幸せな結婚をする女性を装った。
 本当は結婚なんてしたくない。マヤの心は今も真澄だけだ。
 でも、真澄と紅天女を守る為だったら、心ない結婚をする事も出来た。
それに、英介に背いて他に身を守る術も知らなかった。

 飲み会は午前0時でおひらきになった。
近所だらかと、歩いて帰ろうとしたマヤを桜小路が止めた。
 「マヤちゃん、送らせて。結婚する前じゃないと、二人きりにはなれないだろ?」
 思いつめた眼差しで言われ、マヤは断れない。
 マヤは桜小路と二人で歩いた。
 駅前の狭い道に入ると、ストリートライブが百メートル置きに行われていた。
主にアコースティックギターの弾き語りだ。その中に人だかりができている箇所があった。
 マヤも何となく足を止めてしまう。声の雰囲気が真澄に似ている気がした。
顔を見ると全くの別人なのに、包み込むような温かい声が真澄と重なった。
「マヤちゃん?」
 隣の桜小路が心配そうにマヤを見る。
マヤの目は微かに潤んでいた。
「ごめんなさい。あまりにも胸に響いた声だったから」
 マヤの言葉を聞くと桜小路はマヤの肩に腕を回した。
「そうだね。いい声だ。一曲聴いていこう」
 マヤは桜小路と共に二十人ぐらいの人だかりの輪に入って歌声を聴いた。
胸に沁みるような声だった。歌詞は最愛の恋人と別れる物語だ。
まるで真澄との恋のようだ。マヤは堪らず、泣きそうになる。
終わりの方は顔を上げて聴けなくなっていた。
「マヤちゃん、大丈夫?」
 ハンカチで顔を抑えるマヤを桜小路が心配する。
「ごめんね。ちょっと、酔いが回ったみたい」
 マヤはハンカチを顔にあてたまま答える。
何とか涙を引っ込めようとするが、真澄の事ばかりが浮んで、涙が収まらない。
 こんなに愛していたんだと、今更ながら思う。真澄に会いたかった。




5

 マヤのマンションの前で二時間帰りを待ったが、マヤは帰って来なかった。
真澄は仕方なく、麻布十番に戻り、三浦のバーで飲み直した。
「今夜は最低な夜だ」
 つまらなそうに真澄は呟く。
「一層の事全部忘れて、海外旅行でも行ったらどうだ?」
 真澄の話を一通り聞くと、三浦が冗談めかせて言う。
「海外か。それもいいかもな」
 確かに日本を離れてどこか遠くに行きたかった。
マヤも英介もいない場所に行けば、心乱される事はないかもしれない。
「人がいなくて、星が楽しめる大自然がいい」
「じゃあ、アフリカだな」
 三浦が軽く笑う。
「アフリカか。でも、遠いな。もう少し近い所がいい」
「わがままだな。オーストラリアはどうだ?エアーズロックが凄かったって友達が言ってた」
「エアーズロックって、世界最大の一枚岩って言われている、あれか?」
「ああ、アボリジニの聖地らしい。そこから朝日を見るツアーがあってな。その光景が一生忘れられないぐらい
素晴らしいらしい。俺も行ってみようと思って、実はパンフレット集めてる所なんだ」
 三浦がカウンターの奥からパンフレットの入った旅行会社の封筒を差し出す。
 真澄はそれを受け取り、何となくページをめくった。エアーズロックサンライズツアー、サンセットツアーという
文字が目に入る。 
「初日の出をエアーズロックで見ようと年始は世界中から観光客が来るらしい。俺たちも行ってみるか?」
「俺たちって何だよ。行くならお前だけで行け。俺はこういう商業的な匂いが強い物は嫌いなんだ。
年始になんか行ったら、人が多くて疲れるだけだ。行くなら誰も来ない時期がいい」
「みんなでお祭り騒ぎするのも楽しいけどな。ほら、ニューヨークのタイムズスクエアでのカウントダウンを
見に行くのも面白そうだぞ」
 旅行会社の封筒から三浦はニューヨークを特集した物を広げる。
「ニューヨークなんて、東京と変わらないじゃないか。あんな人ゴミごめんだ。俺は星が見える大自然がいいんだ」
 口にしてみてふと、月影千草の葬儀の時に見た星空を思い出した。
肉眼で天の川を見た。ベガとアルタイルまで16光年離れている事を誰かに話した。
 そこまで思い出して、真澄は動きが止まる。
 あの時泣いていた喪服姿の女性の顔がマヤと重なったのだ。
「……まさか」
 カウンターに片肘をつき頭を抱えた。
「どうした?」
 明らかに顔色が変わった真澄を三浦が見る。
「いや、何でもない」
 真澄は考えを消すように肘をついてない方の手でウィスキーを口にした。
 真澄の背後でカランとベルが鳴る。それは誰かが入店した合図だ。
「いらっしゃいませ」
 客に向かって三浦が声をかけた。
「探しましたよ。社長」
 客は真澄の隣に座った。
反応するように真澄は彼女の方を向いた。
「水城君」
 紺色のコート姿の水城がいた。
「マルガリータお願いします」
 水城は三浦に注文すると、コートを脱いだ。
その下は見慣れたチャコールグレーのパンツスーツ姿だった。
「俺はもう社長じゃない」
「まだ速水社長の席は残したままです。引継ぎもしないでいなくなるつもりですか?
辞めるなら最後まで仕事をして行って下さい。あなたの勝手な理由で組織を振り回さないで下さい。社員が混乱します」
「勝手な理由で組織を振り回しているのは親父の方だ」
「速水総帥なら脳梗塞で倒れました。今、大学病院のICUです」
「何だって!」
 三時間前に英介に会った時はそんな気配はなかった。
「今夜が峠だそうです」
「全く何て夜だ」
 真澄は苛立たしく立ち上がると黒いコートを羽織り、バーを飛び出した。




6

 マヤは朝倉から英介危篤の電話をもらい、一緒にいた桜小路に連れられて大学病院に向かった。
 夜間の救急入口から病院内に入り、受付で英介の事を聞く。英介は7階の集中治療室に入院していた。
 最寄のエレベーターで桜小路と共に7階に着くと、夜間にも関わらず、病院スタッフが忙しく
行き来していた。同じ階に手術室もあり、手術中を表すランプが点灯していた。
 まさか、英介が手術を受けているのだろうかと、不安が募る。
マヤが手術室の前でスタッフに声を掛けようとした時、「マヤ」と呼ばれた。
声のした方を振り向くと真澄がいた。二週間前に会った時よりも顔色が悪く、やつれて見える。
その姿を見てこみ上げてくるものがあるが、マヤは感情を押さえ込んだ。今はそれ所ではなかった。
「親父はこっちだ」
 真澄の案内でマヤは集中治療室に向かった。
 長い廊下を真澄の背を追いかけるように、進んだ。
颯爽と歩く後姿は二週間前と少しも変わっていない。甘えるようにキッチンでオムレツを作る真澄の背中に抱きついた記憶が蘇る。
フライパンの上で卵が焼ける匂いと、背中越しに聞く真澄の優しい声を思い出す事が出来た。
その時の背中はマヤを全身で受け入れる恋人としての無防備さがあったが、今の真澄の背中は隙一つ感じさせない。
それ所か、触れれば指が切れてしまいそうな緊張感さえある。真澄との間に埋める事の出来ない距離を感じて
マヤは寂しくなり、涙が滲んだ。
「マヤちゃん、しっかりして、僕がついてるから」
 隣を歩く桜小路が、マヤの涙を英介を心配してのものだと思い、声をかけた。
 マヤは小さく肯いて涙を拭う。
 集中治療室の前まで来ると、真澄が看護師に声をかけた。
看護師に身内しか入れないと言われ、真澄と婚約者のマヤだけが中に入った。
桜小路は廊下の待合室で待機している。
 入口で手を消毒し、使い捨てのビニール手袋と、エプロンにキャップを被ると、やっと中に入る事が出来た。
 看護師にベッドまで案内されると、英介は医療機器につながれた状態で、意識はなかった。
生命維持装置が英介の弱くなった心拍をモニターにうつしていた。マヤは突然、医療ドラマの中に入り込んだ気がして、
急にがくがくと足が震え出した。隣で英介を見下ろしている真澄にすがるような目を向けると、真澄はそっとマヤの手を握ってくれた。
ビニール手袋越しに真澄の指の感触と温度を感じ、泣きたくなった。
 マヤが真澄に声を掛けようとした所で、緑色の手術着姿の医者が慌しそうにマヤたちの前に現われた。
医者は英介の病状を淡々とした調子で説明していく。マヤは真澄の手をギュッと握り返した。
そうしてないと不安で押しつぶされそうだった。
「今は脳内で大量の出血があったので、輸血をしている状態です」
 医者の言葉にマヤは気が遠くなりそうだった。
「英介さんは助かりますよね?大丈夫なんですよね」
「全力は尽くします」
 医師は鎮痛な表情を浮べた。
「お願いします。助けて下さい。私の大事な恩人なんです。お願いします」
 マヤは涙ながらに訴える。もう誰かが死んでしまうのを見たくなかった。
高校生の時に母が亡くなり、二年前には月影が亡くなった。もうこれ以上の悲しみは知りたくない。
英介は恐い相手であるけれど、マヤを高校に進学させてくれた恩人なのだ。その恩人の命が危ない所にあると思うと、
不安で仕方なかった。
「落ち着きなさい。君が取り乱してどうする」
 真澄は正面からマヤの両肩に手を置いた。真澄と向き合い更に涙が溢れる。
「だって、英介さんが、英介さんが」
「先生は全力を尽くすと言ってるんだ。俺たちに出来る事は見守る事しかないんだ」
 真澄はマヤをあやすように背中を優しく叩く。マヤは俯き涙をこらえていた。
「先生、父の事よろしくお願いします」
 真澄は主治医の方を向くと、深く頭を下げる。
「はい。とにかく今夜が峠になります。ご家族の方は待合室で待機していて下さい」
 真澄はマヤを抱えるようにしてして集中治療室を出た。マヤは真澄に連れられ、準備室まで来ると、
力が抜けたように床に座り込む。その横で真澄は使い捨てのキャップやエプロンを外し、苛立たしくゴミ箱に捨てていた。
金属製のふた付きのゴミ箱のふたが閉まる音がした時、マヤはこれが夢ではなく現実の出来事なんだと思った。
「しっかりしろ」
 真澄はマヤの前に腰を下ろす。
「だって先生、一度も大丈夫だって言わなかった。ねぇ真澄さん、英介さんは大丈夫じゃないの?」
 マヤは不安気な目で真澄を見る。真澄はため息をつくと、黙ったままマヤのキャップとエプロンを外していく。
その表情が石像のように固まって見え、真澄の感情を読み取る事が出来ない。
「真澄さん、答えてよ!」
 無言の真澄に耐えられず、子供がだだを捏ねるような言い方をした。
真澄はマヤの右手を持ち、ビニール手袋を外そうとした手を止める。
そして、座ったままの姿勢でマヤを抱き締めた。コロンと煙草の混じった真澄の香りが鼻を掠め、胸が潰れそうになった。
「親父はきっと大丈夫だ。だからそんな顔するな。俺が堪らなくなる」
 耳にかかる真澄の声に涙の気配を感じた。
「あのくそ親父が簡単に死ぬ訳ない。俺を罠にはめるぐらいなんだから」
 真澄の声が滲んでくる。マヤは喉元に熱いものが込み上がってくる。
でも、泣いちゃいけないと思った。
 マヤ以上に真澄の方が辛いを想いをしているのがわかった。
それなのにマヤの動揺を受け止めようとしてくれる。しっかりしなければと、初めて思う。
「そうよ。簡単に死ぬ訳ないです。だって、まだ私英介さんと結婚してない」
 場の空気を少しでも明るくしたくて言った一言が、余計な事だったと、マヤは後悔した。
 真澄の顔を見るのが恐い。英介との結婚をどう思っているのか。
「そうだな。花嫁を未亡人にする訳にはいかない」
 真澄はマヤの頭をぐしゃっと撫でた。真澄は意外なほど普通の顔をしていた。
もうマヤの事を何とも思ってないように見える。
「今度は反対しないんですか?」
つい聞いてしまう。真澄に少しでも嫉妬して欲しいとどこかで思っていた。
「反対はしないよ。君が決めた事だ」
 真澄はスッと立ち上がり、マヤに背を向けた。
マヤはハッキリと真澄に拒絶された気がした。英介を心配するのとは違う涙が浮かびそうになる。
「それって、もう私に興味がないって事ですか?」
マヤも立ち上がる。
「当たり前だ。あんな酷い目にあったんだ。もう君の事はこりごりさ。安心しろ。君にもう恋愛感情はないよ」
 マヤの瞳が涙で埋まる。ぼやけた視界に、真澄が準備室のドアを開け外に出る所が写った。
ドアが閉まると、蹲るようにしてマヤは泣いた。




7

 真澄は煙草が吸いたくて、病院の外に出た。喫煙所は中庭にあった。
外灯の下にあるベンチに腰を下ろすと、コートのポケットから煙草を取り出した。一本口にくわえると、ジッポーのライターで火を付け、
それを両手で囲むようにして煙草に火をつけた。煙を吐き出すと同時に張り詰めていた気持ちが少し緩んだ。
 外は北風にさらされて寒かった。その寒さに母の葬儀を思い出す。
二月の寒空の下、十五歳の真澄は母を見送った。こんな寒い日に葬儀なんて迷惑だと、速水の親族が言っていた。
真澄はそいつを蹴ってやりたかった。でも、速水の家に残ると決めたから出来なかった。
 葬儀で心から悲しんでいたのは真澄だけだった。英介さえもただ、儀礼的に妻を送ったようにしか見えなかった。
 母が亡くなってからずっと一人で生きて来た気がする。そう思うのは感傷的過ぎるかと、真澄は煙草の煙を吐いた。
 英介の危篤状態に対して、思っていたよりも動揺している自分がいた。
血などつながっていないのに、本当の親子ではないのに、心配だった。ベッドの上で眠る英介があまりにも小さく見え、
真澄は驚いた。尊大で、威圧的で、支配者の英介がただの老人にしか見えない。
まるで浦島太郎が玉手箱を開けたみたいに、急に英介が老人になった気がした。
 マヤが取り乱す姿に英介がした事を話す気が失せた。言えばマヤを苦しませる事になると、気づいたのだ。
英介の事を恩人だと話したマヤは真澄にはわからない愛情を英介に向けているのかもしれない。
 それに、英介と結婚する事を選んだのはマヤなのだから、今更真澄がどうこう言う立場ではないとマヤの顔を見てわかった。
 しかし、マヤの側にいてまだ平気ではいられない。マヤの顔を見て、つくづく愛していると気づかされる。
気を抜けば余計な事を言ってしまいそうで恐い。マヤに嫌われているとわかっていても、無理矢理にでも自分のものしたかった。
 勝手な自分に嫌になる。真澄はため息をつき、煙草の灰を落とした。
腕時計を見ると午後十一時を過ぎていた。今夜は長い夜になりそうだ。
「……真澄さん」
 北風がコートの裾をひるがえすのと同時に声がした。
振り向くとマヤがいた。見覚えのあるベージュ色のダッフルコート姿に胸がうずく。
「親父に何かあったか?」
 マヤが首を左右に振る。
「じゃあ、どうしてこんな所に?」
「真澄さんに謝りたくて。私、まだちゃんと謝っていなかったから」
 マヤがすまなそうな顔を浮べる。
「いいんだ。親父に頼まれて、君も断れなかったのだろう。
聞いたよ。紅天女の上演権のせいで死にそうな目に合ったって。
それで親父に守ってもらう代わりに頼みごとを聞かされたのだろう?」
 マヤが思いがけない物を見るように目をみはる。
「どうしてそれを……」
 信じられないものを見るように真澄の目を見る。
「少し調べさせてもらったよ。君が親父の頼みごとを聞いた理由が知りたくて」
「じゃあ、私が英介さんと結婚する理由も?」
「えっ」
 思いがけないマヤの言葉に真澄は眉を上げる。
「親父と結婚するのも紅天女に関係してるのか?」
 マヤは肯く代わりに苦く笑う。
「一生英介さんに守ってもらおうと思って。これでも私、計算高いんですよ」
 何でもない事のようにマヤが笑う。
「それは紅天女の為に好きでもない相手と結婚するという事か?」
 マヤは真澄に背を向けた。
「最低ですよね、私。英介さんの愛情を利用して。でも、私にはそれしか紅天女を守る術を知らないから。
次の紅天女後継者に上演権を渡すまでは、何としても守らなければいけないんです」
「それで君はいいのか?」 
「……はい」
 背を向けたままのマヤが答える。
「私は紅天女ですから」
 諦めたような声が落ちる。真澄は堪らずマヤの肩を掴み、自分の方に向けた。
涙に濡れたマヤの顔を見てハッとする。
「本当は親父との結婚が嫌なのか?」
 思わずそう口にした。マヤの目が更に涙に潤む。マヤは泣き顔を隠すように俯いた。
「君はバカだな。本当にバカだ」
 真澄はマヤを抱き締める。このままではいけないと思った。
マヤの為に出来る事をしなければならない。そう心に決めた。





8

 速水英介が目を覚ましたのは、倒れてから七日目の事だった。
マヤは公演先の神戸で知らせを聞き、胸を撫で下ろした。
 翌日、朝一番の新幹線でマヤは東京に帰り、英介を見舞った。
英介は集中治療室から一般病棟の特別室にうつされていた。
「来たのか」
 病室に行くと、ベッドの上で朝食をとっている英介がいた。
マヤは紺色のコートを脇に抱え、英介に一礼をしてから入室した。
 特別室はホテルのような豪華さがあった。ベッドの他には革張りのソファとテーブルがあり、
ミニキッチンとバスルームまで付いていた。
 マヤは持って来た花束をシンクの上に置かれていたガラスの花瓶に移すと、英介の枕元に置いた。
英介は朝食を綺麗に平らげ、茶をすすっていた。
「英介さん、ユリが好きだっておっしゃったでしょう」
「わしの好きな花を覚えていてくれたのか」
 英介がじっとマヤを見る。
「当然です」
「ありがとう。公演中なのにわざわざ見舞いに来させて悪かったな」
 病のせいか英介の印象が丸くなった気がした。
「大丈夫ですよ。今夜の公演は東京ですし。英介さんに観てもらえないのが残念ですけどね」
 マヤは明るく笑う。
「随分とお加減が良くなって安心しました」
 英介は点滴に繋がれていたが、他に繋がれている医療器具はなかった。
顔色もいい。声もしっかりしていた。
「実はな。意識を戻して今日で三日目だ」
 英介が笑う。マヤは「えっ」と目を見開いた。
「だって、昨日って私は聞きましたけど」
「マヤが公演中だったから、知らせるなと言っておいたんだ」
「なんだ。そうだったんですか。もう、心配してたんですから」
 マヤは少しふて腐れるように英介を見る。
英介は愉快そうに笑った。
「それでな。少し大事な話があるのだが、いいかな」
「大事な話?」
更に思いがけない事が続くとマヤは思う。
英介は笑い顔を納めると、真剣な顔でマヤを見た。




9

 大都劇場は銀座にあり、二千人の客席数を持っていた。
開場時間の午後5時半になると、紅天女のチケットを持った客たちが、ホールに並び始めた。
 真澄はその光景を喫煙室から見つめている。
壁一面には紅天女のポスターが並び、ポスターの絵は紅梅の打ち掛けをまとったマヤが空を見上げている写真だった。
 真澄の視線は列に並ぶ客から、ポスターの中のマヤに移っていた。
マヤの黒々とした大きな瞳が包み込むように真澄を捕らえる。ポスター相手に胸がざわついた。
 真澄は煙草を灰皿に押しつぶすと、引き寄せられるようにポスターの前に立ち、マヤを見上げた。
 初めて観た紅天女を思い出す。心が全て持っていかれそうになった。舞台が終わった後も、熱が冷める事がなかった。
舞台を観て心が動かされたのは初めての経験だった。
 北島マヤに会いに行くと英介に言われた時、少年のように胸が時めいた。
だから慌てて劇場の隣にあった花屋に飛び込んだ。そして、目についた紫の薔薇を両手いっぱいに買った。
 楽屋に行くと舞台衣装のままのマヤがいた。マヤは真っ直ぐに真澄を見つめていた。
その視線に動揺して、その時何を言ったのか真澄は覚えてない。
とにかく感動した事と、花束を渡した。マヤと握手した手にはベッタリと汗をかいていた。
 それが真澄の中でのマヤとの初めての出会いの場面だった。
 今夜もその時と同じ紫の薔薇を左手に持っていた。マヤが好きだと言ってくれたから、紫の薔薇を選んだ。
おそらくこれがマヤに渡す最後の花束になる。
 真澄は今夜の便で日本を発ち、ニューヨークに行く。今度日本に戻るのは速水英介が死んだ時だ。
それがマヤを守る為、英介に飲ませた交換条件だった。英介はマヤとの婚約を破棄し、紅天女に手を出さないと約束した。
マヤにもしも手を出した時は、真澄が握る英介の悪事の証拠が弁護士を通じて警察の手に渡る事になっている。
そして、紅天女の上演権は演劇協会が管理する事になり、マヤの身は演劇協会によって守られるようになった。
 昨日までの不眠不休の作業で何とか今日、演劇協会とマヤが契約を交わす所までこぎつけた。
真澄は同席した弁護士から、昼頃契約を結ばれた事をさっき聞いた。真澄の名前は表に出さない事になっている。
だからマヤは、真澄が今回の契約の発案者である事を知らない。演劇協会からの申し出という事になっていた。
全て真澄の望むようになった。満足いく結果だ。最後にいい仕事をしたと思う。
 ホールに開演時間を知らせるアナウンスが流れた。真澄は花束を抱え客席へと向かった。




10

 マヤは舞台の上で紅天女になった。もう心に迷う事は何もない。
その夜の紅天女はマヤの中でも一番出来が良かった。舞台が終わると、客席から拍手の雨が降り注ぐ。
緞帳が下がった後も、拍手は止む事がなかった。
幕が再び開くと、マヤはアンコールに応え、大きく客席に向かってお辞儀をした。更に拍手が鳴り響いた。
客席中が立ち上がり、スタンディングオベーションとなった。
その光景にマヤは胸が熱くなり、涙が浮かんだ。嬉しかった。
芝居をしていてこれ程、客席と一体になった事はなかった。
 楽屋に戻った後も、胸の熱さは消えず、マヤは鏡台の前でぼーっとしていた。
ドアを叩く音がして、その音にハッとして鏡台から立ち上がった。
 ドアを開けると紫の薔薇が見えた。薔薇を持って来たのは受付のスタッフだ。
「北島さんに預かりました」
 薔薇を渡され、マヤはメッセージカードを見た。

『一生の思い出になる最高の舞台でした。 あなたのファンより』

「あの、花束をくれた人はどんな人でしたか?」
 楽屋から出て行こうとするスタッフをマヤは引き止めた。
「スーツ姿の背の高い男性でした」
 すぐに真澄の姿が浮んだ。
「いつ花束を受け取ったんですか?」
「五分ぐらい前だったと思います」
 まだ劇場内に真澄がいるかもしれない。そう思うといても立ってもいられなかった。
マヤは楽屋から舞台衣装のまま走り出す。真澄に会いたかった。
 英介と婚約を破棄した今なら、本当の気持ちを伝えられると思った。
真澄に恋愛感情はないと言われたけど、真澄を愛した気持ちは変わらなかった。
 ホールまで出ると、舞台を観ていた二千人の客が一斉に出口に向かっていた。
マヤは人の間を切り抜けながら、真澄を探した。出口に向かう長身の男性が目に留まる。
押しつぶされそうになりながらマヤも出口に向かう。けれど、人の勢いで思うように進めない。
 その内誰かが「北島マヤだ!」と声を上げた。出口に向かっていた人の波が向きを変え、マヤを囲む。
「あのっ、通して下さい」
 マヤは人の間を抜けようとするが人の輪は何重にもマヤを囲んだ。
マヤはもみくちゃにされる。
「マヤちゃん、こっち」
 力強く誰かに腕を取られた。
人の輪からマヤは助け出される。腕を引っ張ったのは桜小路だった。
さらに警備員がマヤを守るように盾となった。
「私、行かなきゃ」
 出口に行こうとするマヤを桜小路が止める。
「ダメだよ。今は危ない。早く人目のつかない所に」
 有無も言わせず桜小路はマヤの腕を引いて歩き出した。
マヤは真澄の影を追うように後ろをずっと振り返っていた。
 桜小路に連れられ楽屋に戻っても、真澄の事が頭から離れなかった。
「マヤちゃん、僕の話聞いてる?」
 桜小路の苛立ったような声に、マヤはハッとした。
楽屋のソファに並ぶようにして、マヤは桜小路と座っていた。楽屋はマヤと桜小路の二人きりだ。
「ごめん。何だっけ?」
 マヤは紫の薔薇を抱き締めながら、桜小路を見る。
「僕と結婚して欲しい」
「えっ」
 不意打ちのような言葉にマヤは動揺した。
「婚約を解消したのなら、僕と結婚して欲しいと言ったんだ。僕たちは魂の片割れだろう?」
 桜小路が熱い瞳でマヤを見つめる。
マヤは桜小路の視線から逃げるように俯いた。
「私、行かなくちゃ」
 マヤがソファから立ち上がろうとした時、桜小路に抱きすくめられる。
「マヤちゃん、好きだ。ずっと、好きだった」
 痛い程桜小路の気持ちが伝わって来る。しかし、マヤは桜小路に好きだと言われる度に、
自分の心がどこにあるかハッキリする。
「桜小路君、ごめん」
 報われない恋の辛さがわかるから、申し訳ない思いでいっぱいになった。
「私ね。凄く好きな人がいるの。お願い、その人の所に行かせて」
「それって、速水社長の事?」
「うん。好きなんだ。私にはあの人しかいないって思えるぐらい好きなの」
 真澄への思いに涙が浮かぶ。桜小路は傷ついたような顔でマヤを見る。
マヤは強引に桜小路の腕から抜けると、楽屋から飛び出した。そのまま裏口からタクシーに乗った。
 行き先は横浜山手の真澄の家だ。後部座席に座るマヤは紫の薔薇の花束を大事に抱えていた。
この花束をもらった時からマヤは真澄に会う事を決めていた。
何としても今夜中に真澄に会って、自分の思いを伝えたい。そうしないと気が触れてしまいそうなぐらい真澄が恋しい。
 英介から婚約を解消された時から、心は真澄に向かっていた。
でも、会うのが恐かった。もう会いたくないと面と向かって言われる事が恐かった。
 けれど、何を恐れていたのだと思う。真澄は舞台を観に来てくれたのだ。今度はマヤが真澄の所まで行く番だ。
そして、ありったけの想いをぶつけて来よう。
 窓の外を見ると首都高の灯りが滲んで見えた。
溢れる想いが次々に涙となり、頬に伝う。更に頬から落ちた涙が紫の薔薇の花びらを濡らしていく。
マヤは大事な物を守るように花びらについた涙を拭った。
 タクシーが首都高を降りると賑やかな中華街の灯りが見え始める。元町の交差点で曲がると
フェリス女学院が見えてくる。山手はもうすぐだ。逸る気持ちが胸いっぱいに広がる。
 坂を登りきって少し行った所でタクシーが停まる。マヤは現金で支払うとタクシーを降りた。
マヤの背よりも高い煉瓦作りの塀にそって、門まで歩いた。
鉄製の門の所まで来るとマヤは息を飲む。

『売家』

門にはそう書かれた看板がくくりつけられていた。
看板の下に不動産屋の電話番号があった。バックから携帯電話を取り出し、すぐに電話した。
コール音が三つ鳴った後、機械的なアナウンスに変わる。

「本日の営業は終了しました」

 電話を切ると、マヤは携帯電話で時間を確めた。
午後10時を回っていた。
 真澄の携帯電話にかけようとアドレスから探すが、もう真澄の名前はなかった。
英介との結婚を決めた日に自分でアドレスを消したのだ。
だったら、速水邸に電話すれば、もしかしたら真澄と話せるかもしれない。
一縷の望みをかけてマヤは速水邸に電話した。
 すぐに執事の朝倉が出る。
「あの、北島マヤです。真澄さんの居場所を知りたくて。真澄さん、そちらにお戻りでしょうか?」
 受話機越しに小さくため息が聞こえた。
「真澄様はもうこちらにはお戻りにはなりません。戸籍からも抜けて、速水家とは一切の関わりを断ちました」
「えっ」
 思いがけない事に携帯を握る手が震えた。
「あの、でも、どうしても真澄さんに会いたいんです。連絡先とかわかりませんか」 
 沈黙が流れる。
「申し訳ありませんが、こちらでは何もわかりません。では、失礼致します」
「待って下さい!」
 マヤは叫んだ。
「何でもいいんです。どんな些細な事でもいいですから、教えて下さい。
私、このままじゃ納得できません、お願いします!」
 マヤは必死に訴えた。朝倉のため息が聞こえる。
「真澄様は今夜、10時の便でニューヨークに発たれました。ニューヨークでの連絡先はこちらでもわかりません。
お力になれず申し訳ありません。それでは北島様、失礼致します」
 電話が切れるとマヤはその場に座り込んだ。体中から力が抜け、立っている事も出来ない。
 こんなに好きにさせといて黙ったまま行ってしまうなんて、あんまりだ。
しかもニューヨークだなんて……。
マヤは紫の薔薇を抱き締めたまま途方にくれていた。




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2014.12.10
Cat





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