―――  美  幸(みゆき)  ――― 


ニ章

2 映画と雪





 月曜日、私は自己嫌悪に浸っていた。
酔っていたとはいえ、どうして先生にあんな事を言ってしまったのか。もう後悔しかない。
先生は私の事どう思っただろうか?
結婚している人に好きだなんてきっと非常識な奴だと思ったに違いない。
「高木さん、ちょっと」
パソコンの画面から視線を外すと、専務がいた。
ここは職場だ。私はいつものように仕事をしていた。
「はい」
「これ、あげる」
専務が私に差し出したのは二枚のチケットだった。
「この間のお礼だから、遠慮なく受け取って。彼氏とでも行って来てよ」
彼氏という言葉に私はウッと落ち込む。本当にこの人は一言多いのだ。
「ありがとうございます」
私は無表情なままお礼を言った。
専務がくれたのは映画のチケットだった。
一瞬、先生の顔が浮かぶが、私は先生の連絡先一つ知らない。
それはもう会わないと決めたから、聞かなかった。
さすがに不倫なんてバカみたいな事をする度胸は私にはなかった。

 午後6時いつも通り退社する。ビルから出ると冷たい風が頬をかすめた。
空は暗くなり、頼りなさそうな三日月が出ていた。会社がある裏通りを抜け駅に向かう。
抜け道になっているショッピングセンターの中に入ると、暖房が効いていて、温度差に少し気持ち悪くなった。
私は歩きながら洋服や、アクセサリーの店をちらりと見たが、欲しいと思う物はない。
 千葉駅まで来ると先生の事がまた浮かんだ。
先生が働く予備校は以前と変わらず西口にある。
もしかしたら西口改札で待っていれば会えるかもしれない。
「ダメよ。ダメ」
自分の考えを振り払うように頭を振る。
でも、そう思えば思う程会いたいと思う気持ちは膨らむ。
私はその気持ちを振り切るように東口改札を通り、
逃げるように総武線のホームに上がった。
そして、そこで声を掛けられる。
「お疲れさま」
「えっ」
声のした方を見ると先生がいた。
「先生」
今日も先生は紺色のコートを着ていた。
先生に会ったのは二日ぶりだ。思わず視線を逸らす。
そのタイミングで電車がホームに入って来る。いつもの三鷹行きだ。
私たちは無言のまま電車に乗る。扉の近くに先生と並んで立つ。
この時間帯は込んでいるので、先生との距離が必然的に近くなった。
コロンと煙草の香りが微かに鼻につく。それだけで私は胸が時めいてしまう。
先生の方を見上げると、窓の外を見つめる横顔がある。
先生は私の事どう思っているのだろうか。
あんな事言ったのに、今日会った先生はいつもと変わらない。
「うん?」
私の視線に先生が気づく。
視線が合いドキリとした。
「何でもないです」
私は俯く。先生に何て言ったらいいかわからない。
電車が止まる。西千葉駅だ。扉が開き、何人かの人が降りる。
そして、何人かの人が乗り、扉が閉まる。
次は私の降りる駅だ。
先生と一緒にいられるのが後一駅だと思うと、急に寂しくなる。
もしかしたらもう二度と会えないかもしれない。
「あの、先生」
思い切って話しかける。
「うん?」
眼鏡越しの瞳が私を見る。
「こ、今度映画でも行きませんか。あの、今日会社の人に映画の券もらって、
あの、だからもし良かったら私と一緒に……」
咄嗟に出た言葉だった。手に汗をかく。緊張で喉がカラカラする。
「映画か」
先生が考えるように呟く。
「いいよ」
先生が口元をニッとさせる。その瞬間、体がふわっとした。
「じゃあ、連絡して」
先生がコートのポケットから名刺入れを出すと、その中から一枚私にくれた。
「携帯の番号が裏に書いてあるから、そこに掛けてくれればいいよ」
電車が停まる。稲毛に到着した事を知らせるアナウンスが流れた。
扉が開き私は先生に挨拶をすると電車を降りた。
自分でも信じられなかった。どうしてあんな事を言ってしまったのか。
そして、まさか先生がいいよなんて言うとは思わなかった。
胸がドキドキとしている。
名刺の裏を見ると手書きの字で書かれた携帯電話の番号があった。
私は走り去る電車を見送った。





 不倫ってどこまでの関係を言うのだろう。という事を昼休みに会社の子たちと話した。
二人だけで会ったらもう不倫という人もいるし、食事ぐらいはいいと思うという人もいた。
「でも、やっぱり体の関係を持ったらもうアウトだよね」
同僚の一言に私は口にしていたウーロン茶を噴出しそうになる。
そんな事考えた事なかった。先生と体の関係を持つなんてありえない。
だったらこれは不倫ではない。映画を観に行くぐらいなら別に普通の事だと、
私は自分に言い聞かせた。
先生と映画を観るのは仕事納めの日にした。こういう日の方が忘年会などで遅くなる理由を
先生が作り易いと思ったからだ。映画館は千葉にあった。千葉駅から徒歩十分ぐらいの所にある。
そこはショッピングセンターとホテルと、京成電鉄が重なる場所だ。
私は4階の映画館の入り口で先生を待っていた。待ち合わせたのは午後七時半だ。
映画は午後8時からの回を観る。
午後七時四十五分まだ先生は来ない。仕事が終わらないのかもしれない。
先生から連絡がないかと、私は携帯電話を握り締めたままだ。
「お待たせ」
その声に振り向くと、隣のカップルだった。
隣の女が待っていた男が現れると嬉しそうに微笑む。それを横目に見て少し妬けた。
さっきからその光景を繰り返し見ていた。
もしかしたら先生は来ないかもしれない。
私と会う事を躊躇して帰ってしまったのかもしれない。
よく考えれば「好き」だと言った女に結婚している人が会うだろうか。
そう思った時、不安になる。
 午後7時55分。シアタールームへの入場が始まる。
ロビーにいた人たちが連れと何か楽しそうに話しながら入って行く。
私は泣きたくなった。
「ごめん」
その言葉に俯いていた顔を上げる。
息を切らせた先生がいた。額にかかる前髪が乱れている。
「走って来たの?」
私の問いに先生がわき腹を抑えながら頷く。
先生が苦しそうに肩で息をしている。
「あの、飲み物買って来ます」
私は目の前の売店でペットボトルに入っているお茶を二本買った。
「ありがとう」
先生がお茶を受け取ると、一気に飲む。
グビクビ豪快に飲む姿に私は笑ってしまう。
「さぁ、行きましょう。映画が始まっちゃう」
先生の手を掴むと私は元気良く歩き出す。
シアタールームに入ると、もう照明は落ちていて、映画の予告編が始まっていた。
私と先生は後ろから三番目の右側の列に座った。
通路側に先生が座って、スクリーンに近い方に私が座る。
映画はハリウッドのアクションヒーロー物だ。上映時間は二時間ぐらいあった。
時々私はスクリーンから視線を外して先生を見ていた。
映画を集中して観る横顔にドキッとする。
鼻筋が通っている横顔は昔から綺麗だ。
「お腹すいた」
映画館から出ると先生が口にする。
それは私も同じ意見だった。
私たちはすっかり夕食を食べそびれていた。
予定では映画を観る前に映画館の売店で何か軽食を取ろうと思っていたが、
そんな時間はなかった。
映画館が入っていたビルを出ると横断歩道を渡って私たちは最寄りの居酒屋に入っる。
そこはチェーン展開する居酒屋で、店の雰囲気に気軽さがあった。
4人掛けのテーブル席に案内され、先生と向かい合って座る。
先生がコートを脱いで黒革の鞄と一緒に隣の席に置く。
今夜の先生は紺色のスーツを着ている。
ワイシャツは薄い水色でネクタイは黄色だ。
 私もグレーのピーコートを脱いで、隣の椅子にバックと一緒に置いた。
私は胸の開いた白いセーターに茶色のスカートを履いていた。髪は今日は上げていた。
「何にしようか」
先生がメニューを見る。
「うーん、海鮮サラダにから揚げに焼き鳥の盛り合わせ、あっ、玉子焼きもいいな」
「じゃあ、まずはそれで頼もう」
先生が手を上げると緑色のエプロンを付けた店員さんが来る。
先生が私が言ったものを頼む。
「あっ、お酒はどうする?」
最後に先生が確認するように私を見る。
一瞬、この後先生と酔った勢いに任せてベッドに崩れ落ちる自分を想像する。
いや、絶対そんな事はないとわかっていても、どこかで考えている自分がイヤらしく思えた。
「先生が飲むなら、飲みます」
「じゃあ、ワイン一本二人で飲もうか」
先生の言葉に私はドキッとした。
「はい」
先生が私にも飲みやすそうな白ワインを選ぶ。
「今日は遅刻したお詫びに全部俺が払うよ」
「えっ、この間も出してもらったのに」
先生は私に気持ち分しか払わせてくれなかった。
「この間はこの間。今日は今日だよ」
先生が笑窪を浮かべて笑う。
胸がキュンとする。
「それより、今日は本当に遅れてごめん」
先生が顔の前で手を合わせる。
「予備校から走って来たんですか?」
「うん。久しぶりに走ったから、みっともない所見せちゃったね」
駆けて来た先生の姿が浮かび笑う。
「いえ、素敵です。一生懸命私の為に走って来てくれたのかなって思うと嬉しいです」
私の言葉に先生が微かに笑う。
そのタイミングで私たちの前にワインと料理が来た。店員が手際よく並べていく。
「じゃあ、とりあえずお疲れ様」
先生とワイングラスを合わせる。
「はい、お疲れ様でした」
何か先生と二人だけの忘年会をしているみたいで楽しかった。
「あっ、美味しい」
ワインを口にするとフルーティーな香りが口の中を包む。
「このワイン女性に人気があるんだ。俺も好きだけどね」
女性という言葉に柳田先生の事が浮かぶ。
「柳田先生とも飲んだんですか?」
先生が「えっ」と小さく漏らし、私を見る。
「うーん、どうだったかな。彼女はワインよりも焼酎の人だから。
そして恐ろしく酒癖が悪い」
「えっ、そうなんですか」
「うん。もう酔うと手が付けられない」
実感のこもった言葉に笑ってしまうが、柳田先生の事を話す先生に妬けた。
「そうですか。あっ、お刺身も頼んじゃおうかな」
奥さんの話題から離れたくて、私はメニューを開いた。
まだテーブルの上には少ししか箸のつけられていない料理が並ぶ。
「じゃあ、追加しよう」
先生が店員を呼び、料理を追加する。
「そういえば、お母さんは元気?」
先生が思い出したように口にする。
「昨日から恋人とイタリア旅行です」
「優雅だね」
「勝手なんです」
「相変わらずの仲だね」
先生が笑う。
「はい。相変わらずの犬猿の仲です。
でも、大検取らせてくれた事には感謝しているんです」
私か唯一母に感謝できる事は先生に会わせてくれた事だ。
「そうか。それは良かった。そういえば高木さん逃げ回ってたんだよな」
懐かしむように先生が目を細める。
「逃げていましたね。だって、勉強したくなかったんです。
先生しつこかったな。トイレの中まで探しに来るんだもん」
「だって、逃げるから。あそこまで勉強しないって突っ張った子は初めてだったよ」
「その子と今目の前でお酒飲んでいるなんて信じられませんね」
私の言葉に先生が笑う。
「確かに。あの時は全く想像しなかった。まさか高木さんが……」
そこまで口にすると、先生がハッとするように口元を押さえる。
「何です?」
その先の言葉が気になる。
「いや、何でもないよ」
誤魔化すように先生が笑う。
「仕事はどう?楽しい?」
先生が違う話題を選ぶ。
「まあまあですかね。本命は図書館司書なんで、今の所はつなぎです」
「そっか。確か求人が少ないんだよな」
「はい。まぁ、それは聞いていたので覚悟していたんですけどね」
私はワインを口にした。グラスが空くと先生が注いでくれる。
「先生はお仕事どうです?」
「楽しいよ。今は大学受験の子たちで忙しいけどね。今日も捕まってたんだけどね」
先生が苦笑を浮かべる。
 それから私たちは他愛のない話をした。主に予備校時代の事が多かったけど、静岡に行っていた
先生の様子や、私の短大生活など話していたら、あっという間に閉店の時間になった。
「あっ、雪」
外に出ると一面の白銀世界になっていた。店に入る前はそんな素振りはなかった。
午前一時、身が縮む程寒かった。まだ雪は降り続いている。京成駅前のロータリーまで来ると私たちは
タクシーを捜したが一台も停まっていない。
「どうしようか」
先生が私を見る。
当然もう電車は動いていないから、タクシーで帰るという選択肢がダメだと、
千葉に始発が動く時間までいる事になる。
カラオケか、ネットカフェか、ファミレスという選択肢が私たちの前にはあった。
しかし、こんな事ってあるのかと思う程、どこもいっぱいで私たちは入店する事ができなかった。
雪の中傘も持たずに歩き回り、体は冷え切っていた。
「寒い」
「あっ、コンビニがあったよ」
先生が道路を挟んだ先にコンビニを見つける。もう一時間ぐらい歩き回って疲れていた。
「温かい」
コンビニの中に入るとやっと生きた心地がした。
「ごめん。大分歩かせちゃったね」
先生が申し訳なさそうに私を見る。
「いえ、大丈夫です」
私たちは雑誌のコーナーの前にいた。
「待ってて」
そう言うと先生がレジの方に向かう。
「はい、これ」
先生がホットの缶コーヒーを私に差し出す。
「ありがとうございます」
私はそれを受け取ると手の中で転がした。
「まだ午前二時か。電車が動くのは6時ぐらいだよな」
先生がため息をつく。
さっきから私は窓の外に写る建物が気になっていた。
それは一件普通のビルのように見えるが、掲げてある看板がそうではない事を伝えていた。
「どうしようか」
先生が途方に暮れたよにうため息をつく。
「あの、先生」
緊張で喉がカラカラとする。こんな事言ったら嫌われるかもれない。
でも、コンビニいるよりはあそこにいる方が休めるのではないかと思う。
「何?」
「あそこに、入りませんか」
私は窓越しに見えるピンク色の建物を指した。


 

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