―――  美  幸(みゆき)  ――― 


三章

1 お見合い




 産婦人科に行って一週間が経つ。赤ちゃんは9週目に入っていた。
八月の図書館は平日でも夏休み中の小学生や中学生に、高校生が頻繁に出入りをしている。
私は稲毛で図書館司書をしていた。この職場に来て二年が過ぎる。
制服は紺色のエプロンを支給され、ジーパンとTシャツの上に掛けていた。
 幸ちゃんと別れて二ヶ月が経つ。あれから私は一度も幸ちゃんに会っていないし、お腹の子供の事も
言っていない。この一週間何度も携帯電話のアドレス帳から幸ちゃんの携帯の番号を引っ張り出して
来ては消しての繰り返しだった。私を裏切ったあんな男の子供、もちろん産む気はない。
しかし、お腹の子には何の罪もないと思うと、どうしたらいいのかと行動に移せないでいた。
「こんにちは」
不意に声が掛かり、私はパソコンの画面から目を外した。
今日は1階の一般図書のカウンターで返却と貸し出しの作業をしている。
「あぁ。こんにちは」
視線を向けると真由美がいた。結婚した後も看護士をしている。
相変わらず化粧はやや濃いが、彼女もこの数年で随分と落ち着いた格好をするようになった。
今日はボーダー柄のカットソーにカプリパンツ姿だ。
「ほら、あっちゃんも、こんにちはして」
真由美の隣に立つ3歳になったばかりのあっちゃんが、
ちょこんとカウンターの上に顔を出す。
ピンク色のワンピースを着ていて、
手にはいつものウサギのぬいぐるみをしっかりと持っていた。
「こんにちは」
あっちゃんが小さく言う。恥ずかしそうにはにかんだ顔に思わず目じりが下がる。
「こんにちは。もうすっかりお姉さんになったね」
私の言葉にあっちゃんがニコニコっと笑う。真由美によく似たホッとさせる笑顔だ。
「もうすぐお昼休みでしょ?一緒に食べようよ」
真由美の言葉に私は頷いた。
「じゃあ、いつもの所ね」
真由美親子が図書館を出て行く後ろ姿を私は見送った。
冷房が効いているので寒かった。椅子に掛けてあった薄手の紺色のカーディガンを羽織ると
私は業務に戻る。まとめて返却されて来た本を一つ一つ、ハンディースキャナーでバーコードを
読み取っていく。それを二十回ぐらい繰り返すと丁度私の休憩時間になった。


 外に出ると図書館前のケヤキが一回り大きくなったように見えた。
緑の葉を豊かにした夏の姿を見るのが好きだった。隣接する市民会館で昼食を購入すると、
中庭に向かう。蝉の鳴き声がうるさい程響いていた。
赤褐色のレンガで敷き詰められた広場には規則正しく街路樹が植えられ、その下には
白いベンチが並んでいた。
 頬に触れる風は気持ちが良い。冷房で冷え切った体には外の暑さが丁度良かった。
一番端のベンチに真由美とあっちゃんがいた。
「お待たせ」
レジ袋を持った私は真由美の隣に座る。
「美和子、髪切ったの?」
真由美に言われ私はショートカットの髪に触れる。
切ったのは昨日だ。
「うん。もう髪伸ばす理由もないし、暑かったから切っちゃった」
八月の結婚式の為に背中まで髪を伸ばしていたが、もうその必要はなくなったので切った。
「そっか」
真由美が微かに笑う。その後私たちの間に気まずい沈黙が流れる。
図書館にいても私は同情の目で同僚たちから見られる。
結婚式直前に男に捨てられた女なのだ。
まさか、あんなにあっさり私たちの二年半が終わるとは思わなかった。
私の為に二年の転勤を半年繰り上げて戻って来た幸ちゃんは一体何だったんだろう。
あんなに私の事を愛しているって言ってくれた人なのに、最後は他の女と寝て子供まで作って、
終りにしたのだ。彼との二年半が全て嘘だったんじゃないかと思う。
幸ちゃんが最後に私に残したのは憎しみと、恨みと、お腹の子供だった。
「美和子、お昼それだけなの?」
袋からゼリーとウーロン茶を出した私に真由美が目を丸くする。
「何か食欲なくて、つわりかな」
妊娠判定薬を買って来てくれたのは真由美だった。一緒に検査の結果も確認してくれた。
もしかしたら子宮外妊娠ていう事もあるから、早めに産婦人科に行った方がいいとアドバイスをくれた。
「でも、それじゃあ貧血になるよ。妊婦はただでさえ血が薄いんだから、
ちゃんと鉄分取りなよ。サプリメントでもいいからさ」
真由美の言葉が胸に沁みる。
彼女はいつも私の事を心配してくれる親友だ。
「ありがとう。そうするよ」
「それで、北川先生には話したの?」
真由美の言葉に私は首を左右に振る。
「どうしようか迷ったんだけど。言いづらくて。子供が欲しいって言っていたのは私だったし、
そういう行為をさせたのも私だし。まさか別れるとは思わなかったけどね」
一度だけ幸ちゃんと避妊せずにした事がある。幸ちゃんは結婚式が終わるまでは
やめておこうと言っていたけど、強引に私が押し切ったのだ。子供を早く産みたかったし、
それだけ私は彼の事を愛していた。今は当然その愛はどこにもない。
「言った方がいいと思うよ。美和子とそういう事しといて、よそで子供つくるような男なんだからさ。
慰謝料たっぷり取ってやりなよ」
真由美の言う事はもっともだと思うけど、もう彼に会いたくない。
「これね。婚約指輪。鑑定してもらったら五十万円になるんだって」
私はバックから指輪のケースを取り出し、真由美の前で開けた。
「うわっ、ダイヤじゃない」
「うん。0.7カラットあるって聞いたよ。プレゼントは殆ど捨てたけど、
さすがにこれは捨てられなかった。だから、お金にしちゃおうかと思っているんだ。
それで中絶費用は賄えるよ」
「中絶」という言葉を口にしてみて、急に胸が苦しくなる。
体の奥から何かがこみ上げて来た。
「ごめん、ちょっと持ってて」
私は指輪のケースを真由美に渡すと、ベンチから立ち上がり、市民会館に駆け込む。
1階のロビーの奥にトイレを見つけると、便器まで駆け込んだ。
気持ち悪い。胸がむかつき胃からこみ上げて来ると、私はそれを吐いた。
白い陶器が汚物に塗れる。
何度も何度も吐いて、苦しさから涙が出た。お腹の子供が殺さないでと言っている。
ちゃんとここにいるんだよ。生まれたいんだよって言っている気がした。
「ごめんね。ごめんね」
口元を手の平で拭い、私はお腹の子に謝るしかなかった。
できる事なら産んでやりたい。でも、私一人で育てる自信がないのだ。
私は母みたいに強くない。
あんな男もう二度と会いたくないはずなのに、なぜか彼の事が浮かぶ。
幸ちゃんに捨てられた悲しみがこみ上げてくる。涙が溢れ、私はまた便器に吐いた。
便器から立ち上がると、手洗い場で顔を洗う。蛇口の水が冷たくて気持ちよかった。
感情に溺れそうになる私を冷静にしてくれる。
「美和子、大丈夫?」
真由美があっちゃんの手を引いて駆けて来る。
「うん。全部出たから、落ち着いたよ」
「顔色が真っ青だよ。早退したら?今日車で来てるから家まで送るよ」
真由美に言われ鏡を見ると、確かに顔色が悪い。
「ありがとう。でも、休む程じゃないから。大丈夫だよ」
私は無理に笑みを浮かべた。
「本当に大丈夫?」
真由美が眉間に皺を作る。
「うん。大丈夫」


 今日は早番だったので、午後五時に上がった。
真由美は終わりまで待つと言ってくれたけど、
私は大丈夫で押し通した。今は一人になりたかった。
 図書館を出ると公園まで続く並木道を歩く。
まだこの時間帯でも外は明るかった。
犬の散歩をする老夫婦とすれ違う。
すれ違いざまに夫妻が私に「こんにちは」と声を掛けてくれた。
私は会釈だけで返す。私も幸ちゃんと髪が白くなる年まで一緒にいると思っていた。
孫たちに囲まれ、幸ちゃんとおじいちゃん、おばあちゃんと呼ばれる日が来る事を信じていた。
しかし、現実は残酷にもその未来を潰した。沈む夕陽を見て泣きそうになる。
「ダメだな。私」
弱い自分がすぐに出てくる。私は結局十七歳の時と変わらないのかもしれない。幸ちゃんと出会い
少し強くなった気がしたけど、一人に戻ればまた弱い美和子のままだ。情けない。
早くお腹の子を堕ろしたかった。堕ろして全てを終りにしたかった。



「美和子、お見合いしなさい」
目の前の母が何て事のないように私に言う。
図書館の仕事の後、用事からあるからと母の大学の研究室に呼び出された。
母の研究室は十畳程の広さがあって、立派な応接セットと母自慢のマホガーニの机が置かれている。
その机の前に座るブランド物のスーツを着た母は女王様みたいに見える。
「何言ってるの?」
あまりにも唐突過ぎて呆れてしまう。母はいつも突然そういう事を言うのだ。
私は母の机の前の革張りのソファに腰を掛ける。
「これがお見合い写真と彼の履歴書よ」
A4サイズの写真の台紙を母が私に渡すが、
私はそれを閉じたまま大理石のテーブルの上に置いた。
「お見合いなんかしません。もう結婚はこりごりです」
「美和子!お母さんの言う事が聞けないの!」
母が尖った声で叫ぶ。
大学の大きな講堂で毎日講義をしているだけあって、その声は迫力がある。
五十三才とは思えない張りのある声だ。
「聞けないよ。私の事いくつだと思っているの?もう二十三才だよ。
親の言う事を聞く年じゃないよ」
いつまで立っても母は威圧的で、親の権威を振りかざす。私は母のそういう所が大嫌いだ。
「帰るよ」
これ以上母の顔を見ているのが嫌だった。ただでさえ幸ちゃんとの事がダメになった時に、
男を見る目がないだの、バカだの心のない言葉をぶつけられたのだ。
「明日がお見合いの日よ。もう相手の方と約束もしてあるわ」
「なっ」
強引過ぎて言葉にならない。
「何言ってるの?明日って、明日は私だって仕事があるよ」
「仕事なんて休めばいいじゃない。美和子がいなくても図書館はなくならないでしょ」
母が見下すように私を見る。
「いい加減にして!行くわけないでしょ」
「美和子こそいい加減にして欲しいわね。あなたの結婚がダメになって私がどれだけの被害を
受けたと思うの?大学はね信用が大事な所なのよ。私の娘が婚約者に浮気されて、よその女と
子供を作って捨てられたなんて、スキャンダルよ。そのせいで私の人間としての評価も下がって、
取れる所から研究資金ももらえなくなったのよ」
母がバンと机を叩く。眉間に深い皺を作り私を睨む。
「そんな事言われたって、文句があるなら幸ちゃんに言ってよ。
慰謝料でも何でもあいつから取ればいいじゃない」
そこまで口にすると、母が私に背を向ける。
「とにかく明日のお見合いには行きなさい」
声のトーンを母が落とす。
「それがあなたの為でもあるのよ」
再び私の方を振り向くと、妙にしんみりとした母の瞳があった。
「どういう事?」
母の意図が私にはよくわらない。
「男を忘れるには男しかないって事よ。
あなたより三十年長く生きてきて、それは実感した事よ」
母が微かに笑う。私にそんな事言うなんて母らしくない気がした。
このお見合いに何かあるのだろうか。



 次の日、朝からよく晴れた土曜日だった。
私は仕方なく母の言う事を聞き、お見合いに行く。
相手の履歴書には『東京大学医学部卒』と書いてあった。
さすが学歴に価値を置く母が持って来たお見合いだ。笑ってしまう。
しかし、お見合い写真はいまいちだ。小太りの男が写っている。
この学歴で三十七歳まで独身だった理由がわかる。もう私はこのお見合いに興味はない。
だから形式上会うだけだ。相手に断られるような服を選ぶ。
母が用意したブランド物のスーツをスルーして、私はコットン生地の白いワンピースを着て、
普段着ている紺色のカーディガンを上から羽織る。
化粧は口紅を引くぐらいで何もしない。
「これで完璧」
ドレッサーの前の自分を見て笑う。どう見ても普段着だ。
「ちょっと美和子、何その服は?」
部屋から出ると仕度が終わり、玄関で待っていた母が厚化粧の顔をしかめる。
母は紺色の上品なスーツを着ていた。
「何を着たっていいでしょ。この格好じゃなきゃ私いかないから」
この服を選んだ意図はお見合いに気が全くなかった事と、
きつく締め付けるような服を着たくなかったからだ。
「何言ってるの。着替えなさい。スーツ用意してあげたでしょ。
それにその顔もお化粧ちゃんとしたの?」
母は私の全てが気に入らない。
「じゃあ、行かない」
私は部屋に戻り、ベッドに横になる。
「美和子!」
母が凄い剣幕でドアを開ける。
「早く着替えなさい」
「嫌だ」
「私の言う事が聞けないの!」
「聞けない」
「男一人捕まえられないくせに生意気よ!」
「お母さんだってそうじゃん!」
私たちの間の空気が固まる。私の父は家庭のある人だった。
不倫の末私が産まれ、父は家庭に戻った。その事を私は高校生の時に聞かされた。
だから、母が私の事を疎ましく思うのは当たり前だ。
母は口に手を当て、気まずそうにする。
「もういいわ。その格好でいいから。時間がないの。とにかく来なさい。
タクシーだって待たせてあるんだから」
声のトーンを落として、母が部屋を出て行く。
私は悔し涙を拭うと、渋々母についていった。
タクシーの中では一言も母と言葉を交わさなかった。
「本当に強情な子ね」
 隣に座る母がぼそっと呟く。私は窓の外を見たまま聞こえないふりをしていた。
悪阻は今の所落ち着いていた。何とかお見合いの間もってくれればいい。
一層の事、見合いの席で妊婦だとカミングアウトしてしまうのはどうだろう?
絶対見合いは壊れる。その席で母がどんな顔をするか見物だ。
という事を考え随分私は心が捻じ曲がったしまったと改めて思う。
 

見合いの場所は日本庭園の見事な料亭だった。
母が懇意にしていると、出迎えてくれた女将さんが言っていた。
「もう相手の方お見えですよ」
女将さんが言う。私と母は女将さんに連れられ廊下を歩いた。
廊下に面したガラスに庭が見える。
池があり、築山があって松の木や庭石が綺麗に配置されていた。
時折、ししおどしのカコンという乾いた音が遠くの方から聞こえてくる。
こういう世界私はテレビの中でしか見た事がない。
「こちらの藤の間になります」
女将さんが部屋の前で立ち止まり、襖を開ける。
母が最初に入り、私は渋々その後に続いた。
部屋は十畳程の和室で、青い畳が敷き詰められていた。
イグサの爽やかな香りが鼻をかすめ私は気持ち悪くなる。
妊娠してから匂いに敏感になったのだ。今日も母の香水に気分を害していた。
「お待たせ致しました。高木です」
母が別人のような穏やかな声で話す。
一枚板で出来たテーブルの前に母と私は座る。
私の正面にはお見合い相手の小太りの男が座っていた。
写真を見た時には気づかなかったが、実際に会うと、どこかで会った気がする。
それも最近の事のような気がするけど、思い出せない。
「娘の美和子です」
母が私を紹介する。私は会釈をした。
「写真で見るよりもお綺麗いですね」
男の人が温和な人柄を伺わせる声で話す。
「宮崎誠一です」
「誠一さんは産婦人科医をしているんですよ」
男の隣に座る着物姿の母親が口を挟む。
その言葉を聞いた時、私はどこで出会ったか思い出した。
この間かかった産婦人科の医者だ。急に落ち着かなくなり、手に汗をかく。
ここで妊娠している事を男に言われたら、母に殺される。
いや、それは言葉のあやだが、だけど、かなり不味い事になるのは目に見えている。
ちらり男を見ると、涼し気な顔で茶をすすっていた。
彼は私に気づいているのだろうか。
「何か?」
男と視線が合う。
「いえ」
私は男と視線を逸らした。どうやら男は私に気づいていないようだ。
一日に沢山の患者を見るのだから、当たり前かもしれない。
しかし、急に恥ずかしくなる。私はこの男に見られたのだ。
内診台での出来事が鮮明に浮かぶ。
男が私の中に手を入れ、消毒をして、それからエコーを入れた。
「大丈夫ですか」
胸がムカムカして気持ち悪い。
男が心配するように私を見る。
「ちょっと失礼します」
私は立ち上がると、急ぎ足で部屋を出て行く。背中に母の呼び止める声が聞こえるが、
そんなの聞いていたら間に合わない。
通りすがりの女中さんにトイレの場所を尋ねると、私は掛けた。
長い廊下の先にご婦人≠ニ書かれたトイレを見つける。
そこからはいつもの通り便器に一直線だ。
胃液がこみ上げて来て、朝食で食べた物が全て吐き出される。
気持ち悪い。何度吐いても慣れる事はない。涙目になる。
これは私に与えられた罰なのだろうか。でも、そんなの酷すぎる。
罰を与えるなら私よりも幸ちゃんの方だと思う。
今この時あの女と生まれてくる子供を幸せそうに待つ幸ちゃんの姿が浮かぶ。
憎いと思う。あんなに愛した人なのに私は殺してやりたいぐらいあの男が憎い。
そう思うとまた胃液がこみ上げて来る。それから私は三回続けて吐き続けた。


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