―――  美  幸(みゆき)  ――― 


ニ章

4 はじめてのケンカ





 幸ちゃんと付き合ってもうすぐで半年が経とうとしていた。
私は4月から念願の図書館に図書館司書として就職が出来た。
勤務地は千葉から稲毛に変わる。家から自転車で来られる距離だ。
幸ちゃんも自分の事のように喜んでくれた。
 季節は春から夏に変わろうとしている。
図書館の側に立つ立派なケヤキの木は緑の葉を豊かにしていた。
「しかし、いつ来ても見ごたえのある建物だな」
幸ちゃんが図書館の正面に立ち、その外観眺める。
円柱型のお城のような建物は他の市立図書館とは一味違う味わいを出していた。
「素敵でしょ?イギリスのオックスフォード大学にある図書館を模倣して建てられたんだって」
私は幸ちゃんの隣に立って少し自慢気に説明した。
地上4階地下1階建てになっていて、玄関ホールの1階から4階までは吹き抜けになっている。
物珍しさから千葉の観光名所としてガイドブックにも載っていた。
「ラドクリフカメラだっけ。しかし、不思議な名前。全然カメラって感じじゃないのにな」
幸ちゃんが私を見る。一週間前に切った短めの髪を愛しく感じる。
「カメラってラテン語で丸天井の意味なんだって」
私の説明に幸ちゃんが納得したように頷く。
「なるほど。そういう意味のカメラだったらわかるな」
幸ちゃんは丸いドーム状の青い屋根を見つめた。
「今日は早番だったから、午後5時に上がれるよ」
私は甘えるように幸ちゃんの手を握った。こういう事がやっと自然とできるようになった。
「じゃあ、それまで読書してる」
日曜日になると、いつも私の働く図書館に幸ちゃんは遊びに来てくれた。
私が昼休みになると、中庭で私の作ったお弁当を食べるのが最近の私たちだ。
「幸ちゃんの貴重なお休みにいつも来てくれてありがとう」
幸ちゃんが繋いだ手にキュッと力を入れる。
「バカ、あんまり可愛い事言うなよ」
照れくさそうに幸ちゃんが私から視線を外す。微かに幸ちゃんの頬が赤くなっていた。
 昼休みが終わると私はカウンター業務に戻った。今日は一階の一般図書を担当していた。
時々幸ちゃんが私の前をさり気なく通ってちらりと私を見る。私は視線が合う度に口元を緩めた。
「本当に仲がいいのね」
資料を置きに来た同僚がそんな私たちを見て微笑む。
もうすっかり周囲に私たちの事は知られている。
恥ずかしさと嬉しさが溶け合ったような感情が胸にうずいていた。



 仕事が終わると私は幸ちゃんの車に乗って、彼の家まで行った。
月曜日が休みだったので、いつも日曜日の夜はお泊りだ。
幸ちゃんの部屋には私の歯ブラシと少しの着替えが置いてある。
ちょっと同棲しているみたいで嬉しかった。
夕飯はどこかに食べに行くか、幸ちゃんが何か作ってくれた。
今日は幸ちゃん自慢のビーフカレーだ。
「美味しそう」
テーブル代わりのコタツの上にお皿が並べられる。
「今朝作ったんだ。圧力鍋を使ったから、お肉が柔らかくなってるよ」
隣に座る幸ちゃんが説明する。
「凄い、幸ちゃん圧力鍋まで持っているの?」
「この間深夜の通販番組見てたら、欲しくなって買ったんだ」
欲しいと思う幸ちゃんが可愛く思えて私は笑う。
「今日初めて使ってみたんだけど、どうかな?」
味を伺うように幸ちゃんが見る。
私は幸ちゃんが見ている前でパクリと最初の一口を口にした。
「美味しい!絶対私より幸ちゃんの方が料理上手だよ」
「じゃあ、結婚したら俺が専業主夫になって、美和子に食べさせてもらおうかな」
「えっ」
幸ちゃんがさり気なく口にした言葉に私はスプーンを持つ手を止めた。
私の視線に気づき、幸ちゃんもスプーンを置く。
「冗談だよ。ちゃんと俺も働くよ。美和子の為なら働くのも楽しいよ」
「いや、そうじゃなくて……今、結婚って」
私はそこから先の言葉が出てこない。
「あっ」
幸ちゃんが私が何に引っかかったのか気づく。
「いつか美和子と結婚したいって思ってるよ。俺は美和子との恋が最後の恋だと思っている。
それだけ真剣に美和子の事が好きなんだ」
嬉しいって言葉よりも嬉しい事を言いたい時、何て言えばいいんだろう。
何を口にしてもこの感情を表現できない気がして、私は黙ったまま幸ちゃんを見つめた。
「美和子?」
幸ちゃんが不安そうに私を見つめる。段々目の前の幸ちゃんが涙で歪んで見える。
「ごめん」
私は洟をすする。
「嬉しくて、嬉しくて、涙が止まらないの」
人差し指で拭っても拭っても涙が落ちて来る。
「まさか、先生からそんな事言ってもらえるとは思わなかった」
幸ちゃんが私を抱き寄せる。
「美和子、また先生に戻ってる」
耳元に幸ちゃんの落ち着いた声が響く。
「今は先生って呼びたいよ。だって、ずっと片思いしていた先生が私の幸ちゃんになったなんて、
やっぱり信じられないもん」
「そんなに思ってくれていたんだ。ありがとう」
幸ちゃんが私の髪を撫でる。
「凄く好きだったよ。北川先生の事」
私は幸ちゃんを見つめる。幸ちゃんが口元を微かに上げる。
そして、私たちは静かに唇を重ねた。



 朝起きると、隣に幸ちゃんが眠っていた。
幸ちゃんが私の為に一組布団を用意してくれていたけど、
それはまだ一度も使った事がない。
私たちはいつも一つの布団の中でくっついて眠っていた。
枕元にある幸ちゃんの目覚まし時計を見ると、まだ午前6時だった。
幸ちゃんが起きるのは午前7時だ。私はじっと隣で眠る幸ちゃんの顔を見つめた。
その視線に気づくように幸ちゃんがゆっくりと瞳を開ける。
眼鏡のない瞳はいつも私を時めかせる。
「今何時?」
幸ちゃんが聞く。
「6時だよ」
「そうか」
眠そうに幸ちゃんが目をこする。
「もう起きる?」
私が聞く。
「ううん。まだこうしてたい」
幸ちゃんが甘えるように私に腕を回し、抱き寄せる。
触れた肌と肌に私は昨夜の情事を思い出して、胸がキュンとする。
片思いをしていた時の好きは辛い好きだったけど、
恋人として感じる好きは幸せな好きだった。
「本当にあの北川先生とこんな風になれるとは思わなかった」
私の言葉に幸ちゃんが笑う。
「俺も赤ジャージの高木さんとこんな日が来るとは思わなかった」
赤ジャージに私は苦笑する。
「ねぇ、幸ちゃん」
「うん?」
「教え子の私の事ちょっとは好きだった?」
ずっと聞いてみたかった事だったけど、中々怖くて聞けなかった。
だって、あの頃の私は先生から逃げ回ってばかりいたのだ。
「いや、それは全くない。だって、手のつけられないじゃじゃ馬で、
授業はサボりまくるし、人の顔を見ればゴキブリを見つけたような顔するし、
美和子のお母さんは怖いし、とにかく担任として大変だった」
予想していた言葉だったけど、それをハッキリ言われると落ち込む。
「でも、途中から気になっていたよ。
一生懸命勉強する前向きな姿は好感を持てた。それに……」
幸ちゃんが私をじっと見る。
「急に北川って呼びつけにしていたのが先生≠ノ変わったよね。どうしたんだろうって気になったよ」
確認するように幸ちゃんが私を見る。
「そうだっけ。忘れちゃった」
本当は覚えていたけど、照れくさくて言いたくなかった。
「じゃあ、静岡に転勤する時寂しかった?」
私の言葉に幸ちゃんが大きく頷く。
「美和子に会いたいなって、ずっと思っていたよ。それが恋だったって気づいたのは再会した時だよ。
美和子飲み会来なかっただろ?あの時どれだけがっかりした事か。自分でも未練がましいと思ったけど、
一目だけでも美和子に会いたいと思って、ホームで待ってたんだ。そしたら、別人のように綺麗になった
美和子が現れて、冬なのに春が来たって思った。その美和子に好きって言われた時、どれだけ動揺したか。
でも、美和子は俺の元教え子だし、そんな関係になっていいのか迷ったんだ。結局はこうなってしまったけど、
自分の気持ちに正直になれて良かったと思う」
幸ちゃんの言葉に胸の奥が熱くなる。
「そんな事言われたら、幸ちゃんと離れられなくなるよ」
私はまた泣きそうになる。いつも幸ちゃんに泣かされてばかりだ。
「なんで今日は月曜日なんだろう」
毎日日曜日だったらずっと幸ちゃんと一緒にいられるのにって思ってしまう。
「私もここに越して来ようかな。そしたら、朝と夜は一緒にいられる」
私の言葉に幸ちゃんが、急に険しい顔をする。
「幸ちゃん?」
何も言わずに幸ちゃんは布団から起き上がると、近くに置いてあった白いTシャツを着た。
「美和子」
私に背中を向けたまま幸ちゃんが口にする。
「実はまた静岡に行く事になった」
「えっ」
私も布団から起き上がり、幸ちゃんの近くに行く。
「来月からだ。静岡で新規の校舎を作る事になって、そこが軌道に乗るまで行って来て欲しいって
言われたんだ。期限は二年だ」
急に幸ちゃんが小さく見えた。私は幸ちゃんの背中を抱きしめた。
「嫌だ。そんなの嫌。やっと一緒になれたのに」
掴んだ幸せを私は手放したくなかった。もう幸ちゃんのいない人生なんてありえない。
「俺も美和子と離れたくはない。でも、この仕事も辞められないんだ。勝手な言い分だけど、生きがいを
感じているんだ」
「だったら、私が仕事辞めてついて行く。一緒に静岡に行くよ」
一年かけて念願の図書館司書になれたけど、幸ちゃんと会えないんだったら、辞めてもくいはない。
「それは絶対ダメだ。
美和子が頑張って手に入れた仕事を俺なんかの為に犠牲にしたくない。
それに二年で帰って来るから美和子が辞めるのはもったいないよ」
背中を向けていた幸ちゃんが私の方を向く。
「だって、じゃあどうすればいいの?私たちもう毎日のように会えなくなるんでしょ?
そんなの嫌だ。幸ちゃんとずっと一緒にいたいよ」
稲毛と新検見川はいつだって会いたくなれば会える距離だ。でも、静岡と稲毛は遠すぎる。
「転勤まで後、二週間ある。二人で考えよう。大丈夫。きっと何とかなるよ」
幸ちゃんが私を落ち着かせるように抱きしめた。





 幸ちゃんと初めてのケンカをした。
もうどうやって仲直りをしたらいいのかわからない。今日は幸ちゃんが静岡に発つ日だ。
私は図書館のカウンターでいつものように貸し出しと返却作業をしていた。
正面の壁にかかる時計は私を追い詰める。秒針が進むごとに幸ちゃんが遠くなっていく。
 午後二時の新幹線で幸ちゃんが静岡に行く事を昨日知った。仕事を休もうかと思ったけど、意地を張り、
素直に会いに行けず、結局いつも通り図書館にいた。
「高木さん、聞いてます?」
「えっ、はい」
いつの間にか目の前に上司がいた。何か言われた気がしたけど、
全然耳に入って来ない。
「すみません。もう一度お願いします」
私は深く頭を下げた。上司がため息をこぼす。
「今から地下で蔵書の整理と補修をお願いします」
上司はそれだけ言うと私の前から立ち去る。
私はカウンターから抜けると、同僚と交代して地下一階の蔵書室に階段で降りた。
 電気をつけると、天井まである高い本棚がズラリと並ぶ。
作業台の上には仕分けをする本と、修理をする本が並んでいた。
時々返却された物の中に字を書いたり、子供のらくがきがあったり、ページが破られたものがあった。
その本たちの修理も私の仕事だ。
私は作業台の前の椅子に腰を掛けると本の補修から始めた。
「うわっ、これ酷い」
本全体にジュースをこぼしたような跡があった。その姿を見た時本が泣いている気がした。
「おまえも泣いているのね」
その本が今の自分と重なる。
この二週間、幸ちゃんと会う度に口論になった。
私がついて行くと言っても幸ちゃんは絶対に譲ってくれない。
美和子には美和子のやるべき事があると何度も言われたけど、幸ちゃんと一緒にいる以外私には
何もない気がした。幸ちゃんさえ側にいてくれれば私はどんな仕事だっていいのだ。
幸ちゃん程生きがいを持ってここにいる訳ではない。それを何度も話したけど、幸ちゃんは理解して
くれなかった。会う度に泣いて、傷ついて私はもう疲れ果てた。もしかしたらこのまま幸ちゃんと
別れる事になるかもしれない。
「嫌。そんなの絶対に嫌」
口にした言葉が蔵書室に響く。その時、私はハッとしたように時計を見た。
午後十二時半を過ぎた所だった。今から行けばもしかしたら幸ちゃん会えるかもしれない。
そう思った瞬間、私は走り出していた。
外に出てタクシーを拾うと駅まで行った。改札を通ってホームに行くと、丁度稲毛駅から
十二時五十七分発の横須賀行きの快速電車が入って来る。
私はすぐに飛び乗った。東京には午後一時五十分頃に到着するはずだ。
それから新幹線のホームまで全力て走れば間に合うかもしれない。
学生の頃足は早い方だった。
 市川を過ぎると江戸川を越えて東京都に入る。緑色の土手が広がり子供たちが、
サッカーをしている光景が見えた。そういえば幸ちゃんも小学生の時サッカーをやっていたと言っていた。
その時の思い出を小学生みたいな顔をして話す幸ちゃんが愛しく思えた。少年時代の幸ちゃんは
やんちゃで、弟を連れ近所を走り回っていたという。いつも帰宅する時は二人そろって泥だらけで、
お母さんを悩ませたという。私はそんな時の幸ちゃんにも会ってみたいと思う。もっともっと幸ちゃんの
話を聞きたい。そう思うとまた泣きそうになる。
追い詰められた想いが私の心を狂おしくさせる。そして、やっと東京駅に着いた。
総武快速線は地下に到着する。午後一時四十七分。
私が見立てた時間より三分早く到着した。
扉が開くと堰を切ったように走り出した。
人ごみを掻き分け、長いエスカレーターを二つ駆け上った。
もう呼吸が止まりそうだ。苦しい。しかし、休憩なんかしている時間はない。
午後一時五十二分。残された時間は八分。私は中央通路を通って新幹線乗り場を目指した。人の群れが
私の行く手を阻む。千葉では考えられないぐらいにいごちゃごちゃとしていた。「すみません、通して下さい。
すみません、通して下さい」
そう口にしながら走った。新幹線乗り場に着くと改札口付近にある券売機で入場券を買う。
手が震えて上手く財布から130円を掴めない。
午後一時五十八分。時間が迫る。焦る。
やっと取り出した小銭を床に落としてしまう。もう拾っている暇がなかったから、代わりの百円玉を入れ、
私は入場券を買った。
 午後一時五十九分。一目でも幸ちゃんに会いたい。
改札を通ると、電光掲示板のひかり475号岡山行きの表示が点滅していた。
私はエスカレーターを駆け上がる。ホームに着くと新幹線の扉が閉まった。
そして、ゆっくりと旅立つ。無駄な事だとわかっていたけど、新幹線に向かって走った。
ホームの終りまで、走ると転んで尻餅をついた。
もう新幹線はホームから離れ遥か遠くにあった。私は幸ちゃんに会えなかった。




 あれから一週間が経って幸ちゃんは毎日私にメールをくれた。
それは静岡での様子だったり、大検が間近で忙しいという内容の物だ。
でも、電話は一度もくれなかった。自分が予備校生だった時の事が過ぎる。
休日もなくて先生たちは学生に勉強を教えていた。
最後の追い込みを一緒に乗り切ってくれた。
そのおかげで今私がある。
きっと静岡でもそういう状況になっていると、理解する事はできるけど、
電話をくれない幸ちゃんに私は苛立っていた。
幸ちゃんの都合で私たちは離れる事になったのだ。
だったらもう少し私に気を遣ってくれてもいいと思う。
週に一度ぐらい電話してくれたっていいじゃないか。
そんな事を思い、ため息をつく。
午後九時、私は自分の部屋にいた。いつもだったらまだ幸ちゃんといる時間だ。
ベッドの上に座り、私は携帯電話を眺めた。
そして、思い切って通話ボタンを押す。
しかし、出たのは留守電のメッセージだった。
私は何も残さず電話を切った。ベッドにゴロンと横になる。
もしかしたら着信を見て掛けてきてくれるかもしれない。
そう思い、一晩中携帯電話を握り締めていたが、その日はかかって来なかった。
もしかたら、浮気でもしているのだろうか。急に素っ気無くなるのはそういう事だろうか。
不安な事ばかり浮かぶ。考えれば考える程幸ちゃんがわからなくなる。
それから、幸ちゃんが電話をくれたのは三日後だった。
「ねぇ、どうしてすぐに電話くれなかったの?」
私は彼の電話に出るとすぐにそんな事を言ってしまう。
「ごめん。大検が忙しくて」
今日は七月の二十八日だ。幸ちゃんが静岡に行って二十八日が経つ。
「八月になったら帰って来れるの?」
「多分無理だ。大学受験の子を対象にした夏期講習があって帰れない」
「そう、じゃあ、もういい」
私は感情に任せて電話を切った。その後すぐに幸ちゃんから電話があると思ったけど、
何もなかった。メールもない。
会いに行ける距離だったらすぐに仲直りできたけど、私たちはすれ違ったままでいた。
幸ちゃんはこの日を境にメールをくれなくなった。
私も自分からメールを出すのは何か悔しくて出来なかった。
気づけば、私は二十二歳の誕生日を迎えたが、幸ちゃんからは何もない。
季節は秋になった。図書館の側のケヤキが紅く色づく。
そして十月に真由美の結婚式があった。
幸ちゃんも招待されている事を知っている。
今は顔も見たくないという心境だったけど、親友の真由美の式を欠席する事も出来なかった。
 

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