LOVE LETTER
by びと


「貴方……」

慰めるように肩に置かれた妻・舞の手を払って、櫻小路は力なく家路を辿った。
櫻小路は完全に打ちのめされていた。
俳優としても男としても、眞澄に完全に負けた、そう思わせられた。
それにマヤに近しい人々の中で、自分だけが知らなかった真実があったなんて……。
それもあの眞澄の方針だったらしいが。

マヤが何故かあの眞澄と結婚した後に、自分を包んでくれる舞と結婚して、それなりに悪くない人生を送ってきたつもりだった。
だが今日見せられたあの映像……あの中にあったものに比べたら、如何にも安手な気がしてしまい、それが櫻小路をどうしようもなく落ち込ませた。

今日は一ヶ月ほど前の金婚式当日に急逝した眞澄と、その後を追うように亡くなったマヤの、ユビクイタス大都主催の合同慰霊祭、所謂社葬だった。
ユビクイタスとは「遍在する」あらゆるところに存在するという意味で、創業者速水英介の死後、グループを統括する為に創られた持ち株会社の名称だった。
サービスのと謳っている大都のそれが日常生活のあらゆる場面に身近に存在するのと、
英介・眞澄と二代続けて中でも心血を注いできた大都芸能(現大都エンターテインメント)の至宝である《紅天女》の亜子冶の愛がそうである事に掛けてあった。

マヤは眞澄が亡くなってから二週間ほど経って、真冬の梅の谷の川辺で凍死しているのが発見された。
本人の希望で前日から里へ来ていたが、夜中に一人でコッソリ谷へ出掛けて、朝発見された時は楽しい夢を見ながら眠っているような死に顔だったと言う。
マヤが住んでいたのは東京の速水邸だったから、一ヶ月前に引退するまで『紅天女』だった北嶋マヤが、
縁の土地ではあると言っても遠く離れた奈良の山奥で凍死体で発見される、というのはかなりセンセーショナルで、マスコミでも色々と取り上げられた。

慰霊祭らしく、正面に眞澄とマヤの大きな遺影が二枚、濃淡の紫の薔薇で縁取られて並んでいた。
その両サイドに、長年マヤが愛用した、後継者に指定された当時の打掛と、
もう一つ、何だか黒っぽい汚れの目立つ、随分と古ぼけた打掛が衣桁に掛けられて置かれていた。

挨拶に立ったのは眞澄とマヤの長男で、数年前にユビクイタスの会長職を眞澄から継いだ速水、本名・藤邑英澄(ひでずみ)だった。
彼は、と言うか眞澄夫婦の二男一女は皆親にソックリと評判で、数歳下で秘書を務める弟と『双子』と仇名されるくらい似ており、
且つまた過ぎし日の眞澄かと思えるほどだった。

「或いは公私混同と思われるやも知れませんが、とかく世間の口の端に上った二人でしたので、その本当の姿を皆さんにお伝えする事が、
二人の何よりの供養になるのではと思い、大都の役員・株主でもあり遺族でもある我々の総意で、今日は皆さんにビデオをご覧に入れたいと思います。
家庭生活のビデオを他人が観るのは、苦行に近いものがあると承知しておりますが、故人への供養、無宗教だった二人への読経代わりと思し召して、
どうかお付き合いください。それでは」

会場の照明が落ち、眞澄とマヤの大きな遺影の前に下ろされたスクリーンに、間に合わせ感がありありの安っぽいタイトル画面が浮かび、
『結婚一年目 於 自宅レッスン室』とだけあった。
藤紫一色で無地のタイトルバックが消えると、壁一面が鏡張りで床が板張り、ほぼバレエの稽古場同様の室内が映った。
カメラのアングルが上下に大きく揺れて、それからアップにしたらしく何が何やらになったのが、反対にズームアウトした途端、
床に胡坐を掻いている、紺の作務衣だか甚平を着ている若かりし眞澄が映った。
画面の片隅にはグランドピアノもあった。

「えー、今日は結婚してから初のあたしの誕生日でーす。あたしから眞澄さんにプレゼントのリクエストして、夫婦初共演のビデオを撮る事になりましたー! 
眞澄さん、宜しくお願いしまーす」
「ったく……ビデオに残さないとダメなのか? 記憶にだけ残す方が贅沢じゃないか?」
「それはもう沢山あるから。どうしても眞澄さんと《紅天女》演ってみたいから。
あたしが観客として観るにはビデオに撮らないとダメでしょう。カッコいい事言っても逃がしません。諦めて出演して下さい」

眞澄が肩で大きく溜息を吐くと、カメラの側で声だけしていたマヤが画面の中にやって来た。
マヤは白地の浴衣姿だ。

「えー、台本がある、って言うか、『本物の』台本があるお芝居をするのは初めての眞澄さんに配慮して、
今日は村人から迫害される一眞を亜子冶が庇うシーンにしました。眞澄さんが一眞、あたしは亜子冶とその他大勢。眞澄さん、台詞入ってますか?」
「ヤメロ、アコヤ、ヤメロ」
「もう……本番は真面目に演って下さいね」

マヤは眞澄の側から立ち上がると、画面の片隅に見切れているピアノの手前に立ってキョロキョロしている。
どうやらカメラの左端の目印をピアノにしていた様子だ。
と、途端に皺枯れた老婆っぽい、マヤの作り声が大きく響いた。

「亜子冶、お前が霊力を失くしたのはソヤツの所為ぞ! ソヤツは人の形(なり)をした疫病神、いいや魔物の化身に相違ない! 
このまま村に置いておけば村中に災厄が降りかかる!」

眞澄を指差してがなっていたマヤが、眞澄の側に屈むなり、今いた方を向いて亜子冶になった。

「いいえ婆様、この人は私の裂かれた半身、」

舞台では、跪いた亜子冶と背中合わせで片膝を突いた一眞が背後の村人を警戒していた。
女の身で愛しい一眞を必死で庇おうとする亜子冶の見せ場だった。
ところが、ビデオの眞澄はマヤが台詞を言い終えない内にマヤの腕を引っ張って床へ土下座させると、交差するように上から覆い被さってしまった。

「お前様……婆様、止めて下され! 皆も聞いて、」
「止めろ、亜子冶、止めろ!」

「止めろ」は二人に石を投げ付ける村人への抗議、「亜子冶」は石が当たった亜子冶を気遣うものとして演じられて来た。
しかし、眞澄の一眞はその全てを全身で庇っている亜子冶に言い聞かせていた。
無駄な、危ない真似は止めろと、庇う体躯で揺さぶりながら言っていた。
マヤはそれでも亜子冶として、台本の台詞を続けていた。
一眞の身体の下から、悲痛な叫びで訴えていた。

ほんの数秒の静寂の後、眞澄が起き上がると押さえ付けていたマヤを起こした。

「……迫害の場、終幕」
「眞澄さん……」
「本物の、俺の一眞を演ってくれ、君がそう言った」
「言いましたけど……」
「俺なら、俺が一眞なら……亜子冶なら、例え村人に軟禁されていたとしても、トイレだとか何とか言って外へ出た隙に逃げ出して駆け付ける。村人は村人で、
巫女の亜子冶にそう手荒な真似はできない。今度はこの場で村人に拘束されたって、連中の手首を噛み切ってでも一眞の許へ……」
「ええ……亜子冶ならそうだと思います」
「そんな女が石の雨に曝されるなんて、俺なら、一眞なら許さない。一人で村人に立ち向かえないならせめて……」
「亜子冶を……護る……自分の身体で……」

胡坐の眞澄はフッと笑うと、床を見つめて肩を大きく上下させた。

「舞台ではここは亜子冶の見せ場だし、こんな風に二人が地べたに丸くなっても絵にならないって事も解る。
だがそれは演出家や俳優が試行錯誤する事で、素人俳優の俺が考える事じゃない。だから素人俳優藤邑眞澄の一眞の、これが答えだ。リテイクなし」
「……なら、素人俳優速水眞澄の一眞だったら?」
「それももう演った。お忙しい社長様が、こんな事にまともに付き合えるか。カメラの前で台詞を言えばもう終わりだ」
「ヤメロ……」
「正解。さて、もうビデオは停めていいな」

眞澄は立ち上がると素早くカメラのフレームから出て行った。


これを観た櫻小路が考える暇もなく、画面が揺れたと思ったらまた同じ室内で、ほぼ同じ恰好の眞澄が映った。
眞澄のヘアスタイルが微妙に違うのが時間経過を感じさせた。

「今日は結婚後初のホワイトデーで、あたしのリクエストで夫婦共演第二弾となりましたー!」

胡坐を掻いている眞澄は天パの髪をガリガリとやるだけで、もう何も言わない、言いたくないらしい。

「えー、前回は眞澄さんに配慮して迫害される一眞を選んだのに、なんかあたしの方がノックアウトされちゃったので。
今回は変化球でエチュードにします。亜子冶に拾われた一眞が、小屋で亜子冶に介抱される。台本にないので全部アドリブです。
さ、眞澄さん、カメラ向いて横になって。真横じゃちょっとカッコ悪いですよ、気持ち斜めに」
「どっちにしろカッコ悪い」
「もう、ホント往生際が悪いんだから。もうちょっと右、座ったあたしがカメラに入れないから」

画面の中央左辺りに頭、右下端に脛が来るという構図で眞澄が寝そべると、横向きの正座したマヤが左側に収まった。

「ああお前様、お目覚めかえ? 丁度粥が出来たところじゃ。タンと食べて、早う元気になって下され」

眞澄は始まったマヤの芝居に不貞腐れるように、顔を反対側へ逸らしてしまった。
それでもマヤは怒ったりせずに、腰を浮かして一眞を窺った。

「お前様は菜っ葉の粥は嫌いかえ? でも先ずは傷を治さん事には、他の物は身体に毒じゃ。冷めては余計に不味くなりまする、早う食べて下され」
「……いい、自分で食べる。そこへ置いて行ってくれ」
「まだ肩の傷に障りまする。遠慮なぞ要りませぬ、さあ」
「……遠慮ではない。ワシは構われとうない。……何も思い出せぬが、身形も粗末で金もなかったのだろう。
ワシなぞに親身にしてくれても、きっと何も返せぬ。動けるようになったらここを出る」
「私はここに一人じゃと言うたじゃろう。誰にも遠慮は要りませぬ。ここでゆっくり養生なさりませ。
……そうじゃ先に汗を拭きませぬか。さすれば心持ちも晴れて食も進みましょう」

亜子冶がお椀を床に置いて進み出た気配に、一眞が追い払うように右腕をぎこちなく大きく振り回して怒鳴った。

「いい、ワシに構うな! ワシの事なぞ放っておいてくれ!」
「……何を怯えていなさるのじゃ? この薬は沁みて臭うが、これで治らぬ傷はありませぬ。
足は骨が折れておるから、木を副えねば曲がりまする。いずれ治るまでの辛抱じゃ」
「……ワシは子供ではない。薬や当て木なぞ何でもない」
「あれあれ。それなら粥も大人しゅう頂きなされ。食べねば治るものも治りませぬぞ。さあ」

亜子冶は床のお椀を手に取り、匙をふーっと吹いてから一眞へ差し出したが、一眞はそれをジッと見つめるだけで動かない。
それでも猶ニコニコと匙を差し出している亜子冶に根負けしたのか、ぎこちなく側臥すると右腕で上半身を支え、残る左腕で乱暴に匙を奪うと、
亜子冶が口元へ差し出したお椀から不器用に粥を食べ始めた。
亜子冶はフフッと笑い、満足げに頷いてそれを見守っていた。

「……粥がなくなって一眞はヤレヤレと床(とこ)へ戻る。終幕」
「眞澄さん、台詞もホントの一眞みたい。アドリブなのに」

床に起き直った眞澄は、胡坐を掻いて軽く溜息を吐いた。

「もう何回も君の亜子冶を観ているし。それにアレだ、親父の岡山訛りのパクリだな」
「ああ……そう言えば似てるかも……」
「親父は病気になると更に扱い辛くなる。とにかく他人を寄せ付けない。見舞いに長居すると怒って追い払う。
親父は他人にも見舞わない、仕事上の最低限以外はな」
「ふうん……そうなんですか。……どうしてそれが一眞らしいって……」

眞澄は軽く左右に首を振った。

「……親父のは、他人に借りを作りたくないからだ。他人を追い払えない状況で親切にされては借りができる。
それがイヤだから端から寄せ付けない、隙を見せない」
「隙を見せない……」
「一眞は……記憶喪失でパーソナルデータが失くなったとしても……ない水路に水は流れない」
「ないスイロ?」
「水路は水の路、まあ川だな。脳味噌も頭の回路と言うだろう。
……親切にされた経験のない一眞には、優しい言葉、親切にどう対応すればいいのか解らない筈だ。
何の見返りもなく親切にされるなんて有り得ない……世話になったら後で一体どんな事になるのか……。
記憶がなくて不安な上に亜子冶みたいな美人に親身に世話をされたら、嬉しいより余計不安になるだろう。
狐か魔物に化かされているのかもと疑うかも知れない……」
「……だから、怯える……」
「傍から見ればな。追い払われるばかりの野良犬が人間を警戒するようなものだ。
隙を見せたら棒で叩かれるかも……警戒したまま飯を喰らって物陰に走り去る……」
「ああ……なんかそんな感じでしたね。ホントぴったり……」

思い返して納得するマヤを、眞澄は胡坐の足首を掴んで眺めている。

「……速水眞澄バージョンを演るとしたら……」
「あ! それだとどうなるんですか?」
「ないな。代わりに……もしこのエチュードをもうやっていたら……若しくはこれからやるとしたら……奴なら素直に亜子冶を讃えるだろうな。
記憶も金もない見ず知らずの男に、こんなに親切にしてくれるとは! まるで女神様だ、天女様だ、ああ運命の女(ひと)かも知れない……! 
まるで霊力で一晩で治して貰ったかのように……これでは介抱される間に心を解き解される一眞には繋がらない、
二人の絆がお手軽で薄っぺらになる。たちまち亜子冶の虜になる間抜けしかいない」
「……櫻小路君がどうかは別にして、それだと亜子冶の奇特さしか見えない感じ……。
さっきの臍曲がりな一眞、可哀想なのに可愛くて……亜子冶が懸命に構って上げたくなる気持ち、解ります」

眞澄がリアクションしないので、マヤはウン? と眞澄を窺った。

「もう終わりだな。この恰好は寒くていけない、サッサと着替える」
「はあーい。共演有難う御座いましたぁ」

「可愛い」と言われた眞澄が照れたのが解って、場内に軽い失笑が漏れた。



クスクス笑いが消えない内に画面が藤紫になり、『結婚二年目』とだけあった。
今度も場所は同じだが、映った眞澄はシャツに藤紫色のセーターにスラックスで、普段着に見えた。

「えー、結婚してから二回目のあたしの誕生日です。今日は眞澄さんの子供の頃の事を訊きます」
「……夫婦共演じゃなかったか? ネタがないなら止めでいいじゃないか」
「いいの。だって英たちが生まれたでしょ。英が顔だけじゃなくて中身まで似てたら困るから、眞澄さんみたいな子にならないように、参考にするんで」
「全然似ていない、だから不要だ」
「いいの! それに眞澄さんの思考回路ってあたしには理解不能だから。一眞とかオリゲルドとか、眞澄さんタイプを理解する資料になるから。
だから夫婦共演と同じくらい勉強になりますもん」

眞澄は俯いて一際大きな溜息を吐いた。

「……で? 一体何を話せって?」
「何でも。……ここに来た時の事とか憶えてますか?」
「……もう六歳だったから。お袋の横に付いて、会う人会う人に頭を下げて……こんな歳の子がいるんじゃ大変ねと……
その前の処へ勤め始めた時の事は記憶にない。……俺はそうなのかと……お袋のお荷物なのかと……
勿論そんな語彙は知らないが、お袋が俺の為に苦労するんだとは漠然と……。
前の家でもお袋の迷惑になるような悪戯はしなかったが……母子家庭だって事を意識する切っ掛けだった気がする……」
「……お義父さんにも会ったんでしょう?」
「ああ。初日にお袋と一緒に挨拶した。だが旦那様だからな、趣味の囲碁の邪魔になったりしないようにと、旦那様の近くでは遊ぶなと言われたから。
遠くから縁側を窺って、親父が居たら回れ右……顔も忘れるくらい遠い存在だったな……」
「じゃあ、鯉の池を掃除するまで、全然会わなかったんですか?」
「否……母屋の長い廊下でミニカーで遊んでいた時、普段は閉まっている戸が開いていて……何の気なしに覗いてみた…
…そこには黒髪に着物姿の美女がいた……月影千種が怪我をする前のポスターから起こした大きな絵で……そこにあの打掛が……
天女の羽衣じゃないかと思うような……ボーッと見蕩れていたら突然大声がして……俺は無意識に打掛に触っていた。
それに気付いた親父が、旦那様が素っ飛んで来て、顔を打たれて壁際まで吹っ飛んだ。
小汚いガキがこれに触るなと……正しく鬼の形相ってヤツだった……その時あれが《紅天女》の打掛だと……いつか自分で復活させると聞かされた……」
「……ショックでしたか?」
「否……驚いた事は驚いたが。母屋で遊んで、探検までした俺が悪かったんだし」
「じゃあ……お義父さんにされた事で二番目にショックだった事は?」

何故一番目を訊かないのか、慰霊祭の参列者には解らなかった。
だが眞澄は困ったような苦笑をして首を振った。

「……それは言えない……」
「……じゃあ……三番目は?」
「三番目か……現時点までで、今振り返ってみると……見合い、かな」
「紫織さんとの?」
「ああ勿論。俺は見合いなんか一回しかしていないぞ。その他はもう……順番も付けられないし、一晩掛かっても話し切れないな」
「じゃあ……今度は、お義父さんに感謝してる事は?」

そう訊かれた途端、眞澄は子供のように口をへの字にした。

「ないんですか? 一つも?」
「……それは、まあ、結果からすると……感謝とまではいかないが、知っていてよかったと思ったりする事は、無理矢理こじつければ、なくはない」
「あーはいはい。じゃあそれ聞かせて下さい」
「フン。……三つだとして……順不同なら……一つは聖かな。アイツとはここに居なかったら知り合えなかった。これはもうおしまい」
「聖さんの事? それとも後の二つは秘密、ですか?」
「……半分秘密かな。これは俺にとって奥義みたいなものだから」
「オウギ……団扇じゃないですよね。秘密の隠し技ですか」
「ハハ、まあそうかな。秘密の隠し技、悪くないな。言い得て妙だ」
「え?」
「……実力を付けるまで宝物は隠しておけ……でないと妬みや嫉みで宝物を盗られるかも、壊されるかも知れない……。
俺がそれを学ぶ為に払った代償は、親父からの初めてのプレゼントの模型セットだった。
確か畳一帖分くらいあるヤツだった……貰ったその日に義理の従兄妹たちに壊された」
「なんでまた……遊ぶ順番で揉めたとか?」
「ハハ、単なる嫉妬だよ。……義理の従兄妹たちの前で、抱え切れないようなデカい箱のをプレゼントされて……俺はただ嬉しくて、何も考えずに早速開けて、
自分の部屋で遊んでいた。そこに従兄妹たちがやって来て蹴散らしてへし折って……ただ、壊された。
……当時の俺には連中の悪意が理解できなかった。何も悪い事をしていないのにどうして……だが親父が教えてくれた。
人は自分と大差ないと思えるヤツの幸運に嫉妬する……」
「自分と大差ない人……」
「ハハ、チビちゃんなら解るんじゃないか? 愛弓君の美貌を羨ましく思った事はないか?」
「そ……そりゃあたしだって、あんな美人ならどんなにいいかって思うけど……大差なくないです、大違いです!」
「まあ夫の俺にしても、それはフォローの仕様がない」
「もう……」
「だが、愛弓君にジュリエットやオフィリアが回って来た時、君はある意味諦められるだろう? 愛弓君はあんなに美人なんだから当然だって」
「……まあそうですね……」
「これが相手がチビちゃんだったら……あんな娘より私の方が綺麗、ダンスが、歌が上手いのに……
そして思う、自分にだってきっと演れる、君に怪我をさせれば代役になれるかも、否あんな娘が実力で役を貰えた筈がない、
きっとお偉方に巧い事取り入ったんだ……」

眞澄は画面に映っていない、カメラの側にいるマヤに向けて苦笑して頷いた。

「誰が、どんな動機で嫉妬しているか判らない……見えない敵が一番怖くて厄介だ……」
「見えない敵……」
「だから、嫉妬するのもおこがましいと相手が諦めるだろう時まで、或いは知られても悪意から護れるだけの金や力を手に入れるまで、
自分の幸運や宝物は隠しておけ……そうでなければまた模型のようにぶち壊されるかも知れない……
親父は模型セットを従兄妹たちの前でプレゼントするだけで、俺にそれを学ばせた」

そこで眞澄は視線を伏せて溜息を吐いた。

「……昔の俺……そしてオリゲルドは、見えない敵が攻撃して来る前に蹴散らす……彼女は血に飢えた殺人鬼じゃない、
ただ人より少し賢くて、少し臆病なだけ……半分、軽いノイローゼかな。先に蹴散らしておかないと、気付いた時には敵に囲まれてしまうかも……
そうなる前に敵を、敵になりそうな奴を倒す。殺人の為の殺人や権力欲じゃなく過剰防衛だな」
「……趣味や欲じゃなくて護ろうとしただけ……なら、辛かったですか?」

眞澄は苦笑して肩を竦めた。

「……俺には目的があったから……その為に権力も欲しかった……。だが俺やオリゲルドに言えるのは、復讐なんて考えるもんじゃない……。
人を呪わば穴二つ……それが俺に帰って来るなら、自業自得と諦めようもある……だがそれがもし俺の家族に及んだら……
俺が本当に賢かったら、もう少し自分の実力、人間の限界を悟れていたら……普通の幸せが欲しいただの人間なんだと……
その為になら復讐なんて投げ出せるものだと知っていたら……これは親父には教えて貰えなかったからな……」
「そんな事までお義父さんの所為にしたら可哀想ですよ。……最後の一つは? お義父さんに教えて貰った事」
「……人間は本当に矛盾している……俺は親父が《紅天女》に拘っていたから不幸になったのに……復讐してやると誓ったのに……。
俺は結局親父の息子だ……どう仕様もない不肖の息子……。
俺の過去の不幸も未来の不安も、そして現在の幸せも、全部一つ処に戻って来る……」
「眞澄さん……」

悲しげなマヤの呼び掛けに、眞澄はフッと笑った。

「だからなチビちゃん、俺はもう少し坊主たちを隠しておく。芝居以外能のないチビちゃんなんかと結婚して、
羨ましがられるどころか手間が掛かって気苦労が耐えない、不幸の見本でいる」
「……それって眞澄さんの趣味を正当化してません?」
「ハハ、実力不足で隠さなきゃならないなんて、情けない事実なのは解っている。どんなに嘆いたって実力を付けるまでは仕方ないんだ。
ならそれまで精々からかってささやかな憂さ晴らしをする、それくらい大目に見てくれてもいいだろう」
「時々あたしまでからかうじゃないですか。……あれ? ……さっきの話が本当だとすると……」
「……なんだ? 今日は特に嘘は吐いていないぞ」
「……じゃあ眞澄さん、自分が櫻小路君と大差ないって思ってるんですね?」
「何を馬鹿な。君は役者馬鹿だが奴は馬鹿役者だ、俺と奴の何処が近いと言うんだ!?」
「だって……嫉妬するのは相手と大差ない時だって、さっき眞澄さん自分でそう言いましたよ」

眞澄は少し赤くなって一瞬言葉に詰まった。

「……あんな馬鹿が運だけで乗り切れているのが気に入らないだけだ。実力なら雲泥の差なのに、そこそこ幸福な上に何かあると俺に説教しようとする。
まあ俺が社長だって事が、奴の一番の幸運だよな。並みの人間ならとっくに馘にしている」
「……櫻小路君が生真面目なの識ってる癖に、内緒にしてるからでしょう。そうじゃなきゃ説教なんてされないのに」
「奴の脳味噌は八歳以下だ! 俺が八つの当時に学んだ事を奴は未だに悟れない! 
奴なんかに打ち明けてみろ、世の中そんなに悪人ばかりじゃない、君の為にも正々堂々とするべきだとか、
真っ当なだけの理想論で説得しようとするに決まっている!『お友達の君の為に』なんて、勝手に暴露だってし兼ねない!
俺はそんな真似を、君を危険に晒す真似をさせる訳にはいかないんだ!」
「あたしを危険に晒す……?」

眞澄はハッとして正面から、マヤから視線を逸らすと荒く大きな溜息を吐いた。

「……俺たちが恋愛結婚だとなれば……もし《紅天女》が、君が欲しければ……安上がりで効果絶大な方法がある……簡単だ、君を襲う。
そしてヌード写真やビデオをバラ撒かれたくなきゃ離婚しろ、自分の事務所に来いと脅す……」
「そ……」
「恋愛感情が絡んでいるんだ、ついでに俺も脅せるかも……子供まで出来たなら猶確実だ、可愛い我が子の母親のスキャンダルだ、
どんな犠牲を払ってでも揉み消すだろう……そう考える下衆は必ずいる。……俺の考え過ぎじゃないのは解ってくれるよな? 
一晩一緒にツーリングしただけで暴走族だ不良少女だ、カメラマンを仕込んでおくだけで簡単に捏造された……」

眞澄が正面へ振り返ると、立ち上がってカメラの前までやって来た。
余りに近過ぎて、セーターの色さえ黒く翳っている。

「大丈夫だ、マヤ落ち着け。実力不足の青二才の分際で君と結婚しようと決めた時から、色々と対策を練って来た。この茶番劇もその一つだ。
俺の悪名は轟いているからな、ビジネスとして結婚した上に上演権は俺が貰った事になっている。その程度の虚仮脅しじゃ通用しないと思う筈だ」
「ほ、ほんと……?」
「勿論。『速水眞澄』がどんな金の亡者か、君が一番よく識っている筈だろう?
手間の掛かるチビちゃんにスキャンダルなんか起こったら離婚するだけだ。
そして《紅天女》は愛弓君に独占させるか別の女優に演らせるか……ああついでにバックのあるお嬢様と再婚すればまた大都の利益になる。
チビちゃんを狙ったりしたら大都に稼がせるだけだ」
「……そうですよね。大都の鬼社長だもの。こんなチビちゃんがどうなったって眉一つ動かさないですよね」
「当たり前だ。……俺が実力を付けるまで、この茶番に付き合って欲しい。どんなに情けない事を言っているかは解っている。
だが俺は危険に目を潰れないんだ。滅茶苦茶にされた模型や家庭なんか見たくない……」
「ウン……」

画面に映るセーターが揺れて、眞澄に縋り付いたらしいマヤの手が映った。

「……眞澄さん、プレゼント有難う」
「え?」
「眞澄さんの嘘に護って貰えるんだなぁって……眞澄さんが嘘吐く時、ヘンな事する時、いっつもあたしの為だったって思い出して……。
これって藤邑眞澄特別公演ですよね? それもあたしの為だけの。とっても贅沢……それに一日なんかじゃ終わらないのに……だから……」

マヤが涙声になって、カメラの前の眞澄が身体を揺すった。

「本当に世にも珍しいよな……情けないって怒らないでお礼を言ってくれる……。お前が嗤われる事実は変わらないのに。
さすがはアルディスのチビちゃんだ。その前向きさに救われてホッとする……」
「……眞澄さんはあたしがいないと駄目なオリゲルドですもん。ずっと傍にいて上げます」
「ああ……。ああほら、櫻小路の馬鹿の所為で時間オーバーだ。そろそろ行かないとおチビちゃんがお腹を空かせて可哀想だ」
「もう……一言余計なんだから。それにまだあたしに似てるって決まった訳じゃ」
「いいや、あの娘は絶対君ソックリになる。七五三にはお揃いのドレスを作ってやろう」
「眞澄さんッ! 三歳児にドレスなんて贅沢だし、あたしに似たら似合わないから駄目です!」
「小さい内は何を着せても可愛いから平気だ」
「ならあたしは? お揃いなんて駄目でしょ」
「チビちゃんは万年高校生だからいいんだ。お子様に見えた方が虫が寄り付かなくていいし」

眞澄たちの会話が遠ざかって行き、ドアが閉まる音がした。
今回は芝居ではなかったので、ビデオを撮っていたのを忘れたのかも知れない、そんな感じだった。



これで終わりかと思ったが、無音が少し長かっただけで、また画面が切り替わった。
今回も眞澄はシャツに藤紫色のカーディガンにスラックスだった。

「えー、結婚してから二回目のホワイトデーのプレゼントです。この前はお義父さんについて聞いたので、今度はお義母さんについて聞きたいです。
眞澄さん、お義母さんとの思い出って言ったら?」
「……殆どの事はもう話してあるのに……俺の記憶の中では……親父のご機嫌を損ねまいと小さくなっている……
家政婦上がりだって馬鹿にされるから社交も向かなくて……結局再婚後も家の掃除ばかりしていて……
俺が養子になっただけで、家政婦のまま死んで行ったような……ずっとそう思っていたが……」
「……何かあったんですか? 思い出した事でも?」
「……幾つか……君が毎朝顔晴って朝食を作ってくれるから、俺も酒や残業は程々にして食べるようになって……
結婚してから久しぶりに家庭の、家族の食卓って雰囲気を味わえて……それでふと思い出して……。
お袋の再婚後、俺たちは離れから母屋に移って、食卓こそ親父と伴にするようになったが、親父はあの面であの歳だ、低学年のガキとするような会話もなくて……
ただもう使用人じゃないと、家中(かちゅう)に認識させる為のセレモニーみたいな……黙々と食べるだけで」
「ふうん……現在(いま)とは全然違ったんだ……」
「俺は養子になると同時に私立へ転校させられて、放課後は大都運輸で社屋の掃除を命じられたって話したろう。家へ帰るともう眠くて。
勢い送られる車の中で宿題をやるようになってしまって……和食は噛まないと食べ辛いから時間が掛かるだろう。
だから学校のある平日はトーストと目玉焼きとか、簡単な洋食にしてくれるようにお袋に頼んだ。
宿題の為だと白状したから、お袋もそれなら仕方ないと……トーストを車内に持って行く事もあったな……」
「そんな頃から車で食べてたんですか」
「まあな。だが親父はあの歳だしで、家での夕食は必ず和食だった。その他に俺が和食を食べるのは日曜の朝……朝は洋食に慣れているから、
週に一日しかない日曜もそうしてくれればいいのにと思った。実際お袋にもそう言った事はあったんだが、それでもやっぱり日曜や祝日の朝は和食で……
余計な手間が掛かるから、学校がないとイヤなのかなと思ったりしていたんだが……」
「……理由があったんですか?」
「解らない……ただ……君が朝食だけでも普通の主婦みたいにこなしたいと言うのと同じだったのかも……休日の朝の、時間に、気持ちに余裕のある食卓……
そこで俺だけ洋食なのがイヤだったんじゃないか……面倒だからじゃなくてお袋なりの拘りがあったんじゃないか……同じ献立のテーブルを囲んでこそ家族だって……
子供の、しかも男の俺にそんな事を言っても仕方ないと思って……」
「……そっちが正解だったのかもって、そう思うんですね。手抜きじゃなくて拘りだった方がお義母さんらしいかもって、当て嵌まるかもって」

眞澄はただゆっくり小さく頷いた。

「……幾つかって言いましたよね。他はどんな事なんですか?」
「……俺は君にもテーブルマナーその他を学ばせた。社長夫人だからじゃなく、《紅天女》の女優・北嶋マヤには必要な事だと……」
「まだ実際には試してないし、身に付いてるかどうか判らないですけど」
「大丈夫だ、君は本番に強いし。ただ自信過少のチビちゃんだから不安なだけだ。……だが女優や俳優じゃなくたって、誰でも毎日多少の芝居はする。
上司や取引先に心にもない追従を言ったり」
「まあそうかもですね」
「そう思うと……俺にあんなにスパルタだった親父だ、お袋にもマナーにお茶やお華程度の事を身に付けさせても、
そうしてもっと社交しろと言ってもよさそうなものだと……ほんの数時間の小芝居だ、俺の、息子の為にももう少し社長夫人らしくしたらどうだと……」
「……そう言われたら、お義母さんなら努力してくれそうですね」
「ああ……それに女に、妻に手助けされるのが本意じゃないなんて拘りも、あの親父にあったとは思えない。
大都の利益になるなら、息子である大都が大きくなれるなら、お袋にそのくらいの事は我慢しろと強制しておかしくない、
否するのが親父だ、速水英介なんだ」
「……でもしなかった……お義母さんは毎日家の掃除をしてた……」
「ああ……。再婚した当初は何度か集まりにも出て、大島だ何だと着物や小物も揃えて貰った。だがそんなのは全部箪笥の肥やしで……
お袋はブラウスにスカートにエプロンで、毎日床や柱を磨いていて……親父は社長なのに、金持ちなのに、お袋の身形は質素で大して楽しみもなくて……
どうしてもっとお袋にそれなりの事をしてやらないんだと……。
親父は毎晩のように一人で《紅天女》のコレクションを眺めていた……そんな時間があればもう少し……俺は親父のお袋への無関心さが赦せなくて、
《紅天女》が、月影千種が恨めしくて……」

その苦々しい表情に、眞澄が千種を英介の半ば愛人のように思っていたのが察せられた。

「……だが、君は俺に毛皮や宝石をねだったりしないし、パーティーのさざめきやカクテルが好きなんて事もない。
家でドレスアップしてダンスするなんて趣味もない。レッスンの他は主婦らしくしたいと普段着で家事をして、子供が生まれたらその世話……
俺は無関心なんかじゃないつもりだが、結局君とお袋は大差なくて……」
「……あたしは不幸せなんかじゃないですよ。満点だなんては言えないけど、家事も育児もそれなりにやって、お義父さんとお茶して。
嫁として平均点くらいはやれてるかなって」
「親父の相手なんかしなくていい、老い先短い年寄りに構う暇があったら俺たちに割くべきだ。
……君とお袋は立場が違うから、君にマナーや社交術を学ばせるのが俺の我が儘だとは、間違っているとは思わない。
だが……親父がお袋に無関心だったのは間違いないが、社交しろとか上流らしい習い事でもしろなんて強制しない事が、家政婦同然の暮らしを黙認する事が、
親父なりのせめてもの罪滅ぼしだったのかも……。お袋が欲しがらない物を親父はやらなかっただけなのかも……」
「……お義母さんは眞澄さんが思っていたほど不幸じゃなかったかも……そう思えるようになったんですね……」
「親父がサイテーの夫だった、それだけは間違いない。だが……子供の俺には、息子の俺には感じ取れなかった幸せもあったのかも……。
俺には父親の記憶がないから……お金持ちの旦那様が結婚してくれるなら、お袋をシンデレラにしてくれる筈だって、
家事や貧乏から解放して幸せにしてくれる筈だって……何がお袋の幸せなのかも解っていないのに、勝手に過剰な期待や理想を抱いていたのかも……」
「……眞澄さん、お義母さんがあんまりいい母親だったから、同じくらいいい父親じゃないと落第だって、そんなの親じゃないって思ったのかも知れないですね。
……だったらあたしなんかでもいいのかも……」
「え?」
「あたしが理想の母親だったら、子供たちも勘違いしちゃうかもでしょ。なら赤点の母親でも何とかなるかも、悪い事だけじゃないかもって、ちょっと安心して」
「君が赤点だったら、世間の親の半分は失格どころじゃなくて犯罪者だ。まあ、勘違いでも安心したならいいか」

苦笑した眞澄が、ウン? と首を傾げた。

「どうした、何かあるなら言え」
「……眞澄さんが光源氏だって識ってる人、何人いるのかなって、ちょっと今思って……」
「光源氏……?」

途惑いを浮かべていた眞澄が急に赤くなった。

「あたしでしょ、お義父さんもでしょ。他には誰ですか?」
「なんでそんな事を知りたいんだ、別に知らなくていいだろう」
「だって、あたしたちの事、本当の事を識ってる人たちは何人もいるでしょう。眞澄さんの秘密はどれくらいの人が識っててくれてるのかなぁって……」
「…………」
「じゃ、誰かは言わなくていいから、人数だけ。ねぇいいでしょう、それくらい」

眞澄は仕方なさそうに、子供みたいに指折り数えた。

「君……親父……爺も当然だろ。あとは千代さんと……もしかしたら六人、確実なのは五人」
「あと二人……あ、判った、水木さんと聖さんだ!」
「水木君が識っている訳がないだろう! 全く以て完全なプライベートな事なんだから!」
「でも……」
「あれは、偶々偶然嗅ぎ付けられてしまっただけだ。これを知られている要素は……」

何故か眞澄が唇を噛んで黙り込んだ。

「……判った。もう一人は聖さんなんだ……だからもしかしたら……」
「違う。聖はもしかしたら……残る一人は俺の幼馴染みだ。ガキの頃からの知り合いだからな、識っていて当然だろう。
聖もソイツとは付き合いがあったし……もしかしたら聞いているかも知れない」
「ふうん……あ、そうか。あたしが聖さんに確かめたりして、もしかして水木さんにもバレたら困るって事なんだ」
「……聖はあの性格だから、水木君に話すとは思えないが。水木君にこんな事がバレたら俺は出社拒否になる。
何より最悪なのが、水木君が識っている、という事を俺が識っている、とバレる事だ」
「え? え?」
「水木君や愛弓君はそういうタイプなんだよ。人の秘密を知ったとしても、当人がそれを知らなきゃ一人胸の内で楽しむだけだ。
だが自分が識っているのが当人にも識れたとなると、秘密を共有している事になる。そうなると……」
「……そうなると?」
「だから……俺が識らないと思っている内は、例えば本当に親馬鹿だって内心笑う。
……これが秘密の共有になってしまうと……社長、奥様そっくりだからってお嬢様に感けるのも程々になさいませ、とか、
チクリチクリ……実際俺は毎日そういう余計な一言でイジメられているんだ」

笑っているのか、揺れるマヤの黒髪が画面の片隅に映った。
参列者の一部には、同じく参列している聖未亡人・旧姓水木冴子の顔を窺う者もあったが、水木は他者と同じく苦笑しているだけだった。

「そ、そうなんだ……だから、眞澄さん、水木さんの事苦手なんだ……」
「マヤ、こんな事がバレたら離婚だからな! 絶対に水木君に余計な事を言うなよ!」
「は、はいはい。気を付けます」
「ったく……それに、俺は別に光源氏なんかじゃない。俺はロリコンなんかじゃない」
「えー? だって眞澄さんが買ってくれるドレス、みんなフリルとレースでお子様じゃないですか」
「君には似合うんだから別にいいじゃないか。スタイルが判るドレスが着たければ家で着ればいい」
「もう……じゃ、嫉妬深いのとマザコンなのは認めるんだ」
「男でマザコンでない奴なんか絶滅危惧種だ、少数派だ。マザコンじゃない男が異常なんだ」

観ている参列者の驚きで場内がドヨッとなった。

「だったら、普通なら別に水木さんに識られても……」
「ウルサイ! 俺はちょっと母親思いなだけだ、正常なマザコンだ。だが態々マザコンだなんて言えば、
俺が君に変わった事をさせているかもだなんて想像される!」
「変わった事……?」
「世の中には赤ちゃんプレイだとか言って、哺乳瓶で飲ませて貰ったりして喜ぶ変態がいるんだよ。俺はそんな趣味はない、至ってノーマルだ。
だから誤解されるような事は言うな! いいな!」
「はあぁい……された事あるんですか? 赤ちゃんプレイ」
「ない! 一回も!」

眞澄はそう言い捨てて画面から立ち去った。
慰霊祭、社葬に相応しくないくらい、会場がドッと沸いた。



画面が藤紫になって、『結婚三年目』とあった。
場所は相変わらずで、今回も眞澄は私服だ。

「結婚してから三回目のあたしの誕生日です。復帰作が愛弓さんとの《二人の皇女》、しかも今度はあたしがオリゲルドだって言われて、
ちょっと躓いてるので、また眞澄さんに助けて貰えたら助かります。まだ時間はあるけど、愛弓さんのオリゲルドは完璧だって評判だったから……」
「……で? 何が問題だ?」
「前にオリゲルドは過剰防衛? だって言われて、それはなんか納得できたけど……復讐しようって思うのが理解できなくて……
あたしなら、あたしが牢に閉じ込められたなら、ただボーッとそのまま閉じ込められてそうで……アルディスだったら、きっといつか神様がお救い下さるって思って、
聖書とか詩集とか読んだりしてそうだなって……」
「フム。まあそうかもな。女優じゃないチビちゃんならそうかもな」
「……お父さんの王様とかを恨むのは解るけど……あんな風に陥れるのが……結局オリゲルドはそれを果たしても幸せになれなかったし……」
「……まあそうだろうな。復讐は自分への罰だから」
「え?」

眞澄は胡坐の膝に肘を突いて手を組んだ。

「……前に訊かれた、俺が親父にされた、二番目にショックだった事……」
「あれは言えないって……」
「……俺の中ではもう消化している。だが君はここへ来てまだ一年しか経っていなかったし……だから黙っていた。
それに……俺だけでなく親父も変わった。やはり君の言う通り、一緒に住んでいれば親なんだ。
だが俺たちは鈍いから、親なんだ息子なんだと自覚するまでに時間が必要だったんだな」
「ホント、眞澄さんとお義父さん、実の父子でもこんなに似ないんじゃって思うくらいソックリ」
「俺は、親父を倒すには親父を見倣うのが近道だと……仕事のやり方考え方、この先何を狙っているか先読みして、
俺が成功させれば親父は満足する。実績を残して親父には油断させるいい手段だと思ったから……
まさか同じような後悔まで抱え込むとは思わなかったが……」
「それで?」

マヤの一言は少し焦って割り込んだ感があった。

「今なら聞かせて貰えるんですか? 二番目にショックだった事……」
「……俺は昔誘拐された……その時、親父は誘拐犯からの身代金の要求を蹴った」
「え……」
「まだ小学四年生だった。養子になって二年余り、のこのこ誘拐される間抜けなら後継者には向かないかも、それなら切り捨ててしまった方が……
親父は手許にあった政治家への裏金の方が価値があると判断したんだ……」
「そんな……」
「それが親父の哲学なんだ。俺と裏金で得られるだろう利権、大都にとってどちらが価値があるか?
 所詮まだ子供だ、この先理想の後継ぎになる保証なんかない。むしろ誘拐されるなんて大失態をやらかした、眼鏡違いだったという証明かも知れない。
なら確実な利益を取る」

そう語る眞澄は無表情だった。

「脅迫電話を相手にしない親父に業を煮やして、とうとう俺が電話に出された。親父は俺の命乞いを無視して電話を切った……
見切られた、このままじゃきっと口封じと腹いせに殺される……俺は自力で脱出するしか助かる道はないと悟った。
親父は取引に応じるそうだと嘘を吐いて、時間稼ぎをして懸命に考えた。夜中に監視役の隙を突いて、相手のナイフを奪って腹を刺した。
返り血も浴びたが、怖いとか悪いなんて少しも思わなかった。殺らなきゃ殺られる、それだけだった」
「それで……助かったんですよね?」
「共犯の兄貴分に追い掛けられて、逃げた先が埠頭で行き止まり。諦めて連れ戻されて数時間後に殺されるかそれとも……

俺はチャンスに懸けて夜の海へ飛び込んだ。きっと死ぬ……そう思うくらい苦しかったが、気絶した俺を運良く巡視艇が救助してくれた」
「よかった……」

マヤのその一言にはホッとしたのが表れていた。
だが逆に眞澄の表情が沈んだ。

「……俺はお袋の為にも親父に気に入られよう、認められようと、ガキなりに顔晴っているつもりだった……だがそれは親父には全く認めて貰えていなかった……。
もしかしたらその時も何処かで親は親だと思っていたのかな……見捨てられるような俺には、誰かに何かを期待するなんて無駄なんだと……誰かに期待したら、
信じたら、きっとまた裏切られて失望する……。もう裏切られたくなかったら信じなきゃいい。そうすれば俺は傷付かない……」
「眞澄さん……」

それまでは画面に入って来なかったマヤが、眞澄の傍に座って眞澄の膝上の右手を両手で包んだ。
眞澄は今気付いたようにマヤを見て、フッと微笑んだ。
まるで現在は大丈夫だ、と返事をしたかのようだった。
だがそれは視線を床へ投げるのと同時に消えた。

「……辛うじて生還できたなら、まあ運も悪くないかも知れない、取り敢えずこのまま様子を見てやる、退院して来た俺に親父はそう言った。
誘拐されたなんて言えばお袋が心配するだけだ、もう迂闊な真似はしないと反省するなら黙っていてやる……。
俺は自分のミスだと叱る親父の説教を信じて、お袋には何も言わなかった。お袋は俺が危ない遊びで怪我したと思って、
親父に色々面倒を掛けてと詫びていた……。騙された俺が馬鹿だった……」
「え?」
「……四年後に家が火事になって、お袋はあの打掛の為に大怪我をして寝たきりになった。建て替えられたこの家で、今親父がいるあそこをお袋に与えた。
設計中に大分悪いと判っていたから、風呂やトイレもお袋の為に設えた。でももう今よりよくはならないと……段々麻痺が酷くなって、
薬すら満足に呑めなくなって……。俺は病気と不安に苛まれるお袋に何もしてやれなかった……。
お袋の背中を摩(さす)りながら、もしあの時、誘拐された、親父に見捨てられたとお袋に打ち明けていたら……何度もそう後悔した。
俺が見捨てられて死ぬところだったと知れば、お袋なら離婚しただろう。親父だってそれは解っていた筈だ。だから俺に口留めしたんだ……」
「あ……」
「俺がお袋のお荷物にはなるまいと思っているのを見透かされていたから、どう言えば俺に口留めできるか解っていた。
俺の入院中も世話は爺に任せて、お袋には来させなかった。そして見捨てた息子に偉そうに説教して……俺がそれにまんまと騙されたばかりに……。
真新しい部屋も家具もお袋には見えない、何の意味も無かった……こんな事になるくらいなら貧乏に戻ったってよかったのに……
余計な心配なんかさせたくない、そんな近視眼的なプライドで全体を見損なっていた……お袋は火事から一年ほど経って死んだ……俺が殺したも同然だ……」
「そんな……誘拐されたのは四年生の時でしょう? 十歳じゃお義父さんに騙されたのも仕方ないです、眞澄さんの責任なんかじゃ、」
「そうだ! 俺の所為なんかじゃない! お袋を殺したのは親父だ! 親父があの時お袋を怒鳴り付けたりしなきゃ、
お袋は焼け落ちる家に飛び込む事もなかった! 親父が《紅天女》に獲り付かれたりしていなきゃこんな事にはならなかった!
あの絵……火の中であの亜子冶は笑っていた……打掛を抱えて壁板の下敷きになったお袋を見て笑っていた……
お袋は親父とあの魔女に殺されたんだ! 俺には敵がいる! お袋を殺した親父と《紅天女》に復讐してやる! 俺にはやるべき事がある!」

画面のマヤも観ている参列者も、眞澄の青白い怒りの炎にに呑まれていた。
眞澄は何度か肩を上下させて深呼吸した。

「現在の俺には解っている……あれは結局、お袋の死に無力だった俺自身への罰だったと……
こんな事ならお袋と一緒にあの火事で死んでいた方がよかったかも……ただ助けなきゃと思った結果、
お袋を苦しめて……お袋がいつ死ぬかもという恐怖に二人して怯えて……お袋には俺しかいなかったのに、俺はただ見ているしかできなかった……。
親父の言う通り非力は罪だ、愛する者をむざむざと殺されるのは加害者と大差ない……お袋を見殺しにした俺は償わなきゃいけない……。
自分の復讐の為に他人を巻き込む……そうして自分に復讐したがる敵を作る……。心が全く痛まなかった訳じゃない。
だがお袋を殺された時の痛みに比べれば何でもない、これくらい耐えられる、耐えなきゃいけない……」
「……罰、だから……」
「ああ……。俺は弱かった、復讐に縋らなきゃ立ち直れないくらい弱かった。
俺が親父に従順にさえしていればお袋は安心する……学費の心配もないし、俺が将来社長にして貰えるだろうとそれだけを楽しみに……
なのにお袋がいなくなったら、俺は誰の為に何をすればいい?
お袋を殺した親父の為に修行するなんて真っ平だ、ただとにかく家を出よう……そう言おうと思った俺の目の前に、親父の後ろにあの焼け焦げた打掛が……。
親父がお袋の死に責任を感じていたなら、せめてもの供養にお袋の棺に納めた筈だ……親父はきっと何とも思っちゃいないんだ。
そうでなかったら自分の罪の証の打掛なんか、禍々しくて見たくもない筈だ。なのに親父は飾っていた……それが赦せなかった……」

俯いて左手で顔を覆った眞澄が泣いているのか、マヤが慰めるように眞澄の右肩を撫でた。

「……親父の下で親父の全てを学んで、親父より偉くなって、そうして親父から大都と《紅天女》を奪ってやる! 
株主総会で大勢の前で親父は馘だと言ってやる、もう用無しだと切って捨ててやる!
親父はその時になって自分がセッセと育てていたのは後継者じゃなかった、獅子身中の虫だったと知るんだ……
自分の間抜けさに腸を煮え繰り返らせながら悶え死ぬ……それがあの男にはお似合いなんだ、それより楽になんか死なせない……」

その内容と言葉遣いに違和感があった。
内容は冷徹な経営者らしさがあるが、何処かに子供染みた印象があった。

「……現在でもそうしたいって思ってるんですか?」
「否……だが完全には赦していない。……俺が親父に見込まれなきゃ、親父が《紅天女》に拘っていなかったら、親父に復讐したいと思わなかったら……
何一つ欠けても現在の俺の幸福はなかったと思う……その意味では感謝しなきゃいけないのかも知れない……。
俺の中では憎悪と感謝が一つに絡み合って回っていて……そうして出る答えは、俺は親父の息子だって事だけなんだ……」
「眞澄さん……」

眞澄は目元を拭って軽く鼻をすすると肩で溜息を吐いた。
まだ鼻が少し赤っぽかった。

「……俺だったら……俺がオリゲルドだったら、きっと復讐の計画を練るのが唯一の楽しみだったと思う」
「え?」
「自分の母親が殺されたんだ、父親の気分次第でいつ自分も殺されるのか……朝が来たら処刑ですと言われるかも知れない。
暗い牢屋で毎日そんな恐怖に脅かされていたら、いい加減おかしくなる」
「オリゲルドが狂ってるって事……?」
「狂人だからやったって意味じゃない。その恐怖から現実逃避する為に一人空想する……もしここから出られるとしたらどんな時だろう? 
その時どう振る舞えば囚人から解放されるか? どうすれば母親の仇を討てるだろう? 
色々なケースを想定しては計画を練って……これよりもこっちの方が……よりいい案を思い付いては喜ぶ……
それだけで自分が助かる確率が上がった気がする……」

娯楽と呼ぶには余りに寒々しい……牢獄でそうして微笑する少女を想像して、参列者たちは青い顔で息を飲んだ。

「……きっとアルディスの誕生祝なんかで町や牢屋にもお零れのご馳走が来て……姉の自分がこんな生活なのに……
恵まれている事自体はアルディスの罪じゃないが、オリゲルドにとっては犯罪だ。
姉、皇位の第一継承者として自分が得るべきものを妹と後妻が掠め取っている……母親の為にも皇位は自分が取り返す……」

眞澄の人生との相似を思わされた。

「……多分、オリゲルドと俺の違いの一つはプライドの高さ……」
「プライド……」
「罪人なんかじゃない、罪もなく殺されるのだと、処刑人が怯むくらい堂々と処刑台に臨む、誇り高い母親の後ろ姿……それがオリゲルドに残る母親の記憶だ。
現在の境遇はどうであれ、皇位継承者、皇女であるという自負はある。簒奪されようとしている皇位を取り返す正義の戦いだと言える。
俺には誇れる血筋なんかない。親父のした事は絶対に間違っているという確信だけ……俺がオリゲルドだったら、
牢からは生きて出られなかったかも知れない……」
「それって……」
「……牢屋でのアルディスとの対決……あの場で相手を嘲笑するなんて危険だ。きっと一瞬魔が差したんだろうな……
アルディスに殺されればこの無間地獄から解放される……」
「あ……」
「その他にアルディスを穢したいという思いもあったかも……人間なんて一皮剥けば同じなんだと……牢屋ですら笑っていられたアルディスが、
自分が助かりたいばかりにその手を姉の血に塗れさせる……嫉妬すら覚えるアルディスの無垢さを自分で穢してやりたい、奪ってやりたい……
そして自分は解放される……」
「復讐から……」
「ああ……復讐を果たして皇位を手に入れたら……オリゲルドならその後には素敵な男と結婚してなんて夢は描けない……
男は浮気する、夫など信用できない、継承者になる子供を産めば用済みと殺されるかも知れない……牢屋で空想してもその先に何も見えない、
描けないのは解っていた……そして現実になってもやはり何もないと識る……」
「……それでも、そこまで解ってても復讐を止めようとは思わないんですか?」
「止めてどうなる? 唯一の楽しみの空想すら出来なくなるだけだ。いつか出して貰える時の為に姫様らしい嗜みをなんて、そんな事に価値なんか見出せない。
悲しみと恐怖と憎しみと……記憶にあるのはそれだけだ。悲しみは薄れても憎しみは消えない……ワインの澱のように一つ一つ積み重なって行くだけだ……
何か切っ掛けがあれば舞い上がる……」

さっきのあの眞澄の怒りの発露のように……。

「……さっき、違いの一つって……」
「あと一つは、アルディスと姉妹だった事……アルディスを牢から解放して姉妹として暮らす……そうすればオリゲルドは愛を手に入れられたかも知れない……
毎晩過去に葬った連中の亡霊に魘されるのを、アルディスが癒してくれたかも……」
「……聖母か殺されたお母さんみたいに……」
「ああ……だがアルディスを傍に置けば、オリゲルドを屠ってアルディスを擁立したい連中の策動が活発に……ユリジェスが現れた時、
その現実ともう一つの道に気付く……アルディスには庇護してくれる者がいる……なら行方知れずで生死不明でも切り札には使える……」
「……オリゲルドはアルディスとは暮らせなかった……」
「ああ、姉妹だから。自分の唯一の皇位継承者だから。……自分が仇だと告白しても猶、自分の為に死んでもいいと言えるアルディス……
その存在をオリゲルドは識ってしまった……あとに残るのは虚無……」
「きょむ……」
「何もない……アルディスが愛を感じさせてくれた、教えてくれた、唯一にして最高のマドンナ……アルディス以外の誰もオリゲルドの孤独を埋めてはくれない……
他の者では意味がない。アルディスと愛がイコールだから」
「アルディスと愛が……イコール……」
「君のアルディスはそれを感じさせてくれた……オリゲルドが復讐の完遂を諦めるだけの説得力があった……。
誰より愛に飢えているのに、絶対にオリゲルドには手に入れられない……。
アルディスの生死が判った時には自分の身が危ない……侵略してくる他国との戦争かアルディス擁立の内乱……
無事逃げ延びたかどうかを知る事すらできない……。
あの聖母が今もこの世の何処かにいるのか、それとも既に幻なのか……」

その光景を思い浮かべているのか、正座しているマヤの横顔は正面の壁でも見つめている様子だった。
静寂の後に、マヤは居住まいを正して眞澄に向けて深くお辞儀した。

「……あたし、絶対にオリゲルドになって見せますから。愛弓さんのに負けてなかったって言われるオリゲルドになりますから。
……ごめんなさい……でもありがとう」
「……別に。あの演目に決めたのは俺だから。君も愛弓君も母親だからな、《紅天女》だと地方も回らないと……それを避ける為にとあれに決めたのは俺だから。
それに、向こうには未来のアルディスという強力な助っ人がいる。愛弓君が聖母になるのは簡単だ」
「そうだけど……眞澄さんが傷付いてるの識ってて、あたし……」
「……それも別に。……親父に踏み付けられて来た経験が君の役に立つなら……それならあの時間も無駄じゃなかったと思える気がする……。
こんなのを一人で抱え込んでいても……結局俺は馬鹿な真似しかしなかった……。
こんな馬鹿でも君の役に立てるなら傍にいていいのかも……櫻小路なんかには絶対教えられない事を教えてやれるなら、
色々迷惑を掛ける馬鹿亭主にも存在意義があるのかも知れない……」
「眞澄さんは全然馬鹿亭主なんかじゃないですよ。いつも負んぶに抱っこのはあたしですもん」

眞澄はマヤの膝上の手に手を重ねた。

「マヤ、一つだけ約束しろ。子供たちをアルディスの代わりなんかにしちゃいけない。俺の下らない話でいいなら幾らでも聞かせてやる。
だからアルディスの代わりに睨んだりしちゃ駄目だ。
君は芝居と私生活を切り離す事を覚えなきゃいけない。それが出来なかったら引退させる」
「そんな……」
「もしそんな真似をしたら、舞台が成功してもきっと君はずっと引き摺る事になる。女優でいるのが辛くなる。なら今度で引退させる。
……時間は十分にあるんだ、焦らなくていい。俺ももっと育児を手伝って君の時間を作るから、身体作りと並行でゆっくり取り組めばいい」
「……でも……」
「今は大都に聖もいる。ペースを落としたって売上は維持できる。その為に妊婦の君を放ったらかして仕事していたんだから。その分甘えてくれていい」
「全然、放ったらかしてなんか……出産だってずっと付いてて、腕に掴まらせて貰って……あたしずっと心強かったもの」
「俺と君の子だぞ、出産だけじゃなく生まれるまで毎日付いていたかった。君は放っておくと何するか解らない。
下手したら陣痛が来るまで妊娠に気付かなかったかもな」
「そ……あれは……」
「お礼は舞台でして貰うんだから気にしなくていい。……もしも気の抜けた舞台だったら、俺は途中で席を立つ……また受けて立つか?
 一年間、後悔しないレッスンをしてオリゲルドを掴むって?」
「……受けて立ちます。席なんか、感動で腰が抜けて立てなくして見せます!」
「それはアドバイザーとして楽しみだ。実に手伝い甲斐がある。さ、もう時間だ」
「はい」

藤紫色のセーターとカーディガンの二人が揃ってカメラの前から消えた。
そして参列者の多くが、マヤが愛弓のそれを凌駕すると言われたオリゲルドを演ったのを知っていた。
公演開始当初は、場面場面でオリゲルド像がバラバラでなっていない、愛弓のを意識した余りの失敗だなどと言われたが、
マヤのオリゲルドは愛弓のそれよりリアルなだけだ、ちゃんとコンプレックスを抱えた人間として描けているとの講評も出て、
仕舞いにはジェーンと並んでオリゲルドはマヤにしか演れない、とまで言われた。
愛弓のアルディスは魅せる技術に勝る愛弓らしさも所々にあったが、マヤが愛弓のオリゲルドを凌駕した度合いに比べれば劣るだろうと評価された。
愛弓は、適さないと千種に言われたアルディスに挑むのが自分にとってのチャレンジだったとだけ語った。



切り替わった藤紫色の画面には、『結婚四年目 前年十一月不倫報道』とあった。
今度映った画面では、それまでずっと胡坐ばかりだった眞澄が正座していた。

「結婚してから四回目のあたしの誕生日です。今日は眞澄さんに反省して、約束して貰うビデオです。……眞澄さん」
「あ――……済まなかった、もう二度とあんな馬鹿な真似はしない、この通りだ」

眞澄はそう言ってカメラに向かって土下座した。

「それだけじゃ赦しません。ちゃんと自分の言葉で言って下さい」
「あ――……離婚したいなんて言ったのは気の迷いだった。別居して一ヶ月で胃炎で死に掛ける俺には無理だと悟った。
自分の身の程を思い知った、もう死んでくれと言われるまで、離婚はしない」
「約束、ですよ?」
「ああ約束する。……だがマヤ、俺にはまだ力が足りない。復帰で坊主たちの事を公表するならこれくらいの煙幕は必要だと……。
子は鎹なんても言うから、子供まで出来たなら少しは情が湧いたんじゃないか、そんな疑いを持たれたらもうアウトだと……。
だから……今後も適当にこういう事でもないと駄目だと……君に子供と仕事を押し付けて浮気する……それくらいじゃないと煙幕にならない……
そう言われると確かにその通りで……」
「……それは……」
「俺たちが恋愛結婚だって言うなら、君に半ダースくらいボディーガードを付けないと、俺は心配で仕事なんか手に付かない。
昔だってあの水木君を付けていて猶隙を突かれたんだし……。だがそれじゃ君が息が詰まるだろうし……。
……今回は全くの濡れ衣だが、今後は自作自演になる……その度に君は……君がそれを覚悟してくれるなら……」
「……そう頼むのが辛くて離婚するって言ったんでしょ。眞澄さん、本当にもう離婚なんか考えないって約束できるんですか?」
「もう学んだ。俺は文字通りチビちゃんがいないと生きて行けない。死ぬ気がなきゃ覚悟するしかない。チビちゃんを見倣って肝を据える。据えてみせる」

最初は『浮気』の謝罪かと思ったのに……プロポーズ同然の眞澄の言葉に皆ポカンとしていた。

「……本当に写真だけ? 浮気しない?」
「勿論。それに俺が浮気したら聖が赦してくれない。家でも会社でも居場所がなくなる」
「……本気だったから、なんて言っても誤魔化されませんよ?」
「ああ。俺の浮気相手は舞台の君だけで十分だから」
「そ……」
「ベッドでもなんて強要した事はないだろう。舞台くらい大目に見てくれていいんじゃないか?」

カメラの傍でマヤが息を吸い込む音がした。

「……ホントですね? もし約束破って他の人と浮気したりしたら……あたしも浮気しますよ? 眞澄さんが一ッ番嫉妬する相手と?」
「櫻小路と?」
「まさか。そんな事したら舞さんが可哀想じゃないですか」
「……その他……聖じゃ今度は水木君に悪そうだし……まさか今更里見…………まさか親父と!?」
「へ――。ならお義父さんとにしようかなー」
「親父でもないなら一体……」
「眞澄さんの一番のライバル。永遠の」
「俺の? ……まさか……」
「ええ。眞澄さんが浮気したら、あたし『紫の薔薇の人』と浮気します」

そこで最前列にいる数人がプッと噴き出した。
眞澄は目を瞠って片膝まで立ち上がった。

「まさか。それこそ一体どうやって浮気するんだ?」
「あら。身体の浮気より心の浮気の方が罪が重いとか言うじゃないですか。眞澄さんは舞台のあたしに心の浮気はさせろって言うんだもの、
あたしだって浮気しますよ」
「だから……お前は一体どうやって『浮気』するつもりだ?」
「そりゃあもう色々……あ、蓼科の別荘でギューッと抱き締められちゃったり。
毎日毎日、眞澄さんが読んだら顔から火が出そうな甘ーいメッセージ付きで薔薇を頂いたり。想像するだけで幸せ。
あ、届いたら読んで聞かせて上げますね、そのメッセージ」

さっきから、最前列の関係者の忍び笑いが止まらない。
周囲はどうした事だと画面と互いとに顔を往復させた。

「いいですね、眞澄さんが浮気したら、あたしは絶対、『紫の薔薇の人』と浮気します。それも無期限で」
「…………」
「約束して下さい」
「ったく……約束なんか必要ない。俺は浮気なんかしない」
「いいから、約束! こらマーくんッ!」

眞澄は一際イヤそうな顔をすると、立ち膝から正座に戻って大きく溜息を吐いてからまた土下座した。

「……約束します。もう離婚は考えません、君以外と浮気はしません。もし万が一した時は、『紫の薔薇のジジィ』との浮気を認めます。
無期限で毎日薔薇が届けられるのを我慢します。甘いメッセージを読み聞かされるのを我慢します。ヤツと蓼科に行くのを認めます。
……ついでにお約束します。貴女が浮気されたら毎日薔薇をお贈りします。顔から火が出るメッセージを考えます。
夏には蓼科へお連れして貴女をギュッと抱き締めます……まだ足りないか?」
「取り敢えずそんなトコで勘弁してあげます。自分から約束してくれたから、反省したって認めてあげます」

漸く起き上がった眞澄は赤く、への字口になっていた。

「……本気か?」
「勿論。あ、毎日薔薇が届きそうだって心配なんだ?」
「それは……いいな、約束したんだからもういいだろう、水木君や聖や愛弓君、それに黒沼氏なんかに絶対この事は言うなよ!」
「あ……あたしに浮気を告げ口されたら困るから?」
「ウルサイッ! こんなのが知れたらもう……とにかく言うな!」
「えーッ……って、黒沼先生も識ってるんですか? 眞澄さんが『紫の薔薇の人』だって」

画面の眞澄と参列者が同じようにアッとなったが、眞澄はすぐ渋い顔になった。

「……嗅ぎ付けられている気配がするだけだ。水木君よりマシそうだが、確認するなんて薮蛇だからしない。
……それでもちゃんと薔薇を贈っているんだから、君も満足して欲しい」
「え?」
「ったく……君の親代わりだからと、黒沼氏には打ち明けてあるんだぞ? それなのに……。
父親の目の前で娘に薔薇を……その上演出家の前で『紫の薔薇の人』の劇中劇までやっているんだ、君が薔薇に喜ぶのなんか気にもしない……。
一眞かレットでも演ってみないかなんて当て擦られて……俺は黒沼氏のの楽屋見舞いが毎回気が気じゃなくて……」
「……プッ……」

真っ赤になって困っている眞澄は、働き盛りの辣腕経営者ではなく、まるで高校生のようだった。

「おい、いいな、絶対黒沼氏に余計な事を言うなよ! 今はまだ当て擦られても素知らぬふりで躱せるが、そうじゃなくなったら逃げようがなくなる。
そうなったらもう黒沼氏の舞台は観ないぞ、例え《紅天女》でも!」
「そんな、」
「それがイヤなら余計な事を言わなきゃいいだけだ。いいな」
「……はあぁい」
「ああ、薔薇を抱えている時に目が合っても逸らしたりするなよ。水木君とか愛弓君とか、ああいう勘が鋭いタイプは、それだけで何かあると嗅ぎ付けるんだ。
また同じような機会にジーッと視線を注いでいて、こっちが慌てようものなら金脈だと確信する」
「……それで……水木さんにバレたんだ……」

眞澄はチッと顔に出した。

「全く聖の趣味は解らん。あの水木君と結婚するなんて、俺は鷹通をくれると言われても断わる」
「……類友、だったりして……」
「え?」
「聖さんも同じような事思ってたりしそうかなーとか、ちょっと……」
「……自分で言って虚しくないか?」
「でもそうでも仕方ないし……」
「聖はそんな事は言わない。君の周りには前向きな光がある、俺が魅かれるのは当然だと言っていた。アイツも幸せとは縁遠かったから……」

カメラ側のマヤの反応で気付いたのか、眞澄は少し赤くなって鼻の上を擦った。

「……なら……」
「え?」
「聖さんもそうなんじゃないですか? あたし落ち込んでる水木さんなんて見た事ないですよ。昔も今も、済んだ事は仕方ない、頭を切り替えろ、
みんなの迷惑になる……失敗に落ち込む暇なかったですもん」
「……確かに水木君も肝は据わっているな……。結局俺も聖も尻に敷かれる軟弱者って事か……」
「あたし、敷いてないですッ!」
「ああ。俺が勝手に振り回されているだけだから。じゃ、約束は守るから、君も守れよ」
「え……ああ、はい」

眞澄は大きく溜息を吐くと立ち上がって消えた。



切り替わった藤紫の画面には『結婚十一年目 速水英介の遺言に従い本名を速水から藤邑へ戻す 於 自宅速水英介居室』とあった。
映ったのはこれまでと違い、高級そうな調度が背後にあるソファーで、そこに眞澄がいた。

「結婚してから十一回目のホワイトデーです。去年亡くなったお義父さんが最期に眞澄さんに素敵なプレゼントをしてくれたので、
今日はお義父さんのお部屋で、お義父さんの事を聞きたいです」
「……もう今更親父の話なんて……」
「……今なら聞かせて貰えますか? お義父さんと月影先生の事……」

そう言われて眞澄は両手を腹の前で組んだまま、ソファーで背筋を伸ばした。

「……親父は一眞じゃなくてオリゲルドだ……。いい思い出なんかない故郷を十四で家出同然に飛び出して……戦争中の軍隊では居心地は悪くなかったらしい。
親父は物事の飲み込みが早いから、便利だとそれなりに使って貰えたようだ。でも結局敗戦で……終戦を迎えた南方で熱病をやって、
一財産作った頃に自分に子種がないと知って……以来会社を、息子の大都を育てるのに心血を注いだ……」
「会社が子供だってなるのは当然な気がしますけど……」
「まあな……支社まで作れるようになると、親父は真っ先に故郷の岡山に構えた。速水家は没落していて財産こそないが、
旧家としての人脈だけはある……それが利用できた利点もあったが、一番の目的は復讐だ」
「え?」
「自分を妾の子と蔑んだ、腹違いの兄妹を部下として扱き使う……連中は親父と違って他力本願だったから、
腹違いでも兄妹なんだからと、尽くせばいずれそれなりの見返りは……そういう下心から、いいとは言えない待遇でも大都にしがみ付く……
それも親父の読み通りだった」
「……自分の兄妹を薄給で扱き使う……それが復讐……」
「そうだ。しかし連中は親父が思う以上に血縁者という幻想に縋って、親父に寄って集って昇給や昇格を要求した。
自分の兄妹で十分梃子摺らされたから、子供も望めないならと結婚もしなかった。姻戚……嫁の兄弟にまで集られるのは御免だった。
姻戚から得られるかも知れない利益を自力で稼いだ方がまだマシだ、そう思えるくらい速水の親類の要求に閉口した」
「へえ……」

マヤには親類も殆どいないから、実感がないらしい。

「親父がやったもう一つの復讐は、没落した速水家が手放した屋敷を買い戻す事だった。妾だった母親を女主人にしてやり、離れに本妻と長男を住まわせた。
放蕩者だった父親は糖尿病辺りで戦後ほどなく死んだらしい。残った本妻たちは地所を切り売りして食べるしか能がなかった」
「……単にお母さんへの親孝行だったのかも……」
「それがなかったとは言い切れないが……俺は養子になるまでお袋に守られて、愛されて育った。
だが……親父に悪いから、速水の親類の不興を買いたくないから、連中がどんな理不尽な振る舞いをしても、お袋はただペコペコと謝って……
俺は悪くないのに、連中が乱暴したのに、お袋が色香で親父を誑かしたなんて侮辱したのに……俺は謝るだけで戦わないお袋が頼りにならないと知った……。
親父の場合はそれが生まれた時からだ。どうして自分を生んだんだと恨んだかも知れない……」
「…………」
「だがそれも……そういう状況だったとしても親父の……俺の誤解だったと思う」
「え?」
「……お袋が死んだ時、葬式にはお袋の兄弟が形だけ来ただけだった。お袋の一粒種の俺の将来を相談するどころか形見分けさえなしに帰って行った、
親父は着物か簪でもと思っていたのにと千代さんが……。当時は俺は伯父たちにも見捨てられる存在なんだと思っただけだった……
でもそれは善意と誤解が混ざっていた。
……俺がここに残ると決めたから、千代さんは俺がお袋の為にも立派な後継ぎになるようにと、もうここで顔晴るしかないと励みになればと……
嘘じゃなかったが事情もあったと……将来社長になった俺に金や仕事の無心をされたりしない様にと、お袋は藤邑の親類は勿論、
実の兄弟ともほぼ絶縁していたんだ……だからお袋には出掛ける先もなくて……友達と言えばここで同僚だった千代さんくらいしか……」

眞澄の『マザコン』を識っている『千代』の素性が、参列者たちにも漸く解った。

「お義母さんが眞澄さんの将来の為に……」
「ああ。俺がそう聞かされたのは実際に大都に入社する直前……病床のお袋が俺の為に取り寄せてくれていたと、万年筆を渡された時だった……
皇族も和服生地のドレスで海外へお出ましになったりするから、蒔絵細工の万年筆なら経営者に相応しいんじゃないかって……」
「蒔絵……あの金色の……」
「ああ。お袋はその時までは生きていれらないだろうと……入社祝いにと千代さんに預けていて……俺の為にお袋が絶縁までしていたんだから、
呉々も慎重に、親父に迷惑を掛けたりしない様にって……」
「……ホント、千代さんがお義母さんみたい……」
「ああ。少なくとも俺は叔母さんだと思っている。
……その時はもう俺には俺の目的もあったから、お袋にしろ藤邑のにしろ、親戚付き合いを再開するのも……
確かに俺が出世すれば頼られる可能性は高い。ならお袋の気遣いを有難く……。
それに速水の親類に謝るばかりだったのも俺の為だって……後継ぎになるのを羨ましがられるのは仕方ない、
余計な恨みを買って足を引っ張られたら却って困る……自分さえ頭を下げて済む事なら……そう思っていたんだと……」
「お義母さんらしいですね……」
「ああ……親父だって実母に屋敷をやったんだ、根っからの愛人気質の悪い母親なんかじゃなかったんだろうと……ただ……俺たちは鈍いから……

それも親父は気付いた時には不当に兄妹にイジメられたから……住まいがバレては日陰者だと罵られて石を投げられ、近所からは目引き袖引きされて、仕方なく引っ越す……速水の本宅の周りで円を描くように引っ越してはまた……その繰り返しで、親父には故郷では友達もできなかったらしい」
「……なんか可哀想ですね……」

眞澄はああ、と溜息を吐いてソファーの背凭れの上に両腕を投げ出した。

「本妻たちに小さくなって耐えるのが愛情だなんて……母親に愛されているとは実感できなかったと思う。特にあの親父なら尚更だ。
それにもし愛されていたなら、そう実感出来ていたなら、母一人子一人なんだ、東京に呼び寄せて一緒に住んでいたと思う。
だが親父はお手伝いを雇うだけで、向こうへ出張した時、本妻に家主面して楽しむ以外は寄り付かなかった。東京見物させた事もないんだからまず確実だと思う」
「……成る程……仲がよかったらそれくらいはして上げそうですね」
「……誰にも頼らず裸一貫で、勘と運で相場で稼いだ資金で大都運輸を……多分相場師を続けた方が手っ取り早く稼げたろうと思う。だが親父には妾腹の子故のコンプレックスがあったから、肩書きが欲しかった。社長になりたいなら自分で興せばいい。
そして戦後の復興の中で大都運輸は図に当たり、もっと支社を増やすか、それとも何か他に始めようか……そう思っていた矢先に偶々通り掛かった行列が、
《紅天女》を観たがる観客だった……。親父は経営のシミュレーションになる囲碁・将棋以外の趣味もないし、妾の子だからか女遊びもせず、
芝居になど全く無縁だった。だがこれだけ長い行列ならと気紛れを起こして並び、そして……」
「……先生の亜子冶に恋をした……」
「ああ……母親の愛情も感じ取れなかった親父が初めて覚えた愛情……それも飛び切り極上の無償の愛……そして親父は失うという事を知らなかった。
一番下から実力で伸し上がった、時間と共に金、肩書き、会社、望んだものを手に入れて来た……。
あの亜子冶の愛情もただ我武者羅に突き進めば手に入るものと……愛された記憶のない、愛し方を知らない親父に惚れられたのが月影千種の悲劇だった……」

いよいよ千種の名前が出たからか、マヤがカメラの方からやって来て眞澄の隣へ座った。

「……親父が最初に魅かれたのは、確かに亜子冶だったと思う。だがこれまで得られた他のものと違って、努力や多少の金品では歯が立たない……
月影千種は月影千種で、一蓮以外に用はないから、ただ頑なに親父を拒絶する。そして人は困難なものに挑む事に、それを遣り遂げる事にこそ夢中になる……月影千種は自ら親父の執着心に火を点けてしまったんだ……。いっそ取り巻きの一人になら加えてやってもなどと言って、自分に幻滅させれば良かったんだ……美しいだけの、金品に靡く妾、自分に苦労をさせた母親と同じだってな……」

成る程、とマヤは頷いた。

「諦めていない親父に一蓮たちは興行を任せてしまった……片想いしていれば月影千種が誰に操立てしているのかはすぐ判る……
若気の過ちの父娘ほど年上の、妻子あるただの物書き……こんな男に自分が劣るとは思えない。男から財産を奪えば自分を頼るだろう……
だがそれでも月影千種は一蓮から離れようとしない。親父は一蓮をこれでもかと追い詰める。また一人と仲間が一蓮の許を去って行く中、
月影千種だけは一蓮に付き従う……尾碕一蓮を殺したのは親父と月影千種だ……」
「え?」
「尾野寺組の《紅天女》、あれこそが尾碕一蓮の書いた《紅天女》……資金も小屋も俳優もない、新しい本も書けない……
そんな日々の中で一蓮は《紅天女》があれでいいのか、もっと相応しいラストがあるのではないかと思い始め……
月影千種への遺書に《紅天女》のラストのト書きを削るという訂正と上演権を譲る旨を認(したた)めた……」
「ラストのト書きを削る……」
「……俺たちが結婚した頃、親父と一蓮について話した……その時に教えて貰った……創られた当時の世相、身分違いの恋、不治の病……
そういう自分たちの努力ではどうしようない障害が多かった……そんな中で《紅天女》も創られた。月影千種の確かな演技力とで《紅天女》は絶賛された……
だが無為な時間が大量にある中で一蓮が気付く……《紅天女》は、亜子冶の愛はあの程度のものではならない、もっと上がある……
だが一蓮はその具体的な指示は書かずに死んだ……月影千種の為に……」
「先生の為に……」
「ああ。自分が生きている限り月影千種は傍から離れない……男と女としては冥利に尽きるが、生涯最高傑作と自負する《紅天女》が上演できない……
そして月影千種の才能も、このままでは立ち枯れる……自分が《紅天女》と月影千種を死なせている……
親父だけでなく月影千種もまた、愛し方を間違えたんだ……」
「そんな……」
「当時の大都芸能の力はまだ大した事はなかった。月影千種が本当に月光座の再起を図るなら、他所で資金稼ぎをするべきだったんだ。
だが愛する一蓮と共に、一蓮の本を演ってこそ意味がある……月影千種はそう思い定め、一蓮がそれを苦痛に感じている事に気付けなかった……。
一蓮だけならまだ何処へなりと行方を晦ませばよかった。だがそれでは月影千種が捜し回るだけ……解決にならない。
だから一蓮はもう月影千種が来られない処へ行った……たった一人で……そして月影千種に後追いさせない為に課題を残した……
自分の、自分たちの本当の《紅天女》を見付けてくれと」
「本当の《紅天女》……」
「……月影千種は怪我で引退するまで、一蓮の台本通りの《紅天女》しか演らなかった。
だがその後負傷し、後継者を探しながら本当の《紅天女》に思い至った……だがそれは彼女には演れなかった。だからあの最期の《紅天女》でも……」
「演れなかった……先生が演れなかったなんて、一体どんな……」

眞澄は傍らのマヤの手を取った。

「俺も親父に訊いた……一体それはどんなものだったのか……そうしたら親父に言われた。お前がそれをワシに訊くのか」
「え?」
「俺みたいなのに惚れられた不幸をあんな風に昇華してくれる、君みたいな奇特な女を粗末にしたら罰が当たる……実際胃炎で死に掛けた」
「う、嘘、またそんな風にからかって!」
「客観的に考えれば解る事だ。当時は猶技術で愛弓君に劣った君が何故同列で後継者になれたのか……真実の《紅天女》が目の前で演られたからだ。
自分が現役の間には辿り付けなかった境地に、君みたいなチビちゃんが……。先生はとても興奮していたと後で源三さんから聞いた」
「う、嘘……」
「本当だ……」

そう言って眞澄は隣に座るマヤを優しく抱き締めた。

「……あんな亜子冶に魅入られたなら……俺の付属物でしかなかったお袋が相手にされなかったのも仕方ない……或る意味親不孝だが、
俺はそう納得できた……。俺は、俺たち母子は親父の呪縛から解放される……あの愛を生涯追い求めて手に入れられなかった親父を可哀想だと思ってやれる……。
お前が俺を救ってくれた、お前の亜子冶が救ってくれた……。お蔭で俺は親父の死を嘆く事ができた……本当の父子になれた……有難う……お前のお蔭だ……」
「……貴方……」

顔が手前に見えるマヤが目を閉じて、眞澄の背中に手を回してセーターを握り締めた。
熱烈なラブシーンな筈なのに、参列者たちは素直に感動できた。
二人が抱き合ったまま、画面が藤紫に変わった。


スクリーンの真ん中にスポットライトが差して、その中に画面にあった眞澄の未来の姿かと思える英澄が立って、マイクを持った。

「長時間お付き合い頂き、有難う御座いました。世間では辣腕経営者と気分屋の女優と受け取られておりますが、
それは父・速水・本名藤邑眞澄が自分の非力さから練った台本であり、実際の二人はほぼこのビデオにあった通りです。
オプチミストの母がペシミストの父の尻を叩き、猪突猛進型の母の不備を深慮遠謀型の父がフォローするという、割れ鍋に綴じ蓋の夫婦でした。
父は自分の非力さへの苛立ちを、世間を謀っていると思う事で慰めておりました。ビデオの中で名指しされた方々には、どうかご寛恕頂けます様、
伏してお願い申し上げます。
最後に、母の急逝の事情をご理解頂く為に、父の死後、父の遺言に従って開けた金庫の中にあった、母へのビデオレターをご覧下さい」

英澄が深々とお辞儀してから席へ戻ると、また場内が暗くなった。

藤紫の、何もない画面に続いて、白髪の上品な老人が映った。
チェアーの横にカメラを設置したらしく、木製のデスクの前に藤紫のカーディガンを羽織って掛けていた。
その膝にはチェック模様の膝掛けがあった。

「マヤ、お前ともうすぐ金婚式を迎えられるなんて……お前以外の誰と結婚しても、きっとこんなに長生きは出来なかったと思う。
女優のお前が趣味の妻として、俺の健康管理までしてくれたお蔭だと感謝している。

ただベスを掴む為に雨に打たれて、高熱でフラ付きながらもベスを演り通す……俺は復讐にだってそんなに真っ直ぐ突き進めなかった。
計算して、根回しして、まず勝てる勝負しかできない。あんなチビちゃんの何処にそんなガッツがあるんだろう、俺は素直に圧倒された。
帰り道に目に留まった店で、ふと目に付いた紫の薔薇を買った。だが楽屋のドアを叩く前に、俺には似合わない、主役でもない、
素人に毛の生えた君にやるなんて『速水眞澄』のする事じゃないと気付いて、メモだけ添えて置いて帰った。
君があの花束にあんなに感動してくれたと知らなかったら、ただそれだけの事だったと思う。
君はたった一人のファンの為に美登里を演ると言ってくれた……あんなに贅沢な気分で芝居を観た事はかつてなかった。
正真正銘、たった一人で観た《忘れられた荒野》が俺たちを結び付けてくれるなんて思わなかった……青と赤のスカーフが……
足せば紫だから、やっぱり俺たちはこうなる運命だったんだろう……またキザな事をと苦笑している君が目に浮かぶが、それでも俺は本気でそう思っている。

……お袋が死んで以来暗闇に閉じ籠っていた俺には、君の芝居への情熱が眩しかった、羨ましかった。
今思うと、観た人を幸せにしてくれる情熱だったからだと思う。
復讐にあるのは情熱じゃなくて妄執や怨念だ……人が持てるエネルギーには限度があると思う。それを馬鹿な事に傾けていた俺には殊更眩しかった……。

君が才能も商品価値もある女優であるだけでなく、俺にとって特別なんだと気付くのがもう少し早ければ……それだけは未だに後悔している。
でも君は俺に幸福をくれたし、俺は余計な苦労もさせたが、俺だけにしかやれない幸せも与えられた筈だと思っている。
だから、俺に関しては全く……結果としては後悔していない。
遠回りした気もするが、振り返って見れば恋のスパイス程度だと思える。
君は俺にとって亜子冶でありアルディスだった。心を解き解して陽だまりをくれた。
俺はオリゲルドにならずに済んだが、プロポーズで言った通り、人生で一眞を務められたかと言えば、まあ落第だったと思う。
それだけは約束を守れなかった、ゴメン」

言葉通り、画面の眞澄は白い頭を下げた。

「……他の約束は守るつもりだが、実際はどうだったかな。

俺たちの終幕もそう遠くないだろう。
だが俺は、来世が、生まれ変わりがあるなら、またお前と生きたい。
今度はもう少し肝を据えて、苦労を掛けない夫になりたいと思っている。
お前も懲りずに付き合ってくれる気があるなら、その時はあの川辺で逢おう。
もしあの世とかがあるなら、俺は例え地球の裏側で死んでもあそこへ行ってお前を待っている。
……あの世では時間の流れが速いとかも聞くし、例え逆に遅くても、俺はずっと待てる。
お前の舞台の開幕を待つように、俺は今度はどんな感動を覚えるだろうと想像して、楽しく待てる。
だから、もしお前がもう俺なんかと付き合うのは御免だと思ってもいい。

だから……つまり、もしあの世があったら俺はずっと楽しい気分でいられる。これもお前がそうさせてくれたんだ。
だから、俺に同情なんかしなくていいぞ。独りで待ちぼうけなんか可哀想だなんて思ってなら来なくていい。
また同じように苦労させる可能性はあるから、お前もまた俺でいいと思ったら、そう覚悟してくれたならあそこへ来て欲しい。
ああ、守れなかった約束がもしあったら、今度こそ守るから。

その時まで、ちょっとだけ観客席でまどろんでいる。
これが俺からの最期の約束だ。マヤ、ありがとう。
否、やっぱりこっちだな。ありがとうチビちゃん。
それじゃ」

眞澄が左手を軽く上げて、映像が切れた。

その日から、眞澄たちは伝説の夫婦になった。


THE END 12.02.26


 言 い 訳 メ モ
パロディ小節のルールも知らないままに書き進めた
自作ガラカメ大河(というくらい長ーいの)がありまして。
未だにルールはよく知らないので、
もしかするとこれもマズイのかも知れませんが。
その中のエピソードをちりばめ(流用し)ました。
作者は(当然ながら)知り尽くしたネタなので、
もしかすると自己中になっていて意味不明かも知れませんが。

***************
結果としてこういう形になりましたが、
書いてみようかなーと思った基本アイデアは
冒頭の数行で終わっています。

***************
眞澄様たちの私的ビデオの中で
眞澄様に一眞として凌駕されていたと知って
櫻小路が完全な敗北感を覚える。
***************

ハッキリキッパリ眞澄様派なので、
さくらーな方はごめんなさい<m(__)m>
当初タイトルは葬列でしたが
書き終わったらこっちな話になっていたのでそうしてみました。


【Catからびとさんへ】
びとさん初投稿ありがとうございました。
ビデオレターという形式で進んで行くというのはびとさんの独自の視点で良かったと思います。
マヤちゃんと速水さんの夫婦愛を感じる事が出来ました。
執筆お疲れ様でした。

2012.3.18 Cat


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