【前書き】

「美幸」を読んで頂きありがとうございます。この作品は昨年ラブスートーリー大賞に投稿した作品になります。

原稿は縦書きで書いたものを今回ホームページ用に横書きに直しました。
読みづらい箇所や誤字脱字等があると思いますが、最後までお付き合い頂けると嬉しいです。


Cat
2013.1.13





―――  美  幸(みゆき)  ――― 


一章

2 台風と恋


 夏が来ると、予備校にいる学生の数が増えた。毎月新入生が増え、半年予備校にいる私は
いつの間にか彼らにここのルールを教える立場になっていた。入って来る人は本当にさまざまだ。
普通に高校に通っていたら会えない。元ポールダンサー、元キャバクラ嬢、元ホスト、
千葉で一番偏差値の高い千葉高を中退した人、普通の高校を中退した元高校生たち、
大きな会社の社長さんの愛人だった人、帰国子女、カラオケ屋を経営しているおじさん……と、とにかく
私が出会ったのはそういう人たちだった。


 私は抵抗するのを止めて勉強していた。
出会った人たちを見ていたら勉強がしたくなったのだ。
みんな必死だった。人生につまずいて、私よりも大きな傷を持っている人たちは沢山いた。
でも、彼らは凄く前向きに勉強している。そんな光景を目の当たりにして私は自分が恥ずかしく思えた。
 久しぶりに勉強をしていて楽しいと思う。わからない所があってもここの先生は絶対馬鹿にしない。
親身になって教えてくれる。北川先生もそうだ。時間外でも私の為に補習を開いてくれた。だから私は
北川とは呼ばずに尊敬の意を込めて先生≠ニ呼ぶ事にした。

「今日もたんぽぽ咲いていましたね」
帰りの電車の中私は北川先生と一緒だった。
時間外補習をした日は同じ総武線だったので自然と電車が重なる。
私が稲毛で北川先生は新検見川だった。
「そうだね。今の季節も咲いているから、あれはセイヨウタンポポかな」
隣に立ち、つり革に捕まる北川先生が答える。
私たちが話しているたんぽぽとは、ビルとビルの間の日陰に咲いているたんぽぽの事だ。
「セイヨウタンポポ?外国から入って来たの?」
私は北川先生を見上げる。彼は163センチの私より十センチぐらい背が高い。
最近眼鏡をメタルフレームのものから、茶色のセルフレームに変えた。
印象が柔らかくなった気がする。
左頬に一つ小さな黒子があるのを今日補習を受けている時に気づいた。
「ヨーロッパが原産で、季節問わず咲いていて、
在来種とは違うタンポポだって何かで読んだよ」
「へぇ。たんぽぽにも種類ってあるんだ。知らなかった」
「俺も知らなかった」
北川先生が呟く。
「えっ」
私は北川先生を見る。
「いや、高木さんに言った手前、あのたんぽぽは何者なんだろうと思って調べたんだ」
慌てたように北川先生が話す。
「じゃあ、私のおかげで一つ賢くなったんだ」
私は得意気な顔をした。
「そうだね」
北川先生が笑う。私も笑った。
こうして先生と一緒に帰る電車の中はいつも楽しい。今日あった身近な出来事を話したり、勉強の
事を聞いたりしてあっという間に降りる駅に着いてしまう。
「気をつけて帰れよ」
ホームに私が降りると北川先生が言う。
両開きの電車のドアが閉まった瞬間、先生が私に手を振る。私も手を振って電車がホームを駆け
抜けて行くのを見送った。
いつも別れ際は寂しい。また明日会えるのに何でだろう。






「それは恋じゃないの?」
真由美が私の話を聞くとカラカウ調子で言う。
いつものように予備校の自習室でお昼を食べていた。
「なっ、違うよ」
私はすぐに否定する。
「否定する所が更に怪しい」
杏子が更に追い討ちを駆ける。
「違うってば」
何かよくわからないけど、私はそういう事を認めたくなかった。
顔がどんどん熱くなる。
「高木さん、ちょっと」
そこへタイミング良く北川先生が自習室に現れる。みんなが一斉に笑う。
「うん?何?」
先生は何で笑いが起こっているのかわからない。
きょとんとした表情で私たちを見る。
「な、何でもないよ」
私は窓際の席から立ち上がると彼の側に行った。
「美和子、頑張ってー(はあと)」
真由美たちが口を揃えて言う。
「もう、違うって」
私は彼女たちにそう言い残し北川先生の後をついて行った。
自習室のすぐ隣が職員室だった。私は彼の席まで連れて来られる。
「ここ座っていいよ」
北川先生が隣の柳田先生の席からオフィスチェアーを持って来る。
今柳田先生はいない。
柳田先生の席に座るのは何となく恐れ多いようで気が引ける。先生は普段は穏やかだけど、
言う時はかなりキツイ事を言う人だ。だから、学生たちの間でも一目置かれている存在だ。
「どうした?」
椅子をじっと見つめる私を北川先生が不思議そうに見る。
「柳田先生の席に座るのもなんか……恐れ多いというか」
私の一言に先生が笑う。
「大丈夫だよ。とって食われはしないから」
先生に促され、私は椅子に座る。
先生と向き合うとストライプ模様の青いネクタイが目に入った。
前髪が薄っすらと眼鏡にかかり、先生はそれをうっとうしそうに掻き分ける。
この時期は忙しくて床屋にも行けないと、他の先生と談笑していた事を思い出した。
「じゃあ、本題に入るよ。この間の模試の結果が出たんだけどさ」
先生が私に成績表を渡す。八科目中六科目が合格を示す二重丸が書かれている。
数学Tがまあまあ頑張りましょうって所で、簿記が完全にアウトだった。
確かに簿記の試験は一ケタの点数を取ってしまった。
「まあ、見ての通り簿記が危ないかな。後二週間だからね」
言い訳をすると簿記については初めて勉強した科目なのだ。
みんなが勉強しやすいというので選択してみたが、私にとっては馴染みのない単語や計算が出て来て難解だ。
思わずため息が出てしまう。今回落とせば、来年の大学受験は見送る事になる。
「簿記については選択肢が二つあって、一つ目は今回は諦めて日商簿記か全経簿記の三級を後日取得して、
免除にしてもらう。ただし、試験内容は大検の簿記より難しくなる」
大検より難しくなるという単語に思わず「げっ」と顔をしかめる。
北川先生が苦笑する。
「女の子なんだから、そんな顔しないの」
ポンといつものように頭を叩かれるが、全く痛くない。大分先生は加減している。
「それで、二つ目はこの二週間毎日俺と補習をする。さぁ、どうする?」
先生が正面から私をじっと見る。
「毎日補習って、先生は大丈夫なんですか?」
「あぁ。もちろん。生徒の為に力をつくすのが先生だから、遠慮はいらないよ」
先生が笑う。ちょっとえくぼが見える可愛い表情だ。
「正直、資格を取る程は勉強したくないです」
簿記を私はそれ程好きにはなれなかった。大検より難しくなると聞けば更にやる気はなくなる。
「じゃあ、毎日補習だな。今日は通常の時間は埋まっているから、時間外補習だ」
北川先生が補習の紙を見る。
「えっ、今日から?」
「そう、今日から」
北川先生がニッと笑う。





 午後6時私は一旦学校を出て真由美と夕飯を食べに行く。杏子たちはもう帰っていた。
だいたい真由美と一緒だとマックになる。千葉駅の中にあるのが一番最寄りの所だ。
 この時間帯お店に入ると高校の制服を着た男女が多い。
先にテーブル席を確保すると、交互に買いに行った。私はてりやきバーガーのセットで、まゆみはポテトと
飲み物だけを買った。私とは違い家に帰るとお母さんが夕食を用意してくれているそうだ。
「ずっと言おうと思ってたんだけどさ」
テーブルを挟んだ正面に座る真由美が妙に真剣な顔をする。
「えっ、何?」
私はてりやきバーガーから口を放した。
「美和子、その赤ジャージ似会ってないよ。もう少し女の子らしい服着れば?」
夏でも私は赤ジャージを着ていた。一応有名スポーツメイカーの物でそれなりに高かった。
「そうかな?」
私は着ているジャージを見る。同じ物を三枚持っていて交互に着ている。
初日につっぱった格好で行った手前、他の服を着ると大分地味になるのでこれで通していた。私にしては
高校の制服みたいな感覚だ。
「私たちみたいに高校の制服着れば?持ってるんでしょ?」
真由美が私を見る。
「うん。持ってる。でも、着たくない」
いい思い出が一つもなかったから、クローゼットの一番奥に封印した。
「わかった。じゃあ、今からお買い物行こう。駅ビルに入っているお店で可愛い服売ってる所知ってるからさ」
「えっ、でも、私午後7時から北川先生の補習があるんだけど」
私の言葉を聞くと更に真由美の目がキラキラとする。
「それなら尚更じゃない。はい、行こう」
真由美が新しい遊びを思いついたように立ち上がると、私は食べかけのハンバーガをテイクアウトにした。


 駅ビルの中に入るとキーンと冷えた風が体を包む。効き過ぎるぐらい冷房が効いていた。ショップの
店員さんはみんな夏なのに長袖で、上着を羽織っている。仕事帰りの人たちが行き交う中
私が真由美に連れて来られた店はカジュアルな服が売っていた。真由美の趣味を考えると
もっとギャルっぽい派手な服になるのかと思った。
「いらっしゃいませ」
店に入るとスタイルの良い店員さんに言われる。
真由美は私の手を引いて、ワンピースのコーナーに行った。
コットン生地のふわっとしたワンピースが並ぶ。
真由美が私に選んでくれたのはAラインのワンピースで、
水色の大柄なチェック模様がプリントされているものだった。
「これ、着てみて」
ワンピースが掛かったハンガーを渡されると、私はそれを鏡の前で合わせて見る。
「可愛いじゃん、美和子似合ってるよ」
真由美が大げさに私を誉める。
「えっ、そうかな」
ワンピースなんて小学生の時以来だ。家ではジーパンにTシャツしか着ない。
鏡の中にうつる自分の姿に違和感があった。
「美和子、顔は丸いけど、太ってる訳じゃないんだから、こういう格好した方がいいよ」
「丸いは余計だと思うけど」
私の頬はふっくらとしている。体重の割りにはそれで少しぽっちゃりして見えるのだ。
「女の子は少し丸いぐらいが可愛いよ。赤ちゃんも丸い方がかわいいじゃん。
あっ、別に美和子が赤ちゃんみたいに丸いって訳じゃないから」
わざと真由美が丸いという言葉を連発する。
「もう、丸い、丸い言うな」
私の言葉に真由美が手を叩いて爆笑する。
「ウソ、ウソ、美和子は丸くないよ。さぁ、着てよ」
真由美に言われ私は渋々試着室に入り、着替える。
こうして服の試着するのも随分久しぶりだ。
もしかしたら冬に赤ジャージを買った以来かもしれない。
「やっぱり似会う!」
カーテンを開けると、真由美が目の前にいた。
私は試着室の鏡に写る自分の姿を見る。
膝丈のワンピースの裾にはひらひらの白いレースが付いていて、
袖口は腕の所で丸く絞られている。まるでお姫様みたいな服だ。
「そうかな」
見慣れない格好が凄く照れ臭い。
「これ着ていきなよ。私がプレゼントするからさ」
真由美の言葉に首を振った。
「いいよ。そんな勿体無い。自分で買えるから大丈夫だよ」
ママに食事代として一日二千円貰っていたので、余裕はある。
「やった!買うのね。買ってくれるのね」
真由美が嬉しそうに言う。
「えっ」
買わないという選択肢もあったのに勢いで言ってしまった事に気づく。
もしかしたら真由美は私にそう言わせる為に仕向けたのかもしれない。
「実はさ、私今そんなに持ち合わせないんだよね。でも、本当にプレゼントしてあげたいって思うぐらい
ワンピース似合ってるよ」
真由美が嬉しそうにするので、私はもう買わないとは言えなかった。
時間もなかったので、私は不本意ながらその格好のまま学校に戻った。
真由美とは駅で別れて一人だ。




「ミワッチかわいいじゃん」
予備校のエレベーターから降りると、柳田先生に見つかる。
「えっ、ははは」
何て返したらいいかわらかない。
「ねぇ、北川先生、可愛いよね」
同意を得ようと柳田先生がパソコンのディスプレイを見つめている北川先生に声を掛ける。
「えっ?」
北川先生がパソコンから目を放し、ゆっくりと私の方を振り向く。
そして、眼鏡の奥の瞳が驚いたように見開くのがわかった。
「うん、かわいい」
先生にそう言われた途端恥ずかしくなって、彼の方を向けなくなる。
「ミワッチ普段もそういう格好しなよ。せっかく女の子なんだからさ」
柳田先生の言葉に私は弱く頷く。
「北川君、補習まだ?」
奥の補習室から坪寺が出て来る。
そして、私を睨んだ。彼女も同じようなワンピースを着ていた。
「あぁ。高木さんも来たから始めようか。高木さんおいで」
北川先生が私に手招きする。私は小走りで彼の側に駆け寄った。
「坪寺さんも簿記自信がないらしいから、毎日一緒に補習を受けてもらう事になったよ」
顔を寄せると、そっと耳元で彼が言う。
微かに煙草とコロンの混じった香りがして、なせがドキッとした。
「あっ、はい」
私は頷いた。
補習室に行くと坪寺の隣に私は座った。北川先生は私たちの正面に来るように座る。
私たちは教科書を開いた。
「じゃあ、始めるよ。まず仕訳≠ゥらやって行こうか。ここがちゃんとできないと
後に続く事が全部できなくなるからね。では、借方と貸方とは何ですか?高木さん」
北川先生が私を見る。いきなり質問されて頭の中が白くなる。
「えっと……」
「借方とは資産の増加で、貸方とは資産の減少になり、この二つは貸借対照のルールに乗っ取り、
同じ金額になるように記入します」
私が戸惑っていると坪寺がスラスラと答える。
「はい。正解です。では問いの1番をやってみましょう」
私たちは教科書の問題に目をやる。

問1 商品を現金1000円で購入した。この取引を仕訳しなさい。

「高木さんわかる?」
先生が私を見る。
「えっと……」
私はポリポリ頭をかく。
「勘定科目は商品と現金になり、
借方に商品1000円 貸方に現金1000円となります」
またしても坪寺がスラスラ答える。
「はい、正解。坪寺さん」
坪寺が嬉しそうに笑う。
「これぐらい簡単です。できない方が可笑しいわ」
坪寺の言葉が胸に突き刺さる。
「思ったよりも坪寺さんと、高木さんの間に差があったから、
坪寺さんには違う問題を出すよ」
そう言うと先生は立ち上がり補習室を出て行く。
坪寺と二人きりになり気まずい。
「北川先生の事やっぱり好きなんでしょ?」
坪寺が私の方を見る。相変わらず顔は土色だ。目は小さくて、口はデカイ。
「そんな事ないです」
私はできるだけ無表情に答えた。
「嘘だわ。あなたの顔に好きって書いてある」
坪寺に言われて思わず自分の顔に触れてしまう。
その途端、坪寺がコロコロと笑い出す。
何だかイラッとした。
「坪寺さんこそ、何でそんなに聞くんですか?先生の事が好きなんですか?」
私の問いに坪寺がニヤリとする。
「そうよ。好きよ。同じ幼稚園で会った時からね。でも、私は両思いになろうとは思ってないの。
ただ北川君に会えればいいのよ」
自信たっぷりに答えた坪寺が少し気持ち悪い。よく恋に恋してというが、
坪寺は先生の事を好きな自分に酔っている気がした。
「でも北川君はやめておきなさい。彼は柳田先生の事が好きなのよ」
勝ち誇ったように坪寺が薄気味笑い笑みを浮かべた。
「別に、先生が誰を好きかなんて関係ないですから」
本当にこの女といるとイライラする。私は堪らず椅子から立ち上がる。
「あら、逃げるの?」
「トイレです」
坪寺に言い捨てると、補習室を出る。トイレに行くには職員室を横切らなければいけない。
ちらりと様子を見ると、校長の村上先生と数人の先生がいたが、北川先生と柳田先生の姿はない。
どこに行ったのだろうと思いながらトイレの近くまで行くと、その隣にある給湯室の方から話し声が聞こえた。
トイレの前で立ち止まり聞き耳を立てる。
「この間はごめん」
柳田先生の声だ。
「大丈夫だよ」
北川先生の声だ。
「今日、北川君の部屋に行ってもいい?」
いつものシャキシャキとした感じとは違う甘ったるい柳田先生の声に私はドキリとした。
「唐突だね」
北川先生が答える。その言い方や声のトーンが普段とは違う親密な感じがした。
胸がズキンと痛む。そこから先はもう何も聞きたくなかった。私は逃げるようにトイレに入る。気持ちを
落ち着かせたくて顔を洗う。鼓動が耳の側でどくどくとしていた。
一体今感じた感情は何だったのだろうか。自分でもよくわからない痛みだった。












 台風が来ていた。
朝見たニュースでは午後九時頃関東地方に上陸するだろうと言われていた。
今日も私は簿記の補習が入っている。通常の時間には取れず、時間外になってしまった。
窓ガラスが時折吹き付けてくる風と雨に軋む。一時間前よりもその威力は増していた。
 私は北川先生を補習室で待っていた。午後6時を過ぎている。補習は午後6時半からだ。
いつもだったら補習室には数人私のように先生を待つ学生がいたが、今日は私だけだ。
みんな台風があるからと授業が終わったら帰ってしまった。
私も帰ろうかとは思ったけど、大検まで一週間を切り、切羽詰っていたので、
そんな余裕はない。やっと仕訳もわかり、伝票もかけるようになって、
今日から精算表に入る。精算表は一番点数が取れる所だったので、確実にできるようにしなければならない。
しかし、私は教科書に書かれている小難しい表に目を見張る。
今まで習って来た試算表、損益計算書と貸借対照表が合わさった形になっていた。
「こんなのできるのかな」
計算する項目の多さにため息しか出てこない。
「お待たせ」
ドアが開くと、北川先生が入って来る。手には教科書と電卓を持っていた。
微かに職員室での話し声が聞こえた。まだ他の先生は残っている。
私は丸くなっていた背中をピンと伸ばす。
「よろしくお願いします」
先生が私の正面に座ると、私は頭を下げた。
それが私たちの勉強開始の合図だ。
「はい、よろしく」
先生が持って来た教科書を広げる。大分使い込まれているのでクタクタだ。
私も自分の真新しい教科書で先生と同じページを開く。
「では、今日から精算表に入ります。えーと、まず精算表とはどういうものかですが、
決算整理前の残高試算表に決算整理仕訳を加え、損益計算書と、貸借対照表を作成するまでの
過程を一つにしたものです。大検では6桁精算表を作ります」
先生が教科書の文字を読み上げる。私は自分の教科書を見ながら文字を追う。
「まぁ、つまり精算表は決算時に全体の流れを把握する為に作るものなんだ」
先生が確認するように私を見る。私は頷いた。
「で、どういう構造になっているかとうと、勘定科目はたてに」
北川先生が表の一番左側の部分をボールペンで指す。
「現金勘定科目から順に記入していきます」
私にわかりやすいように、先生がゆっくりと話す。
「横方向には残高試算表、損益計算書欄、貸借対照表が並んでいます」
先生がボールペンで順に横方向にさしていく。
「それでは問1の決算整理仕訳をまずしていきます」
 それから一時間先生の説明が続き、その後私は問題を解いた。
ふと問題用紙から先生の方に視線を向けると、先生は頬杖をついて左側を見ていた。
そこには窓ガラスがあった。
相変わらずカタカタと音を立てていて、時折ガタンと大きな音がした。
この後駅まで歩く事を考えると恐ろしい。ずぶ濡れになる事は確実だった。
「できた?」
先生が私に気づく。
「あっ、はい」
私は問題のプリントを先生の前に出す。
先生はそれを見ると、解答と照らし合わせていく。
「うん。正解」
先生が大きくプリントに赤ペンで花丸を書く。何だか小学生に戻った気分だ。
「よくできました」
先生が私にプリントを返す。形の良い花丸を見て思わずニヤけてしまう。
「じゃあ、今日はこれで終り」
机の上の教科書と電卓を一つにまとめながら先生が言う。
「はい。ありがとうございました」
私は先生にお辞儀をした。
その時、ガタンと大きな音が窓からする。二人そろって窓の方を向く。
窓ガラスが割れそうな程軋んでいた。
「大丈夫。割れないから」
不安そうにしている私に先生が言う。
「さぁ、急いで帰ろう」
私たちは補習室を出た。先生が最後に部屋の電気を消す。
隣の職員室に行くと見事に誰もいない。
先生の机の上には『先に帰ります。最後に戸締りお願いします 村上』とメモが置いてあった。
「校長も帰ったのか」
先生が机の前でポリポリと頭をかく。
部屋の壁計時計を見ると午後9時を過ぎていた。
「高木さん、ちょっと待っててくれる?戸締りしてくるから」
その時、空が光り、ドーン、ガラガラという音が続くように落ちる。
「キャッ」
咄嗟に私は身を屈めて両耳を塞ぐ。雷が苦手だった。
あの大きな音を聞くと身がすくんでしまうのだ。
「大丈夫?」
先生が私の側に来てくれる。
「……はい」
怖かったけど、先生を心配させたくなかった。
「一緒に行こうか」
「はい」
私たちはエレベーターに乗ってまず6階から見て回る。
窓ガラスの鍵がかかっているか、教室の電気が消えているかという事を私も一緒に確認した。
6階、5階、4階と同じ作業をして3階に戻って来た。私はエレベーターの『開』ボタンを押したまま先生を待つ。
先生が素早く鞄とスーツの上着を取りに行った。
「ありがとう」
先生がサッとエレベーターに乗り込むと一階を押して扉を閉める。
ウィーンと音を立て、エレベーターが階数を下げていく。

ガタン!

突然、エレベーターが止まる。
「えっ」
「えっ」
私たちが顔を見合わせた途端、電気が消えた。
「うそ!」
突然の事で何が何だかわからない。
「高木さん、大丈夫?」
すぐ隣で先生の声がするが、暗くて見えない。
私は不安だった。さっきの雷で大分動揺していたので、もう泣きそうだ。
隣でフワッとオレンジ色の灯りがつく。
先生の顔が薄っすらと浮かぶ。
「ライター持っていて良かった」
先生が笑う。その笑顔に不安な気持ちが少し緩むが怖かった。
「今、非常の呼び出しボタン押すから」
先生が右側に移動すると、階数ボタンの前で止まる。
ライターの灯りで非常用のボタンを先生が探す。
「あった。一度こういうの押してみたかったんだ」
先生がボタンを押すとどこかと音声が繋がる。
「今エレベーターに閉じ込められました。電気も消えています。あっ、はい。場所は千葉駅西口の桑田ビルになります。
3階から1階に降りる途中で止まっています。あっ、はい。はい。よろしくお願いします」
先生はオペレーターと話し終わると私の方を向いた。
「三十分ぐらいで来てくれるって。どうもさっきの雷で停電しちゃったみたいだ」
停電と聞いてまた不安になる。
「とりあえず立っているの疲れるから、座ろうか」
先生がエレベーターの壁によりかかるように座る。私も先生の隣に座った。
先生がライターで照らしてくれているから、薄っすらと周りを見る事が出来た。
「もう嫌だ。何でこんな目に合うの」
段々悲しくなって来た。一生懸命勉強していただけなのに、こんな理不尽な目にどうして会うのだろう。涙が流れる。
しくしくと私は泣き始めた。
「大丈夫だから。ね。ちゃんと助けが来るから頑張ろう」
先生がポンポンと私の肩を叩く。
「だって。怖いんです。えーん」
私はすがるように先生の胸で泣いた。
「高木さん、大丈夫だよ。大丈夫」
先生が私の気を落ち着かせるように抱きしめる。
「俺がいるよ。一人じゃないから大丈夫」
耳元で先生の落ち着いた声がした。
「先生」
私は洟をすすりながら先生を見る。その瞬間、ライターの火が消え、再び暗闇に包まれる。
「きゃっ」
先生に強くしがみつく。
「大丈夫。ライターのオイルがなくなっただけだよ」
先生が背中をさする。
「少ししたら目も慣れてくるから、暗闇でも見えるようになるよ。
そうだ高木さん、北川商店は商品を現金1万円で仕入れた。この時の仕訳は」
「えっ」
こんな時に先生は何を言っているのだろう。
「ほら、ちゃんと考えて。それともわからないのかな?」
わからないと言われムッとする。それぐらい簡単に仕訳られるようになった。
「まず借方には何の勘定科目がくるの?」
「えっと、仕入れ=v
「じゃあ貸方には何が来る?」
「現金=v
「じゃあ、金額はどうなる?」
「仕入れ一万円、現金一万です」
「正解。じゃあ、次は高木商店は北川商会から商品5万円を掛けで仕入れた。その際の引取り運賃
五千円は現金で払った。この時の仕訳はどうなりますか?」
「えっと、借方に仕入れ5万円が来て、貸方に買掛金5万円かな?」
「惜しいな。引取り運賃五千円は現金で支払ったんだよ」
「あっ、そうか。じゃあ、借方に仕入れ5万円、貸方に引き取り運賃分を引いた、買掛金4万5千円と、
現金5千円が来ます」
「はい。正解。じゃあ、次はね北川商会が高木商店に商品三万円を販売し、代金は掛けとした。
この場合の仕訳はどうなる?」
「えっと」
頭の中で仕訳を組み立てる。さっきまでは買った場合の仕訳だったが、今度は売った場合の仕訳だ。
「借方に売掛金三万円、貸方に売上げ三万円になります」
「はい正解」
目が慣れて来て、先生が微かに口元を上げたのが見えた。
気づけばさっきまでの不安な気持ちも落ち着き、段々私は冷静になって来た。
それと同時に今、自分が先生に抱きしめられたような格好になっている事に気づく。
今度は違う種類の緊張感が私を包む。
「それじゃあ、えーと、北川商会が商品十万円を高木商店に掛けで販売した。なお高木商店負担分の
発送運賃一万を現金で立替払いした。この時の仕訳はどうなるでしょう?」
先生の声と体温に胸がドキドキとしていた。
「えっと」
さっきまで浮かんでいた答えが急にわからなくなる。今暗闇で良かった。
きっと私はこれ以上ない程赤い顔をしている。
先生の鼓動が聞こえた。規則正しく動いている。
背中を抱く腕はずっとリズムを刻んでいる。赤ちゃんを寝かしつける時にお母さんがトントンって
優しく叩くみたいにだ。体が熱い。ただでさえ冷房が止まっているのに先生と体を密着させているのだから、
体温はどんどん上がってしまう。きっと先生も暑いはずだ。
「先生、もう大丈夫です。落ち着きました」
「えっ」
「あの、放して下さい。暑いですから」
「あっ、ごめん」
先生が私の背中から腕を放したのを合図に私は先生から離れた。
まだ胸がドキドキしている。先生の方を向けなかった。
「エレベーター会社の者です。大丈夫ですか。今到着しました」
扉の外で男の人の声がする。それを聞いて私はホッとした。
ずっと生きた心地がしなかった。
「大丈夫です」
先生が答える。
「今、扉開けます」
外の人がそう言うと、ギーッという音がして両開きの扉が開いた。光りが差し込んで来る。
エレベーターの外は電気がちゃんとついていた。
黄色いヘルメットを被った青い繋ぎを着たおじさんがいる。
エレベーターは二階と一階の途中で止まっていて、私たちは隙間から一階に飛び降りた。
「ご迷惑おけかし本当に申し訳ありません」
つなぎのおじさんが謝る。
「いえ、こちらこそお手数おかけしました」
先生が答える。暗闇の中で微かにしか見えなかった先生の顔を私は確かめるようにじっと見る。
すると突然、生々しく抱きしめられていた事が私の胸に迫って来る。体中がカーッと熱くなって、
また先生の方を向けなくなった。
男の人とあんなに近い距離にいたのは初めてだった。




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