―――  美  幸(みゆき)  ――― 


三章

6 幸太の日記



――幸太日記――


 五月二十日

風邪を引き一ヶ月咳が止まらなかった。
いつもは風邪ぐらいで病院なんて行かないが、美和子が心配するので駅前のクリニックで
診察を受けた。レントゲンと血液検査を受けた。左肺に影があると言われる。
すぐに専門医のいる大学病院での検査を勧められ紹介状を渡された。


五月二十五日

紹介先の大学病院に行った。
そこは川崎駅近くの大学病院だ。クリニックで僕が一人暮らしをしていると言うと、
今後の事を考えて家族の側の病院にした方がいいと言われ、そこを紹介してもらった。
受診したのは呼吸器科だ。朝八時に行って診てもらったのは午前十一時だ。
美和子から借りた文庫本を一冊読み終わった。余計な心配をかけたくなかったので、
美和子にはまだ話していない。
医者は僕のレントゲンを厳しい表情で眺めていた。
その日のうちに三日間の検査入院をする事になる。
会社の方には福岡の親族が亡くなったと一週間の休みをもらった。


五月二十八日

主治医の深田先生に両親も同席するように言われ父と母に来てもらった。
美和子にも来てもらおうかと思ったが、心配をかけたくなかったので呼ばなかった。
彼女には今週は出張に出ていると話している。
深田先生との面談は午後一時からだった。カンファレンスルームという所に呼び出された。
父と母は緊張した様子だった。僕は3日病院にいたので緊張感はない。
主治医とも雑談をしていたので一番気楽な顔をしていた。
みんなが座ると、深田先生が検査結果を話し始めた。
まず見せられたのはレントゲンだった。
左肺中葉に大きな影が見え、右肺にも小さな影が二つあった。
胸のCT画像には気管支のあたりにも影が見えると言われ、僕もそれを確認した。
次に血液検査の結果が知らされ、腫瘍マーカーCEA値は612あり、
これは正常な値の百倍以上の数値だと教えられた。
結論を言うと、僕は癌だった。非小細胞性の肺癌というのが僕につけられた病名だ。
ステージはWの末期癌で、手術する事も放射線治療もできず、
治療は化学療法しかないと言われた。
効果があってもそれは完治という訳ではなく数ヶ月の延命という事を言われた。
母が泣いていた。父も目を赤くしていた。
僕はまだ若いから癌の進行が早く、生きられるのは後、半年だと余命を宣告された。
やりきれなくて一人になった時泣いた。



六月一日

美和子と十日ぶりに会う。
病院から処方された薬のおかげで咳は落ち着いていた。
肺ガンだなんて信じられないぐらい僕は何ともない。
今年の大検が終わったら仕事は辞める。
抗がん剤治療は入院せずに通いながらできるようにしてもらった。上司の村上先生にはもう事情は話した。
 告知を受けてからずっと美和子の事を考えていた。
二ヶ月後に結婚する僕の妻に、病気の事を話すべきかどうかだ。
たどり着いた結論は別れるという事だ。
二つ年下の弟の高広は僕が十七歳の時に白血病で亡くなった。
抗がん剤の治療の辛さを間近で見ていた。
家族の精神的な負担は相当辛いものだった。
高広が亡くなった後も僕たちはその傷を背負ったままだ。
だから、美和子にそんな辛い思いはざせたくない。僕が半年しか生きられないなら、
このまま何も美和子に知らせない方がいい。
僕が死んだ事も知らないまま美和子には誰か他の人と人生を歩いて欲しい。
だから、憎まれて、嫌われて、別れようと思った。
美和子を悲しませるぐらいなら嫌われた方がましだからだ。

 僕は浮気相手役を雇った。一人で美和子と向き合う自信がないからだ。
別れ話を切り出した時、美和子は思った以上に泣いていた。暴れていた。
アイスコーヒーを掛けられた。手切れ金の百万円を受け取ってはくれなかった。
胸が痛かった。愛する美和子を僕が傷つけた。美和子ごめん。


六月七日

抗がん剤治療が始まる。週に一度病院に点滴を受けに行く。それを一ヶ月に四回行う。
深田先生が処方してくれたのはカルボプラチンとジェムザールだ。
副作用が少なく済むと言っていた。
 予備校には午前中だけ出勤して早退した。村上先生に頼んで他の先生には癌ではなく、腎臓病で
透析を受けなければならないと話してある。先生たちから労いの言葉を頂いた。人の優しさを有難く思う。
僕は恵まれた職場にいる。
 点滴は午後一時から始め午後六時に終わった。体調が悪ければ入院という形を取っていたが、
何ともなかったので帰宅した。気持ち悪くなるかと思ったが、全く何もない。
僕は副作用が少なく済んでいるのかもしれない。新検見川のアパートには戻らず川崎の実家に帰る。
母が心配するから、告知を受けてから実家にいる。アパートを解約しなければならない。


六月十日

 会社を休んだ。一日中気持ち悪さが続いた。
抗がん剤の副作用なのかもしれない。


六月十四日
  
 二回目の抗がん剤の投与をする。気持ち悪さはあったが吐くほどではなかった。
まだ二日酔いのほうが気持ち悪い。深田先生に副作用が出ていないほうだと言われる。
点滴を受けながら美和子の事を考えた。最後に見た泣き顔が忘れられない。
 昨日式場のほうにはキャンセルの連絡を入れた。
申し込みの時に入れた十万円は戻ってこないといわれたが、
それ以上にキャンセル料を取られることがなかったので良かった。
本当はキャンセルなんてしたくなかった。
どうして僕だけがこんな目に合うのだろう。



六月十七日

 アパートから実家に引越しをした。
家賃は七月七日分まで発生すると言われた。仕方がない。
千葉大に入学したのを切っ掛けに新検見川で一人暮らしを始めた。
その後就職も千葉でして、
転勤で静岡に行っていた三年間と、再び転勤になった一年半は離れたが、
千葉に戻って来た時はまた同じ所を借りた。
思ったよりも荷物はある。大学時代の教科書とかノートが出て来て懐かしかった。
実家に持って行ったと思いこんでいた卒業証書もあった。
洗濯機と冷蔵庫はもう必要がないので処分した。
一度も買い替えなかったので随分と物持ちがいいわねなんて、手伝いに来た母に言われた。
三時間で1DKの部屋は空っぽになる。
この部屋で美和子と過ごした。
僕の手料理を幸せそうに食べる美和子がいつも可愛かった。
日曜日の夜はいつも美和子が泊まって行った。
彼女を抱きしめると甘い香がした。
美和子に引き止められて、月曜日はいつも会社に遅刻しそうになった。
美和子の誘惑に負けて一度欠勤した事もある。美和子に夢中だった。
それは今も変わらない。気を抜くといつも美和子の事を考えている。
今彼女はどうしているだろうか。僕の事を憎んでいるだろうか。恨んでいるだろうか。
僕の事を早く忘れて美和子には幸せになってもらいたいと思うのは勝手過ぎるだろうか。

追記

美和子の物がダンボール一つ分あったので宅急便で送った。
六月二十日

美和子のお母さんに謝罪の手紙を書いた。病気の事も正直に書いた。
美和子の事を責めないで欲しいという事と、病気の事を美和子に内緒にして欲しい事を書いた。
美和子に見られたくなかったので、お母さんが働く大学に手紙を送った。
美和子はお母さんとは犬猿の仲だと言うけど、僕はお母さんは娘想いだと思う。
僕が担任になった時、美和子の事をいつも心配していた。
結婚の挨拶に言った時、お母さんは美和子の見ていない所で、涙を流して喜んでくれた。
心から美和子の幸せを願っているとその時思った。
ただ素直に娘に愛情を表現できないだけなんだと思う。



六月二十五日

アパートの立会いを母に行ってもらった。
静岡から帰って来たのは今年の1月だったから、
敷金の十万円はほぼ戻って来た。
二年半の交際期間中、僕が美和子の側にいられたのは交際を始めた最初の半年と、
別れる直前までの最後の半年しかなかった。
もしも、自分がこうなる運命だったら静岡には行かなかった。
ずっと美和子の側にいただろう。美和子に会いたい。



六月二十八日

三回目の抗がん剤治療をした。
白血球の数値が戻らなかったので一週間分抗がん剤を見送っていた。
母が毎日食卓にバナナを出した。白血球を上げるにはバナナがいいらしい。


七月一日

 美和子の様子を見に稲毛の図書館に行った。川崎からだったので遠く感じた。
一階の一般図書のコーナーでワゴンに入れた本を戻している彼女を見つけた。
僕はその様子を裏側の本棚から見ていた。手を伸ばせば届く位置にいる美和子を抱きしめたいと思った。
心が揺れる。病気の事も全部話して、美和子と残りの余生を最後まで過ごしたいと思う。しかし、それは
やっぱりできない。僕はいいかもしれないけど、美和子の事を思うと、そんなの僕の勝手にしか思えなかった。
僕の病気に彼女を巻き込んでしまうのは心苦しい。残りの人生で、僕は美和子の為に何をしてあげられるだろう。


七月二日

 大検まで一ヶ月を切った。この時期が一番仕事が忙しくなる。
同僚がみんな残業しているところを定時で帰らせてもらうのは心苦しかった。
僕も残業をしようとしたら、村上先生に体を大事にしろと言われた。
病気になってみて人の優しさがわかる。本当にありがたい。
 帰りの電車偶然予備校の生徒たちと一緒になった。
よく美和子と一緒に帰った事を思い出した。
十七歳の美和子はいつも自信なさそうにしていた。
そして、よく授業をサボった。美和子を追い掛け回していたのが懐かしい。



七月五日

 今日は四回目の抗がん剤の日だ。
いつものように午前中だけ出社して、川崎に帰って来た。
ベッドに横になり点滴が落ちるのを見つめた。
備え付けのテレビでも見て気晴らしでもすればいいけど、そんな気にはならなかった。
 高広の事を思い出した。青白い顔をして彼は点滴が落ちるのを見ていた。
髪の毛はあっという間に抜け落ちていつも帽子を被っていた。
白血病を治したら大学に行きたいと言っていた。彼は文学部を志していた。
夢は作家になる事だった。
だから、僕がその夢を受け継ごうと思った。しかし、才能がなかったみたいだ。
でも、彼のおかげで僕は教師になれた。そして、美和子に出会えた。高広ありがとう。


七月七日

 副作用が辛い。今まで吐いた事はなかったが、初めて戻した。
体中がだるい。起きていられない。食事もできない程になったので入院する事になった。
血液検査の結果、白血球の数値が著しく下がっていた。
数値が基準まで戻らなければ帰れないと言われる。
三回目まで大丈夫だった脱毛も始まる。
今朝起きた時枕にごっそりと抜け落ちていた髪の量にびっくりした。
抗がん剤によって僕の正常な細胞が壊されたせいだ。
久しぶりに落ち込む。美和子に会いたい。

追記

今日は七夕だった。去年美和子が静岡まで来てくれた事を思い出した。
僕が暮らす街で行われた七夕祭りに美和子と一緒に行った。
浴衣を着て僕の隣で微笑む彼女が綺麗だった。


七月十日
 
 白血球の数値も戻り、やっと退院した。
十二日から第2クールの抗がん剤治療が始まる予定だったが、
大検が終わるまでは見送る事にした。
それは僕が望んだ事だ。教師として最後の勤めを果たしたい。
父も母も大反対したが、最後は僕の好きにしなさいと言ってくれた。
ごめん。お父さん、お母さん。



七月十一日

 十日ぶりに職場に行く。脱毛が嫌だったので、僕は全部抜ける前に坊主頭にした。
スーツ姿に坊主というのは違和感があるようで、電車に乗ると好奇の視線を受けた。
眼鏡をやめてサングラスでも掛けたら威厳が出るかもしれない。
ちょっとやってみたいと思うが、一応教師なので止めておく。
職場に行くと、学生からどよめきがあった。
僕は願かけで坊主にしたから、絶対合格しろよと、みんなに脅しをかけた。




七月十八日

 抗がん剤を止めてから大分元気になった。癌だという事を忘れるぐらいだ。
体が軽い。病気になってみてよく、初めて健康のありがたさに気づくと言うが、
それは本当だ。束の間の健康かもしれないがありがたい。とにかく今は目の前の事をせいいっぱい頑張ろうと思う。
だから残業もした。村上先生は僕の気持ちを汲み取ってくれた。


七月三十一日

 今日で勤めは最後だ。退社する時に花束を頂く。同僚や生徒たちが拍手をくれた。
この仕事に就いて八年が経っていた。大変な事も多かったけど、幸せだった。
出会った先生や、教え子たちの顔が浮かんで来て涙ぐんだ。最近本当に涙もろくなった。
みんないろいろな理由で大検を取る。僕よりも年上の人もいたし、美和子のように自分に自信のない子も
沢山いた。しかし、大検が近づくに連れて彼らは輝いていく。人が本気で何かを成し遂げようとする姿は本当に
尊い。勉強を教えていたのは僕だけど、僕は人生を教えてもらった。生きている事がありがたい。
みんな頑張れよ。


八月一日

 中断していた抗がん剤治療が始まった。
点滴を四時間かけて受けた後は帰宅した。今日から大検本試験が始まる。
毎年僕は試験会場の大学で生徒たちを見送っていた。
冷房も満足に効かない中で行われるので、蒸し風呂にいるみたいだった。
自習室に戻って来た生徒たちに携帯用のアイスノンと団扇を配った。
 ふと美和子が熱中症で倒れた事を思い出す。
大検二日目の日本史の試験が終り、戻って来た美和子は僕に倒れこんだのだ。
美和子は心細そうに僕を見て、手を握って欲しいと言った。
繋いだ手は小さくてか弱く見えた。
今思えばあの時から美和子の事を好きになり始めていたのかもしれない。


八月十四日

 村上先生から美和子が僕を訪ねて来たと連絡をもらった。
口止めをしていたので病気の事は話さず、ただ辞めたとだけ伝えたと言っていた。
美和子に何かあったのだろうか?



八月二十日

 美和子の勤める図書館に電車で行った。やっぱり川崎の実家からだと遠い。
今まで何ともなかった電車の揺れが辛い。頭痛がした。
これも全て抗がん剤のせいだろうか。
それとも癌が進行しているのか。
図書館に辿り着くと返却された本を棚に戻す美和子の姿を見つけた。
綺麗に伸ばしていた髪はショートカットになっていた。短い髪の彼女を初めて見る。
顔色は悪そうに見え、時々床にうずくまって耐える姿を見た。
側に行って手をかしてあげたかった。小さくなった背中を抱きしめたかった。
僕が思っている以上に美和子が傷ついていたのがわかった。
いてもたってもいられず、僕は通りすがりの小学生にたんぽぽの花を渡した。
美和子に渡して欲しいと頼んだ。
その様子をすぐ裏の本棚から見ていた。美和子が微かに笑ったのを見て安心した。
彼には報酬のアイスクリームを買ってあげた。


八月二十一日。

 稲毛から川崎に帰って来た足で僕はかかりつけの大学病院に入院した。
頭痛と吐き気のせいだ。
三回目の抗がん剤投与を見送り、僕は検査をした。頭部CTを撮る。
微熱が出ていた。抵抗力が下がっているから夏風邪を引いたのかもしれない。



八月二十二日。

 父と母と僕で深田先生の話を聞く。
場所はいつものカンファレンスルームだ。
昨日取った頭部のCT写真を見せられた。
小脳の辺りに三センチぐらの丸い影が三つ見えた。
肺から転移した癌だと言われた。
腫瘍マーカーの数値も千まで上がっていた。
もう今使っている抗がん剤は効かないと言われる。
脳腫瘍についてガンマナイフ治療を行うと言っていた。
先生が思っていた以上に僕の癌の進行は早かった。


八月二十三日。
 
脳のむくみを取る点滴のおかげで吐き気と頭痛が治まった。
久しぶりに点滴からではなく、口から栄養を取ったが食欲はまだない。
お粥をやっと半分食べた。少しずつ食べられるようになると深田先生は話していた。
 脳外科の先生との話し合いの結果ガンマナイフ治療が使える事になった。
ガンマナイフとは定位置で放射線を病変に照射する治療だ。
正常な組織をできるだけ傷つけずに済むらしい。
横になった状態で頭にヘルメットみたいな物をつけて行う。
病変が複数あっても対応ができるので、僕には有効な治療だ。
それを明日から行う事になった。


八月二十四日。

午前中はガンマナイフ治療を受ける為の検査を受けた。
僕の血管が細くなっているので、看護婦さんが血液を取るのに苦戦していた。
繰り返し針を刺すと血管が細くなるようだ。
最後は婦長さんに来てもらって取ってもらった。この道二十年のベテランだ。
「このぐらい大した事ないわよ。北川さんはまだ取る所がある方よ」と言ってくれた。
婦長さんの笑顔に落ち込んでいた気分が少し上を向く。


八月二十五日。

四階の手術室で治療の為のフレームを局所麻酔をしてから、頭にピンを刺し固定した。
その後車椅子で地下一階のガンマ室に行く。母が昨日から付き添っていた。
治療に向かう僕に「頑張りなさい」と言葉をくれた。
この場に美和子にもいて欲しかった。


八月二十六日。

 昨日の夜は痛みで眠れなかった。フレームを頭から外した時の痛みは一時間で治まると
聞いたが、一晩中続いた。痛み止めを何度も飲みやっとベッドから起き上がれる程になった。
照射時間は五時間掛かった。CTを撮る時と同じような機械の中を出たり入ったりを繰り返した。
横になったまま身動きができないから辛かった。なんでこんなに辛い治療を受けなければならないんだ。
どうせ僕は一年以内に死んでしまう身だ。死ぬ前にこれ以上苦痛を味わいたくない。
抗がん剤ももう嫌だ。気持ち悪くなるのは耐えられない。
白血球が下がって退院できなくなるのも嫌だ。
一日中点滴が落ちるのを見ながら、ベッドで過ごすのも、もう嫌だ。

美和子に会いたい。美和子に会いたい。美和子に会いたい。


九月一日

新しい薬で抗がん剤の投与が今日から始まる予定だったが、僕の強い希望で退院した。
この所咳が止まらない。一度咳き込むと一時間以上は咳をしている。
朝起きる時痰を出すのが辛い。そして必ず痰には血が混じっている。
その血を見るとガンが進行していると思う。
訳もなく怖い。脳に腫瘍が出来ていると言われた時、僕はそこまで怖くはなかった。
むしろ父と母の方が動揺していた。でも、今はそれが全部自分の身に起きている事なのだと
実感するようになった。告知を受けてから三ヶ月が過ぎた。という事は僕の命は後三ヶ月ぐらいだろうか。
今まで考えないようにしてきたけど、怖い。まだ死にたくない。痛くて辛いけど生きたい。
美和子に会いたい。


九月二日

病院よりもやっぱり家は気が休まった。
自分の部屋のベッドで寝ているだけだったが点滴スタンドに繋がれていないので動きやすい。
十八歳まで実家にいた。母は僕の部屋をそのまま残しておいてくれた。
天井に貼ったグラビアアイドルのポスターもそのままだ。僕に微笑みかけてくる。
どことなく、そのアイドルが美和子に似ている気がした。
美和子はどうしているだろうか。僕の事を忘れて前を向いてくれただろうか。


九月六日

今日は美和子の二十四歳の誕生日だ。一年前初めて二人で旅行に行った。
静岡と千葉で遠距離恋愛をしていたので、僕が千葉に行くか、美和子が静岡に来るかという移動を
週に一度繰り返していた。だから、旅行らしい旅行をするのをすっかり忘れていたのだ。
僕が子供の頃よく家族で江ノ島に行ったという話をしたら、
美和子が江ノ島に行きたいと言い出したので旅先はすぐに決まった。
僕は遅いお盆休みをもらい、美和子と江ノ島に行った。
美和子の白いノースリーブのワンピースが可愛かった。
二人で龍錬の鐘を鳴らした。その時に婚約指輪を渡した。
夏のボーナスを全部そこに使ったのを覚えている。美和子の為なら惜しくはない。
彼女が望む事を全部してあげたいと思った。彼女の喜ぶ顔を見るのが好きだった。
最近彼女の事を考えると涙が出てくる。
会いたくて仕方がない。
九月十四日

……信じられない!!
今、日記を書いているこの時に、美和子が来た。
出窓から玄関先に立つ美和子を僕は確認した。
ボールペンを持つ手が震える。
窓を少し開けると、母と話す美和子の声が聞こえた。
小鳥が囀るような少し高めの声だ。あの声で美和子は何度も僕に好きだと言った。
胸が時めく。こんな胸の高鳴りを感じたのはいつ以来だろう。
美和子が母に案内され、家に入る。
僕は部屋のドアを開けて聞き耳を立てた。
美和子と母の声がする。
そして、母が「洗濯物を取り込む」と言って二階に上って来た。
慌ててドアを閉めると、僕は何事もなかったようにベッドに横になる。
母が美和子が来ている事を教えるが、僕は気のない返事をした。
美和子は僕が嘘をついて別れた事を知っていた。母に会ったらどうだと言われたが、
今の僕は会えなかった。癌になって十キロ痩せたし、髪の毛もない。こんな情けない姿、
愛する美和子に晒したくない。
母と口論になった。最後のチャンスだと何度も言われたが僕は拒否した。
母が諦めたように部屋から出て行く。
ドアが閉まり、僕は布団の中で泣いた。
本当はめちゃくちゃ美和子に会いたかった。
でも、できない。
病気で弱っている姿を見せたくない。
僕は勝手だ。
美和子、ごめん。



九月十五日

吐血した。すぐに入院した。


九月十六日

昨日から入院していた。吐血ではなく肺からの出血だから喀血だと深田先生に言われた。
癌が進行しているから起きたと説明された。今朝も喀血した。かなり動揺した。
しかし、すぐに深田先生が来て処置をしてくれたので、落ち着いた。
入院している方が安心するなんて可笑しな話だ。ウェディングドレス姿の美和子の写真を
枕元に置いている。ブライダルフェアに行った時に僕が撮ったものだ。今ここに美和子がいてくれたら、
どんなに心強いだろうか。毎日気持ちが細くなっていく。
大丈夫だと自分に何度も言い聞かせたけど、心の底では大丈夫だとは思えない。
僕は弱い人間だ。
どうして僕だけがこんな理不尽な目に合うのだろう。
どうして僕から全ての幸福を奪うのだろう。
美和子に会いたい。



九月十七日

癌がリンパ節に転移した。
脇の下と太腿の付け根が腫れていたのは腫瘍があるからだと言われた。
抗がん剤を勧められたが僕は頷けなかった。熱があるのが辛い。
喉が渇く。咳が止まらない。
また咳き込んだら喀血した。僕はもう長くないのだろうか。
父と母に申し訳ない。高広が死んで、僕が死んだら誰が父と母の老後を見てくれるのだろう。
最期に苦労を背負わせて、何一つ親孝行できなかった。母にその事を謝ったら何バカな事言ってるのと怒られた。
夕方になると父が見舞いに来てくれた。生まれて来て幸せだと言ったら父は泣いていた。


九月十八日

深田先生のお母さんは先生が中学生の時肺がんで亡くなったそうだ。
だから先生は医者になりたいと思ったと今日話してくれた。
子供が二人いて両方とも女の子だ。
上の子が今年小学校に上がり、下の子が幼稚園に入るから、学費がかかると言っていた。
僕も美和子ともし結婚していたら女の子が欲しい。美和子に似た丸顔の女の子だ。
名前は「美幸」なんてどうだろう。美和子に単純過ぎると言われそうだ。
僕は国語教師の癖に言葉をよく知らない。


九月十九日

長い夢を見た。僕は美和子と結婚して、可愛い女の子のお父さんだった。
僕が抱きしめると顔中をぐしゃぐしゃにして笑い、僕が側を離れると「おとうしゃん」って言いながら
小さな体を震わせて走って来た。美和子が幸せそうに僕と子供を見ていた。そんな美和子を見て僕も幸せだと
思った。花瓶にたんぽぽの花が活けてある。僕が摘んで来て欲しいと母に頼んだ。
僕はいつもたんぽぽを見ると美和子の笑った顔を思い出す。
素朴でどこか懐かしくて、飾りっ気のない可愛い顔だ。


九月二十日

生きている事の意味がやっとわかった気がした。
愛する人に出会えたのだから僕は幸せだ。僕にそう思わせてくれたのは美和子だ。
もしも、叶うなら死ぬ前にもう一度美和子に会いたい。美和子に一目会うだけでいい。
僕の願いを誰かは聞いてくれるだろうか。

追記

美和子愛している



九月二十一日
 
 午後一時五十二分。幸太逝く。
深田先生に死亡宣告を出してもらった。 
母記


十月十日

この日記を美和子ちゃんが働く図書館のケヤキの下に埋めて欲しいという幸太の遺言思い出す。
日記に書いた想いだけは美和子ちゃんの側に置いておきたいという幸太の願いを叶える事にした。

母記

追記

生前の幸太は自分が死んだ時は美和子ちゃんに絶対伝えないで欲しいと、
いつも言っていました。
この日記もそうです。だから私は美和子ちゃんに何も言いませんでした。
でも、もしも美和子ちゃんが見つけてくれたら嬉しいです。
だってあまりにも幸太が不憫でなりません。
憎まれる事を選び、美和子ちゃんの幸せだけを望んでいる姿に私は何度も胸を打たれました。
だから、あなたが幸太の最期に病室に現れた時嬉しかった。
幸太は幸せなまま逝けたと思います。
美和子ちゃん、幸太を見つけてくれてありがとう。
そして、嘘をついていてごめんなさい。

母記





 日記はそこで終わっていた。最後のページには写真が挟んである。
ブライダルフェアに行った時に幸ちゃんが撮ってくれたものだ。
私はAラインの肩が出ているデザインのウェディングドレスを着た。
髪型も作ってもらい、腰まである長さのベールを付けた。
幸ちゃんが私を見て、綺麗だと言ってくれた。
一枚でいいと言ったのに幸ちゃんは何枚も写真を撮っていた。
幸せな時間だった。幸ちゃんは私に沢山の幸せをくれた。
 涙が零れる。日記には私の涙の跡が点々と残る。
「幸ちゃんのバカ」
彼の名を口にした途端、悲しみが溢れ、私は泣き崩れた。
ベンチから崩れ落ち、膝をついた。
もう涙を止める術も知らない。
声上げ、いつまでも泣いていた。

 

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