――― ご近所物語 二週目―――
1 婚約を解消するにあたって紫織さんから提示された条件は三つあった。 一つは紅天女の上演権を永遠に放棄する事。二つ目は北島マヤを大都芸能に入れない事。 そして三つ目は――婚約解消から三年以上経たなければ交際も、結婚もしてはいけない事。 俺はその三つの条件と引き換えに婚約を解消した。紅天女の上演権を諦めるのは断腸の思いだったが飲むしかなかった。 いや、それ以上に苦しかったのが、三年間、マヤに指一つ触れる事が出来ない事だ。 我慢に我慢を重ね、何とか堪えて来たが、先日、信じられない事にマヤからキスをされた。 マヤと唇が重なった瞬間、胸が苦しくなった。もう少しで立ち去るマヤの腕を取りそうになった。 ギリギリの所で堪えたが、今度マヤに会ったら自分を抑える自信がない。 紫織さんと約束した三年まで、後一ヶ月なのだ。一ヶ月我慢すれば俺は自由になれる。だからマヤを一ヶ月間徹底的に避けるしかない。 会ってしまえば、きっと俺はマヤを抱きしめてしまう。マヤが暮らすマンションにも行かない方がいい。 そう思うが、今夜も俺は田園調布の屋敷ではなく、代官山のマンションに帰って来ている。マヤが住んでいると知ってから、欠かさず帰って来ている。 マヤの足音とか、窓を開ける音とか、洗濯物を干す些細な気配を感じるだけで心が安らいだ。 「俺は何をしてるんだ」 窓を少し開けて、マヤの気配を感じ取ろうとしている自分に我に返る。 自分の行為がストーカーのように思えて、気まずい気持ちでいっぱいになった。 もしも俺がこんな事を毎晩していると知ったら、マヤに嫌われるかもしれない。 だけど、この一ヶ月を乗り切るにはそれしかないのだ。マヤに会わずにしてマヤの気配を知る事が唯一の慰めだった。 マヤの気配を知ろうと窓を大きく開けた時、大きな物音がした。そして、キャーという叫び声。 びっくりして俺はベランダに出て上の様子を探るが、夜空以外何も見えない。 ベランダの手すりから身を乗り出し声色を変えて話しかけた。 「あのー、どうかされましたか?」 「えっ」 驚いたようなマヤの声がした。 「悲鳴みたいなものが聞こえたんですが」 「ああ、ごめんなさい。洗濯物を取り込もうとしたら、ゴキブリがいて」 「なんだ」 思わず本音が出た。 「すみません。ご心配おかけしまして」 マヤの焦った声がする。 「いえ」 「あのっ、イチゴのタオル。可愛すぎましたよね」 何の事を言われるかわからず、沈黙してしまう。 「ひ、引っ越しのご挨拶に差し上げたやつです。まだ中身見てませんか?」 「ああ、開けましたよ」 「ご迷惑なものを差し上げてすみません」 恐縮するような声でマヤは言った。 「迷惑?」 「管理人さんにあなたの事聞いたんです」 ドキッとする。まさか俺の正体がバレたのか? 「一人暮らしなんですよね。彼女とかが遊びに来た時にイチゴのタオルなんてあったら変な誤解をされますよね」 マヤの言葉に胸をなで下ろす。まだ正体はバレてないようだ。 「遊びに来るような女性なんていませんから心配しないで下さい。それに結構気に入りましたよ。あのタオル」 「本当ですか!」 弾んだマヤの声がした。 「手触りがよくて使わせてもらってます」 「良かったです。あのもう一つお聞きしたい事があるんですが」 マヤが言いづらそうに口にした。 「何ですか?」 「私の洗濯物、そちらに落ちてなかったでしょうか?」 ブラジャーの事がすぐに浮かんだ。 「ああ」 低い声が出た。 「それって、女性しか使わない物ですよね?」 「……はい」 マヤが恥ずかしそうに答える。 「実は昨日、見つけまして。どうしようかと思ってたんです」 昨日というのは嘘で、見つけたのは一週間前だった。 「今から取りに伺ってもよろしいでしょうか」 「い、今!」 動揺につい大声が出た。マヤと顔を合わせる訳にはいかない。 しかし、ブラジャーを返すのを渋るのも変だ。違う誤解をされてしまう。 「ダメですか?」 「い、いえ。そういう訳では。落とし物がちょっと気まずい物だったので」 「すみません」 マヤの声が落ち込んだように響く。 「俺、いや、僕の部屋のドアノブに落とし物を入れた紙袋をかけておきますから持って行って下さい。 実は風邪を引いていて、あなたに風邪をうつしたくないんです」 「大丈夫ですか?」 マヤの声が今度は心配するようなものに変わる。 「大した事ないんですけど、鼻水とセキが酷くて。絶対にうつしますから、顔を合わせたくないんです」 「わかりました。じゃあ三十分後ぐらいに取りに行きます」 「了解しました」 ベランダからリビングに戻り、寝室に行った。 クローゼットの中に紙袋に入れたままのブラジャーがしまってあった。 紙袋を取り出し玄関に行く。腕時計を見るとマヤが取りに来るまでまだ二十五分もあった。 玄関の上がり框に座り、紙袋をかけるタイミングを見計らう。 あまり早くかけておくと誰かに持っていかれてしまうかもしれない。 紙袋をかけるのは五分前、いや、十分前ぐらいがいいか。 思いがけずマヤと話せた事に胸の中がウキウキとする。こうやってマヤが取りに来るのを待つ事が、サンタクロースを待つ子供のように楽しい。 それにしても、マヤがイチゴのタオルを気にしていたのは可笑しい。聞いた瞬間、声を上げて笑いそうになった。 マヤの繊細な部分を見た気がした。一緒にいる時はそんな所見た事なかったが。 マヤはご近所さんには気を配って生活をしてるんだな、なんて思いながら笑いがこみあがってくる。 マヤに速水真澄じゃなく、ご近所さん扱いされるのが何だか面白かった。 「そろそろ時間か」 時計を見ると八時二十分になっていた。 玄関のドアを少しだけ開けて、外廊下の様子を探る。誰もいない事を確認し、外側の玄関ドアのレバー部分に紙袋をかけた。 この一週間、気まずく思っていたブラジャーが手を離れホッとする。 玄関ドアを素早く閉めてリビングに行った。 ソファに座って持ち帰った仕事の書類に目を通し始める。 八時半丁度にインターホンが鳴った。 「あの、北島です」 インターホンを出るとマヤの声がした。モニターにはグレーのカーディガンを着たマヤの姿が映っていた。 「どうぞ持って行って下さい」 「あの、お名前を伺ってもいいですか?表札にお名前が出ていないからわからなくて」 「ああ、は……」 速水と言おうとして「早川」と答えた。 「早川さんですか」 「そうです」 「いろいろとありがとうございました。お大事にして下さい」 そう言ってマヤは紙袋を取り、立ち去った。 次の日、深夜1時に仕事から帰ってくると、ドアレバーにピンク色の紙袋がかかっていた。 中身は栄養ドリンクとみかんとメモが入っていた。 『お留守だったのでお見舞いの品をかけておきます。北島』 メモを読んだ瞬間、一日の疲れが取れた。 マヤの気遣いが嬉しい。 紙袋を受け取り、俺は部屋に入った。 2 結局、水城さんは速水さんが婚約解消をする為の三番目の条件を教えてくれなかった。 紅天女の上演権を手放す事、北島マヤを大都芸能に入れない事。 これ以上に一体何を紫織さんは言ったんだろう。速水さんに直接聞こうと思って、携帯にかけるけどいつ電話しても速水さんは出てくれない。 大都芸能に行ってもいつも外出中だ。 キスなんかしたから、避けられてるのかもしれない。 速水さんにキスをした事は自分でも驚いている。 もう二度と速水さんに会えないかもしれないと思ったら、勝手に体が動いていた。 次の停車駅の『田園調布』という名前が耳に入る。横浜から東急東横線に乗っていた。仕事の帰りだった。 代官山に住んだのは田園調布がある東横線と同じ路線だったからだ。 田園調布には速水さんの家がある。速水さんが電車に乗る事はないとわかっていたけど、 もしかしたら偶然、同じ電車に乗ることもあるんじゃないかという、淡い期待があった。 電車に乗る度に速水さんの姿を探している。絶対にありえないってわかってるのに。 バカだな。私……。 ため息が出た。つり革に捕まりながら窓の外に見える多摩川を見た。川沿いのグランドでサッカーをしている人たちが見えた。 休日の速水さんは多摩川沿いを散歩したり、ジョギングしたりするんだろうかと想像した。 スーツ姿の速水さんにジャージを着せたら何か可笑しくなる。やっぱり速水さんはスーツがいい。 電車が田園調布で停車した。今日は日曜日だった。もしかしたら速水さん、家にいるかもしれない。 そんな思いに突き動かされて電車を降りた。 今は使われていない赤い屋根の旧駅舎がある方に出るとロータリーの真ん中に小さな薔薇園があった。 赤や黄色、ピンクの薔薇が咲いていた。そしてロータリーの先には放射状に延びる五つの通りがある。 真ん中の三つの通りは葉を黄色く染めたイチョウ並木が続いていた。つい目がいってしまう程、綺麗な眺めだった。 携帯電話を取り出して、イチョウを撮るおばさんの姿があった。 私もやろうと思い、立ち止まって携帯で写真を撮った。車の行き来を見計らい車道に出て、イチョウ並木を収めた。 携帯の中に美しい並木道が残る。我ながらいい出来だと満足。 午後二時の風は温かく、お天気も良かった。歩きながら速水さんに会える気がしてくる。 速水さんの家には大都芸能に所属してた時に行った事がある。その時は舞台に穴を空けて、母さんが亡くなって芝居が出来なくなった時だった。 どうしたらいいのかわからず雨に打たれていたら速水さんが現れた。速水さんは私を家に連れて行って、熱のある私を看病してくれた。 その時の私は母さんを死に追いやった速水さんが憎かった。でも、私に憎まれても速水さんは最後まで私を見捨てず舞台に立たせてくれた。 速水さんが支えてくれたから今の私はある。私はそんな速水さんの事をいつの間にか好きになった。 はあっと、胸の奥から大きなため息が出た。今日こそ、速水さんに会いたい。歩きながら会いたい気持ちが強くなる。 駅から歩いて十分ぐらい経った頃、大きな塀で囲まれた洋風の速水さん家が見える。離れた所から見ても大きいと感じる家だった。 緊張しながらインターホンを押すと男の人の声で返事があった。おそらく執事の朝倉さんだ。 「北島ですが、速水社長はご在宅でしょうか?」 緊張しながら口にした。 「生憎ですが、真澄様は留守にされております」 「そうですか」 声が沈んだ。 「あの、何時頃お戻りになるでしょうか?」 往生際が悪いと思いながらも、食らいつくように聞いた。 「申し訳ございませんがわかりません。真澄様は最近はこちらには帰って来てませんので」 「速水さん、帰って来てないんですか?」 「はい。おそらく別宅の方にお帰りになられてると思います」 別宅という言葉に愛人の姿が浮かぶ。 ある社長さんが愛人を囲う為に別宅を用意したという話を聞いたばかりだった。 速水さんもその社長さんと同じような事を……。 「あのっ、その別宅はどちらに?」 「私は存じておりません。真澄様の事は秘書の方にお尋ねください。失礼します」 インターホンが切れた。 マンションに帰ると、ドアノブに赤い紙袋がかかっていた。中を覗くと高そうなチョコレートの箱が入っていた。 メモには『お見舞いのお礼です 早川』とあった。 下の階の人だ。 普段だったら、すぐにお礼に行くけど、今日はそんな気力が残っていない。 紙袋を持って部屋に入った。西日が射しこんだ部屋はオレンジ色に染まっていた。 リビングのソファに座り、鞄から取り出した携帯電話で水城さんに電話した。 しかし、水城さんは出ない。 日曜日だから水城さんもどこかに出かけてるのかもしれない。 テーブルの上に電話を放り出してため息をついた。何だかとても疲れた。 ソファに横になって白い天井を見つめた。速水さんが婚約を解消したのは私の為ではなく、別宅に囲っている愛人の為かもしれない。 そんな考えが浮かんでくる。私は何を思い上がってたんだろう。芝居以外に何のとりえもない私を速水さんが好きになってくれたなんて、 どうして思ってしまったんだろう。 ワンナイトクルーズで心が通じ合ったと思っていたけど、あれは錯覚かもしれない。速水さんから好きだという言葉を聞いた訳じゃない。 涙で天井が滲んだ。速水さんが私を避けるのは好きな人がいるからだ。そう思ったら腑に落ちた。 何やってるんだろう。キスなんかして。どんどん自分が惨めに思えてくる。涙が止まらなくなる。 明日も撮影が入ってて、泣き腫らした目で行く訳にはいかないとわかってるけど、こみ上がる涙が止まらない。 悲しくて、苦しくて、目の奥も、胸の奥も熱くなる。 ダメだ。何か違う事を考えよう。そう思って窓の方を見ると、洗濯物が干しっぱなしだった事に気づく。 取り込まないと湿気って冷たくなってしまう。 慌ててベランダに出て、洗濯物を取り込んだ。微かに煙草の匂いを下から感じた。速水さんが吸っている煙草と同じ煙の匂いがした。 洗濯物を持ったまま、手すりから下を覗き込むと男の人が煙草を吸ってるのが見えた。顔は見えず頭だけが見えた。 「あのっ」 思い切って話しかけた。 男の人の頭が驚いたようにきょろきょろして、私の方を見上げた。 陽が沈んでいたので顔は見えなかった。 「こんばんは、北島です」 私は彼に話しかけた。 「こ、んばんは」 彼が答えてくれる。 「チョコレートありがとうございました。嬉しかったです」 「いえ、こちらこそお見舞いありがとうございました」 「風邪は大丈夫ですか?」 「ええ、おかげ様で」 「あの、少しだけ話しててもいいですか?」 「え」 「今日、なんか嫌な事があって一人でいると泣きそうなんです。明日も撮影が入ってるから、 泣いた顔で行く訳にはいかなくて。あの、気持ちが落ち着くまで話をしてくれませんか」 「このままでいいなら、大丈夫ですよ」 彼の声が優しく響いた。 「ありがとうございます。ちょっと待ってて下さい。洗濯物置いてきます」 「僕はビール取ってきます」 「あっ、私も、持って来よう」 洗濯物を全部部屋に取り込んでから、ビール3本と上着を持ってベランダに出た。 寒いのにビールなんて可笑しいと思いながらも、彼と一緒に「乾杯」と言ってビールを飲んだ。喉にスッキリとした味わいが広がり、美味しく感じる。 「うーん、冬に飲むビールも美味しいですね」 私は手すりから少しだけ身を乗り出して、彼を見ながら言った。 彼の頭が頷いた。彼は手すりに寄りかかるようにして前を見て立っていた。 「確かに。こんな風にベランダで飲む若い子とのビールもいい」 「若いって、私、25ですよ」 「十分若い。僕は36ですよ」 「あっ、同い年だ」 「同い年って?」 「いえ、何でもありません。早川さん結婚とかしてるんですか?」 彼の笑い声が聞こえる。 「結婚してたらこんな所で一人暮らしなんてしてませんよ」 「愛人がいて、奥さんに内緒でここに住んでるのかもしれないじゃないですか」 「部屋に来るような女性はいないって言ったでしょ。独身です」 彼の声が少し怒ったように響いて焦る。 「ごめんなさい。調子に乗って変な事言いました」 「いえ、気にしてませんよ」 「私の好きな人に愛人がいるみたいなんで、ついそんな事を言ってしまったんです」 「えっ!」 彼の声が大きくなる。 「まさか、そんな事ある訳ないですよ。きっとあなたの勘違いだ」 否定されて何だかムッとする。 「そんな事ありません。だって今日彼の家に行ったんですけど、彼家には帰ってないって聞いたんです。どうも別宅があるみたいで。 だからピンと来たんです。別宅に愛人を囲ってる社長さんの話ってよくあるでしょ。彼、社長やってるんです。だから彼も愛人がいる気がして」 「なんでそういう発想になるんですか!世の中の社長がみんな愛人を囲ってる訳ではないでしょ」 「でも、そういう社長さんが多いって聞きます。別宅って愛人を囲うものなんですよ」 「違いますよ。一人になりたくて別宅を持ってる人もいます。あなたの好きな人も一人になりたいだけですよ。大きな屋敷じゃ息が抜けない事がありますから」 「そうですかね」 「そうですよ」 「あれ、でも、どうして大きな屋敷って?」 「だってほら、社長さんだって言ったから、きっと執事とかいる大きな家なんだろうなって」 「早川さん凄い!おっしゃる通り執事がいる大きな屋敷なんです」 「そんな気がしました」 「でも愛人がいるって思ったのは別宅があるってだけじゃないんです。彼、ずっと私の事避けてて。電話にも出てくれないし、会社に行ってもいつも留守で。 きっと好きな人がいるんですよ。だから私に会えないんですよ。私がキスなんてしちゃったから」 胸が痛くて涙が浮かんでくる。 「そんな事ないですよ。あなた以外に好きな人なんていないと思いますよ。きっと何か事情があるんですよ」 「事情ってどんな?」 「それは……僕にはわかりませんが」 「早川さんて優しいですね。ありがとう。そう言ってもらえて少し元気になりました。今度は早川さんの話が聞きたいです」 「僕の話ですか?」 「恋の話とかないんですか?遊びに来るような女性はいないって言ってたけど、好きな人とかは?」 彼がビールを口にする。そして、ため息をついたように見えた。 「ああ、いるんですねー!」 「僕の話はいいですから」 「えー、教えて下さいよー。どんな人なんですか」 「言えませんよ」 「どうして?」 「物凄く好きだから、僕の中で留めておきたいんです」 「早川さんてロマンティックですね。いいなー、私もそんな風に想われたいな」 「思われてますよ」 「えっ」 「あなたが思う以上に彼はあなたの事が好きだと思います。電話してご覧なさい。きっと今夜は出てくれますよ」 「そうですかね」 「大丈夫。僕が保証します」 「ありがとうございます。なんか勇気が湧いてきました」 「そろそろお開きにしますか」 「はい」 「おやすみなさい」 「おやすみなさい、早川さん」 ベランダからリビングに出ると、テーブルの上の携帯電話を持った。 胸がドキドキとしてくる。本当に速水さんは出てくれるだろうか。 速水さんの名前を表示した液晶画面をじっと見つめながら緊張する。 通話ボタンを押すのが怖い。また出てくれなかったら落ち込む。 早川さんに励ましてもらったけど、やっぱり電話をかけるなんて出来ない。 速水さんが出てくれたとして、迷惑そうにされたらどうしよう。愛人の声とか聞こえたら……。 そんな事を考えていたら、マナーモードにしてある携帯が振動した。 着信表示の『速水さん』の名前に胸が震えた。 「も、もしもし」 「やあ、ちびちゃん、今大丈夫か?」 速水さんの声が耳の中に優しく響いた。 「は、はい。大丈夫です」 「電話をもらってたのに折り返せなくてすまない。仕事でバタバタしててね」 「そうだったんですか。私の方こそ何度もすみません」 「いいんだよ。君からの電話は迷惑じゃないから」 「え」 「ちびちゃん、あの時の約束を覚えてるか?」 「あの時って」 「君を伊豆の別荘に招待したいって言っただろう」 胸の奥がキュッとした。 「はい。覚えてます」 「俺の気持ちに変わりはないから。全部片付いたら必ず君を招待するから、もう少しだけ待ってて欲しい」 「もう少しってどのくらいですか」 「3週間」 「3週間ですか」 「ダメか?」 「大丈夫です。待ってます」 「ありがとう」 速水さんはそう言って電話を切った。 不安な気持ちがなくなり、不思議なくらい穏やかな気持ちになった。 速水さんを待とう。そう強く思った。 つづく 2017.12.10 |