―――  美  幸(みゆき)  ――― 


三章

2 中絶と失踪





 お見合いの日から二日経つ。今日は月曜日で図書館は休みだ。
だから私は憎い男の子供を堕ろす為に電車に乗る。
船橋で東武野田線に乗り換え柏に向かう。
あの宮崎という医者がいるのとは違う別の病院に行く。
稲毛からはおよそ一時間で到着する。憎い男の子供だとわかっていても、堕胎するという行為は
私に後ろめたさを持たせた。だから、知り合いのいない遠い場所を選んだ。
インターネットで調べた住所を頼りに歩く。東口改札を通って大通り沿いを歩く。
ショッピングセンターが何件か並び、交差点には目印のマクドナルドが見えた。
そこで私は左に曲がって裏通りに入る。
すぐにコンビニが見えて、その奥に目指す病院が見える。
二階建ての色あせた白い建物だった。
中に入ると、病院独特の薬剤の匂いが微かに鼻を霞める。
ここは産婦人科と婦人科しかない。
受付に行くと問診票を渡され、待合室のピンク色のソファに腰を下ろすと、私はそれを
名前から順に質問事項を埋め、最後に中絶希望と記入した。
その字を見た時、いたたまれない気持ちになる。
しかし、私にはこうするしかない。何度考えても一人で育てる事なんてできないし、
早く幸ちゃんとの事を全てなかった事にしたいのだ。

「中絶をご希望ですか?」
一時間待って診察室に入ると四十代ぐらいの女医がいた。
眼鏡を掛けていてショートカットだ。
水色のブラウスの上に白衣を羽織っている。
「はい」
自分で口にした一言がまた胸に刺さる。
さっきエコーで見たお腹の子が殺さないでと呼びかける。
「最終月経日とエコーの写真から考えると十週目に入る所です。母体保護法で二十一週と
六日目まで子供を堕胎する事ができますが、基本的には十二週に入るまでに中絶手術を行います」
私の前に座る女医が淡々と話す。
「十二週以降は中絶できないんですか?」
思わずそんな言葉が口を出ていた。
「十二週以降も中絶はできますが、死産という扱いになります。赤ちゃんが大きくなっているので、
出産と同じように陣痛を起こして行いますから、体への負担は大きいです。入院もして頂く事になります」
「では、今の週数で中絶手術を行うと簡単に終わるという事ですか?」
私の問いに女医が考えるように間を置く。
「比べれば簡単に済むかもしれませんが、やはりそれなりに体に負担はかかります」
「負担?」
「まず手術の前日に入院して頂き、ラミナリアという棒状の樹脂を入れて子宮口を広げる処置を行います。
それから翌朝に手術は行われ、手術前の処置をしてから、点滴から麻酔を流します。そして金属の棒で
胎児を掻き出します。時間にしたら三十分ぐらいの手術になりますが、妊娠できなくなるというリスクも
あります」
女医の言葉に私は手が震えていた。動悸が早くなり目の前が白くなる。
――胎児を掻きだす。その一言が自分の行う事に対する残酷さを浮き上がらせた。
「どうかされましたか?」
「えっ」
女医の言葉に私は顔を上げる。
「いえ、何でもないです」
「それでは来週手術の予約を入れて大丈夫ですか?」
女医が淡々とした様子で聞く。
「あっ、……はい」
私は頷く事しかできなかった。

 産婦人科の帰り私は惨めな気分を味わいながら電車に乗った。
エコーに写る我が子の写真には丸い頭と丸い体がくっついて、この間は見えなかった
手と足が小さく生えていた。この子が成長している。一生懸命に生きたいって訴えかけてくる。
六日後に私はその子を殺してしまう。どうしたらいいのだろう?やっぱり一人じゃ答えなんて出せない。
真由美に言われた通り幸ちゃんに会いに行った方がいいのだろうか。
でも、それで答えが出るのだろうか?
幸ちゃんに会っても結局は子供を堕す事を選択しなければならないんじゃないだろうか。
ふと私はつり革に捕まる人物に目がいった。
一度しか会った事はないけど、覚えている。幸ちゃんが連れて来た女だ。
その女は男と一緒にドアの前に立っている。
その男は幸ちゃんとは似ても似つかない別人だ。
他人とは思えない距離で顔を寄せ合い、何か話している。
そして一瞬だけど唇と唇を重ねた。
「あっ」
思わず私は声を漏らす。その様子が信じられない。
幸ちゃんという彼氏がいながら、あの女は浮気をしていた。
カァーと体中が熱くなる。膝の上に置かれた手にグッと力が入った。
電車が駅に着き止まる。女が降りて行く。
私は椅子から立ち上がると、女を追いかけるように電車を降りた。
しかし、もうその姿は人ゴミの中に消え、私は見つける事ができなかった。
もしも、幸ちゃんがあ女の浮気を知ったらどうするだろう。
私の元に戻ってくる可能性は少しでもあるのだろうか。
無意識に私は自分のお腹を触る。幸ちゃんと私にこの子を育てる未来はあるのだろうか。
そんな事をぼんやりと考えていた。



 翌日の火曜日。今日もバカみたいに晴れていた。
私は重たい気持ちを引き連れて職場に向かう。
今日は早番で午前8時半から午後5時までの勤務だ。
図書館の前でバスを降りると、いつものように公園を横切る。
今は葉っぱしかない桜並木を通ると特徴のある円柱の建物が見えてくる。
幸ちゃんと新婚旅行はイギリスのオックスフォードに行こうと話していた。
二人とも本場のラドクリフカメラを見てみたいという意見からだ。
旅行のパンフレットを二人で眺めていたし、7月には籍を入れて新しい苗字でパスポートも
取るつもりだった。
「高木さん、大丈夫?」
地下の書庫で整理をしていると、一階から降りて来た同僚に言われる。
「顔色が凄く悪いけど」
「えっ、あぁ。大丈夫ですよ」
本当は全然大丈夫じゃないけど、そう言うしかない。
「高木さんにお客さんが来ているよ」
「お客さん?」
もしかして幸ちゃんかもしれない。なぜかその時ふとそう思った。
私は手にしていた本を書棚に置くと、階段で一階に上る。
カウンターの方に行くと男の人がいた。
「こんにちは」
私はその人物の顔を見てがっかりした。
「……こんにちは。宮崎さん」
渋々答える。彼は土曜日にお見合いをした産婦人科医だ。
私はハッキリとお断りをした。まさかその事で来たのだろうか。
「仕事中ごめんね。ちょっと話があって」
意味深に宮崎さんが私を見る。
彼はチェックのシャツにジーパンというカジュアルな服装だ。
今日はお休みだろうか。
「はぁ」
 私は少し早い昼休みをもらって宮崎さんを中庭に案内した。
外に出るとギラギラの陽射しが突き刺さり、蝉の鳴き声がBGMに流れる。
「ここなら、誰もいませんから」
木の下の白いベンチに座る。風が吹いていたので、暑さが少しは和らいでいた。
宮崎さんは私との間に一人分の空間を作って座る。
「検診さぼったでしょ?」
開口一番に彼がそう言う。もう額に汗を浮かべていた。
「母子手帳はちゃんともらいに行った?」
私は目をパチクリとさせた。
「それはどういう意味ですか?」
「僕の病院に来たでしょ」
宮崎さんの言葉にハッとする。
「私が妊婦だってわかってお見合いしたんですか?」
「もちろん。お見合い写真を見たときに患者さんだと思ったよ。
だから、お見合いしたんだ」
宮崎さんの言葉に私は顔をしかめる。
「変な人ですね。妊娠している女とお見合いするなんて」
「それはよく言われる。だから三十七になるこの年まで独身なんだよ」
宮崎さんが得意気に言ったので、私は苦笑した。
「どうしてお見合いの席でその事を言わなかったんですか?」
「それは君の様子がおかしかったからだよ。
どう見てもお見合いに来る服装じゃなかったし、
隣に座るお母様の方を一度も見なかった。それでわかったんだよ。
君は妊娠の事内緒にしてるって」
彼の推理に思わず口が開いてしまう。
「鋭いんですね」
まさかあのお見合いの席で彼がそこまでの事を気づいていたとは思わなかった。
「見かけによらずね」
彼が自分の事を茶化すように少し出たお腹を叩く。
「まぁ、正直言うと君の嘘にすぐ気づいたんだよ。健診に来た時来月結婚するって言っていただろ?」
彼が確認するように私を見る。意外と顔立ちは整っていた。
「はい」
私は頷く。
「お腹の子は別れた婚約者の子供?」
宮崎さんが確信を持って私を見る。
「はい」
私は正直に頷くしかできない。本当にこの人は見かけによらず鋭い。
私の中の秘密をどんどん暴かれていくようで落ち着かなかった。
「その婚約者は君が妊娠している事知っているの?」
その問いに私は彼から視線を逸らし、太腿の上に乗せていた両手をギュッと掴んだ。
「やっぱり言ってないのか。だったらちゃんと伝えなさい。高木さん一人で抱え込むには辛いだろう?」
しっかりとした声で彼が言う。その言葉が張り詰めいていた私の気持ちに届く。
「子供は女性の体に宿るから、女性だけが問題を抱え込んでしまう事が多いんだけど、
僕はね、やっぱり相手の男性とちゃんと話し合う必要があると思うんだ。
赤ちゃんは二人を選んで命を宿したんだからさ。
それに妊婦さんは精神的にも弱くなっているから、支えが必要だ。
一人で決めて中絶して、その後後悔している女性を僕は沢山見て来たよ。
それは一生の心の傷になる。堕ろせば綺麗に忘れられるという訳ではないんだ」
彼の言葉が胸に沁みて、私は涙ぐむ。
「だから、ちゃんと彼と話し合って向き合うべきだと思う」
宮崎さんが静かに私を見る。
「でも、もういいんです。彼は私を裏切ってよそに子供を作った人です。
そんな人に会いたくありません」
キリリと胸の奥が痛む。彼への憎悪が私の中で渦巻く。
とてもじゃないけど、今は会いたくない。顔も見たくない。
「5日後に中絶します。もう決めたんです。これ以上彼の事で振り回されたくないんです」
「高木さんがよくてもお腹の子の事を真剣に考えた事あるのか?
父親にも知らされず、捨てられるだけの命の重みを君は知っているのか?
もういいとか、そんなんじゃないだろ?」
宮崎さんが鋭く私を見る。彼の言う事はもっともだと思う。
自分で望んだ命を私は捨てようとしてる。でも、私にはこうする事しかできない。
「じゃあ、私に産めって言うんですか?一人で育てろって言うんですか?」
感情が高ぶり、声が大きくなる。
「憎い男の子供を愛せって言うんですか?私を捨てた男の子供を産んで育てろって言うんですか?」
そこまで口にすると、後は言葉にならない。
涙が溢れる。悔しくて悲しくて、嗚咽が漏れる。
どうしてこんな想いをしなければならないんだろう。
「すまない。君を追い詰めるつもりはない。でも、冷静に考えて欲しい。
彼に会って欲しい」
それだけ言うと、宮崎さんはベンチから立ち上がる。
「僕は今朝中絶手術をして来たんだ。患者さんはいつも泣くんだよ。
産んであげられなくてごめんって手術の後に必ず泣くんだ。
そんな姿を見ると産科医として僕はどうしたらいいかわからない。
だから、高木さんにも同じような涙を流して欲しくないんだ」
彼がベンチに座ったままの私を見下ろす。
「ごめん。余計な事だったね。君の人生だ。君が想う通りすればいい」
宮崎さんが歩き出す。私はその背中をじっと見つめていた。





 5日が経ち私は再び柏に向かっていた。
夕方5時に病院に行き、一晩入院し、翌日の朝に手術をする。
一緒に暮らす母には今夜は真由美の所に泊まると言ってある。
私はまだ母に子供の事を話していない。結局最後まで話せなかった。
堕ろした後もきっと何事もなかったように日常が続いて行くのだ。
稲毛から各駅電車に乗る。その方が座れるからだ。
入り口近くの椅子に座ると、電車が動き出す。次は新検見川だ。
幸ちゃんが住んでいる場所だ。
静岡からの転勤が終わった後も彼は新検見川で暮らしていた。
平日は稲毛で会って、週末は幸ちゃんのアパートで過ごした。
日当たりのいい一階の部屋だ。
いつ行っても綺麗に片付けられていて、幸ちゃんの人柄が伺えた。
新検見川か稲毛で六月に二人で暮らす新居を探す予定だった。
2LDKで、駅から徒歩十分以内で、スーパーとコンビニが徒歩5分以内にある所だ。
もう何回か二人で不動産屋さんにも行って探してもらっていた。
だから、見つかり次第連絡をもらう事になっていたけど、その前に私たちは別れた。
 幸ちゃんと最後に会ったのはあのカフェだ。あの日からもう二ヶ月以上経つのに、
今でも鮮明に思い出す事が出来る。私より綺麗な女と顔色の悪い幸ちゃんの姿だ。
本当に信じられなかった。いつも私に誠実で、優しい幸ちゃんが浮気をするなんて、
悪い冗談にしか思えなかった。今でも半分信じていない私がいる。
何か私と別れなければならない理由があって、
幸ちゃんは嘘をついたんじゃないかと思うのだ。
そう思う一方で、それはただの幻想にしか過ぎないともう一人の私が言う。
所詮男なのだ。綺麗な女がいたらそっちに行く。幸ちゃんも最後は男だったという事だ。
 そこまで考えて泣けてくる。そんな男の子供を妊娠した自分が悔しい。
あの女を抱いた体で私を抱いた幸ちゃんが許せない。汚らわしいと思う。
下腹部をかばうように撫でると、お腹の中で赤ちゃんが泣いている気がした。

捨てられるだけの命の重みを君は知っているのか

不意に宮崎さんの言葉が浮かぶ。
その言葉に罪悪感が募る。疎まれ、捨てられる命。
お腹の子は今何を感じているのだろう。私を恨んでいるだろうか。
憎んでいるだろうか。
それとも父親に会いたいと思っているだろうか。
そう思った瞬間、私の中の何かが電車を降りさせた。
そこは東船橋だった。時計を見ると丁度午後四時になる所だ。
この時間幸ちゃんは予備校で勉強を教えている。
ホームに千葉行きの各駅電車が入ってくる。私はすぐにその電車に飛び乗った。




 千葉駅西口の改札を通ると懐かしい景色が広がる。短大を出た後、一年だけ千葉で働いていたが、
使っていた改札は東口だった。幸ちゃんと待ち合わせていたのも東口だった。だから、この場所に
来たのは五年ぶりになる。歩道橋を降りるとロータリーを囲むようにバス停があり、その前には
以前なかったビルが建っていた。
予備校がある大通りを歩くと、高校生とすれ違う。
この辺りは大学進学の為の予備校もいくつかあった。
コンビニの前まで来ると、相変わらず煙草を吸いながら談笑している学生がいる。
髪の色は金だったり、赤だってりして、私はただ懐かしいと思う。
真由美たちと毎日この場所で過ごした。先生も一緒だった。
他愛のない雑談をしたり、時には人生の悩みを話したりとしていた。
 コンビニを通り過ぎてビルの中に入るとエレベーターの上りボタンを押した。
すぐに扉が開き、後輩たちらしき学生とすれ違う。
中に入ると、このエレベーターに閉じこめられた事を思い出す。あの時は本当に怖かった。
あれから一ヶ月ぐらい私はエレベーターに乗れなくなってしまった。
もし乗るとしても一人では絶対乗らなかった。
3階のボタンを押すと、コンビニの前にいた金髪たちが入って来る。
一人がこれから補習だと言っていた。私はその子と一緒に3階で降りた。
職員室前のエレベーターホールにはやっぱり普通の高校に通っていたら出会えないような人たちがいた。
私は目を細めて彼らを見つめる。あの頃の私は何も知らない子供で、ただ突っ張っていた。
赤いジャージを着ていたのは世の中に対して私なりに不満をぶつけたかったかもしれない。
「何か御用ですか?」
職員室からスーツ姿の女性が出て来る。見かけない顔だ。
幸ちゃんを呼んでもらおうか迷う。ここまで来てやっぱり尻込みしてしまう。
もしも彼に嫌な顔されたら、子供なんて関係ないと言われてしまったらと、
悪い考えが浮かぶ。
「いえ、ちょっと懐かしさから立ち寄っただけです。失礼しました」
私は頭を下げて再びエレベーターの方に向かった。
肝心な所で行動ができない。私は昔から弱虫のままだ。
「高木さん?」
エレベーターホールで立っていると、肩をポンと叩かれた。
「あっ、村上先生」
振り向くと知っている顔があった。校長の村上先生だ。何だかホッとする。
「久しぶりだね。遊びに来てくれたの?」
村上先生は五年前と変わらないダンディな口ひげを生やしていた。
「あっ、はい」
「もしかして北川君に会いに来た?」
村上先生は私と幸ちゃんが結婚する事を知っていた一人だ。
「……はい」
沈黙を置いて答える。小心者の私は頷いた瞬間手に汗をかいた。
「そうか。でも、北川君はもうここにはいないんだよ」
村上先生がため息を一つ落とす。
「えっ?」
「七月三十一日で退職したんだ」
それは私にとって全く思いもよらない事だ。
幸ちゃんはずっとこの学校で先生をするのだと思っていた。
静岡に転勤になった時もこの仕事を辞めたくないと、私に言っていたのだ。
「退職?どうして?」
「一身上の都合でというヤツだ。高木さんはわかるでしょ」
村上先生が意味深に笑う。
「それって、まさか私との結婚がなくなったからですか?」
私の言葉に村上先生が白髪交じりの眉を上げた。
「あぁ。そうだ。そうだよ。じゃあ、僕は授業があるから、またいつでも遊びに来て」
不自然な間を開けて答えると、村上先生はそそくさと職員室に行く。
そのタイミングでエレベーターの扉が開き、私はすぐに乗る。
エレベーターは私一人しか乗っていない。
一階のボタンを押すと扉が閉まり、エレベーターが下る。
今の村上先生に何となくだけど、引っかかる。しかし、それが何かわからなかった。
 私は外に出ると三ヶ月ぶりに幸ちゃんの携帯電話に掛けた。
結婚式を取りやめただけで退職した幸ちゃんに何か引っかかるのだ。

「おかけになった電話番号は現在使われておりません。
恐れ入りますが番号をお確かめになって、おかけ直し下さい」

 電話をするとすぐにそんなアナウンスが流れる。
何度かけても同じアナウンスが流れる。幸ちゃんが携帯電話を解約したんだ。
私と連絡を取りたくないから?
仕事を止めたのもただ単に私を避けている為だろうか?
それとも私の知らない何かがあったのだろうか。
そこまで考えると、いてもたってもいられない。
私は駅に向かうと一、ニ番線のホームに立つ。
電光掲示板を見ると五分後に三鷹行きが来る事がわかった。
午後六時になるのにまだ空は明るさを残していた。紺色の空にオレンジ色の夕陽が沈んでいた。
ふと、「明日も晴れるね」と言う幸ちゃんの声が聞こえた。それはいつの事だったのか思い出せない。
予備校生の時も幸ちゃんとは同じ路線だったので、よく一緒に電車を待った。
三鷹行きの電車が到着するアナウンスが聞こえると、黄色いラインの電車がホームに入って来る。
千葉が終点になるので、降りる人は沢山いた。電車に乗ると幸いな事に席を確保する事が出来た。
午後5時以降になると中々席に座れないのだ。私の降りる稲毛駅を一つ飛ばして新検見川で降りた。
幸ちゃんのアパートは南口側にあった。歩いて十分ぐらいの所だ。駅前には大型スーパーがあり、
よく幸ちゃんと一緒に買い物に来た。三ヶ月前までは週一で通った友達のような場所だったのに、
今は見知らぬ他人のような冷たさを感じた。見る景色が全て私を拒絶するようだった。
あっという間にアパートにたどり着くと103号室の前に行く。相変わらず表札は出ていない。
私はインターホンを鳴らした。ピンポーンと聞きなれた音が響く。
「はい」
女性の声だった。幸ちゃんを寝取った女の顔が一瞬浮かぶ。
「あの、こちら北川さんのお宅でしょうか?」
私は確認するようにインターホンに喋る。
「いえ、違います」
女性の声はそう答えるとインターホンを切った。
私は再びインターホンを押す。
「はい」
少し間をおいてまた女性の声がした。今度は少し面倒くさそうだ。
「あの、さっきの者です。たびたびすみませんが、北川さんがいつ引越したか知りませんか?」
私の声に女の考えるような沈黙が流れる。
「私がここに越して来たのは二週間前です。北川という人が住んでいた事も知りません。管理会社にでも
聞いたらどうですか?今忙しいんで失礼します」
早口に言うと女はインターホンを切った。私はアパートの側面に書いてあったプレートを見る。
そこには管理会社の電話番号が書いてあるのだ。
携帯電話を取り出し、その番号に掛ける。
「はい、台田建託建物管理です」
すぐに女性の声で出る。
「あの、新検見川のコーポ川村の事で聞きたいのですが」
「はい、何でしょう?」
「今年の五月まで103号室に住んでいた北川さんがいつ引越されたか聞きたいんです。
それから新しい住所がわかればそちらもお願いします」
私が最後に幸ちゃんのアパートに泊まりにいったのはゴールデンウィークだった。
「北川さんとはどのようなご関係ですか?」
女性の声に沈黙を置く。
「婚約者です」
何て答えればいいかわからなかったので、五月までの関係を口にした。
「婚約者?では、ご結婚はまだですか?」
女性の声に胸が痛む。
「はい、まだ結婚はしていません」
「すみません。ご親族以外の方には教えられないんです」
「でも、もうすぐ結婚するから私も親族になります」
私はムキになっていた。
「申し訳ございません。こちらも規則ですので、では、失礼します」
「あっ、待って下さい。せめていつ引っ越したかだけでも教えて下さい」
すがりつくように私は電話口に叫んでいた。
「少々お待ち下さい」
女性の冷静な声が聞こえる。その後保留音のトロイメライが流れる。
「お待たせしました」
一分後ぐらいにさっきと同じ女性の声がした。
「北川様は六月七日に解約の手続きをされています。引っ越したのは六月十七日で、
最終的な立会いは六月二十五日でした」
資料を読むように淡々と女性が話す。
「ありがとうございます」
私はお礼を言うと電話を切った。
六月十七日に引越ししたと聞いて思い当たる事が一つあった。
幸ちゃんから六月十八日にダンボール一つ分の荷物が届いたのだ。それは私が幸ちゃんの
アパートに置いていた私物だ。送り主の住所はコーポ川村のままだった。
「幸ちゃんは引っ越した事を隠している」
古い住所で送って来たという事はそうとしか思えない。
そんなに私が邪魔なのだろうか。
私に付きまとわれるのが嫌なのだろうか。
それともやっぱり幸ちゃんに何かあったのだろうか?




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