――― ご近所物語 3―――
1 「それでね、旦那さんが40度の熱があったんですけどね、その旦那さん病院嫌いで寝てれば治るの一点張りだったんですって。でも、次の日、お子さんが熱を出して、 お子さんを病院に連れて行ったらインフルエンザだってわかって。すぐに病院から帰って来て旦那さんの首根っこ掴んで病院に連れて行ったんですって」 下の階からマヤがいつものように俺に話かける。最近は夜になると、ベランダに出て煙草を吸いながらマヤの話を聞く事が増えた。 今夜はテレビ局でメイクの仕事をしている女性から聞いたという話をマヤは話していた。 「それで、旦那さんもインフルエンザだったんですか?」 俺はベランダの縁に腕を付き、煙草の煙を吐いた。紫煙が夜空に流れていく。 乾燥気味の空気が肌にまとわりつく。 十二月に入っていた。外気が冷たい季節になったが、彼女と話していると寒さも気にならないから不思議だ。 「意外な事に旦那さんは陰性だったんですって」 マヤが弾んだ声で答えた。 「それで旦那さん、勝ち誇ったような顔して、それが可笑しかったって言ってました」 「仲の良いご夫婦なんですね」 「いいですよね。私も旦那さんの首根っこ掴んでみたいです」 マヤに俺の首を捕まれた気がして首の後ろがヒヤリとした。 俺は苦笑をこぼした。 「可笑しいですか?」 「いや、なんか首の後ろを掴まれた気がして」 マヤが急に笑い出した。 「どうしました?」 「いえ、彼の首根っこを掴む所を想像したら可笑しくなって。絶対そういう事させてくれるような人じゃないですから。 もの凄く偉そうで、仕事の鬼なんて人から恐れられてるような人なんですよ。私も最初は彼の事をゴキブリのように思ってました」 「ゴキブリ……ですか」 鳩尾の辺りにパンチを食らったような鈍い衝撃が走った。 「本当に嫌なヤツだったんです!人の邪魔ばかりして。この人絶対に私の事嫌いだって思いました」 二発目のパンチが入る。 「そんな事ないでしょ。少しぐらいはいい所があったんじゃないですか?」 「いえ。全くありません」 「本当に?」 「はい。もう大嫌いでした」 完全にノックアウトされた。ボクサーだったらマットに沈んでる。そこまでマヤに嫌われてたなんて。 確かに劇団つきかげを潰す為に出会った頃は酷い事も沢山したが……。 「顔を見るのも嫌でした。いつも嫌味ばっかり言ってくるんですよ!今もそういう所代わりありませんけど」 「そうですか……」 ショックのあまりため息が漏れた。手すりに寄りかかって立ってるのがやっとだ。 「あなたも変わった人ですね。そこまで大嫌いな人を好きになるなんて」 「そうなんですよ。自分でもびっくりしてます。年だって十一も上の人なんですよ。もうおじさんですよ。おじさん」 胸にグサリと突き刺さる。 「おじさんですか……」 「あ!ごめんなさい。早川さんの事はそんな風に思ってませんからね」 マヤは慌てたような声で言った。 「彼と僕同じ年でしたっけね」 「はい。でも、本当に早川さんの事をおじさんなんて思ってませんから。素敵な人だと思ってます」 素敵な人という言葉に凹んでいた気分が上昇する。 「会った事がないのにどうしてそう思うんですか?」 調子に乗って聞いていた。 「話してればわかりますよ。早川さんの受け答えいつも優しいです」 「それはどうも」 俺はさらに気分よく二本目の煙草に火をつけ、深く吸った。 「ねえ早川さん。今度映画でも観に行きませんか?」 唐突な誘いに咽た。 マヤはいつだって突拍子もない事を言う。 「大丈夫ですか?」 マヤが心配そうに聞いた。 大丈夫だと答えたい所だが、咳が止まらない。一分ぐらい咳込み、手元にあった缶ビールを飲み込み、ようやく落ち着いた。 「大丈夫ですか?」 返事のない俺を心配し、マヤがまた聞いてくる。 「落ち着きましけど、映画ってどういう事ですか?」 「えーっと、あの、映画館なら暗いからお互いに顔を合わせないで済むでしょ。お約束した通り顔を合わせるような事はしませんから。 見る映画と時間と席を決めて一緒に見るのはどうですか?」 マヤの案に乗るべきか、断るべきか……。 「早川さんが女優の私の事を知らないって聞いた時はホッとしたって言いましたよね。だから、お互いに顔を知らないままでいるのは私も本当に賛成なんです。 同じ映画を見て早川さんと今みたいに感想を話し合いたいんです」 すがりつくような必死さをマヤの声から感じた。 「ダメですか?」 トドメの一言に大きく胸が揺さぶられる。 はあ、とため息をつき煙草を灰皿にもみ消した。 「という事は北島さんの出ていない映画じゃないといけませんね。僕はまだ北島さんの顔を知りませんから」 「一緒に映画観てくれるって意味ですか?」 「ええ。僕なんかでよければ。見たい映画ってありますか?チケットは僕が手配しますから」 「いいんですか?」 「年下の女性に用意してもらう程情けない男ではありませんから」 「ありがとうございます。じゃあお願いします」 「それで何が観たいんですか?」 「どうして観たい映画があるってわかるんですか?」 「だって北島さんから映画を観たいって言い出したでしょ」 「そうか。そうですよね。観たい映画がなきゃ言いませんよね」 マヤが笑った。 「『めぐり逢い』って映画知ってますか?」 当然知っていた。芸能会社の社長として知っておかなければならない名作だった。 「古い映画ですね。50年代のハリウッド映画ですよね。確か主演がケーリー・グラントでしたよね。リメイクもされてて」 「凄い!早川さん詳しいですね」 「仕事柄、知っておかなきゃいけないんで」 「え?仕事って早川さん映画関係なんてすか?」 しまった。墓穴を掘った。映画関係者で北島マヤを知らないなんて不自然だ。 「ええーと、その、輸入業なので外国の映画を取り扱う事があるんです。だから日本の映画は詳しくなくて」 苦しい言い訳だと思うが、マヤは少しも疑った様子もなく「そうなんですか」と口にした。 人を疑う事を知らない子で助かるが、少々心配になる。 「それで『めぐり逢い』がどうしたんですか?」 「実は三度目のリメイクされた物が来週から公開されるんです!」 マヤの嬉しそうな声が響いた。 「わかりました『めぐり逢い』手配しておきます」 「ありがとうございます」 マヤと約束したのは一週間後の金曜日の夜だった。互いの仕事の都合で午後八時からの回を見る事になった。 場所はマンションから一番近いショッピングモールに入っていたシネマコンプレックス型の映画館だった。 俺の席は一番後ろの列の一番右でマヤの席は前から十列目の左端だった。 チケットは前日にマヤの部屋のポストに入れておいた。仕事も金曜日に向けてしっかり調整してある。 緊急事態も起きる事なく、俺は予定通りに退社した。映画館には午後七時五十分に着いた。そわそわした気持ちでロビーを見るが マヤの姿はなかった。開場が始まっているので既に席についてる可能性もあった。 俺は座席が暗くなってからシアタールームに入った。公開されたばかりだったので思っていた以上に人がいた。 座席の九割が埋まっていた。 俺はわくわくしながらマヤが座っている前から十列目あたりを見た。高さの違うちぐはぐな後頭部を目で追った。 期待を込めて一番右端を見た。髪の長い女性らしき頭が見えた。きっとあれがマヤだ。 胸の中にふんわりとした満足感が溢れた。決して顔を合わせて話す事はないが、同じ空間にいるだけで幸せだった。 ささやかな幸せを噛みしめながら俺は映画に集中した。 『めぐり逢い』のストーリーは婚約者がいる男女が出会い恋に落ちて、一年後の再会を約束して別れるストーリーだった。 しかし、一年後に女は現れず、男は待ちぼうけを食ってしまう。 そこから先がこの映画の見せどころだった。リメイク版もオリジナルと同じ展開で進んでいた。 俺はマヤが今どんな表情で映画を観ているのか想像した。きっと二人が再会できるかハラハラドキドキしてるに違いない。 大きな黒い瞳を見開いてる事だろう。手のひらには緊張で汗をかいてるかもしれない。 マヤらしさについ笑みが浮かぶ。 後でマヤと映画の感想を話し合うのが楽しみだ。ビールを飲みながらベランダに出てあそこのシーンが良かったとか、 ここのシーンが良かったとか話してるマヤの姿が浮かんだ。 映画が終わってエンドロールが流れた。俺はマヤに気づかれないようにシアタールームを出た。 ロビーに出ると、入口から走ってくる女性の姿が目についた。マヤだった。 ハッとして俺は物陰に隠れた。マヤが俺に気付いた様子は全くなかった。 マヤは慌てた様子で『めぐり逢い』がやっていたシアタールームの方に駆けていった。 どうやらマヤは遅刻したらしい。何かトラブルがあったのだろうか。心配になる。 ロビーでしばらく様子を伺っていると、映画を観終わった客たちが出て来た。その中にしょんぼりと肩を落としたマヤの姿もあった。 映画が終わってしまって落ち込んでるように見えた。 マヤはチケット売り場の方に行った。壁に貼られた上映スケジュールを見ると午後十時からのレイトショーがあった。 それでマヤの意図がわかった。俺は少し考えた。こんな所でマヤと会ったら勘繰られるかもしれないが、マヤを一人で映画館に入れたくない。 チケット売り場の列に並ぶ心細そうな小さな背中に心が動いた。 俺はマヤに向かって真っすぐ歩いた。 「『めぐり逢い』最後の回で大人1枚」 「いや、大人二枚で」 マヤの声を遮るように言った。 マヤが驚いたように振り返った。 「は、速水さん……!」 「奇遇だなちびちゃん。俺も観たいと思っていた映画だったんだ」 俺はスーツの内ポケットから長財布を出して二枚分のチケット代を払った。 そして後ろから二列目の席を二つ選んだ。 「前から十列目にしようと思ってたのに」 マヤが不満そうに言った。 「前は首が疲れる。映画は後ろの席がいい」 「だったら速水さん一人で後ろに座ればいいのに。もう勝手に決めちゃって」 マヤがぶつぶつと文句を言い続ける。 俺と一緒に映画を観る事がそんなに嬉しそうには見えずがっかりした。 こっちは同じ映画を続て見るんだぞと言い返しそうになる。 「悪かったな。だったら君の席だけでも替えってもらってくればいいだろう。まだ前の方に空きがあったし」 「あれ、速水さん怒ったの?」 「別に」 「ところで速水さん、どうしてこんな所に?」 少しテンポの遅れたマヤの質問にこけそうになる。 「そういう事は席を気にするより前に聞くんじゃないか?」 マヤが苦笑いを浮かべた。 「だってびっくりし過ぎて聞くタイミング外したんです。まさか速水さんに会うとは思わなくて、本当はめちゃくちゃ動揺してるんです」 マヤが恥ずかしそうに俺を見た。その可愛らしさに抱きしめたくなる。 俺は我慢して笑った。 「俺だって映画ぐらい見に来る」 「そうか、ここは速水さん家からも近い映画館ですよね。じゃあ、よく来るんですか?」 「偶にな」 「一人で?」 「まあな。ちびちゃんもよく来るのか?」 「私はここ初めてです。実はご近所さんと一緒に観る約束をしたんです。チケットもご近所さんに用意してもらったんですけど、 撮影が押しちゃって用意してもらった回に間に合わなかったんです」 「そうか」 俺は頬をかいた。大きなトラブルじゃなくてほっとした。 「謝ろうと思って中に入ったんですけど、顔知らないから……全然見つけられてなくて」 「顔を知らない相手と映画に来たのか?」 白々しいと思いながら当然のつっこみを入れた。 マヤが「はい」と先生に叱られた小学生のような顔をした。 「どうせ君は警戒心が無さすぎるとかってお説教するんでしょ!でも、私だって信用できない相手とは来ませんよ。 その人の顔は知らないけど、人間性はわかってるつもりです。とってもいい人なんです。いつも私の話を聞いてくれる優しい人なんです」 マヤがムキになって弁明する。いい人とか、優しい人とか言われて少しだけ照れくさい。 「わかったよ。そんなにムキにならんでもいいだろ」 「だって、その人の事は悪く言われたくないんです」 「悪く言わないよ。それよりポップコーンでも買ってやろう」 俺はマヤとカウンターに行った。 「またそうやって子供扱いして」 マヤがぶつぶつ言う。俺は聞こえないふりをした。 「塩味とキャラメル味どっちがいいんだ?」 「……キャラメル」 マヤが渋々という感じで選んだ。それが可笑しくて俺は笑った。 「ジュースはオレンジか?コーラか?」 「……コーラ」 俺はコーラを二つとポップコーンのLサイズを買った。 マヤが恥ずかしそうに「ありがとうございます」と言った。 それからシアタールームに入り、マヤと並んで座った。席は先ほどの回よりはすいていた。 「甘いな」 久しぶりにコーラを口にした。 「だってコーラですから」 マヤが笑った。 「速水さんがコーラってなんかイメージ違う」 「俺だって偶にはこういう物が飲みたくなる」 マヤと同じ物を共有したいとは照れくさくて口が裂けても言えない。 「ポップコーンも?」 マヤが差し出してくれた。俺は親指と人差し指で掴んで食べた。 「こっちも甘いな」 「キャラメルですから」 「君は甘党なんだな」 「今さらですか」 「もちろん知ってたよ。いつだったか、ほら、一緒にケーキ食べたに行ったよな。君はテーブルいっぱいにパフェやケーキを頼んでさ」 マヤが恥ずかしそうに頬を赤らめた。 「よく覚えてるんですね」 「覚えてるよ。君の事は全部」 マヤの頬がさらに赤くなった気がした。 「なんか今夜は優しいんですね」 「君にはいつも優しいよ」 「嘘つき。いつもはお説教ばかり言うくせに」 マヤがバリボリとポップコーンを食べた。 「はあー、お腹すいた。食べたらお腹いすいてきちゃった」 「夕飯まだなのか?」 マヤが頷いた。 「じゃあ、映画が終わったらラーメンでも食べて帰るか」 「いいんですか」 マヤが嬉しそうに目をキラキラさせた。 「遅い時間に一人にするのも心配だからな」 「また子供扱いですか」 マヤが勢いよくポップコーンを頬ばった。 「速水さんが思ってる程子供じゃありませんよ。一人でだってお店に入れるんだから」 「知ってるよ。だけど心配になるんだ」 俺もマヤと甘いポップコーンを食べた。 「どうしてです?」 マヤが俺を見た。 「それは」 マヤの事が好きだからとはさすがに言えなかった。 そんな事口にしたらギリギリの所で留めている気持ちに抑えが効かなくなる。 紫織さんとの約束がなかったら今すぐにでもマヤを抱きしめたい。 「教えない」 俺の答えにマヤが不服そうな顔をした。 「速水さんのケチ」 マヤの悪態に苦笑が零れた。 「映画始まるぞ」 シアタールームが暗くなり、スクリーンに次回上映予定の映画が流れ始めた。 2 映画館を出た後は本当に速水さんとラーメンを食べに行った。 速水さんが美味しい所があると言って連れて行ってくれたのは、駅近くの裏通りにある店で昔からやっている懐かしい感じのする店だ。 横浜で母さんと住み込みでいた店に雰囲気が似ていた。 客は私と速水さんだけで、私たちはカウンター席に座った。私はチャーシュー麺を頼み、速水さんはタンメンを頼んだ。 「速水さんでもこういうお店に来るんだ」 私は意外な感想を口にした。速水さんのようなセレブが来るような店には見えなかった。 「最近は来なかったけど、学生の頃はよく来たよ」 「へえー」 私は店の様子を伺った。壁には黄色い紙に書かれたメニューが貼ってあり、芸能人のサイン色紙がズラリと飾られていた。 「場所柄、芸能人もこっそり来る名店だ。ここは深夜四時まで営業してる穴場だからな」 速水さんが得意気に話した。 「速水さんのサインはないの?」 水を飲んでいた速水さんが咽た。 「なんで俺のサインなんだ」 「だって速水さんもそれなりに有名人でしょ」 「芸能人と一緒にするな。サインするのは君の方だ」 「えー、私なんてまだまだ」 話しているとカウンターから店主がサイン色紙を差し出した。 「あの、北島マヤさんですよね。サインお願いします」 「えっ、私のサインでいいんですか」 「はいっ!大ファンですから」 速水さんの見ている所でサインをするのが照れくさかった。 速水さんは色紙に書く私の手をじっと見ていた。 「もうっ、速水さん!」 「何だ」 速水さんが驚いたように見た。 「み、みないで」 「え?」 「だって何か恥ずかしい」 速水さんが大声で笑った。 「君も芸能人の端くれだろう」 「だって……」 「わかった。俺が書いてやろう」 速水さんが私から色紙を取り上げると、サラサラとサインをした。 「どうだ」 私のサインにそっくりな字で『北島マヤ』と日付入りで書かれていた。 「上手い。どうして?」 「芸能会社の社長ならこれぐらいは出来ないとな」 「でも私、大都芸能所属じゃないですけど」 速水さんが気まずそうに頬をかいた。 「君がうちにいた時に覚えたんだ。はい親父さん」 速水さんが色紙をカウンターの店主に渡した。 「速水さん、そりゃないでしょ」 店主が新しい色紙を出した。 「マヤちゃん、お願いします」 改めて頼まれた。 「そりゃそうか」 速水さんが愉快そうに笑った。 「俺のサインをお手本にしっかり書けよ」 「もうっ!自分のサインぐらいわかります」 私はムキになってサインを書いた。しかし、出来上がりがなぜか速水さんが書いた北島マヤのサインの方が上手に見えた。 「せっかくだから二枚飾らせてもらいます」 店主は嬉しそうに色紙を受け取ってくれた。 「ちょっと失礼。電話だ」 速水さんはそう言って店の外に出た。 速水さんがいなくなった隙に私は店主に声をかけた。 「すみません!あの、さっきのサイン」 「はい」 店主が返事をした。 「速水さんが書いた方、下さい」 店主が意外そうに眉を上げて、しげしげと私の顔を見た。 そして「どうぞ」と速水さんのサインを渡してくれた。 私は急いでサインを鞄にしまった。 早川さんとは日曜日の夜にベランダで話した。 映画の時間に間に合わなかった事を謝ると、「気にしないでいいですよ。実は僕も仕事で行けなかったんです」と言われた。 「ええー!そうだったんですかー」 私はいつものように上から早川さんの頭を見下ろした。 早川さんはマグカップを持っていた。中身はコーヒーだと聞いている。 「それで慌てて、昨日映画観てきました」 「なんかすみません」 「いえいえ。北島さんと映画の感想を話すのを楽しみにしてましたから」 それから映画の話を一時間ぐらいした。今回のリメイクの良かった点や、こうして欲しいかった所などを言ったり、好きな場面の話で盛りあがった。 「そうだ!早川さん!美味しいラーメン屋さんが映画館の近くにあるの知ってます?駅前の裏通りにあって、芸能人とかも時々来る店らしいんです」 「ああ、知ってますよ。深夜四時までやってる所ですよね」 「そうです。そうです」 「北島さんのサインありましたね」 「行ったんですかー!」 「昨日、映画を観た帰りに」 「恥ずかしいー」 「店の壁に北島さんのサインが二枚貼られてましたよ」 「えっ、二枚……」 速水さんのサインは私が持ってるのに。どうしてだろう……。 「どうかされましたか?」 心配そうな早川さんの声がした。 「いえ、何でもありません。ちょっと用事を思い出して」 「じゃあ、今夜はこれで解散しますか」 「あ、はい」 早川さんが挨拶するように手をあげてくれた。私もそれに応えてベランダから部屋に戻った。 それから寝室に行き、ベッドの脇に置いてあった速水さんがサインした北島マヤのサインを見た。 やっぱり速水さんのサインはここにある。 なんで早川さんは二枚あるなんて言ったんだろう。 お店に本当に二枚飾られてるんだろうか。まさか速水さんがまた私のサインを書いたの? 居ても立っても居られず、私はコートを着て部屋を出た。 電車に乗ってラーメン屋さんがある駅で降りた。 午後九時を過ぎていた。一昨日来た時よりも駅前は人通りが多かった。 裏通りの細い道を通ってラーメン屋さんまで行った。駅からは十分ぐらいの道のりだった。 店に入ると店主がすぐに私に気付いてくれた。 「いらっしゃいませ。今夜も来てくれたんですか」 「はい」 私は一昨日と同じカウンター席に座り、ラーメンを頼んだ。 そしてラーメンを待ちながら店内を見た。客は奥の席におじさんが一人いた。 ドキドキしながら色紙が貼られている壁に視線を向けた。 サイン色紙がズラッと並んでいた。その中に新しい物を見つける。 私が書いた物だ。 「はい、お待ちどうさま」 店主の声にハッとした。 カウンターの上に熱々のラーメンが置かれていた。 私はラーメンをすすった。 部屋に帰って来たのは午後十時頃だった。 私は寝室のベッドに寝転がり、速水さんのサイン色紙を手に取って眺めた。 ラーメン屋さんに色紙はやっぱり一枚しかなかった。 どうして早川さんは私のサインが二枚あるなんて言ったのだろう。 二枚ある事を知ってるはの私とラーメン屋の店主と、速水さんなのに。 速水さん……。 なんで一昨日の夜、早川さんと待ち合わせた映画館で速水さんに会ったんだろう。 ――あの方には会わなかったの? マンションに引っ越した時、水城さんにそう言われた。 あの方って……もしかして……。 私は勢いよくベッドから起き上がった。そして水城さんに電話した。 「マヤちゃん?どうしたの?」 水城さんの声がした。 「水城さんが紹介してくれたマンションってもしかして、もしかして……私の知ってる人が住んでるんですか?」 水城さんはクスリと笑った。 「そう思うなら確かめてみればいいじゃない」 「えっ、確かめるって」 「直接本人に聞いてみれば。マヤちゃんの部屋の真下にいるんでしょう。その人」 水城さんにそこまで言われればいくら鈍い私だってわかる。 「水城さん、そこまで知っててひどいです!」 「頑張ってね。じゃあ」 水城さんが電話を切った。 どうしよう。私の部屋の真下にあの人が……。 やだ!苺のタオル渡しちゃった!ブラジャーも拾ってもらってる! 恥ずかしさに顔が熱くなった。枕に顔を埋めて手足をバタバタさせた。 恥ずかしさが体中を駆け巡った。 それから十分ぐらいベッドで暴れ回った後、疑問が浮かんだ。 どうして本当の事を言ってくれないの? 偽名まで使って……。知らないふりして……。 もしかして、遊ばれてる? 急に腹が立ってくる。 私は怒りにつき動かされて部屋を出た。 そしてエレベーター脇の階段で一つ下の階に下りた。 早川さん、いえ、あの人の部屋の前で立ち止まりインターホンを押した。 つづく 2018.3.21 |