―――  プレーリーハタネズミの恋  ――― 


プロローグ

 十二月二十三日。JFK国際空港に葛木恭一郎(かつらぎ きょういちろう)はいた。

 成田空港から十三時間弱のフライトだった。スーツの上に黒いロングコートを着た恭一郎の姿は、やり手のビジネスマンのように見えた。

 混雑した空港内を颯爽とした足取りで歩き、入国審査の長蛇の列に並んだ。

 列に並ぶ人間の大半は観光目的だった。あちらこちらで、ニューヨーク見物を楽しみにしている話し声がしていた。

 恭一郎はふっとため息をつき、腕時計を見た。スイスの有名ブランドの物で、イギリスの研究所に就職が決まった時、父からプレゼントされたものだった。

 横浜でテーラーを営む父は職人気質で、厳しかった。でも、母は優しかった。だから、いつも母親の背中に隠れているような子供だった。

 母が不倫相手と駆け落ちしたのは八歳の時だった。隠れる場所を失った恭一郎は、父と対立した。一番激しく父とぶつかったのは、高校の進路相談の時だった。

 医学部に進学するという恭一郎を、お前はテーラーになるんだ。と言って父は反対した。教師がいる前で派手な親子喧嘩をした。

 恭一郎は折れなかった。医学部に行って、脳について知りたかったのだ。

 母が駆け落ちしてから、どうして人間は愚かな行動に出るのか、という事を考えてきた。人間を理解するには指令を与えている臓器を知る必要がある。それが脳を研究したいと思った動機だった。

 入国審査が終わると、スーツケースをピックアップし、外に出た。どんよりとした曇り空が広がり、頬を刺す冷たい風で指先が痛くなった。恭一郎はポケットの中に入れていた黒革の手袋を身につけた。

 飛行機の中で耳にした天気予報では午後から雪になると言っていた。雪が降る前に彼女に会いたかった。

 雪の日にいい思い出はない。母が出て行った日も、恋人と別れた日も雪が降っていた。

 だから、雪が降る前に彼女に会いたい。

 彼女に会って、本当の気持ちを伝えたかった――。






十月五日(月)前半

 「葛木准教授(せんせい)、おはようございます」
 JRの改札から出た所で女子の弾んだ声がした。恭一郎が籍を置く新明大学の学生だ。
「おはよう」
 恭一郎は感情を抑えた声で答え、早足で歩き出す。ここで捕まってしまうと面倒な事になるからだ。
大学まで徒歩十五分の道のりで最低でも一〇回以上は女子学生に捕まる。酷いときは三十人ぐらいに声をかけられてしまう。
 学生を指導する立場としては挨拶を返すのは当然の事だが、なるべく関わりたくないというのが本音だ。
 一度女子学生達に捕まると、磁石に付く砂鉄のようにくっつき中々放してくれない。それで講義に遅刻したという苦い経験もあった。
 恭一郎は駅前の通りを高校生や、大学生の集団をかき分けて突き進んだ。
 周辺には新明大学を含め、大学と高校が四校あった。その為、朝と夕方は学生たちでごった返している。
 新明大学がある通りに出ると、東京ドーム十個分の土地を囲う煉瓦塀が見えてくる。
薄くなった赤茶色の塀は昭和元年の竣工当初からあり、歴史を感じさせる外観であった。
 恭一郎は学生の列に続き、大きく門扉の開いている正門を通り抜ける。その間にも五人の女子から声をかけられ、面倒だと思いながら挨拶を返した。
 敷地内には医学部、薬学部、人間学部がある。特に創立時からある医学部は医療の最先端で活躍する専門医や研究者を多く輩出し、
新明大学の偏差値を難関校クラスまで上昇させている看板学部であった。恭一郎はその医学部を卒業し、大学院を経てイギリスで四年間研究員として働いていた。
 新設の「人間学部認知神経学科」の准教授として再び母校に身を置く事になったのは、今から五年前だった。
 午前九時丁度。いつものようにファイルと教科書を脇に抱え、恭一郎は階段教室に入った。
「先生!」
「今日も素敵です!」
「スーツ、カッコイイです!」
 教壇に立っても前列のミーハー女子学生の黄色い声は鳴りやまない。
 今日の恭一郎のスーツはチャコールグレーのピンストライプの縞柄が入る三つ揃え。イギリスにいた時に作ったセヴィル・ロウにある名門店のスーツだった。
セヴィル・ロウは背広の語源となった老舗の仕立て専門店が集まる場所である。
 イギリス式のカッチリとした仕立てが好きで、足元もイギリス式の先が尖った革靴を履いていた。
 その出で立ちは知的で他者に気を許さない雰囲気を出していたが、一部の女子学生には逆効果になり、アイドルのように騒がれてしまっている。
 恭一郎はいつものようにミーハー女子の黄色い声を無視し、教卓に教科書類を置くと、窓から入る陽射しに黒縁眼鏡の奥の瞳を少し細めて教室を見渡した。
二百五十ある席は全て埋まり、女子学生の方がやや多かった。
 黒板に簡単な脳の図と今日のテーマ「感情」をクセのある右上がりの字で書き、マイクの電源を入れた。
「おはようございます。今日は大脳辺縁系に絞った話をしたいと思います。大脳辺縁系は生存のための欲求や衝動が生まれる所です。
その中に扁桃体と呼ばれる小さな器官があり、感覚器官から入ってきた情報を扁桃体で評価します。これが感情のもとになる訳です」
 マイクを通した恭一郎の張りのある声が流れると、雑談をしていた学生たちが一斉にノートを取り始める。恭一郎がほとんど板書をしない為だ。
 教員によっては講義の内容をまとめたプリントを学生に配る者もいたが、学生が完全な受身になってしまう事を懸念し、プリントは配布していない。
「感情には基本的に『良い』か『悪い』という二つの判断しかありません。それを複雑な感情に色づけているのが前頭皮質になります。それで……」
 恭一郎は思わず眉を潜める。右手ドア側の、前から十列目に座っていた学生カップルが授業中にキスをしていたからだ。
 困ったものだ。どう成敗してくれようか。
 恭一郎は眉尻を上げた険しい表情でバカップルに視線を向けた。
「コカインを摂取した時の脳と、恋をしている時の脳は同じ反応をする。これらの共通点は何だと思いますか?彼女にキスをしていた君、答えて」
 突然の話題転換に教室中が息を呑み、聞かれた体格のいい学生は驚いてイチャついていた相手と離れた。
「えーと……わかりません」
 蚊の鳴くような声で答えた巨体を、さらに軽蔑を込めた眼差しで恭一郎は見据える。
「まるで小学生の答えだ。大学生にもなって安易にわからないと言う態度は関心できないね。
君はわからないんじゃなくて、考えてないんじゃないかね。もう一度ちゃんと考えて答えなさい」
 教室中にはピリッとした険悪な空気が流れ始め、学生たちが固唾を呑んで見守っていた。
「えーと……」
 巨体の自信のない声が苦しそうに響き、重苦しい沈黙が流れる。
 恭一郎はさらに高圧的な視線で巨体を追い詰める。居たたまれなくなった彼らが、自らの意思で教室から出て行くのを狙っての態度だ。
 血色の良かった巨体の顔からは血の気が引き、完全な蒼白となっていた。
「その……」
「依存性が高い事じゃないでしょうか」
 巨体の声と重なるようにハッキリとした女子学生の声が反対側から響いた。
 窓側の前から三列目に姫宮(ひめみや)香織(かおり)がいた。彼女は場の空気に飲まれる事なく、毅然とした態度で答えた。
「コカインを摂取した時の脳と、恋に落ちた時の脳は、どちらも報酬系と呼ばれる部位が活発になります。コカインは依存性の強い薬物です。
そして恋愛も、恋人なしでいられない状態になる所は依存性が強いと言えると思います」
 香織の答えはさすが学年一の秀才と言える模範的なものだった。
「正解だ。コカインも恋愛も精神依存度が高くなる。つまり、理性を失い、みっともない程相手を求めるようになる。実に愚かだ。
講義中にも関わらずキスをするのだからな。そして、それは一時的な感情に振り回されているだけだ。激しく燃え上がる恋程、終わりは早い。
おそらく彼らも卒業前には別れているだろう。いや、絶対に別れている」
 バカップルにトドメを差すように断言した。これで彼らは教室から出て行く。恭一郎がそう思った時、ガタンと音を立てて巨体が立ち上がった。
「頭に来たぜ!言いたい事ばかり言いやがって!」
 巨体が獣のような声で叫び、眼光鋭く睨んでくる。
 まずい。やり過ぎたと思った瞬間、巨体が見た目からは想像できない俊敏さで、ダンプカーのように突っ込んで来た。
「先生!危ない!!」
 ミーハー女子たちの悲鳴があがる。


Kindle版「プレーリーハタネズミの恋1巻」につづく





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